讃岐 香川氏 坂出 丸亀
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1 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 10:33:11
ID:i1PwYiqI
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西庄城(山内城) 坂出市西庄町川向 香川民部少輔行景(景敏)
戦国時代の香川氏の居城であったが、一時山内氏が守備し山内城の名もある。城跡推定地の東、北側周辺には水田地名が見受けられる。東南120mほどのこんもり木立の茂った五アール区画があり、そこに香川民部少輔の墓碑が祀ている
香川県中世城館詳細分布調査報告2003によれば
『天皇城(山内城)』と表記
山内城(天皇城)=山内城、天皇城は同一の城を時の城主によって呼んだものと思われる
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2 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 10:37:46
ID:i1PwYiqI
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細川氏の讃岐支配
細川京兆家 讃岐守護
香川氏 讃岐西方守護代 豊田郡・三野郡・多度郡
安富氏 讃岐東方守護代 三木郡
香西氏 綾南条郡・綾北条郡・香川西郡・香川東郡
奈良氏 那珂郡・鵜足郡(香川氏管轄)
寒川氏 寒川郡・大内郡・小豆島(安富氏管轄)
植田氏 山田郡(安富氏管轄)
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3 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 10:44:19
ID:i1PwYiqI
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永正四年(1507)に香川民部少輔景敏は香西元直の所領を与えられました。
香川景敏は香川元明の次男。
天正年間には香川民部少輔行景
寛正六年(1465)の香川五郎次郎和景は、惣領・五郎某の次男か、以前より存在した「五郎次郎」家の当主です。 応仁元年(1467)に香川五郎次郎は兵を率いて入京
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4 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 10:47:24
ID:i1PwYiqI
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香西氏は元来讃岐国の武士であるが、元直の頃には京都へ詰めるようになり、讃岐の領地は元直の弟が継承している。
香西元直の子が香西元長
細川氏の家臣。山城国半国守護代。嵐山城城主。
政元の後継者を巡る争いで元長は細川澄之を支持していたが、澄之が家督を継承する望みが薄いことを悟ると薬師寺長忠・竹田孫七らと共謀し、同年に政元を暗殺(永正の錯乱)して澄之を当主として擁立した。しかし一度は競争相手である細川澄元を京都から伊賀へと駆逐するが、細川高国や澄元らの反撃を受けて澄之の邸宅であった遊初軒での戦いで流れ矢に当り即死
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5 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 10:50:08
ID:i1PwYiqI
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香西元長は、細川政元の養子、澄之・高国・澄元があるなかで澄之に属していた。政元が澄元を後継と考えるなか、永正四年(1507)元長らは政元を謀殺し、澄元および三好之長らの澄元派を京から一掃して、将軍足利義澄に細川家後嗣として澄之を認めさせた
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6 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 10:54:54
ID:i1PwYiqI
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『西讃府志』では、
「景明は、長禄年間には奈良、香西、安富等の諸氏と並んで四天王」、
「景明の子・元景は、在京して管領家の執行」、などと書かれています。
ここの「元景」は恐らく二人目の「元景」であり、
孫兵衛元景(1479)・備中守元景(1487、1491)などと名乗り、細川政元の重臣として活躍する人物と思われます
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7 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:02:54
ID:i1PwYiqI
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讃岐国天霧城主香川景明(元明)
1507 永正4年 香川民部少輔行景 香西氏に代わり綾北を与えられ、西庄城に入る。
1517 永正14年10月2 2日 (安芸方)香川行景亡。
安芸国守護武田元繁は、力を増してきた長門周防守護大内
氏の下風に立つのを潔しとせず、小田刑部少輔信忠の有田城
を包囲し、有田合戦が行われるが、香川兵庫助行景も高松城
の熊谷次郎元直、己斐(コイ)豊後守師道入道宗端らと共に武
田元繁軍に馳せ参じて毛利・吉川の連合軍に敗れ、元直、宗
端らと共に討ち死に。
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8 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:09:18
ID:i1PwYiqI
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1586年 天正14
8・22 秀吉,仙石秀久の豊後出陣御用として塩飽に50乗りの船10艘と,1艘
つき水主5人を出すよう命じる(塩飽勤番所文書)
9・12 仙石秀久,十河・安富ら讃岐の軍勢3000余人を率い豊後府内に到着す
る(仙石家譜)
12・12 仙石秀久並びに十河存保・香西縫殿助・香川民部らの讃岐の將および
長宗我部信親らの四国勢,戸次川を隔てた竹中山に陣をしく(改撰仙石
家譜)
12・13 仙石秀久,戸次川で島津軍と戦って大敗し,十河存保ほか多くの讃岐武
將戦死する(改撰仙石家譜)
1587年 天正15
8・10 生駒親正,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる(生駒家宝簡集)
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9 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:10:19
ID:i1PwYiqI
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1597年 慶長2
春 生駒親正,一正と計り,西讃岐支配のため亀山に城を築き,丸亀城と名
付ける(生駒記)〔讃羽綴遺録では慶長7年の説をあげている〕
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10 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:14:02
ID:i1PwYiqI
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1507 永正 4 香川民部少輔,香西氏にかわり綾北を与えられ,西庄城に入る
1571 2 十河存保西庄香川民部を攻める
1577 天正 5 毛利,小早川氏香川氏を西庄に帰城せしむ
1579 7 羽床伊豆守(土佐方)西庄香川民部を攻める
1587 15 生駒親正讃岐15万石領主となる
1603 8 播州の人坂出に移住,海中の寄洲を堤防として塩田を開く
洲加,内浜に集落ができ,坂出村が生まれる
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11 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:16:11
ID:i1PwYiqI
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戸次川を越えたところに島津軍が待ち構えており、四国勢は大敗を喫します。存保は信親と共に壮烈な戦死を遂げました。この戦いにより、四国勢は1千余人が討死し、讃岐武士も十河存保のほか香川民部少輔(しょうゆう)、安富肥前守、羽床弥三郎らが打ち死にして古来からの名族が多く絶えた
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12 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:19:44
ID:i1PwYiqI
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天正十四年(1586)十月、秀吉から豊後出陣の命が発せられた。
豊臣軍は仙石秀久を四国勢の目付とし先鋒には十河存保五百余人讃岐の先鋒に大将香西縫之助・北条香川民部少輔・
寒川七郎・安富肥後守・佐藤志摩介・羽床弥三郎、その他秀吉の命を受け戦陣に加わる。そして土佐勢の長宗我部元親
その嫡子信親らが出陣。島津軍と四国勢との決戦の場は豊後戸次川の河原。
島津方に包囲された豊臣軍は、壊滅的な敗戦になった
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13 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:24:36
ID:i1PwYiqI
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香川民部少輔
民部少輔は香川肥前守景明の従弟で京師に出て細川政元に仕えた政元が
殺害された後、香西備中守元継が養子澄之を立てようとして嵐山の城に立て籠
もり三好元長と戦った。
元継軍が敗れて戦死した時に元継の領地、丹波国篠山、綾郡西ノ荘の城が共
に闕所となったので管領細川澄元は民部少輔が澄之へと味方をしなかったのを賞
して西荘城を与えた。よって、始めてこの城へと移り北條郡を領した。
その三代孫が父祖の名を継いで民部少輔と称した
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14 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:27:16
ID:i1PwYiqI
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天正六年(一五七八)に羽床伊豆守が綾郡の主になろうと謀り、大林、今瀧、山田、福家、新居、長尾等に千三百人を率いさせ西荘城へと押し寄せさせた。
民部少輔は
「私が述べた事を羽床氏は何故に判ってくれないのだ。我が身としても、今は此の郡内の維持だけでも大変なのに、内輪で兵を疲れさせては外からの敵を防ぐすべが無くなるではないか」と、子女を青梅の浦へと逃がし、我が身は従者数十人を連れて備後国へと渡り、
小早川隆景に援兵を乞うた。
伊豆守は西荘城を穫り、守将を置いて帰った。
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15 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:29:08
ID:i1PwYiqI
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奈良氏
奈良氏の出自は不明であるが東国の人で、応仁の乱の頃、太郎左衛門元安と言う人物がいた。細川氏に属して香川、香西、安富等の諸氏と同じく京兆家四天王と称せられた。
鵜足郡那珂郡の二郡は藤橘両家の所領であったが、細川氏は両家をつぶし馬廻りの武士とし、その所領を取り上げ元安へと与えた。
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16 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:35:28
ID:i1PwYiqI
