旧唐書 倭国と日本国
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1 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:34:34
ID:N7XpiCC6
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『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本伝」の2つが別国扱いで記述されている
「倭国伝」は「倭国は古の倭奴国なり」と始まり、末尾は 648年の記事で終っている
この頃、九州の倭国が滅んだか?
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2 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:35:25
ID:N7XpiCC6
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倭国の条 全文
倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。
世與中国通。其国居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘国、皆附属為。其王姓阿毎氏、置一大率、検察諸国、皆畏附之、設官有十二等、其訴訟者、匍匐而前地。多女少男、頗有文字、俗敬佛法、並皆跣足、以幅布蔽其前後、貴人戴錦帽、百姓皆椎髻無冠帯。婦人衣純色、裾長腰襦束髪於後、佩銀花長八寸左右各数枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。貞観五年、遣使献方物、太宗矜其通遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。
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3 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:35:51
ID:N7XpiCC6
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日本国の条
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
長安三年、其大臣朝臣真人、来貢方物。朝臣真人者猶中国戸部尚書、冠進徳冠其頂為花分而四散、身服紫袍、以帛為腰帯。真人好読経史、解属文容止温雅則天宴之於麟徳殿授司膳卿。放還本国。開元初、又遣使来朝、因請儒士授経、詔四門助教趙玄黙、就鴻臚寺教之。乃遣玄黙、闊幅布以為束修之禮題云。
白亀元年、調布人亦其偽此題所得錫賚盡市文籍泛海、而還其偏使朝臣仲満、慕中国之風因留不去、改姓名為朝衡、仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年、好書籍放帰郷逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡為左散騎常侍鎮南都護。貞元二十年、遣使来朝、留学生橘免勢、学問僧空海。元和元年、日本国使判官高階真人上言前件、学生藝業稍成願帰本国、便請與臣同帰従之。開成四年又遣使朝貢。
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4 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:39:32
ID:N7XpiCC6
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「四面小島五十餘國」とは『宋書』倭武の上表文の「西は衆夷を服すること五十五國」であり、九州とその周辺を指すか
「長安三年(703),其大臣朝臣真人來貢方物」
ここから大和王朝と唐の正式な外交が始まることを示している???
それ以前に623年ころの裴清が大和を訪れることや、630年の犬上御田スキ・恵日の遣唐使、632年には裴清の再来倭など、外交開始のための交流・交渉があったことは
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5 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:42:10
ID:N7XpiCC6
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貞観五年(631)
使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜み、所司に勅して、歳ごとに貢せしむる無し。又、新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。
舒明三年にあたる。舒明紀には以下のような外交記事が、存在する。
(舒明二年)犬上三田耜らを唐に遣わす。
(舒明四年)唐、高表仁らを遣わし、三田耜を送る。
(舒明五年)高表仁ら、唐に帰国。
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6 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:46:44
ID:N7XpiCC6
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書紀には、遣唐使派遣の記事などない
『続日本紀』の遣唐使・粟田朝臣真人
慶雲元年(704)十月9日 帰国の粟田朝臣真人らが、天皇に帰国の挨拶をした。十一月14日 ……正四位下の粟田朝臣真人に、大倭国の田二十町と籾一千石を賜った。遠く離れた異国に使いしたからである。
慶雲二年(705)四月22日 天皇は大極殿に出御して、正四位下の粟田朝臣真人……の三人を中納言に任命された。
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7 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:48:24
ID:N7XpiCC6
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慶雲三年(706)三月
遣唐副使で従五位下の巨勢朝臣邑治<こせのあそん・おおじ>らが唐国から帰ってきた。
五月26日 讃岐国那賀<なか>郡錦部刀良<にしごりべの とら>・陸奥国信太<しのだ>郡の壬生五百足<みぶ・いおたり>・筑後国山門<やまと>郡の許勢部形見<こせべ・かたみ>らに、それぞれ衣を一襲<かさね>と塩・籾をたまわった。昔、百済を救うために派兵した時(白村江の戦)、官軍は不利で、唐軍の捕虜となり、賤民の官戸とされ四十年あまりを経て、ようやく解放された。刀良らはここに至って、わが国の使者粟田朝臣真人らに会い、かれらについて帰朝した。その勤めの苦労を憐れんで、この賜り物があったのである。
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8 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:50:34
ID:N7XpiCC6
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〈倭国は古の倭奴国なり〉としながら,
〈日本国は倭国の別種なり。其の国,日辺に在るを以つて,故に日本を以つて名となす。或はいう。倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み,改めて日本となすと。或はいう。日本は旧小国倭国の地を併せりと〉と記している。
いずれにせよ「日本」という国号が正式に採用されたのは,律令国家の確立に伴ってであろうと思われる。
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9 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:51:59
ID:N7XpiCC6
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大宝1年(701)には大宝律令が完成し,律令国家の基本法が制定されている。その「公式令」には,詔書式を掲げ,「明神御宇日本天皇詔旨」の称号が明示されている。
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10 :
名無しさん@chs
2008/11/23(日) 17:53:58
ID:N7XpiCC6
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大宝元年(701年)三月、藤原朝臣不比等、石上朝臣麻呂に正三位を授ける
大宝二年(702年)正月、従三位の大伴宿禰安麻呂を式部長官に任じる。
八月、正三位の石上朝臣麻呂を太宰帥に任じた。
慶雲二年(705年)七月、大納言・正三位の紀朝臣麻呂が薨じた。
八月、遣唐使の粟田朝臣真人に従三位を授けた。
和銅元年(708年)正月、高向朝臣麻呂に従三位を授けた。