讃岐の藤原氏
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1 :
名無しさん@chs
2007/04/21(土) 06:10:59
ID:38f297e948
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玉藻城(高松城)を築城した生駒親正は、藤原不比等から十六代後の子孫で、親正の墓は高松の弘憲寺とともに、先祖ゆかりの志度寺にも造られた。志度寺のまつり『十六度市』はこのことから名付けられたとも云われる。
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43 :
名無しさん@chs
2008/09/05(金) 15:25:18
ID:n0JthQgI
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寒川氏は「三階松」を家紋にしたが、前山の寒川姓を名乗る家で三階松、またはその替紋である「枯枝付三階松」や「三本松」を家紋にしている家は数軒あり、系図を所持している家も一軒ある。 寒川氏は讃岐国造の始祖である神櫛王(景行天王皇子)の流をを汲むものである。
神櫛王の子孫は東讃で栄え、敏達天皇の代に国造であった星直(ほしのあたえ)は、国を押し統べるという意味で大押直(おおしあたえ)の姓(かばね)を賜い、のち凡直と改めたが、延暦10年(791)願い出て讃岐公の姓を許され、任明天皇の承和3年(836)にはその一族二十八家に讃岐朝臣の姓を賜った。寒川氏は讃岐氏の一族で、代々寒川郡司をしていたので、寒川をもって氏とした。
昼寝城と寒川氏
中世の前山は昼寝城で代表される。昼寝城は東讃の名族寒川氏の居城であった。そのためいまも寒川姓を名乗る家は、長尾町内にも62軒あり、そのうち前山では19軒を数えている。寒川氏は「三階松」を家紋にしたが、前山の寒川姓を名乗る家で三階松、またはその替紋である「枯枝付三階松」や「三本松」を家紋にしている家は数軒あり、系図を所持している家も一軒ある。
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44 :
名無しさん@chs
2008/09/05(金) 15:27:50
ID:n0JthQgI
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羽床氏は讃岐藤家の一族で、新居・香西・福家氏らとは同族関係になる。讃岐藤家とは、保安元年(1120)に讃岐の国司となった藤原家成が、綾大領貞宣の娘との間にもうけた章隆を祖とする武士団をいうあ。
羽床氏が羽床を名乗ったのは、仁平年間(1151〜53)のころといわれ、章隆の子周防守資高が下羽床に居を構え地名をとってはじめて羽床を称したのだという。羽床は「はゆか」とよび、資高から数代のちの政成は楠木正成の千早城攻めに一番乗りの功をあげた。その後の南北朝の内乱に際して政成の子政長は、一族みな北朝に属したなかで、ひとり南朝方に味方した。その後、幕府管領に就き讃岐守護職もつとめた細川氏に従ったようだ。
室町時代における羽床氏の動向は詳らかではないが、十五世紀末期に成立したという『見聞諸家紋』には、大野・香西・新居・福家の讃岐藤家諸氏とともに羽床氏の幕紋も収録されており、管領細川氏に従って応仁の乱に出陣したことが知られる。また、讃岐藤家諸氏はいずれも「三階松」を用いており、松が一族共通の紋であったことも分かる。
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45 :
名無しさん@chs
2008/09/05(金) 15:31:53
ID:n0JthQgI
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香西家の紋は、藤丸に三階松根笹だとされている
藤氏は中御門家成の出で、家成が鳥羽天皇に讃岐の守に任命されて一門が繁栄した。 大野・羽床・香西・福家・西隆寺の5家がこれである。豊田・柴野・平尾・有岡・平田・ 玉井・竹田・成宗・本宗などの諸氏も松紋を用いている。
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46 :
名無しさん@chs
2008/09/05(金) 15:33:22
ID:n0JthQgI
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三笠松紋の使用家は中御門中納言藤原家成の曾孫、 藤原章高を祖とする「羽床家」。 その子孫が十氏に 分家してるから、その子孫か。讃岐国に多い
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47 :
名無しさん@chs
2009/12/29(火) 08:56:01
ID:ewHteZ3c
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讃岐国志度寺に伝わる「龍宮玉取姫」伝説
今を去る1300余年前(正しくは669年)、大職冠・藤原鎌足が亡くなり、唐の三代皇帝である高宗に嫁いだ 鎌足の娘・光伯女はこの知らせを聞いて嘆き悲しんで、唐の宮廷所蔵の宝物「花原磬」「洫浜石」「面向不背玉」三つを亡き父への供物とすべく船に積み日本に送った。ところが、船が讃岐国志度浦にさしかかったとき、海底から姿を現した龍神に「面向不背玉(どの方向から見ても中に仏の正面像を拝むことができる玉)」を奪われてしまう。
それから10年後、鎌足の子(鎌足没時は11歳だった)藤原不比等は、奪われた玉を取り返すため、身分を隠して「淡海」と名乗って志度を訪れた。不比等はここで純情可憐な美しい海女「玉藻」と出会い恋仲となり(681年に)一子・房前を儲ける。淡海・不比等は数年後に自らの素性と目的を明かして、海女・玉藻に宝玉の奪還に手を貸してほしいと頼み込む。我が子房前の将来を夫に託して、玉藻は腰に巻いた命綱を頼りに瀬戸の海に潜り竜宮に潜入する。海女は宝玉を取り返すため龍神たちと激しく闘い、最後には自らを犠牲にして、短刀で乳房の下を十文字に切り裂き玉を隠した上で、綱を引き上げるように合図を送る。不比等が綱を手繰り玉藻を引き上げるが、海女は既に瀕死の状態で、夫に玉を渡して息を引き取る。
後年、大臣に出世した藤原房前は僧の行基とともに志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったという。能楽「海人」は房前が妙法蓮華経の読誦で母を追善供養したところ、龍女に姿を変えた母が現れて房前に感謝して成仏するという仏教思想が加えられた結びとなっている。
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48 :
名無しさん@chs
2009/12/29(火) 09:02:55
ID:ewHteZ3c
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中臣(藤原)鎌足の実像は意外に掴めない
中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない
中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国(茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる
同じ頃、百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
『日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済の義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日した
関裕二氏は著書・『日本古代史の謎』・『藤原氏の正体』で、百済皇子・豊璋(ホウショウ)という人物と、中臣鎌足、つまり藤原鎌足は同一人物であるという。
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49 :
名無しさん@chs
2009/12/29(火) 09:03:21
ID:ewHteZ3c
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中臣(藤原)鎌足の実像は意外に掴めない
中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない
中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国(茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる
同じ頃、百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
『日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済の義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日した
関裕二氏は著書・『日本古代史の謎』・『藤原氏の正体』で、百済皇子・豊璋(ホウショウ)という人物と、中臣鎌足、つまり藤原鎌足は同一人物であるという。
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50 :
名無しさん@chs
2009/12/29(火) 09:11:24
ID:ewHteZ3c
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鎌足は、天智8(669)年10月16日に死んだ。
その前日、天智(豊璋)は、鎌足に大織冠と藤原の姓を与えた。
鎌足は、新羅系による大化改新を主導した一人だった。
不比等の名前が登場するのは、『日本書紀』の持統称制3(689)年2月26日の判事任命記事である
その時31歳で位階は直広肆だった。その後右大臣にまで進むが、その事績は殆んど残されていない
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