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1578年(天正6年)夏、元親は讃岐侵攻を開始します
讃岐は十河存保(そごうまさやす)を通じて阿波の三好氏の勢力下
元親はまず豊田郡に入り藤目城主・斉藤下総守を計略により降伏させその支配下におきます
翌年(天正7年)春、九十九城の細川氏政、仁保城の細川頼弘など西讃の各城を次々と攻略
そして西讃において最も大きな勢力を持つ天霧城の香川信景と和議を結び、次男の親和を女婿として香川氏に入らさせ、西讃をその勢力下に治めます。
香川氏が元親と戦わずその勢力下に入ったのは、十河氏に対する反目があったからともいわれています。
次いで、中讃へ兵を進め、羽床城の羽床伊豆守資載を下し、西庄城の香川民部少輔を敗走させます。
次いで、翌8年春には、鵜足郡長尾に進出して長尾大隅守を降ろして西長尾山に新城を築きます
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17 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:39:26
ID:i1PwYiqI
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橘家は讃州にて采(配)地 那珂と任地 天領なる山田郡に移住し、その枝葉を繁る者は大響 楠木内海 三條 甲斐 篠原 新居 松井 大河原 柏原 萩原 丹下 百々 小寺等の各門葉を分かつと言え共、天正 中期 末期 より録を離れ諸国に散逸す。
讃岐の安富氏は紀姓を称し、讃岐守護で室町幕府管領をつとめる細川氏の直臣であった。 讃岐守護細川氏は足利氏の一門で、建武の中興のとき足利尊氏に属して活躍、足利幕府の成立に功があった。建武の新政がなったのち、尊氏は細川定禅を讃岐に、細川和氏を阿波に遣わした
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18 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:40:32
ID:i1PwYiqI
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建武二年(1335)、尊氏が鎌倉で後醍醐天皇に謀叛を起こしたとき、定禅は香西・託間・三木・寒川氏らを率いて尊氏に呼応して京都制圧に活躍した。しかし、北畠顕家・楠木正成らの軍に敗れた尊氏は九州に落ち、多々良浜の合戦で菊池氏ら九州宮方に勝利して頽勢を挽回すると、京都をめざして西上した。定禅・和氏らはこれを迎え、楠木正成を摂津湊川で破った尊氏は京都を回復し、足利幕府を開いた。 幕府成立後、讃岐守護には定禅の兄細川顕氏が補任された。顕氏のあと繁氏が守護となり、そのあとを頼之が継承した。頼之のとき、一門の細川清氏が南朝に通じ、白峰合戦が起こった。頼之は香西・託間氏ら讃岐の武士を指揮して清氏を討伐、讃岐から南朝勢力を一掃した。以後、讃岐守護は頼之の子孫が世襲し、細川氏は直臣を登用して讃岐の支配を行った。かくして、安富・香川・奈良氏らが讃岐に入部したのである
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19 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:41:37
ID:i1PwYiqI
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南北朝時代に、細川頼之に従って、白峰合戦に功績のあった香川氏は、西讃三郡を賜り、多度津の雨霧山に牙城を築き、本台山(桃陵公園)に居宅を構えて1585年天正13年秀吉の四国征伐まで、この地方を支配した。
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20 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:44:14
ID:i1PwYiqI
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官僚細川家の馬廻りをしていた奈良氏は貞治元年(1362)高屋合戦における武勲により讃岐藤家の所領であった鵜足、那珂二郡を賜った。その後奈良太郎左衛門元安は応仁の頃に聖通寺山に築城し、子、備前守元信。孫、太郎兵衛元政と3代に渡りこの聖通寺城によって領治した。天正十年七月土佐の長宗我部元親は先年下した羽床、香川氏を先鋒に奈良氏に攻撃目標を定めた。しかし、嘗て細川の四天王と言われた奈良氏も鵜足郡内津之郷、川津、二村などの数か村を保つに過ぎず勢力は衰えていた。太郎兵衛元政は聖通寺を棄て香西伊賀守に合流しようとしたがならず、阿波の三好存保の拠る勝端城を頼った。同年八月、元政は中富川合戦で二五〇余名とともに討たれ名門奈良氏も滅亡した。
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21 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:46:46
ID:i1PwYiqI
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善通寺 鎌倉寺:香川氏の先祖鎌倉権五郎景政を氏神として、鎌倉町に祀った。八幡太郎義家の臣 鎌倉権五郎景政の子孫。南北朝時代に、細川頼之に従って、白峰合戦に功績のあった香川氏は、西讃三郡を賜り、多度津の雨霧山に牙城を築き、本台山(桃陵公園)に居宅を構えて1585年天正13年秀吉の四国征伐まで、この地方を支配した
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22 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:48:11
ID:i1PwYiqI
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民部少輔は香川肥前守景明の従弟で京師に出て細川政元に仕えた政元が殺害された後、香西備中守元継が養子澄之を立てようとして嵐山の城に立て籠もり三好元長と戦った。元継軍が敗れて戦死した時に元継の領地、丹波国篠山、綾郡西ノ荘の城が共に闕所となったので管領細川澄元は民部少輔が澄之へと味方をしなかったのを賞して西荘城を与えた。
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23 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:55:59
ID:i1PwYiqI
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天霧城:香川県仲多度郡多度津町・善通寺市・三豊市
讃岐の守護・細川氏に従って入部した香川氏は、居館を多度津本台山に構え、有事の際の詰城として天霧城を築く。
永禄元年(1558年) 阿波の三好実休の侵攻にも動じなかった。
天正6年(1578年) 四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻に、香川氏は元親の次男・親政を養子に迎え和議を結ぶ。
天正13年(1585年) 豊臣秀吉の四国征伐により、香川氏は土佐に敗走。それに伴い天霧城は廃城となる
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24 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:57:42
ID:i1PwYiqI
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西庄城(山内城):香川県坂出市西庄町川向
天正6年(1587年) 領国の拡張をはかった羽床伊豆守資載は、西庄城に鉾先を向ける。
城主の香川民部少輔は備後三原城主の小早川隆景に援軍を請い、窮地を逃れる。
天正7年(1588年) 長宗我部元親は、西長尾城を拠点に羽床城を陥落させ、西庄城に兵を向ける。
香川民部少輔は、本領安堵を約束した元親の降伏勧告を受け入れず、備後三原へ落ちのびる。
元親は羽床伊豆守の家臣、山内源吾に西庄城を守備させる。
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25 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 11:59:17
ID:i1PwYiqI
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多度津は、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の四国征伐まで200有余年、香川氏の城下町として栄える。
仁尾城(仁保城):香川県三豊市仁尾町
細川土佐守頼弘により、八紘山に築城される。
天正7年(1579年)3月3日 長宗我部元親の侵攻により落城。
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26 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 12:01:27
ID:i1PwYiqI
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丸亀城(亀山城・蓬莱城):香川県丸亀市 一番丁
天正15年(1587年)讃岐の領主となった生駒親正は、高松城を築き、次いで西讃の鎮めとして慶長2年(1597年)から丸亀城の築城を始め、慶長7年(1602年)に完成
元和元年(1615年)の一国一城令により廃城。
寛永18年(1641年)に入城した山崎家治が翌年から改修工事に入る。
現代の城郭はほぼこの時期のものである。
万治元年(1658年)には京極高和が入城
全国に現存する木造天守12城の1つ。
高さ日本一の石垣
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27 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 12:35:24
ID:i1PwYiqI
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讃岐橘氏
長尾、海崎(みさき)、真部らの諸氏
長尾・寒川・三木氏
丸部臣、刈田首の両氏は三野郡、豊田郡の大領をつとめた刈田首は紀井朝臣を賜り土佐の国造になった家系丸部臣は橘氏の子孫であるといわれ、後にまなべ姓を名乗り西讃岐地方で活躍している
橘姓の奈良氏が讃岐で勢力があった
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28 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 12:40:01
ID:i1PwYiqI
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長尾大隅守元高は,橘公成少将の子孫で,代々三野郡筥の御崎にいて,海崎豊後守元村の子である。貞治元年(1362)高屋の役で,細川頼之に組して,抜群の手柄をたて,栗隈,岡田,長尾,炭所の4か村を与えられた。応安元年(1368)西長尾に城を築き(現在の仲多度郡満濃町),姓を長尾と改め,代々大隅守と称した。
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29 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 12:41:03
ID:i1PwYiqI
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寒川氏は讃岐公凡直千継の一族で、世々寒川郡の郡司を務め、その後裔が寒川氏を称したと伝えられている。大内・寒川の二郡および小豆島を併せ領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るった。
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30 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 12:44:44
ID:i1PwYiqI
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世々寒川郡司をつとめた寒川氏は、室町時代後期には、大内・寒川の二郡のほかに小豆島も兼領し、この昼寝城を本城に台ガ山城(池内城)を出城に、虎丸城・引田城を支城にした。
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31 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 12:49:52
ID:i1PwYiqI
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讃岐の寒川氏・福家氏・飯田氏・羽床氏・新居氏らが三階松紋
讃岐(香川)の大野・羽床・香西・福家・新居・飯田・寒河の諸氏は三階松紋
道隆寺本坊の墓地では、丸に橘紋が多い
真鍋島真鍋氏、橘紋
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32 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 14:17:32
ID:i1PwYiqI
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古語拾遺一巻
高皇産霊神が生んだ娘の名は栲幡千千姫命(タクハタチチヒメノミコト)天祖の天津彦尊の母である。
生んだ男の名は天忍日命(アメノオシヒノミコト)大伴宿禰の先祖で有る。
生んだ男の名は天太玉命(アメノフトタマノミコト)斎部宿禰の先祖である。
太玉命の率いる神の名は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)と言う。
阿波(アワ)の国の忌部(インベ)の先祖である。
手置帆負命(タオキホオイノミコト)讃岐の国の忌部の先祖である。
彦狭知命(ヒコサシリノミコト)紀伊の国の忌部の先祖である。
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)出雲の国の忌部の玉作りの先祖である。
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33 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 14:22:31
ID:i1PwYiqI
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道臣命は記紀に登場する人物です。大伴氏の祖。大伴氏系図によれば天忍日命の曾孫。もとの名は日臣(ひのおみの)命(みこと)。神武天皇即位前戊午年6月神武天皇東征のとき、八咫烏の先導により先鋒を務め大来目部(記では大久米(おおくめの)命(みこと))を率いて熊野山中を踏み分け宇陀(菟田)までの道を通します。この功績により道臣(みちのおみ)の名を賜わりました
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34 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 14:25:23
ID:i1PwYiqI
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長尾正瑛家文書
人王三拾一世敏達天皇後胤(こういん)、讃州三野郡箱御崎詫間両城主司大隅守橘元高、貞治(じょうじ)元年(1362)北朝之勅命に依而、鵜足郡長尾出張中院源少将と云南朝の強敵を誅伐(ちゅばつ)す。其功に依而将軍義詮公より奈珂郡鵜足郡を受封す。長尾山に新城を築き応安元年(1368)正月二十七日御崎詫間両城江城番付置長尾城江入部す。依而長尾大隅守と云。大隅守元高以二朶(だ)橘一為二家紋一。長尾領分高拾六万七千石 内城付拾万七千石、学館院領六万石、都合拾六万七千石也。
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35 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 14:26:26
ID:i1PwYiqI
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東讃岐の代表的な国造りでは凡直(のべのあたい)氏が寒川郡山田郡三木郡を管轄し、 後に敏達天皇より紗抜大押直(さぬきおおしのあたい)の姓を賜り讃岐公となったのである。讃岐公の遠祖は景行天皇の第十王子神櫛王
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36 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 14:27:25
ID:i1PwYiqI
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572〜85 敏達天皇 県内 この頃 讃岐国造星直氏,紗抜(讃岐)大押直の姓を与えられる(続日本把)
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37 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 14:28:41
ID:i1PwYiqI
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神櫛王の子孫は東讃で栄え、敏達天皇の代に国造であった星直(ほしのあたえ)は、国を押し統べるという意味で大押直(おおしあたえ)の姓(かばね)を賜い、のち凡直と改めたが、延暦10年(791)願い出て讃岐公の姓を許された
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38 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 14:37:49
ID:i1PwYiqI
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牧野(ばくや)古墳
築造時期は、多数出土した須恵器などから、6世紀末に近いと推定されている。
その規模や豊富な副葬品などから、被葬者は、延喜式に「大和国広瀬郡の成相(ならい)墓」と記載されている敏達天皇の第1皇子で舒明天皇の父、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)が有力とされている
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39 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 14:57:20
ID:i1PwYiqI
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讃岐氏
景行天皇の子・神櫛別命の孫須売保礼命が応神朝に讃岐国造を賜うに始まる。
敏達朝に凡直姓を賜姓、延暦10年(791)讃岐公に改賜姓、承和3年(836)讃岐朝臣に改賜姓。
更に嫡流は本貫を京都に移して、貞観6年(864)に和気朝臣に改賜姓。
讃岐で繁栄した後裔は、神内、三谷、寒川、由良、十河の庶子家を分出する。
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40 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 15:18:26
ID:i1PwYiqI
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細川 頼之
海 南 行
人生五十 功無きを愧はず
花木かぼく春過ぎて夏已に中ばなり
満室まんしつの蒼蝿そうよう掃はらえども去り難し
起たって禅榻ぜんとうを尋たずねて清風せいふうに臥がせん
文武の道にすぐれ、足利三代の将軍
に仕え、又南北朝を合一するに尽力するなど、
多くの功績を残している。頼之は読書を好み、
和歌を詠み、又禅を収め、更に尊氏に従って転
戦し、山陽一帯をしずめた。将軍義詮よしのりに背いた
細川清氏を讃岐の白峰城に攻め亡ぼし、四国を
平定した。
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41 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 15:22:21
ID:i1PwYiqI
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7世紀後半、「鵜足津(うたづ)」と呼ばれていた小さな港は、やがて平安時代に讃岐有数の船着場として発展しました。その後、瀬戸内海における海上交通の要所となり、室町時代には、時の将軍足利義満の側近、細川頼之公のもとで四国の中心地として栄えました
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42 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 15:28:41
ID:i1PwYiqI
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細川頼之(ほそかわよりゆき 1329年〜1392年)
室町幕府に守護職を命じられてから、一時期、宇多津に居住
細川頼之の居城がどこかについて、さまざまな推測、諸説がありますが、やはり宇多津にあった可能性が高い
「讃岐国古城跡」
「同郡宇多津青山北麓城細川頼之公居城成 右今ハ本妙寺ト也」 法華宗也」
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43 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 15:31:27
ID:i1PwYiqI
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川東八幡神社:龍満池北側に鎮座
香川県神社誌
三社正八幡宮、川東神社等と奉稱せられたり。古老の傳ふる所は當社往昔朝野村横岡の地に鎮座ありて、仁和年中中国守菅原道真の男山八幡宮のより勧請せる所なり。
康安元年(或いは二年)細川頼之川東村油山の地に遷座し、天正年中兵火に罹り焼失せしを、慶長二年川東上下両村の氏子之を再営し、現今の地に遷座せりと云へり。
當社細川頼之が居住岡館に近きを以て頼之居城の鎮守とし、石清尾、冠纓の両社と當社とを以て三社正八幡宮と稱せしなりと。
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44 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 15:33:29
ID:i1PwYiqI
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宇多津城
現在の本妙寺である。
讃岐国守守護細川頼之の居城で、この寺には天正以前の野面積の手法や算木積の古い積み方の石垣が見られる。細川頼之の後、仙石秀久、尾藤知宣、生駒親正等の居城となった。
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45 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 16:26:33
ID:i1PwYiqI
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青ノ山城 丸亀市土器町東三丁目上分
城主の尾池氏は細川定弾に従い信州より来て香南町に領地を得て横井城にいたが、生駒親正の時代に分家がこの地に移ったとされる。讃州細川記では細川頼之が青野山に陣を置くと記している。
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46 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 16:29:09
ID:i1PwYiqI
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細川山蓮性院 所在地:岡崎市細川町権水56
1390年(明徳元年)、室町幕府の管領を務めていた細川頼之により細川家発祥の地に先祖供養のため建立された寺。細川家初代義季、
細川頼之の墓、細川松平家初代信乗の墓や細川家の位牌が在ります
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47 :
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 16:41:38
ID:i1PwYiqI
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建武2年(1335)、鎌倉における中先代の乱をきっかけに足利尊氏は建武の親政に反旗を翻した。これに呼応して、讃岐にいた細川定禅は備前児島に上陸して京都に向かった。児島の部将・佐々木信胤もこれに従った。
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48 :
名無しさん@chs
2008/12/25(木) 11:01:12
ID:XS7xUgu+
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清氏討伐中に直冬勢力は再び活動するが、大内弘世や山名時氏らが幕府方に帰服しており、直冬勢力は鎮圧された。時氏の説得工作には頼之も関わっているとも言われる。中国地方が安定すると頼之は中国管領を解任され、細川氏としても中国地方の分国を失っている。代わって讃岐・土佐の守護を兼ね、四国管領に任じられ、河野氏を追討して四国を統一する。幕府の管領となっていた斯波義将、父の斯波高経が道誉らの策謀で失脚(貞治の政変)すると頼之は幕府に召還され、道誉、赤松氏ら反斯波派の支持で1367年(正平22年/貞治6年)2代将軍足利義詮の死の直前に管領に就任する。
1379年(天授5年/康暦元年)、細川氏が紀伊の南朝征討に失敗すると、義満は山名氏清らに軍勢を与えて征討を行わせる。さらに頼之と斯波氏や土岐頼康に対して兵を与えたところ、諸将は頼之の罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極氏らも参加して将軍邸を包囲した。この康暦の政変と呼ばれるクーデターの結果、頼之は義満から退去命令を受けて一族を連れて領国の四国へ落ちて行き、その途上で出家した。
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49 :
名無しさん@chs
2008/12/25(木) 11:08:09
ID:XS7xUgu+
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白峯合戦
頼之と清氏は、宇多津と高屋で陣を構え、睨み合いを続けますが、形勢は頼之に不利でした。そこで頼之は母の禅尼を清氏に遣り策略をもって交渉させ、日を延ばしてその間に兵力を増強し、陽動作戦に出ることとします。頼之は家臣の新開真行とはかって、西長尾城(現在の満濃町)に籠もる南朝軍を夜討ちするようにみせかけて軍を派遣します。清氏はこれをみて驚き、高屋城の兵の大部分を西長尾城の救援に向かわせてしまいます。頼之がこの虚をついて高屋城を急襲したところ、清氏は自ら城を飛び出してしまい、あえなく味方の三六人とともに討ち死にしてしまいます。この戦を白峯合戦といいます。一三六二年(貞治元年/正平一七年、頼之三四歳の頃)の出来事です。この合戦は北朝側の勢力関係を決定づけたという意味で日本史上も重要なおいわれています。
合戦に際して、頼之は青ノ山に陣を張りましたが、清氏の追撃を受け危機迫り、土器八幡宮に祈願したところ、海水が押し寄せ田畑を没し、敵の攻撃を防ぐことができたので、それから土器八幡を「田潮八幡」と呼ぶようになったといわれています。田潮八幡宮の社頭には、頼之御手植えといわれる松の老樹(頼之の松)がありましたが、明治四五年に枯死し、今は石碑があるのみとなっています。戦いの際の先勝祝いにこの松が神社に寄進されたといわれています。
また、青ノ山の北西の麓に「駒ヶ林」というところがあります。ここは頼之が白峰合戦の時、その出陣をこの松林の中に軍馬を隠して勢揃いして進軍したということに由来するといわれています
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50 :
名無しさん@chs
2008/12/25(木) 11:09:32
ID:XS7xUgu+
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香川、奈良、安富、由佐:細川家家臣
香川氏は、相模国の香川郷(神奈川県茅ヶ崎市郊外)の出といわれ、白峯合戦の功により多度、三野、豊田の西讃三郡を与えられ、多度津本台山に居館を置き雨霧山に城を築きます。
奈良氏は、もと武蔵国大里郡奈良を本拠とする関東御家人といわれ、白峯戦の功により鵜足(現宇多津あたり)・那珂(現丸亀あたり)の二郡を与えられ、聖通寺山に城を築きます。
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51 :
名無しさん@chs
2008/12/27(土) 10:37:27
ID:+wVxaDAA
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空海の仕事
治水工事や潅漑工事にあたったり
教王護国寺の展示方法に苦心をしたり
水銀鉱脈を掘り起こしたり、
その開創にあたって高野杉の使用に踏み切ったり、
天皇家に手紙で進言したり、
梵字の辞書をつくったり、
学校を開設したという
いろは歌・饂飩 なども
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52 :
名無しさん@chs
2008/12/27(土) 10:39:50
ID:+wVxaDAA
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仕事師でフィルタリングやエディティングの大家
認識の大家であり、表現が偉大。実際家でもあり、書家でもあった。
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53 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 07:42:28
ID:0Q9eZiS6
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鴨廃寺:坂出市加茂町
JR予讃線の鴨川駅
坂出市加茂町の烏帽子山に向い合う山の神部落の田の中にあって、原位置から動いていない。大きさは一・七九メートル×一・三メートル、姿のよい美しい心礎で、上部を削平し直径七〇センチの極めて浅い環状排水溝がある。しかもこの環状溝の内側は少し盛り上っていて、その中心に直径三八〜三七・五センチ、深さ一二〜一一センチの孔がある。こういう形は伊豆市ヶ原廃寺心礎とよく似ており、近くの開法寺の山王廃寺式心礎の亜流と考えられる。出土瓦も開法寺と同笵の瓦なので、開法寺よりやや遅れて建造された寺であろう。
岩井隆次著「日本の木造塔跡」
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54 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 07:47:37
ID:0Q9eZiS6
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奈良時代,
大化元年(645) 讃岐国府が府中に置かれ、条里制が敷かれる (大化の改新)
685, 天武 14, 綾君に朝臣の姓を賜う 鴨廃寺の建立
690頃, 柿本人麻呂狭峯島(沙弥島)にて詠歌
和銅5年(712) 讃岐川津郷に綾錦を織らしむ(続日本記)
天平19年(747) 阿野郡2ヶ所鵜足郡2ヶ所法隆寺封戸となる
天平勝宝4年(752) 川津郷50戸 東大寺封戸となる
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55 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 07:52:53
ID:0Q9eZiS6
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石清水八幡宮は男山八幡宮とも呼ばれるように、男山の丘陵上に鎮座する。貞観元年(859)奈良大安寺の僧行教が、宇佐八幡宮に参籠して「われ都に近記男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受け、朝廷より木工寮権允橘良基が宣旨を承けて六宇の宝殿を建立し、同二年、誉田別命・比口羊大神・神功皇后を奉安したのが石清水神宮の初めである。
明治三十三年(1900)に歴史学者星野恒氏が、『史学雑誌』に「六孫王は清和源氏に非ざるの考」という論文を発表されたことがその発端であった。六孫王とは経基のことにほかならない。
この論文の根拠となったのが、経基の孫にあたる源頼信が、永承元年(1046)石清水八幡宮に納めた告文である。同文書は八幡宮祠官田中家に、九百年にわたって伝存されてきたものであった。以下、ポイントのみ読み下して見ると
敬んで先祖ノ本系を明め奉れば、大菩薩の聖体は、恭けなくも某の二十二世の氏祖なり。先人は新発意、その先は経基、その先は元平親王、その先は雨陽成天皇、その先は清和天皇(---中略---)いわゆる曾祖の陽成天皇は、権現ノ十八代の孫なり。頼信は彼ノ天皇の四世の孫なり。
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56 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 07:54:23
ID:0Q9eZiS6
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源氏関係の三神社
六孫王神社(京都市南区) 初代の源経基を祀る。
多田神社(兵庫県川西市) 源氏霊廟。源満仲、頼光、頼信、頼義、義家を祀る。
壷井八幡宮(大阪府羽曳野市) 河内源氏氏神。併設の壷井権現に、源頼信、頼義、義家、義綱、義光を祀る。
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57 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 07:57:05
ID:0Q9eZiS6
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陽成天皇
第56代清和天皇の第一皇子。母は権中納言藤原長良〔ふじわらのながら〕の娘、女御藤原高子(二条后)。子に歌人として優れた元良親王と元平親王らがいる。元平親王は陽成源氏の祖であるが、のちに武家の棟梁となる清和源氏は実際は陽成源氏で、この元平親王を先祖とするが、後述するとおり陽成帝には暴君との評判があり、それを嫌って一代前の清和天皇に祖を求めたのだとの説が近年提示されている
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58 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 08:00:54
ID:0Q9eZiS6
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六孫王神社
六宮ともよぶ。(南区八条町に鎮座)
祭神は、六孫王 源経基。清和源氏の始祖で、962年(応和2)その邸宅跡に嫡子源満仲が祠を建立したのが創祀と伝える。
【ご 本 尊】六孫王大神、天照大神、八幡大神
永暦15年、国家鎮護のために建てられた東寺を後に、嵯峨天皇より空海に下賜され真言宗の根本道場とされた。また、境内にお祀りされる八幡大菩薩は、足利尊氏が祈願し幕府を開いたところから、勝運の神様として信仰されている
六孫王 源経基(みなもとのつねもと)
清和天皇(850〜880)第6皇子貞純親王の子。そのため六孫王と称する。
941年警固使、太宰権少弐に任ぜられ正四位上に昇進して内昇殿を許され961年(応和元年)源朝臣の姓を与えられ、臣籍降下。
経基の嫡男満仲は摂津国多田荘に土着して清和源氏発展の基礎を作り、その子、三男頼信は河内国石川荘を本拠とする河内源氏の祖となり、清和源氏を一層発展させた。
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59 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 08:06:06
ID:0Q9eZiS6
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多田は、経基の子の満仲が源氏武士団を形成した地であり、清和源氏発祥の地とされる。そのため多田神社は、源氏の霊廟ともされ、一門や子孫からの崇敬も強く、足利氏や徳川氏も多田神社を手厚く保護した。
4月の「源氏まつり」では、大鎧で馬に乗る歴代の満仲〜実朝が武者行列する。
多田神社(兵庫県川西市多田)
兵庫県川西市は清和源氏武士団発祥の地であり、多田神社は源満仲によって970年に天台宗寺院として建立される。
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60 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 08:13:35
ID:0Q9eZiS6
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白峰神宮は、蹴鞠、和歌の宗家・飛鳥井家の別邸があった場所に
同家の寄進を受けて創建された神社で、白峰は崇徳天皇白峰陵にちなみます。
幕末、孝明天皇が不遇の生涯を終えられた崇徳天皇の霊を慰めようとされ、
その遺志をついだ明治天皇が、明治元年(1868)即位の翌日に、
讃岐の白峰より木像とともに神霊を移し祀られたのが起こりです。
次いで淡路に配流され、そこで崩御した淳仁天皇も明治6年に合祀されました。
本殿東にある伴緒(とものお)社は、保元の乱に崇徳天皇のもとに馳せ参じた
源為義・為朝父子の霊を祀っています。
飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家師実流である難波家の諸流である。家格は羽林家。
鎌倉時代前期、難波頼経の子雅経に始まる。代々和歌・蹴鞠の師範を家業とした。頼経の父難波頼輔は本朝における蹴鞠一道の長とも称された蹴鞠の名手であったが、孫の飛鳥井雅経も蹴鞠に秀で、飛鳥井流の祖となった。鎌倉幕府2代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇し、一方で雅経は後鳥羽上皇に近侍し藤原定家などとともに「新古今和歌集」を撰進し、和歌と蹴鞠の師範の家としての基礎を築いた。
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61 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 08:17:36
ID:0Q9eZiS6
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義経に協力した豊後武士達の属する豊後国の知行国主は難波頼経であり、また陸奥守は難波宗長で、かつて緒方惟栄に平氏討伐を命じた院近臣・難波頼輔の子と孫にあたる。義経挙兵にあたり、後白河院を中心として奥州藤原氏、豊後緒方氏の軍事組織の形成が見られたと考えられる。
逆に義経の追撃には多くの「京武者」が加わっていた。彼らは反平氏、反義仲の立場から義経の入京時に協力した武士達であったが、義経は平信兼一族のように、頼朝の命で京武者達を処分しており、また一ノ谷の戦いで活躍した多田行綱は頼朝に領地を没収されるなど、義経は彼ら京武者の不信を買い、恩賞を与える事も出来なかった。そして立場を変転させる後白河法皇の姿勢も京武者たちを遠ざけた。義経は頼朝の畿内・西国武士たちに対する迅速な措置と、直接武力を持たず、京武者達を組織できなかった事により急速に孤立を深めていった
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62 :
名無しさん@chs
2009/08/12(水) 08:23:22
ID:0Q9eZiS6
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頼朝は後白河院より義経追討の院宣をとる。義経は京を去って九州は豊後の国へ向かうべく大物の津から出航する。が、折悪しく嵐にあって遭難。豊後への逃亡計画はあえなく挫折し、義経は吉野の山中をさまよったあと藤原秀衡をたよって奥州へ逃れた。
なぜ、義経が豊後を目ざしたか。それは知行国主の難波頼輔(なんばよりすけ)と頼経(よりつね)父子が義経を庇護した数少ない公卿だったから。寿永二年(1183)、平家が都落ちして西海にでたとき、太宰府に落ちつき九州を拠点とするのをはばんだのが頼輔だった。頼輔は国司代として赴任していた頼経に使いをだしてそれを指示した。頼経は土地の実力者を駆って一門と戦わせた。そのために一門は海原をただようことを余儀なくされ、壇ノ浦で滅びた。大物の津のときも頼経は出航を助けるべく手を打っていた。乱のあと頼経は義経加担の罪で子息の宗長ともども伊豆へ配流が決まった。頼経は雅経の父。頼輔は祖父で蹴鞠の家を確立した人物である。頼輔に蹴鞠の腕を磨かれて育った雅経はのちに蹴鞠の家の飛鳥井家の祖となる。兄宗長は難波家の祖となった。
文治五年(1189)三月、頼経と宗長のふたりは伊豆に流された。が、雅経に咎めはなく京に残った
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63 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:11:08
ID:K3QnBMUM
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讃岐國 漆原屋敷
所在地 香川県高松市三谷町通谷
交通機関 JR高松駅下車 ことでんバスさかえ団地下車 徒歩25分
別 名 漆原邸
略 歴 漆原屋敷は箭造城の城主漆原勘右衛門勝重の一族か後裔によって築かれたと思われる。
元来居館として築かれたと考えられるが、江戸期には土地の実力者の屋敷となっていた。
箭造城の築城年代は不明だが、細川右京太夫勝元に仕えて戦功を挙げた漆原勘右衛門勝重が城主であったと伝わっている。
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64 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:15:30
ID:K3QnBMUM
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足利幕府を開いた尊氏は、配下の諸将を中四国に配し、阿波には細川和氏・頼春兄弟が派遣された。阿波には鎌倉時代以来の足利氏の所領秋月荘があり、阿波に入った細川兄弟は秋月荘を拠点として、漆原・小笠原ら阿波の在地武士を掌握し尊氏の幕府創業に尽力した。南北朝の対立は武家方(=北朝)の優勢に推移したが、やがて、尊氏と直義兄弟の対立から観応の擾乱が起り事態は渾沌の度を深めた。
三好式部少輔の時代に京都を中心に応仁の乱が起り、阿波守護職の細川成之は宗家で幕府管領の地位にある細川勝元に味方して上洛、勝元を援けて大活躍した。三好式部少輔も子の之長(長輝)とともに成之に従って参陣、これが三好氏が畿内に進出するきっかけとなった。
天文十年(1541)木沢長政は三好長慶・政長を除こうとして細川晴元と敵対した。翌天文十一年、晴元は木沢討伐のために河内に出陣、長慶もその一翼をになって河内大平寺の戦いにおいて仇敵木沢長政を倒した。翌天文十二年(1543)、高国の養子氏綱ら反晴元党が挙兵すると、長慶はその掃討に追われた。
長慶には三人の弟がおり、すぐ下の弟は之康(義賢)を名乗りのちに実休と号した。次ぎの弟冬康は安宅氏を継いで安宅水軍を率い、末弟の一存は讃岐の名族十河氏を継ぎ鬼十河として勇名を馳せた。この三人の弟が、それぞれ本拠である阿波・讃岐・淡路を固め、長慶の京畿における活躍を支えたのである。天文十六年、之康は氏綱に大勝をおさめ、翌年、長慶は氏綱と和睦して三好氏の勢力はさらに拡大した。
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65 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:16:35
ID:K3QnBMUM
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阿波の三好長治は信長に抵抗をつづけていたが、天正三年(1575)、十河存保とともに信長に降り、讃岐の諸氏も信長の勢力下に入った。長治は実休義賢の子で勝端城主として細川真之を奉じ、阿波一国を支配していた。しかし、重臣の篠原長房を攻め滅ぼすなど愚行を演じ、阿波三好氏もようやく滅亡のときを迎えつつあった。天正五年(1577)、長治の態度に憤激する細川真之が兵を挙げると、長治はこれを討つために兵を発した。一宮・伊沢・吉井の諸氏が真之に味方したことで、ついに長治は敗れて別宮浦で自刃して果てた。ここに、大名三好氏はまったく滅亡してしまったのである。
長治が死去したのち、十河存保が勝端城に拠って讃岐の諸将に号令した。しかし、天正十年(1582)、長曽我部元親と中富川で戦い、大敗北を喫した。かくして、阿波一国は長曽我部氏の支配下におかれ、十河存保は豊臣秀吉を恃んで大坂に奔った。
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66 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:19:04
ID:K3QnBMUM
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讃岐十河城
一存は、長兄三好長慶と共に畿内にて奮戦し 「鬼十河」の異名をとった。 一存没後、三好義賢の子存保が継ぎ、三好氏の勢力を背景に讃岐の旗頭となった。 天正12年、十河存保は土佐長宗我部元親に引田城の攻防に敗れ、居城十河城も落城した。
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67 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:19:31
ID:K3QnBMUM
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漆原屋敷 三谷町通谷
漆原氏
川島、仏生山街道新旧いずれでも良い平和公園の方向に切れ込み、平和公園との別れ道を右にとって約1.2km進むと、道路左側に酒店がある所から右にカ−ブして50m程進むと漆原屋敷の前に出る
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68 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:20:38
ID:K3QnBMUM
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十河城(そごうじょう)
形式・・館/高松市十河東町/高松市指定史跡/
植田一族・十河氏の居城。十河景滋には子が無く、三好氏から一存を迎えて養子とした。一存は堺所司代・讃岐目代を兼ねた。その後、三好義賢の次男・存保が家督を継ぐ。三好長治が井沢頼俊・一宮成助らによって殺害された後、三好家血縁という事で三好の家督を継ぐが、天正12(1584)年6月、粘り強く抵抗したもののついに土佐長宗我部氏に敗北、開城して備前へ脱出。その後、十河城には長宗我部右兵衛尉親武が入る。その後、豊臣家臣・仙石秀久に従った十河存保が再び二万石の所領を得て復帰するが、天正14(1586)年に九州で島津軍と戦い戦死し、この城も廃城となった。
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69 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:29:07
ID:K3QnBMUM
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箭造(やはぎ)城
漆原勘右衛門勝重
城主の漆原勘右衛門勝重は細川右京太夫勝元に仕えて戦功を上げ「勝」の1文字を賜り勝重と称した。城目の箭造は矢作りの名人だったからである。城跡は川東郵便局の西側、公民館の前に荒神社があり、この付近から国道193号線をまたいだ西側までと言われている。≪参考文献≫の『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』では『漆原家墓所の所在『城戸』、『馬場』の地名から町民体育館周辺が比定地だったが、南300mにある『城ヶ内』付近に城跡があったと考えた』としている。
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70 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:30:47
ID:K3QnBMUM
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寛正元年(1460)、持常の子である細川成之が父を継いで讃岐守となります。
同四年、成之は兵を率いて畠山伊予守義就を高野山にて伐ちますあが、粉河にて防ぎ大いに戦いました。
岡孫七郎、漆原勘右衛門、尾池玄蕃、由佐次郎左衛門および竜満・石丸の徒が力戦した結果、義就は敗走します。
応仁元年(1467)、山名宗全が細川管領勝元と権勢を争い、京都にて戦います。
勝元は羽檄を飛ばし諸国に兵を募り、讃岐守成之およびその子である義春は数千騎を率いて勝元の兵に加わりました。
勝元の兵は十六万騎とも云われ、東山に陣をとります。
宗全もまた檄文を飛ばし諸国から十一万の兵を募り西山に布陣します。
この戦いが世に言う応仁の乱です。
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71 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:45:45
ID:K3QnBMUM
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建武三年(1336)四月廿日、漆原三郎五郎兼有は、小笠原弥太郎・有田二郎らとともに武家方として、淡路国司高倉少将の軍勢と播磨国大倉谷宿南浜で交戦した(黄薇古簡集)
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72 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:45:50
ID:K3QnBMUM
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室町時代中期、将軍足利義政は政務を忘れて奢侈と風流の生活を続けた。結果、幕府の実権は管領の細川勝元や、四職の一人山名持豊らに握られた。そして、やがてこの両者が対立し、応仁元年(1467)京都の東西に対陣して、戦端を開くにいたった。世にいわれる「応仁の乱」が勃発した。
勝元は急ぎ領国の讃岐・土佐・丹波・摂津、その他から十六万余の兵を集めて京都の東北に陣していた。讃岐より参加した諸将は香西・安富・奈良・羽床・長尾・寒川、そして三谷・神内・十河の植田一族らであった。その後も戦乱は続き、文明四年(1472)五月、香西・安富二将は寒川・羽床・長尾・三谷・植田・十河等を率いて相国寺で大合戦となり、十月に相国寺は炎上し、安富元綱・同盛継らは戦死した。
文明五年、三月に山名宗全が、五月に細川勝元が相次いで死去し、将軍義政は両軍へ使者を派遣して和平させた。しかし、戦乱はおさまることなく日本中に波及し、世は戦国時代となった。
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73 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 16:46:55
ID:K3QnBMUM
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三好氏は、主家である管領細川晴元と対立、長慶は晴元を凌駕する勢力をもち、将軍義輝を擁立するなど、幕府の実権を握った。一存は、子の義継を兄・長慶の養子として三好氏を継がせたり、三好実休(義賢)の子存保を自身の後継としたり、三好氏との関係を深め、その後楯をもって讃岐全土をその勢力下におさめていった。
その後、一存は永禄三年十二月有馬に湯治の折、落馬がもとで翌年三月に没した。養子の存保が十河家を継ぎ、一存以来の堺所司代をつとめた。ところで、存保は十河城に入り十河氏を継いだが、さらに本拠地を東讃の虎丸城に置いた。天正六年(1578)、三好本家を継いでいた実兄・三好長治が傀儡君主として立て、後に追放処分とした細川真之との抗争により自刃。家中の動揺を回避すため存保は勝瑞城に入り阿波一国をも支配するようになった。この時、真之の後ろ盾には、土佐の長宗我部元親がおり、元親は四国制覇を目指していたのである。
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74 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 17:02:24
ID:K3QnBMUM
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阿波の三好氏は東讃の十河氏や植田一族と図り、香西氏を中心とする讃岐国人衆と対立させ、讃岐への侵攻を始めた。讃岐国内では、細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が明確となり、香西氏らは次第に劣勢となっていった。
元政の子元家は、隣国阿波の十河氏としばしば戦った。大永六年(1526)十二月、十河氏が三好氏から援兵三千余人を受けて、元政を攻めてきたとき、地理を知り尽くした元政は、柳津に伏兵を起き十河軍の背後に廻り、前後から挟み討ちにして十河軍に大勝した。とはいえ、十河・植田・神谷・三谷氏らに加え、阿波の三好氏が加勢となれば、寒川氏にとても勝ち目はない。元政は要地を守って十河軍に対峙した。十河軍の讃岐侵攻を聞いた香川山城守・香西豊前守らは、一宮大宮司とはかって、寒川氏を援けるため一宮に大兵を出した。これを知った阿波軍は戦わずして兵を退いていった。
天文元年(1532)、十河一存は長尾名村の池内城の寒川元政の居館を攻めた。このとき、元政の臣、鴨部神内左衛門と同源次の兄弟は精兵五十人を以て十河一存の本陣に突っ込み、神内左衛門のふるう槍が一存の左腕を貫いた。一存はこれに屈せず太刀をもって左衛門を討った。源次も奮戦したが、兄とともに戦死した。一方、一存は槍を切り折り、そのキズに塩をすりこみ、藤のかづらを巻いて帰陣した。 これを見た世人は一存の人間離れした行動に対して、「鬼十河」と呼ぶようになったという。ところで、神内左衛門は寒川氏恩顧の侍で、鴨部の御殿山に城を持っていた。源平藤戸合戦で勇名を馳せた鴨部某の子孫といわれる。左衛門の弟源次は十河城に仕えていたが、寒川氏と合戦になったことで一存が無理に鴨部に帰した。そのとき「戦のときは遠慮なくかかってまいれ」と励ましたという。そして、兄弟とも十河の本陣に斬り込み討死したのである。 勝端城の細川晴元はこの合戦をを聞き、書状を送って寒川・十河氏との和睦をすすめ、両氏はこれに従い争乱はおさまった。しかし、安富氏はおさまらず、天文九年正月、寒川郡七郷に攻め入り、四月に双方合戦におよび、寒川氏は敗れて敗兵をまとめ、本城を焼き昼寝城に入り、以後、安富氏との攻防は三年におよんだ。
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77 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 17:11:27
ID:K3QnBMUM
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西庄城(山内城) 坂出市西庄町川向 香川民部少輔行景(景敏)
『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』は『天皇城(山内城)』と表記
戦国時代の香川氏の居城であったが、一時山内氏が守備し山内城の名もある。(城跡推定地の東、北側周辺には水田地名が見受けられる。その地に遺構らしきものは見当たらないが東南120mほどのこんもり木立の茂った五アール区画があり、そこに香川民部少輔の墓碑が祀ている。
天王城 坂出市西庄町天皇 小早川三郎左衛門(隆景) 坂出市西庄町の金山(標高281.0m)の中腹に削平地があり、この辺りが天王城跡と思われる。天王城は西庄城の支城と言われる。
長輝は元綱の所領を奪い、西ノ庄城を香川民 部少輔へ与え、香西氏の後は元綱の子供元定に継がせ豊前守を称させた。
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78 :
名無しさん@chs
2010/08/05(木) 17:25:18
ID:K3QnBMUM
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1337 延元2 川津郷宣政門院(後醍醐天皇二女光厳天皇後宮)領となる
1507 永正 4 香川民部少輔,香西氏にかわり綾北を与えられ,西庄城に入る
1571 2 十河存保西庄香川民部を攻める
1579 7 羽床伊豆守(土佐方)西庄香川民部を攻める
1585 13 千石秀久 讃岐を領し聖通寺城に入る
1587 15 生駒親正讃岐15万石領主となる
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79 :
名無しさん@chs
2010/08/07(土) 18:54:29
ID:/s4ciPmw
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阿波の三好氏は東讃の十河氏や植田一族と図り、香西氏を中心とする讃岐国人衆と対立させ、讃岐への侵攻を始めた。讃岐国内では、細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が明確となり、香西氏らは次第に劣勢となっていった。
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82 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:34:39
ID:qFKKXmc2
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1457 長禄元年 香川景明 長禄年間、安富山城守盛長は細川家の社家奉行として
雨瀧山に築城。
細川家四天王、当時(頭領)安富盛長−子元綱民部少輔、
香川景明、香西元資、奈良元安。
1月26日改元。
当時管領は畠山から細川勝元へと代わっている。
1460 寛正元年 細川成之(しげゆき)が持常を継いで讃岐守となる。
1463 寛正4年 細川成之は兵を率いて畠山伊予守義就(よしなり)を高野山
に討った。義就はこれを粉河に防いだが敗走。岡孫七郎、漆原
勘右衛門、尾池玄蕃、由佐次郎左衛門や竜満、石丸の徒が力
戦した。 全讃史
1464 寛正5年 細川成之は兵を率いて予州に侵入して官兵と大いに戦う。
1465 寛正6年 帰陣。
1467 応仁元年 香川五郎次郎 6月24日東方又守護代安富左京亮と共に上洛→東軍参加
応仁の乱。東軍細川勝元、西軍山名宗全。−−77。
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83 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:43:22
ID:qFKKXmc2
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1358 延文3年 詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」と見え、仁尾
浦は14世紀中頃には港が発展していた。浦は京の賀茂社
領であり、惣衆という共同組織を形成し、神人の結合が強固
であった。 賀茂神社文書 足利尊氏没。
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84 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:46:41
ID:qFKKXmc2
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姓氏家系によると、香川氏は神奈川県高座郡香川郷(茅ヶ崎市)に起こる桓武平氏鎌倉氏流である。
1019 寛治三年 鎌倉権五郎景政 鎌倉権五郎景政は源義家に使え、仙北の金沢柵合戦における武勇談は武士の
鏡として広く宣伝された。
景政に景継と景季と言う二人の子。
1023 寛治七年 鎌倉権五郎陸奥 鎌倉権五郎陸奥守、源義家奥州後3年合戦時亡。 歳妻母不知。
高座郡大庭御厨「オオバノミクリヤ」(藤沢市)の開発領主鎌倉権五郎景正
の子孫経高が、同御厨内の香川郷を領して香川五郎を名乗った。
1337 建武4年 細川頼春が讃岐の南朝勢力の排除、四国の統治事業を
受け継いで四国の大将となり、阿波の勝瑞に館を築く。
1338 暦応元年 足利尊氏征夷大将軍となる。室町幕府の始まり。
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85 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:47:31
ID:qFKKXmc2
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1364 貞治3年 香川景房 {多度、三野、豊田の三郡を領した。天霧城を詰め城、本台
山城を居館とする。
香川影房は、室町足利幕府の実力者、四国全土守護細川
頼之に従って緒戦で軍功を挙げ、貞治三年(1364年)に多度・
三野・豊田の西讃岐三郡を領した。
このとき、天霧山に詰めの城「天霧城」を築き、同山北麓の
海に近い本台山に居館「本台山城」を構えたといわれる。}
全讃史 の記述であるが白峰合戦の時期からも貞治元年の事
と推測される。
更に香川景房との名も前後の古文書から香川長景であろう
と推測される。 全讃史
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86 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:50:52
ID:qFKKXmc2
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1493 明応2年 讃岐13郡の内6郡を領有。香川氏はこの地で勢力を伸ばし、
讃岐守護となった細川氏の守護代として、讃岐国十三郡のう
ちの西讃岐六郡、多度,三野・豊田・鵜足・那珂・綾北条を、
東讃岐七郡は安富氏が、それぞれ守護代として二分統治領有
した。香川家9万石。 蔭涼軒日録
1500 明応9年 毛利元就4歳
1504 永正元年
1507 永正4年 香川民部少輔行景 香西氏に代わり綾北を与えられ、西庄城に入る。
1542 天文11年 香川之景 阿波を地盤に力を伸ばして来た三好豊前守は、細川氏に代わり
諸将を従えんとす。十河、安富、寒川、香西従う、されど 香川之景
は毛利氏につかんとす。 全讃史
〜天文12年(安芸方)1月11日ー一大内義隆の尼子攻め。
香川左衛門尉光景は、毛利元就と共に大内側として参戦。
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87 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:51:51
ID:qFKKXmc2
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1568 永禄11年 讃岐の諸将は毛利の為に備州の小島に出陣し、加陽城を攻めた。
香西宗心が戦死した。本太城は村上水軍の村上武吉の支配化にあり
武吉の家臣島吉利が三好勢と戦い勝った。 香西氏参加
山陽新聞社編者 及び発行「吉備回廊」
信長、義昭を奉じて上洛
1569 永禄12年 1月6日。三好三人衆、阿波衆を率い細川藤考らに攻めかかる。
1570 元亀元年 信長上洛
1571 元亀2年 香川民部 十河存保、西庄城を攻め、為に民部備後に落ちる。
5月、讃岐の諸将は毛利の為に備州の小島に出陣し、加陽城を攻めた。
香西宗心が戦死した。
阿讃勢を率いて攻めてきたのは、三好家の家臣、篠原長房であったと
あり、「南海通記」などで香西宗心の児島侵入としたのは、篠原長房の
誤り。
元亀元年頃から南備中が不安定であり備前の宇喜多、讃岐勢が
(村上武吉も?)狙っていた 全讃史。
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88 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:52:38
ID:qFKKXmc2
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1577 天正5年 香川民部 香川義景 香川信景
小早川氏、香川民部を西庄城に帰城せしむ。
香川義景、讃州元吉に立て篭もる(安西軍策巻五)
隆景朝臣に属し志を深くける(安西軍策巻五)
全讃史 坂出市略年表 安西軍策巻五 秋山家文書
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89 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:54:03
ID:qFKKXmc2
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1578 天正6年 香川民部少輔行景 香川信景 香川兵部
正月、十河存保は勝瑞に帰って三好家を継いだ。
4月、藤目城主斎藤下総守が土佐に参候し、その孫を人質として差し
出し、臣従を誓った。 これに怒った宇多津城主奈良太郎左衛門は
激を飛ばして兵を募る事、3000人。香川兵部、長尾大隈、羽床伊豆
を先鋒として藤目城を攻めた。
長曽我部元親これを開き、すでに桑名太郎左衛門、浜田善左衛門
にこれを助けさせたがどうにもならず.彼らは阿波の大西に向けて逃
げた。
奈良太郎左衛門はその城を摂取して新目弾正に守らせた。
長曽我部元親は大いに驚き、兵5000をもって来たりこれを討った。
新目弾正は討ち死。元親の讃岐侵攻。藤目城、本篠城等属城落城。
7月、土佐方に寝返った羽床伊豆は兵1000余を率いて西庄城
(北条城)に香川民部少輔行景を攻める。香川民部は毛利元就の3男
小早川隆景に援兵を請う、浦兵部大輔と井上伯耆守に兵5千をもって
来援させこれを助く。
8月、長曽我部元親は兵5000を率いて財田城を囲んだ。財田和泉守
常久は兵300では守り難いので、香川信景に助けを請うたが、信景は
あえて助けなかったので落城した。
1581 天正9年 香川民部 香川信景 7月、三好存保(元三好政兼)は、激を安富、寒河、
植田、三谷、香西に伝え、兵一万を指揮して西庄城を攻めた。
民部は奈良、長尾に援軍を請うたが三好の大軍にすべも無く送らな
かった。香川民部は城を捨てて塩飽に落ちた。
三好存保はその勢いに乗じて、勝瑞城を取り戻し、河内の三好笑
岩と淡路の田村康広がおのおの数百騎を率いて来援、 共に一宮城
を囲んだ。
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90 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:05:24
ID:qFKKXmc2
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文書には「阿波国富吉庄西方地頭漆原 三郎兼有」と. うるしはらさぶ ろ うかねあり. あり、漆原氏が地頭職を相伝していた ようである
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91 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:07:22
ID:qFKKXmc2
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漆原氏は上野国漆原村を本貫とする武士で建武3年4月21日の藤原兼有軍忠状(黄薇古簡集/大日料6-3)には「阿波国富吉荘西方地頭浅(漆カ)原三郎五郎兼有」と見え,当荘西方の地頭職を相伝していた。なお,この漆原氏の後裔は戦国末期まで川端城(現板野町)に拠って川端氏を称した(古城諸将記/徴古雑抄7)。また年未詳で異筆で「建武三」と記されている9月18日付の足利尊氏御教書写(久我文書/岐阜県史史料編古代中世4)では「阿波国富吉庄」など7か荘の管領のことについての院宣を一見した旨,准后に申し入れるよう民部権大夫に伝えている。下って文和3年正月13日の2通の尊頴・尊融連署寄進状(臨川寺重書案文/大日料6-18)によれば,「阿波国富吉庄」は尊融追善の料所として臨川寺に,また「阿波国富吉庄東村并北敷地・南敷地」の3か村は同じく三会院に寄進することおよび本家役は保安寺が沙汰することが記されている。同年5月18日の阿波守護細川頼之書状(同前)では,当荘の河窪殿(尊融)寄進状の案文を受けとった旨が記されている。そして同5年2月7日の細川頼之施行状案(同前/大日料6-20)では守護代新開遠江守に,「阿波国富吉庄領家職」を三会院雑掌に沙汰付けするよう命じている。下って貞治4年2月22日の臨川寺三会院宛の官宣旨(同前/大日料6-26)によれば三会院領の「阿波国富吉庄内東村・北敷地村・南敷地村等地頭職」などに対する伊勢大神宮役夫工米などの臨時公役を免除しており,3か村の地頭職も三会院領となっていた。また同日に阿波国宛の官宣旨も発給された(同前)。同年3月26日の臨川寺宛の官宣旨(同前)でも「阿波国富吉庄等地頭職」に対する役夫工米以下の諸役が免除され,同日付の阿波国宛の官宣旨(同前)が発給されている。下って戦国期の文明9年12月28日の室町幕府奉行人連署奉書(天竜寺文書)では「臨川寺領阿波国富吉庄」を寺家雑掌に沙汰し付けるよう守護代に命じ,同年同月29日の室町幕府奉行人連署奉書(同前)では当荘など5か荘が臨川寺に返付されている。しかし,当荘は在地武士に押領されていたようで,同13年11月30日の赤沢信濃守宛飯尾常房奉書(同前)によれば,「臨川寺領阿波国富吉庄事,如元還補寺家訖」とあり,再び寺家に返付されている。また年月日未詳の年貢注文断簡(同前)には「一,〈文明十四年還補〉阿州富吉庄 三会・寺家両所〈江〉納之〈庄主ハ自寺補〉」とある。現在藍住町東中富に敷地傍示という字名が残っており,荘域は同町東中富の北部や同町富吉・板野町川端の地域に比定される(県史2)。
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92 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:28:32
ID:qFKKXmc2
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建武三年(1336)四月廿日、漆原三郎五郎兼有は、小笠原弥太郎・有田二郎らとともに武家方として、淡路国司高倉少将の軍勢と播磨国大倉谷宿南浜で交戦した(黄薇古簡集)。
後醍醐天皇により、建武の中興(1333)が始められた時、足利尊氏は細川和氏を阿波守に推挙し、細川定禅を讃岐に居住させた。
足利尊氏は、建武政権に離反して九州に西走する時、阿波守細川和氏と足利尊氏陣営の軍事を司る兵部少輔細川顕氏に、国において勲功の軽重に応じて恩賞を行うように仰せ付けられた文書。
あて先の漆原三郎五郎は、板野郡富吉荘西方の地頭で、勲功の賞に勝浦荘公文職を宛がっている。
建武3年(1336)2月15日に出されているが、尊氏が実際に将軍になったのは建武5年である。
この文書は「南北朝遺文 中国・四国編」に下総・染谷文書としての原本と考えられる。
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93 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:47:57
ID:qFKKXmc2
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大分限の国衆の筆頭に掲げられた香西氏は、永正の錯乱によって在京していた上香西(かみこうざい)家が滅ぼされますが、在国していた下香西家は、15世紀前半には小地域の領主たちを家臣団として編成していくようになります。
この頃の下香西家の当主であった元定を中心に、小領主で元定を支える滝宮氏・福家氏・新名氏・羽床氏・植松氏(以上香西氏の同族)、香川氏(西方守護代家とは異なります)・大林氏・山田氏・久利氏・遠藤氏・飯間氏・筑城氏・国広氏・岩部氏・漆原氏・由佐氏・香東氏・一宮大宮司氏・大野氏・犬養氏・宮脇氏・佐藤氏・真部氏・大熊氏・楠川氏・雑賀氏・藤井氏、 などが戦闘時には元定の指揮下にありました。
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94 :
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:48:04
ID:qFKKXmc2
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鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政を経て南北朝の動乱期にあった。建武三年(1336)、官軍に敗れて九州に落ちた尊氏は、中四国に諸将を配した。このとき、阿波には細川和氏・頼春兄弟が派遣された。
細川兄弟は鎌倉時代以来の足利氏の所領であった秋月荘を拠点として、阿波の在地武士を掌握し、尊氏が再上洛したとき尊氏の軍に合流して奮戦した。そのなかには、漆原・小笠原らの阿波武士が加わっていた。かくして、阿波の南北朝の動乱が始まったのである。とはいえ、初期のころは南朝方の目立った動きはみられない。これは武家方細川氏の活動に比して、南朝方が阿波武士を結集出来なかったことが要因であった
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95 :
名無しさん@chs
2012/01/04(水) 02:36:50
ID:99XG/bK2
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愛媛県宇摩(うま)郡、現在の川之江市の近辺には、木梨軽皇子、軽大娘皇女に関わる伝承が数多く残されている。
@伊予国宇摩(うま)郡妻鳥(めんどり)村字東宮(現在の川之江市妻鳥町字東宮)に東宮山(あるいは春宮山)と呼ばれる標高八十米ばかりの小さな丘があり、その山頂に東宮山古墳と云われる横穴式石室を持った円墳がある。地元ではこれを木梨軽皇子の墓であると伝承する。かつてこの古墳を地元の人たちが掘り出すと、長宜孫子銘の内行花文鏡など十五点の遺物が出土したが、その中には、魚形や皿形の歩揺を着けた見事な金銅透彫帯冠もあったと云う。更には、この東宮山の真北の、昔海岸だった所には東宮石と呼ばれる石があり、ここが軽皇子が上陸した地点だと伝えている。
A伊予国越智郡の大島に皇太子神社と云う神社があった。現在はその島の吉海町津島の田中神社の境内社となり、王太子神社と云う。この神社の祭神は王崎明神と姫崎明神の二柱とされ、王崎明神と云うのは木梨軽皇子、姫崎明神と云うのは軽大娘皇女のこととされている。そして、伝承は、軽皇子はここに泊し、ここから伊予の中心である温泉郡(ゆのぐん)(松山市や道後温泉のある所)に向かおうとしたが、折からの北西風によって来島海峡の難所を越える事が出来ず、吹き流されて宇摩郡妻鳥に漂着し、また、兄を追って来た軽大娘皇女もここまで来たが、ここで亡くなったと伝えている。
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96 :
名無しさん@chs
2012/01/04(水) 02:38:32
ID:99XG/bK2
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95 は、謎の衣通姫随想より
www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/sodousi.htm
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97 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:06:05
ID:t2+yZxAk
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天皇寺(てんのうじ)は、香川県坂出市西庄町にある寺院。宗派は真言宗御室派で、本尊は十一面観世音菩薩。山号を金華山、院号を高照院と称し、天皇寺高照院とも呼ばれる。四国八十八箇所霊場の第七十九番札所。境内は崇徳上皇を祀る白峰宮に隣接し、元は白峰宮の神宮寺であった。
伝承によれば、古代に南海の大魚を退治しに向かった讃留霊王ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れたとき、横潮明神が泉の水を持ってあらわれ、その水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。それからこの泉は「八十場(やそば)の霊水」と呼ばれるようになったという。
保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国阿野郡西庄村に配流となり、長寛2年(1164年)そこで死去した。上皇の亡骸の処遇をめぐって、京から返事の使者を待つあいだ、遺骸をこの八十場の霊泉に浸したところ、21日間すぎたのちも、上皇の顔はまるで生きているごとくだったという。やがて上皇は荼毘に付され、妙成就寺と並んで建てられた白峰宮に祀られた。このことから妙成就寺は「天皇寺」と呼ばれるようになり、白峰宮は「天皇さん」と愛称で親しまれるようになった。
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98 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:09:34
ID:t2+yZxAk
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崇徳上皇は京都から淀川を下って海に出て、須磨・明石を過ぎ、播磨・備前の海岸沿いに瀬戸内海を西へ進みました。途中、直島に滞在した後、8月3日に讃岐国阿野(あの)郡・松山ノ津に到着しました。御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の邸宅を仮の御所とされ、やがてその近くの長命寺(ちょうめいじ)に移られたと伝えられています。
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99 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:15:34
ID:t2+yZxAk
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雲居御所で約3年過ごされた上皇は、府中鼓ヶ丘木ノ丸殿に遷都され(注:遷都とは言えないかと思われます)、長寛2年(1164)8月 46歳の若さで崩御なされた。
府中国庁内鼓ヶ岡の木丸殿に移った時、綾氏滞留中、高遠の娘綾局を寵愛し、その一子を高遠に菊御紋とともに授けたとも伝えられる。
崩御の後、京都より御返勅があるまでの間、西庄の野沢井の水にお浸しし、同年9月に白峯で荼毘に付され御陵が築かれた。
時代を経て、雲居御所の所在が不明となっていたのを、江戸時代に松平頼恕公が上皇の旧蹟地として雲井御所の石碑を建立し、綾高遠の後裔とされる綾繁次郎高近をこの地の見守り人とした。
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100 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:19:11
ID:t2+yZxAk
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崇徳院が崩御されてから、数 年後西行法師が、崇徳院を偲ばれて、この地にやってきた
橘遠保は三豊郡紀伊村大野原大字青岡「真鍋家系図」と香川県大川郡「真部姓氏録」の遠祖として載っております。また楠木正茂の母親の出でもあります。こうして考えてみますと真鍋(真部)氏は予州新居一族との関わりが深いことがわかります。
綾姓
讃岐国阿野郡新居郷より起こり、羽床氏の族となっています。綾氏系図には「羽床正司資高→資光(新居藤太夫)とあります。
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101 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:21:53
ID:t2+yZxAk
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千足神社の主祭神は伊邪那岐大神・伊邪那美大神で、配神として出雲大社(大国主大神)や天神社(菅原道実公)等々をお祀りしています。また同並列として天満社(菅原道実公)があり、主祭神は勿論菅原道実公でありますが、配神として出雲大社・石清水八幡神社(石清水八幡大神)があります。この神社は今から1250年前聖武天皇の頃、宇摩郡・新居郡の鎮守神として信仰されるようになりました。いずれとも宮司は代々真鍋姓を名乗って今日に至っています。
越智玉守五代の孫實遠は嵯峨天皇(809年)より正五位下に叙せられ、越智姓を改めて橘姓となっています。※越智玉守(新居氏の祖)→益興→益連→實連→實遠→實幸→實保
實保には二子がいて兄は貞保と言い、後に遠保と改名しました。かの有名な橘遠保なのです。弟は基保と言って高市の祖となりました。橘遠保は天慶四年(941)伊予国の警古使になっており、南海海賊の首領藤原純友を討ち取ったことで有名な歴史人物
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102 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:28:17
ID:t2+yZxAk
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西行は崇徳上皇が京に居た頃から和歌を通じた交流を持っており、上皇が讃岐に流 された後も歌のやりとりをしていたといわれています
王越山の背後の峠・眞尾坂は雨月物語に登場する西行法師が庵居した坂である。 齢50 歳に達した西行法師の讃岐行は悲願の旅路であったに違いない。
謡曲「松山天狗」の舞台は、いうまでもなく讃岐は綾の松山(現坂出市)、白峯である。
仁安年間、西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねる。
松山は草深い里である。
西行は、山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行くが、道はけわしく、生い繁げる荊は旅人の足を拒む。
そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」とたづねる。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者、新院がこの讃岐に流され、程なく亡くなられたと承り、おん跡を弔い申さんと思い、これまで参上した次第。 何とぞ、松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞う。
やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い、苔の下道」に足をとられながら、ようやくご陵前にたどりつく。
院崩御後わずか数年にもかかわらず、ご陵墓の余りの荒廃ぶり。
ご陵前には詣で仕うる人もなければ、散華焼香の跡だに見えない。
西行涙ながらに
よしや君むかしの玉の床とても
かからん後は何にかはせん
西行が院に捧げた、畢生の鎮魂歌である。
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103 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:31:07
ID:t2+yZxAk
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高松藩の儒学者である中山城山はその著「全讃史」のなかで「松山ニ神有リ 其ノ坊ヲ相模坊ト曰フ 甚ダ威霊有リ 其ノ余ノ仙霊甚ダ多シ 窟ヲ宅ニシテ此ニ住スト云フ 長寛以来崇徳帝陵有リ 世人殊ニ之ヲ崇ム」とあり、相模坊の威霊についてふれている。
この白峯山の相模坊が、いつごろ山移りしてきたのかは不明である。
しかし、謡曲松山天狗(永享十二年=1440年)、と同じ室町時代の初期頃の作といわれる天狗ものに「花月」があり、その中に白峯山の相模坊についてふれられている。
それによると、九州の英彦山(福岡県)の麓で天狗にさらわれた少年花月を、その父が出家僧となって諸国を探し求め、ついに京都で再会することができた。
その時少年が、天狗に連れて行ってもらった山々について語る場面がある。
その中に「讃岐には松山降り積む雪の白峯(相模坊)・・・・」とある。
つまりこのことから、室町時代の初期頃には、既に白峯山には相模坊が天狗の首領として君臨していたことがわかる。
この白峯山の相模坊は、かつて相模国(神奈川県)の大山に君臨した大行者で、その名を相模坊と称した。
のちいつのじだいにか讃岐の白峯山に移って白峯山の行者集団を統括するとともに、聖地白峯山の守護者となったものと思われる。
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104 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:34:32
ID:t2+yZxAk
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大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ) は、神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である
天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。
中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。
江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。これが全国八大天狗に数えられた大山伯耆坊である。元々は伯耆大山の天狗だったが、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったために、その後任として移って来たといわれる。
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105 :
名無しさん@chs
2012/03/27(火) 13:39:29
ID:t2+yZxAk
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天平勝宝4年(752)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、 本尊として 不動明王が祀られた。 中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり 、 源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。
伝説によれば、奈良東大寺の開山として名高く、伊勢原の雨降山大山寺をも開いた良弁 (ろうべん)僧正が天平神護元年(765年)、この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・ 華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています