讃岐の桃太郎伝説
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1 :
名無しさん@chs
2007/04/21(土) 06:18:57
ID:38f297e948
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倭迹迹日百襲姫命 :讃岐一ノ宮の田村神社の主祭神
第7代孝霊天皇の子であり、五十狭芹彦命(大吉備津日子命)と稚武彦命(若日子武吉備津日子命)の姉、いわゆる桃太郎の姉であった。
大吉備津日子命(イサセリ彦)と若日子建吉備津日子命(ワカタケ彦)は、四道将軍として力を併せ針間(播磨)を足場に吉備の国へと攻め入り、この地を平定した。
雌雄島(女木島・男木島)を根城とした海賊が笠居郷(香西・鬼無)あたりまで進出してきた為、吉備の国から讃岐の姉 倭迹迹日百襲姫命を訪ねてきたきびつ彦兄弟に海賊(鬼)征伐を依頼し、退治した。=桃太郎伝説
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2 :
名無しさん@chs
2007/04/21(土) 06:32:12
ID:38f297e948
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倭迹迹姫(考元と欝色謎命の子)、は主題の、倭迹迹日百襲姫と同一、とされ即ち、父親に関して2説(孝霊か考元か)ある
古事記では
(父)孝霊天皇(第7代)
(母)意富夜麻登玖邇阿禮比賣命
三輪の神に仕えたか?
日本書紀では倭迹迹日百襲姫 ヤマト トトヒ モモソヒメ
古事記の表記は「母母曾」乙類なので100(百)ではない。
第7代孝霊天皇の娘である「倭迹迹日百襲姫」は、高齢になって、神浅茅原(カムアサヂハラ)で神憑りする。(崇神7年2月15日)
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3 :
名無しさん@chs
2007/04/21(土) 06:35:02
ID:38f297e948
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Wikipediaによれば
『日本書紀』崇神天皇十九月の条に、つぎのような説話が載せられている。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀(みすがた)を勤(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対(こた)へて曰(のたま)はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり、吾明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥(くしげ)を見れば、まことに美麗な小蛇(こおろち)がいた。その長さ太さは衣紐(きぬひも)ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。「則ち箸に陰(ほと)を憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。(所々現代語) なお、箸が日本に伝来した時期(7世紀?)と説話の作成された時期とに大きなズレがあるところから、古墳を作成した集団である土師氏の墓、つまり土師墓から箸墓になった?という説(同志社大学故土橋寛氏)もある。
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4 :
名無しさん@chs
2007/04/21(土) 06:40:15
ID:38f297e948
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築造時期
墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていたが、周辺部での発掘調査によって周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土し、古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造であることが確定した。
御諸山の神の時代。
開化天皇の頃が3世紀後半ということになる。
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5 :
名無しさん@chs
2007/04/21(土) 06:42:04
ID:38f297e948
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全国に疫病が流行して田畑はあれ、多くの民が飢えに苦しんでいたとき、崇神天皇は大三輪氏の祖オオタタネコに大物主命を祀らせて疫病を鎮めたという話がある。このとき大物主命は、最初に倭迹迹日百襲姫神に憑依し、「大和の国の主である自分を重く祀れば、必ず国土は平安になろう」と託宣した。それを倭迹迹日百襲姫神が崇神天皇に進言して国の疲弊を救った。また、あるときタケハニヤスヒコ命が謀反を計画するという事件のときには、倭迹迹日百襲姫神がいち早くそれを予言して叛乱を未然に防いだ。
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6 :
名無しさん@chs
2007/04/21(土) 06:45:21
ID:38f297e948
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志度寺と藤原氏
海女の玉取り伝説
その昔、唐に嫁いだ藤原鎌足の息女白光は亡き父の供養物として数々の宝物を兄の藤原不比等に届けようとしました。ところが、宝物を積んだ船が志度の浦にさしかかったとたん嵐が起こり、中国に二つとなき宝物「面向不背の玉」が龍神に奪われてしまったのです。
不比等はこの玉を取り戻そうと、身分を隠して志度の浦へやってきました。ここで漁師の娘であった海女と恋に落ちたのです。”房前”という男の子も授かり親子三人で幸せに暮らしていました。しかし、不比等が志度の浦に来た理由を知った海女は、愛する夫のために玉を取り戻そうと死を覚悟で竜宮へ潜っていったのです。
海上で待つことしばし。海女の合図で命綱をたぐった不比等の前に現れたのは、見るも無惨な海女の姿でした。海女は間もなく、不比等に抱かれたまま果ててしまいました。しかし、玉は海女の命に代えて縦横に切った乳房の中に隠されていたのです。
その後、玉は奈良の興福寺に納められました。藤原家を継ぎ大臣にまで出世した房前は、やがて志度寺を訪れ千基の石塔を建立、小堂を大きな堂塔に立て替え、さらに法華八識を惨めて、亡き母の菩提を弔ったということです。
この伝説をもとにした有名な謡曲が「海女(の玉取り)」。
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7 :
名無しさん@chs
2007/04/21(土) 06:55:52
ID:38f297e948
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そーいえば
平賀源内も
讃岐国志度浦に生れた。
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8 :
名無しさん@chs
2007/11/19(月) 13:26:51
ID:59dae87bfc
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ももそ姫だが、水主神社から讃岐一宮の田村神社へ移り住み、 その後、大和国に帰り、大国主命(おおくにぬしのみこと)と結婚した。
奈良県の広陵町にお墓がある。
竹取の讃岐神社は広陵町にある
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9 :
名無しさん@chs
2007/11/19(月) 13:28:43
ID:59dae87bfc
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大蓑彦神社[おおものひこ]「大蓑彦命」
当社は延喜式神名帳に「讃岐二十四座の一」とす、里人蓑神明神と奉称す、神社の北方に寒川渕ありて名水なり、寒川郡名之によって起ると云う。
御祭神大蓑彦命は上古蓑を作り始め給ひし功績によりて称へし御名なるべしと云う一説には素盞嗚命、又水霊神を祀ると云へり、神名帳考証に「寒川郡大蓑神社水霊郡名寒川郡因此神歟」と云う。
特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。
大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。
郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」と記されたり
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10 :
名無しさん@chs
2007/11/19(月) 13:29:42
ID:59dae87bfc
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水主神社[みぬし]「倭迹迹日百襲姫命」
当社は大水主大明神又大内大明神と言われ文武、元明天皇の時代より「洛陽の坤の方なる讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」と言われていました。
創祀は遠く孝霊天皇の御宇にして一説には、宝亀年間の勧請と誤伝していますが、再建の年にして祭神は孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命」で七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く御殿、水主に定め造営せられたとあります。
土地の人は、ここを「大内」と呼び昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源となると言われております
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11 :
名無しさん@chs
2007/11/19(月) 13:35:07
ID:59dae87bfc
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久具都比賣神社
内宮 摂社 久具都比女命、久具都比古命、
御前神
祭神は大水上神の御子となっています
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12 :
名無しさん@chs
2007/11/19(月) 13:37:06
ID:59dae87bfc
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讃岐国, 三野郡, 大水上神社
大蓑彦神社の蓑神明神は、三野か
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13 :
名無しさん@chs
2007/11/19(月) 13:56:43
ID:59dae87bfc
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神社新報社の「日本神名辞典」で、「大水上神」をひくと、 「大山津見命の別名(古史伝)」 とあります。
香川県の式内社大水上天神社の祭神。大山積命を祀ってゐる
寒川比古命・寒川比女命は、大水上神 の子供で、兄妹ですね。牟祢神社の祭神であるとなっています
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14 :
名無しさん@chs
2007/11/19(月) 13:59:05
ID:59dae87bfc
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久須斯神社
大水上神、久須之神、天照國照日子火明之神. 由緒 創祀・由緒不詳。久須斯神を祀ると云う。『吉野町史』によれば、九頭神と同義で、水神、河神とする。 一方、社頭説明では少名毘古那神としている。
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15 :
名無しさん@chs
2007/11/19(月) 14:02:24
ID:59dae87bfc
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大水上神社 (高瀬町)通称、二ノ宮。
地元では讃岐国一ノ宮である田村神社に次ぐ神社だという。
社名の「大水上」は、水源を祀るという意み。
御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一
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16 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 09:25:31
ID:f75aee3c57
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神社新報社の「日本神名辞典」;「大水上神」=「大山津見命の別名(古史伝)」
「大水上天神」:「香川県の式内社大水上天神社の祭神。大山積命を祀ってゐる」とあります。
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17 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 09:32:09
ID:f75aee3c57
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伊予 風早 國津比古命神社「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」北条市八反地
讃岐 阿野 大宮八幡宮摂社國津神社「事代主神」綾歌郡綾南町陶
志磨神社(しまじんじゃ) 和歌山市中之島677
祭神
中津島姫命(市杵島姫命) 配祀神 生国魂神 もしくは、大屋津比売命
由緒
伊達神社、静火神社と共に紀州三所神と呼ばれていた。 不明となっていた式内社の所在を元和年間(1,615-24年)に確定する際、中之島にあった小祠六所の一つであった「九頭明神」を志磨神社に定めたと言う。
『住吉大社神代記』には、住吉大社の摂社船玉社の注記として、「船玉神社は紀の国に斎祀る紀氏の神なり。志麻神、静火神、伊達神の本社なり」とある。
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18 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 09:35:12
ID:f75aee3c57
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越後 蒲原 久須斯社「少名彦名命」南蒲原郡下田村大字牛ケ首562番地
越後 魚沼 久須斯神社「少彦名命」北魚沼郡広神村大字田尻279番地
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19 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 09:46:36
ID:f75aee3c57
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富士山信仰. 霊峰富士山は、古来浅間大神の鎮まり坐す神体山として、全国の登拝者の最も尊崇するところである。頂上には奥宮、 久須志神社の二社が鎮坐しているが、共に浅間神社の奥宮で、八合目以上はその聖域にして境内地である
富士山本宮浅間大社
御祭神
主神 木花之佐久夜毘賣命
配祀 天津日高日子番能邇々芸命
大山津見神
第七代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が荒れ果てたので第十一代垂仁天皇は其の三年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。これを当浅間大社の起源とする。ついで第十二代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。
富士山頂の久須志神社
祭神はオオムナチおよびスクナヒコと出雲神です
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20 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 09:51:58
ID:f75aee3c57
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國津比古命神社 (松山市)
讃岐の飯神社、筑前の筑紫神社、伊豫國の國津比古命神社などは国魂神
國津比古命神社は応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社
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21 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 09:57:40
ID:f75aee3c57
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天降って、御炊屋姫を妻として、 宇摩志麻治命が生まれた。 饒速日尊は大和に移ってから、鳥見の豪族長髓彦の妹・御炊屋姫を妃として宇麻志麻治尊を 産む
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22 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 09:59:18
ID:f75aee3c57
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櫛玉比女命神社
櫛玉比女命(くしたまひめのみこと)は、「神名帳考証」(神祇全書第二)という書物では・・・
物部氏の祖 天饒速日命(あめのみぎはやひのみこと)の妻で、長髄彦(ながすねひこ)の子 御炊屋比売命(みかしきやひめのみこと 御炊屋姫)とされています。
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23 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 10:03:01
ID:f75aee3c57
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広瀬神社の祭神が櫛玉媛命・和加宇加之売命・水穂雷神という農耕神
櫛玉命神社は三代実録、貞観元年授位、延喜式四座并に大社に列す、今真弓八幡宮是也、玉造氏の祖櫛明玉王祖櫛玉彦櫛玉媛
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24 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 10:10:58
ID:f75aee3c57
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河合の大字|佐味田《サミタ》に宝塚と呼ぶ古墳あり前年此より埋蔵品を獲たり。其鑑十七枚は今東京博物館に蔵置す、一は尚方四乳鏡、一は四神四獣鏡、一は日月天王鏡なり、是等製作銘文図様に因り漢魏の世のものたるを知る。
広瀬《ヒロセ》神社 河合村大字川合に鎮座し、今官幣大社に列す。日本書紀大忌神に作り、延喜式和加宇加乃売神に作り、又広端河合神と云ふ。中世は二十二社第十三に列し、歴代祈年の大祀たり。日本紀云、天武天皇四年、遣小錦中間人大蓋大山中曽禰韓犬、祭大忌神、於広瀬河曲。延喜式云、大忌祭一座(広瀬牡)御膳持《ミケモチ》須留若宇加能売命。大宝令云、大忌祭、義解云、謂広瀬立田二祭也、欲令山谷水変成甘水浸潤苗稼得其全稔、故有此祭也。大和志云、河合村定琳寺、為広瀬神宮寺。
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25 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 11:46:33
ID:f75aee3c57
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玉作湯神社玉作湯神社は、奈良時代の『出雲国風土記』[天平5(733)]に記された古社で、式内社でもある。ご祭神は、玉作りの神の櫛明玉命、国造りと温泉療法の神 大名持命(大国主命)、温泉守護の神 少彦名命の3神
祭神の櫛明玉命は出雲国の玉作の祖と『古語拾遺』に出ている
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26 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 11:48:46
ID:f75aee3c57
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安房神社
安房国は忌部氏が開拓した土地であり、天太玉命はその祖神である。相殿に天乃比理刀当ス(天太玉命の妃神)、忌部五部神として櫛明玉命(出雲忌部の祖)・天日鷲命(阿波忌部の祖)、手置帆負命(讃岐忌部の祖)、彦狭知命(紀伊忌部の祖)、天目一箇命(筑紫忌部・伊勢忌部の祖)を祀る。
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27 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 11:50:20
ID:f75aee3c57
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生駒山ろくの高安の神立(こうだち)に鎮座する玉祖神社は、玉作氏の祖神である玉祖命を祀る。 山ろくには古墳時代中期の前方後円墳-心合寺山(しごんじやま)古墳などのほか、碧玉や滑石などの玉作り遺跡であった高安遺跡がある。 玉祖神社は、和銅3年(710)に周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命である。『河内国高安郡玉祖大明神之縁起』によると、周防国一の宮である玉祖神社の神が一旦住吉浦へ上陸した際、鎮座の地を尋ねたところ、住吉明神は恩智の神が広大な土地を持っているので、分けてもらうように進められ、高安郡7郷のうち6郷をもらって鎮座したという。
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28 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 14:03:15
ID:f75aee3c57
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かずさ鎌足町には藤原鎌足生誕の伝説があります。
高倉観音のホームページ「由緒」より引用
『この里の有力者だった猪野長官(いのうちょうかん)という人物が、四十歳あまりになっても子宝に恵まれず、ここの観音に願をかけたところ、予与観(しよかん)という名の一女を授かった。心清く人に親切な素晴らしい娘に成長したのだが、器量が悪かったため、良縁がなく嘆いていた。彼女は自分が正を享けたいきさつを父から聞かされ、自分もこの観音におずがりした。すると、「鹿嶋に行って、日天を拝みなさい」との夢告があり、男子を授かった。これぞ「鎌子」、後の藤原鎌足(六一四〜六六九)その人であると言われている。』
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29 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 14:27:22
ID:a4d1321a83
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神櫛神社 鎮座地, 香川県仲多度郡満濃町
神櫛神社はその昔延暦二十三年(804年)にこの地に住み着いた酒部黒麿が、先祖の神櫛王を神として祭ったのが始まり
神櫛神社. 善通寺市上吉田町字皇子663.
香川県神社誌によると「社傳によれば、僧空海の勧請する所にして、元上吉田村の産土神なりしと云ふ。祭神は神櫛王命、或は神櫛王の御子神、或は武國凝別皇子を祀れりとも云ふ。世に皇子森と稱せられ、往古樹木鬱蒼として昼なお暗きところなりき。明治維新後社地上地官林となり境内荒頽せしが昭和十年之が整備を完了する。
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30 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 14:29:29
ID:a4d1321a83
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須賣保禮命 国造本紀には軽島豊明朝時代に景行帝の皇子神櫛王の三世孫に須賣保禮命がいて、国造の称を賜ったと、書かれている
村社 皇美屋社(與北村字宮前)神櫛王・大伴武日・吉備武彦
郷社 櫛梨神社(象郷村大字下櫛梨字船磐)神櫛王
上櫛梨の地名は、神櫛王の御名に、また、大歳のやしろ名は、上櫛梨の産土神である大歳の神に因む由緒を秘めている
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31 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 14:31:28
ID:a4d1321a83
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讃岐 那珂 大歳神社 「比賣多多良伊須氣余理比賣命 合 櫛磐間戸神、豐磐間戸神 ほか」 香川県仲多度郡琴平町上櫛梨
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32 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 14:34:49
ID:a4d1321a83
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大歳神社
この神社は、金比羅五街道のひとつ丸亀街道をすすみ与北の茶道、公文山をすぎると見えてくる。
西讃府誌を編纂した秋山惟恭が祠官であった事でも有名で、神社の一角に秋山家廟がある。
神社誌によると、昔は上下櫛梨の産土神。
昔、祭祀は三日間で、總社(櫛梨神社に合祀)の御神霊、櫛梨神社の御神霊、大歳神社の御神霊の順番に御神輿に移御し行列を整えて塩入村(仲南町)の御旅所に向かう、この間には百七の鳥居があったとある。塩入村の神社
神輿渡御の際には、御旅所で一泊し翌日還御するのを例とし、祭儀は厳重を極めたが、安永年間より此の神事は中断し、大歳神社は上櫛の産土神、櫛梨神社は下櫛の産土神になったとある。
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33 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 14:36:58
ID:a4d1321a83
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大歳神社縁起
その昔、景行天皇の王子神櫛王が南海に巣くう悪魚の討伐戦勝を神に祈願していた折、1人の翁が現れ王子が「この地に神おわすかや」との問いかけに、翁答えて曰く「この地に二神あり、一に大麻、一は大歳の神なり」と
王子大いに歓び大麻、大歳の社に詣で両者の御神霊を祭神として移御し奉ったと、大麻神社の古記には識されている。
それ程に大歳神社は、旧い創祀と悠久の歴史、格式を有する古社であり、大麻神社とは深い縁でもって結ばれている。
所在地
琴平町上櫛梨1264-1
(象郷村大字上櫛梨字大歳)
..................................................................
祭神
比賣多多良伊須氣余理比賣命
合祀祭神
大物主命
道反大神
久那斗上
素戔嗚命
景政靈神
猿田彦命
櫛磐間戸神
豊磐間戸神
大山祇神
保食神
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34 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 14:43:29
ID:a4d1321a83
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ホツマツタヱの歌
「葦原のしげった小屋に、菅のむしろをすがすがしく敷きつめて、私たち二人で共寝しませんか?
そして、めでたく日嗣の御子をもうけようではありませんか」
ニギハヤヒの末子・伊須氣余理比賣命(御歳姫)に神武天皇が歌った
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35 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 14:44:48
ID:a4d1321a83
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伊須氣余理比賣の家は、三輪山から流れ出す狭井河の上流にあった。
故、天皇崩りまして後、其の庶兄(まませ)當藝志美美(たぎしみみの)命、其の嫡后(おほきさき)伊須氣余理比賣(いすけよりひめ)を娶せし時、其の三はしらの弟を殺さむとして謀る間に、其の御祖伊須氣余理比賣、患ひ苦しみて、歌を以ちて其の御子等に知らしめたまひき。歌曰ひたまひけらく、
狹井河(さゐがは)よ 雲立ちわたり 畝火
山 木の葉騷(さや)ぎぬ 風吹かむとす
とうたひたまひき。又歌曰ひたまひけらく、
畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむ
とぞ 木の葉騷(さや)げる
とうたひたまひき。是に其の御子聞き知りて驚きて、乃ち當藝志美美を殺さむとしたまひし時、神沼河耳命、其の兄神八井耳命に曰ししく、「那泥(なね)、汝命、兵(つはもの)を持ちて入りて、當藝志美美を殺したまへ」とまをしき。故、兵を持ちて入りて殺さむとせし時、手足わななきてえ殺したまはざりき。故爾に其の弟神沼河耳命、其の兄の持てる兵を乞ひ取りて、入りて當藝志美美を殺したまひき。故亦其の御名を稱へて、建沼河耳(たけぬなかはみみの)命と謂ふ。 (記・神武)
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36 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 14:51:55
ID:a4d1321a83
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記紀編纂前の668年3月、近江に朝廷を構えた天智天皇は、大和朝廷の守護神・ニギハヤヒを奈良の大神神社から近江一の宮「日吉大社」に勧請された23)。ニギハヤヒは、もともと皇祖・天照御魂大神だったからである
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37 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:02:36
ID:a4d1321a83
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須佐之男の娶った「大山津見神の女(ムスメ)、名は神大市比賣」と、大國主が娶った「神屋楯比賣命」、そして大年神が娶った「神活須毘神の女(ムスメ)、伊怒比賣」
大吉備建比売(おおきびたけひめ・穴戸武媛)
吉備武彦命の妹。倭建命の妃で、讃岐綾君(さぬきあやのきみ)の祖、建貝児王(たけかいこのみこ)と、伊予別君(いよのわけきみ)の祖、十城別王(とおきわけのみこ)を産んでいる。
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38 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:09:39
ID:a4d1321a83
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鰐河神社【祭神:応神天皇、豊玉姫命】三木町下高岡四条1843番地
社伝によれば、祭神の応神天皇は延喜7年の勧請で、それ以前は豊玉姫命だけを祀っていたそうです。
「社記曰、上古海童之長女豊玉媛命、奉産鵜葺草葺不合尊之時、乗亀到讃岐国山田郡潟元浜辺以鵜鵜葺草作産小屋、其屋根葺不合内奉生、因て御名を鵜葺草葺不合尊と奉称也、又其地蒲生と申も此縁之、夫より鰐魚に乗給ひ、春日川を遡り、四条ニ至り、(社記の一本に「依て其の川を鰐河と云ひ」とある)鎮座し給ふ、土人祠を立て斎き奉り、歳時に祭り奉る、因鰐河の神社と号奉る<後略>(『一群始鰐加波社石清水八幡宮記』所収の「鰐河神社記」)」
『古事記』によれば、玉依毘売命は海神(わたのかみ)の娘で、豊玉毘売命の妹にあたり、鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命の妃となる。姉の豊玉毘売命は、産屋でワニになった姿を、夫である火遠理(ほをり)命に見られたのを恥じて綿津見(わたつみ)国に帰り、その御子の養育を玉依毘売命に託す。玉依毘売命は後に、養育した子である鵜葺草葺不合命の妃となり、五瀬命・稲冰(いなひ)命・御毛沼(みけぬ)命・神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)命の四神を産む。末子の・神倭伊波礼毘古命は、初代天皇とされる神武天皇である。
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39 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:15:29
ID:a4d1321a83
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大綿津見神の子が豊玉毘売と玉依毘売。
奈留神社
御祭神 木花之佐久夜毘売命
合祀 経津主命(ふつぬしのみこと)
豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)
豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)
玉依毘売命(たまよりひめのみこと)
長崎県南松浦郡奈留町
奈留神社の由来は、仲哀天皇の9年(皇紀
860年)熊襲征討を終えた神島神社の御祭神
鴨一速王子尊が、三韓親征に向われた皇后の
後を追う途次に、奈留浦に立ち寄られた際の
故事によると伝えられている。
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40 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:17:18
ID:a4d1321a83
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竹取物語によると、
竹取の翁の名前は、讃岐造(さぬきのみやつこ)。
竹は筒状の木。
迦具夜比賣の父は大筒木垂根王
叔父は讃岐垂根王
曾祖母は竹野比賣
筒木(竹)から生まれたかぐや姫。
育ての親は讃岐造。
迦具夜比賣の曾祖母竹野姫は、文字通り「タケのヒメ」。
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41 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:22:39
ID:a4d1321a83
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豊島(綿津見豊玉彦の島)
豊島は、豊玉姫命(姉)と玉依姫(妹)姉妹の父であるわたつみの命(海神・綿津見豊玉彦)を祀っていたためその名で呼ばれた
大姫島(おぎじま)・姪姫島(めぎじま)でそれぞれ豊玉姫命(姉)と玉依姫(妹)を祀っていた為この名で呼ばれた
鰐河神社[わにかわ]「豐玉姫命、應神天皇」
太古の昔、豊玉姫神、鰐魚に乗り、この地に来たり社を建立緒神緒仏遊戯の地となりぬ延喜式内、和称賀波神社はこの産社なり。僧行基の建。郷社、高岡八幡宮とも奉称す。
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42 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:23:41
ID:a4d1321a83
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讃岐國三木郡 和尓賀波神社
旧郷社
御祭神
豐玉比賣命
配祀 玉依比賣命 八幡大神 息長足姫命
香川県三木町にある。
高松琴平電鉄長尾線・公文明駅の南1Kmほどの井戸に鎮座。
鴨部川(鰐川)の西側に南北に長い境内がある
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43 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:28:15
ID:a4d1321a83
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豊玉姫命、その子の端正なるを聞きはなはだ憐重す。妹玉依姫命を遣わし養うは、即ち、武位起命[たけいたてのみことなり]とある。
地神社・金比羅社の北隣に背の高い祠があります。これは豊玉姫命を奉った雨ノ宮神社です。雨乞いの神様
八嶋の洲崎(やしまのすざき) 讃岐国(香川県). 讃岐国山田郡(香川県高松市)の屋島をいう。 豊玉姫が八尋の産殿を作らせた八尋島の略といわれ、形状が屋根に似ていることから八島・屋島の名が起こったとされる。
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44 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:31:21
ID:a4d1321a83
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濱殿神社
長崎県対馬市豊玉町仁位字清源寺原
式内社 對馬嶋上縣郡 波良波神社
豐玉彦尊
仁位浅茅湾の奥。河(海?)沿いにある。
丘の上に社殿があり、参道脇に「豊玉彦之御陵墓」もある。
豐玉彦尊
海神。紀の一書に豊玉姫の父の名としてみえる。日子穂穂出見尊が訪れた海底の宮の主である。姓氏録に、和多罪豊玉彦命の子の布留多摩乃命を祖とする八太造が見える。
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45 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:32:49
ID:a4d1321a83
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男木島、女木島、直島の氏神だった男木島の豊玉姫神社は安産の神として信仰を集めていた。
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46 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:34:08
ID:a4d1321a83
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鰐河神社は讃岐国三木郡の式内小社、和尓賀波神社の論社です。 ・鰐河神社【祭神:応神天皇、豊玉姫命】三木町下高岡四条1843番地 社伝によれば、祭神の応神天皇は延喜7年の勧請で、それ以前は豊玉姫命だけを祀っていたそうです
古事記や日本書紀に記される海幸山幸物語や綿津見の宮、豊玉姫の物語は男木島が舞台という説も。
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47 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:36:22
ID:a4d1321a83
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鵜羽神社
屋島の南嶺と北嶺の間に谷があり、その谷を下った所に「浦生(ウロ)」と
呼ばれる集落がある
神社誌によると「伝ふる所によれば、神代の昔 豊玉姫命浦生の地に
来たり(ウガヤフキアエズノミコト)を産み給ふ。
豊玉姫命八尋の産殿を造らせ給ひしかば島の名を八尋島と言ふ。
後世に至り山容 家の形に似たる故を以って屋島と言えリ…」とある
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48 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:44:06
ID:a4d1321a83
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火明命の子に武位起命がいます
五十猛命の妹の大屋都比売と結婚伝承がある
天香山命は高倉下であり、葛城の高尾張の祖神として葛城王朝創建に貢献している。
田村神社 讃岐一ノ宮
倭迹迹日百襲姫命
五十狭芹彦命 (吉備津彦命)
猿田彦大神
天隠山命 (高倉下命)
天五田根命 (天村雲命)
以上五柱の総称を田村大神と申す
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49 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:51:43
ID:a4d1321a83
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天隠山命は高倉下命とも言われ、神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て、後御子天五田根命と共に紀伊国より讃岐に渡らせられ山河を以って国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた。
播磨を含む古吉備中心部は槌系の猿田彦尊が倭伊波礼毘古尊の護衛をして
狭義神乃邊の南の住吉神社辺りから舟出をした伝説が存在する
高倉下尊も吉備北部から猿田彦尊の居た瀬戸内までを統治した???
父の素盞鳴尊が奉納した天十握剣を持って大和に行ったかも??
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50 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:53:44
ID:a4d1321a83
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吉備高原を抜け,最後の屈曲点から一挙に吉備の穴海に流れ込む−最後の屈曲点の左岸に牟佐(ムサ)がある
牟佐大塚の背後には本宮高倉山(高蔵山とも)があり,高倉神社を祀る。祭神は天香山命・天火明命で,前者は古代銅の生産に関係がある物部系の神「高倉下の神」と同一神とされ, さらに八幡神社も見え,付近の金堀山では鉄鉱石を出したとの古記録もある。また,旭川を挟む高倉山対岸には金山(カナヤマ)の山塊があり,ここには古代金属関連地名が数多く残され, 山塊の北麓では磁鉄鉱を産出したことも記録として残される。
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51 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 15:56:28
ID:a4d1321a83
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日本書紀はその名をまず「蛇(オロチ)のアラマサ」として「此は今石上に在す」と載せる。大和の石上神社である。しかし,一書に曰くとして,剣の名を「蛇の韓鋤(カラサヒ)」と言い「蛇を断りたまへる剣は今吉備の神部の許に在り」とも記す。この吉備神部の許とは,延喜式にも載せられる新庄川の水源に座す−この地の石上布都魂神社のことである
伊田銅山跡(緑に覆われた丘陵)
祀官:物部氏
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52 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 16:01:14
ID:a4d1321a83
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式内社大蓑彦神社(寒川町石田、祭神・大蓑彦命)祭神は寒川比古、寒川比女の父という
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53 :
名無しさん@chs
2010/01/25(月) 14:28:26
ID:U+sqwlMk
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吉備津宮縁起
第十代崇神天皇の時、百済の王子温羅と云う者があった。両眼大きく 毛髪赤く 頬骨強大 身の丈抜群 その性勇敢 腕力絶大 常に仁義を守らず、日本を覗わんとする志があった。
本朝に来たり諸州を歴覧する内、遂に吉備の国新山(後方の山)に登った。
この地方の勝れたるを見て、この所に大門を起し、城壁を築き、矢倉を立て
て城郭となして居を構え、時には西国より帝京に送る貢ぎ物を奪取した、近
里に往来して人民を悩乱せしめた。時の人この城郭を鬼の城と称し恐れた。
天皇勅して大吉備津彦命を派遣して之を征伐せしめられた。
即ち彦命は、兵数千を率いて東の方吉備の中山に陣し、西の方は日畑西山
(楯築山)に出で石楯を築き、甲兵を率い鬼の城に向い、温羅と戦かった。
彦命、矢を放てば温羅の矢と空中に噛合い海中に飛びいる。
其の所に宮を建てて矢喰宮と云った。之が今日の矢喰神社である。
彦命、再び千鉤の矢に大矢二筋を番え、発したところ、その一矢は喰い合っ
て前の如く海中に飛び入ったが、他の一矢は温羅の左眼に命中した流血で流
水の如くであった。其の所を名づけて血吸川と云う。
是に於て温羅は雉となって山中に隠れたが、命は鷹と化して之を追うた。
次には鯉と化して血吸川に入ったので、命は鵜と化して噛んで之を揚げ、そ
の所を名づけて鯉喰宮といった(東南二キロにあり)。
温羅、遂にずい(方ヘンに垂)旗を垂れ鋒刀を棄てて降ったとある。
以上は吉備津彦命にまつわる物語で、この地方に昔から語り伝えられている
伝説である。
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54 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 07:06:37
ID:A3uJChiY
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吉備地方で朝廷に叛いていたのは吉備冠者(=温羅)で,鬼ノ城に住んでいました。(岩屋辺りと思われる。)彦五十狭芹彦吉命はこの吉備冠者と戦いました。吉備を平定したために吉備津彦命(きびつひこのみこと)と名乗りました。西海には吉備津彦命のほか,樂樂森彦(ささもりひこ)命,吉備武彦(きびたけひこ,吉備津彦の子で,のちにヤマトタケルの東征に副将軍となって出かけています。)命,吉備津彦命の部下の遣霊彦命らが同行しました。さらに,吉備津彦命の后となった吉備大井姫(百田弓矢姫)の父である百田大兄命も戦に参加しています。百田大兄命は大井神社(岡山市大井)に祀られています。また,鼓神社(岡山県岡山市上高田)の社伝によれば,先方として大活躍したのが遣霊彦命で,吉備津彦命らと協力して吉備を平定することができました。鼓神社の主祭神となっている高田媛命は吉備津彦命の后,樂樂森彦命は高田媛命の父です。
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55 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 07:11:18
ID:A3uJChiY
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皷神社:岡山市北区上高田3628
祭 神:高田媛命 吉備津彦命 楽々森彦命 吉備武彦命 遣霊彦命
天穗日命 大名持命 太玉命
当社は人皇第十代崇神天皇の御宇四道将軍大吉備津彦命御功臣遣霊彦、此の県主楽々森彦命同御女にして、将軍御后高田姫命を奉祭せる神徳赫々たる名社であります。主神遣霊彦命は大吉備津彦命の脇将で功に依り大井庄内五ケ所を賜わった。後代、神を崇め社を建て五神を合わせて祀った。延喜の制で小社に列し、祈年の国幣にあずかる。往時は五社殿あって皷五社大明神と称した
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56 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 07:30:52
ID:A3uJChiY
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賀夜郡の吉備津神社(岡山市北区吉備津)
名神大社に列し、備中国一宮 とされている.
「三備一宮」(備前・備中・備後の一宮という意)
岡山県の一宮「吉備津神社」が鎮座する古来有名な「吉備中山」に、「有木山」があり、「有木神社」もあり、神官家「有木氏」も伝わる
「日羅」
日本書紀・ 敏達天皇十二年条に、『今百済に在る、火葦北国造(ひのあしきたのくにのみやつこ)阿利斯登(ありしと)が子達率(だちそち)日羅、賢(さか)しくして勇(いさみ)有り』(紀下 142頁)
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57 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 07:35:20
ID:A3uJChiY
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「吉備と葦北」の古代国造家は系譜上「同族」
旧事記に、『葦分国造 纒向日代朝御代。吉備津彦命兒三井根子命定賜国造』(旧事記 337頁)と、景行天皇のとき、吉備津彦命の子「三井根子」が葦北の初代国造とされた、とある。
日本書紀、第十一代垂仁天皇の段に、『意富加羅国(おほからのくに)の王の子、名は都怒我阿羅斯(つぬがあらしと)。亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ』(紀上 二五八頁)
この『都怒我阿羅斯等』は、それ故に「角鹿国」と命名されることになる福井県敦賀湾にやってきたが、『意富加羅国の王子』であったのに『任那王』の称号を得て朝鮮半島に戻っている。
「角鹿国造」について、旧事記には、『吉備臣祖若武彦命孫建功狭日命定賜国造』(旧事記 323頁)と、「笠氏」の祖である「稚武彦命」の孫と載せる
第26代継体天皇の段に、「阿利斯等」なる人物が載る。この人物は、先に「葦北国造」が冠されていた「アリシト」であるが、ここにあって、先の「任那王」となって朝鮮半島に戻った『阿羅斯等は継体二十三年紀に見える実在の加羅王の名阿利斯等に同じ』(紀上 589頁)
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58 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 07:38:26
ID:A3uJChiY
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笠氏の誕生説話
「とぶ笠」の話が姓氏録「笠朝臣」条に載る。吉備の加佐米山に登った応神天皇が、突風で笠を吹き飛ばされた。天皇はそれを不吉に感じたようであるが、「稚武彦命」の子孫であるという「鴨別」がうまく処理することが出来たので、「賀佐」という姓を賜り、鴨別から後は「笠氏」を名のるようになった
古代の丹後国に「加佐郡」があり、今の京都府「加佐郡」大江町や舞鶴市のあたりになるが、京都白川家に伝来したものとされる「丹後風土記」残欠に、『古くは「笠郡」と記し「宇気乃己保里」と訓じたという。「宇気」とは丹後にゆかりの深い「豊宇気大神」によるが、「笠」は「かさ」と訓じるので誤って「加佐」と記すようになった』(京都府の地名 646頁)と、そこの「加佐」郡という地名の由来について述べる。
つまり、丹後の「加佐郡」は「宇気郡」とでも表記されるべきであったとして、それは丹後国の祭神にある「豊宇気大神」の「宇気」にかかわるもので、「笠・宇気」というのは幣帛と共に神々に供える「神饌」、「御食」、つまり、「神々の召し上がりものとしての供物」を意味するものであった。
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59 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 08:13:22
ID:A3uJChiY
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吉備津神社の神官「有木氏」は、吉備津神社に供する「神饌・宇気もの」を扱う
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60 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 10:17:22
ID:A3uJChiY
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『古事記』の孝霊紀には「比古伊佐勢理毘古命、亦の名は大吉備津日子寧と異母弟の若日子建吉備津日子命は、二柱共々播磨の永河(ひかわ)の埼に齊いべを据えて、神を祭り、播磨国を入り口として吉備国を平定された。
そしてこの大吉備津彦命は、「吉備の上道臣の祖に、次に若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣の祖になられた」と記されています。
これからは、吉備征討の主役は吉備津彦と異母弟若日子建吉備津彦の2名
本宮:当社創建の場所
現在は、
(1)大倭根子日子賦斗邇命(考霊天皇)
(2)百田弓矢姫命(吉備津彦命の妃)
(3)吉備武光命
(4)犬養健命・留玉命・楽々森彦他六神
が祀られています。百田弓矢姫命は「内宮」(吉備中山の山中にあった内宮社が、明治43年に「本宮」に合祀された)により、(3)吉備武彦命は、「新宮」(吉備中山の山麓、東山の地に鎮座していた)による。
「内宮」の祭神は、明治4年に神社より倉敷県庁に提出されたものですが、
祭神:大吉備津彦御妻君、百田弓矢比売命、又御名吉備大井戸比売命。
相殿:百田弓矢比売命御父神、百田大兄命
となっており、吉備津彦命が此の地で百田という豪族の息女を妻としていたことが分かります
命の本名である五十狭芹(いさせせり)の名でも、武埴安彦の乱(崇神天皇9年を平定しており、大和朝廷の中枢にいて、特に山陽・山陽道を担当した有力な将軍という姿が浮かび上がってきます。
『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬著、東京堂出版)
によれば、吉備津彦命の兄弟は孝霊天皇の直系ではなく、天皇の弟である大吉備諸進命の子供達となっている
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61 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 10:21:53
ID:A3uJChiY
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吉備津神社について:続き
外陣(げじん)の四隅にも神々が祭られている
(東北の隅)
艮(うしとら)御崎神社—宗神は、温羅命・王丹(温羅の弟)
(東南の隅)
巽御崎神社—祭神は、楽々森(ささもり)彦命・留玉臣
(西南の隅)
坤(ひつじさる)御崎神社—祭神は、櫛振 (吉備海部直之祖)
小奇(同女)、真振(同男)
(西北の隅)
乾御崎神社 —祭神は、真揖(忍海部直之祖)
真縄(同男)、真艪(同女)
艮(うしとら)御崎神社の祭神温羅命は、吉備津彦命と戦った鬼神なのです。巽御崎神社の楽々森(ささもり)彦命や留玉臣は、吉備津彦命が温羅と戦った伝承の中にでてくる人達で、吉備津彦の味方です。
坤(ひつじさる)御崎神社の櫛振は「吉備の海部(あまべ)の直(あたい)の祖」で、小奇や真振はその子供達です。
尚、吉備津彦神社にも社地の四隅に楽々与理(ささより)彦命、夜目麻呂命、夜目山主命、楽々森(ささもり)彦命が、祀られていますが、こちらには、温羅命の影はありません
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62 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 10:24:47
ID:A3uJChiY
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大和朝廷による吉備攻略は、孝霊・孝元天皇の頃、西暦280−290年となりますが、平和的な進駐といった格好でなく、鬼退治といった激しい戦いになりました。出雲の国の場合は、国譲りという形式をとり、かろうじて、大国主命が出雲大社にまつられる
孝霊天皇は、妃の倭国香媛との間に倭迹々日百襲姫命(五十狭芹彦命の同母姉です)を設けています。この百襲姫は、第10代崇神天皇の時代、武垣安彦の乱を事前に予知したり、天皇の天神地祇の祀りに参加し、天皇を補佐しています。有名なのは、百襲姫のものといわれる箸墓で、「この墓は、日(ひる)には人が作り、夜には神が作った」とつたえられています
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63 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 10:33:07
ID:A3uJChiY
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八所神社
住所 滋賀県大津市伊香立
祭神 大己貴神・菊理比売・菅原道真
第三十八代天智天皇此の近江の国大津に遷都され、是に随従されし朝廷高官の平群飛鳥真人は、我が祖先たる天大吉備諸進命の神霊を勧請し社殿を造営す、年経ずして壬申の乱起こりしが幸にして此の地は乱無く年を送る、後年にいたるや
飛鳥の真人の後裔平群兼房は天照大神、伊邪那岐命、伊邪那美命、大山昨神市杵蔓比売命、倉稲魂命、崇神天皇七柱の大神を合祀さる、是即八所神社と称する所以たり、
椿井春日神社
奈良県西和市平群町椿井
社頭に椿井氏の子孫で平群氏八十二代正嫡の椿井一見氏(故人)奉納の「平群氏春日神社沿革記」がある。この抄を紹介しておく。
平群氏は天大吉備諸進尊を祖とする、孝霊五十四年甲子十一月十三日薨じ、上辺槍掛山岡上陵平群坐神社と申す也。
二代天岩床尊は平群郡勢益原丘上陵天岩床神社と申す也。
景行朝堤原王は武内宿祢の養子となり、勅命により平群の姓を賜り二十九代神手小将軍大宿祢(日本書紀) は聖徳太子に従い守屋氏を討ち以て氏寺平群寺を勢益原丘に創建す、推古の朝
三十四代式部卿従二位中納言直隅(日本書紀)大海皇子(天武天皇)に仕え吉野上市・大淀町増口(摩志口) に住壬申の乱起こるや鈴鹿に進軍出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願す。自後始めて椿井を以て称号となす。
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64 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 10:37:03
ID:A3uJChiY
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平群氏の専横と滅亡:武烈天皇時代
これは「古事記」でも触れられていますが、時代はヲハツセワカサザキの叔父のヲケの事蹟となっています。
一人の女性を巡って平群臣のシビと大君が争い、その結果、国政を恣にする平群氏を放っておく事は出来ないと、戦を起こしてこれを滅ぼしたと云う記述です。
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65 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 10:47:23
ID:A3uJChiY
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日本書紀に描かれている吉備津彦は五十狭芹彦で孝霊天皇の晩年の子と思われる。日本書紀ではこの人物を大吉備津彦としている。古事記に書かれている吉備津彦の兄のほうは祭祀を中心としており、弟のほうは戦闘が得意だったようである
片山神社(岡山県赤坂町)社記には,「若建吉備津彦命は播磨国の諸賊を征した」,「孝霊天皇御宇七十二年秋,若建吉備津彦命は吉備平定を完了」と記録されている。孝霊天皇72年は184年である。若建吉備津彦命が吉備地方に派遣され,吉備を平定したようである。また,同じく「若建吉備津彦命(吉備若日子建王子)が吉備平定に行く時に,小さな社壇か嗣を造ってアジスキタカヒコネをお禮りし,吉備平定が完了した孝霊天皇御宇七十二年に,再びこの地を訪れ,新しく社殿を造りなおした」とある。これによると,若健吉備津彦が孝霊72年に吉備国に来たのは2回目ということになる。平定開始時に建てた祠を立て直すわけであるから直前ではなく数年前と考えられる。つまり,吉備津彦が吉備を平定するのに少なくとも数年を必要としたということである。
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66 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 10:52:55
ID:A3uJChiY
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旧縣社 樂樂福神社(鳥取県日野郡日南町宮内)
御祭神
大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)
細媛命(くわしひめのみこと)
若健吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)
福媛命(ふくひめのみこと)
彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)
伊予神社 (松前町)
式内社 伊豫國伊豫郡 伊豫神社 名神大 式内社 伊豫國伊豫郡 伊豫豆比古命神社 旧県社 御祭神 彦狹嶋命 配祀 愛比賣命 伊予津彦命 伊予津姫命 大日本根子彦太瓊尊 配祀 細媛命 速後神命 伊予親王 藤原吉子
東楽々福神社(東宮) 日南町宮内 祭神:大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細姫命、福姫命、若建吉備津彦命
西楽々福神社(西宮) 日南町宮内 祭神:大日本根子彦太瓊命、細姫命、大吉備津彦命、彦狭島命
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67 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 10:56:00
ID:A3uJChiY
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彦狭島命由来
第7代孝霊天皇の皇子にて「新撰姓氏録」では東国統治に活躍したと伝ふ。「先代旧事本紀」の上毛野国造の条に「彦狭嶋命初めて東方11国を治平し封と為す」とある。「日本書紀」は彦狭島命、「古事記」日子寤間命なり。
彦狭島命は孝霊天皇の皇子で伊予皇子とも呼ばれ、越智氏の祖とされる。社伝によれば、詔によって伊予国に下向し、伊予郡神崎庄に住んだといい、後にここが霊宮と崇められるようになった。これが後の親王宮(伊豫神社)であるという。
愛比売命は伊予の国魂神、伊予津彦命は伊予・久米両郡の開拓神、伊予津姫はその妻とされる。大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)と細媛命は御祭神の両親。速後神命(速後上命)は成務天皇の御代、伊予国造に任ぜられた。伊予親王は桓武天皇の第三皇子で藤原吉子はその母。二人は伊予親王の変で無実の罪により自害した。
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68 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 11:04:40
ID:A3uJChiY
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楽楽福神社由緒:(日南町)
「大日本根子彦太填尊は人皇第七代孝霊天皇の御名なり。東西両宮共天皇を主神とし、皇后、皇妃、皇子及び其の御一族を禮る。
孝霊天皇は少年の御時楽楽清有彦(ささきよありひこ)命と申し、又笹福(さきふく)と萌し奉る。御即位二年細媛命(くはしひめ)を立てゝ皇后と為し給ひ、大日本根子彦國牽皇子御誕生あらせらる。細姫命は孝霊天皇の御后にて國牽皇子即ち孝元天皇の御母にあたり、磯城県主大目(おほめ)命の女なり。福媛命は孝霊天皇の妃にて彦狭島(ひこさしま)命御誕生あらせらる。彦狭島命は歯黒(はぐろ)皇子とも申し孝霊天皇第五の皇子なり。孝霊天皇巡幸して西の國々を治め給ふ時、隠岐國の黄魃鬼(こうばつき)を退治し給ひ、それより伯耆國に渡らせ給ひし時日野川上に至り給ひて、今の溝口町鬼住(きずみ)山並に日野上村の鬼林(きつん)山に邪鬼ありて人民を悩すよしを聞召して、歯黒皇子並に侍従大水口宿爾の御子新之森王子、大矢口宿禰の御子那澤仁奥等を卒ゐて彼の邪気を討伐し、其の首魁を其の地に埋葬し給ふ。現今東宮の境内近く鬼塚といふあり、これ即ち鬼林山の強虜を埋没せし地なりと博ふ又御太刀を洗はせ給ひし池を太刀洗池と称しし東宮境内にあり。
その頃、備中の國に石蟹魁師荒仁(いしがにたけるかうじん)といふものあり、天皇の近郷に居給ふ由を聞き國中の凶徒を集め兵を起して天皇を襲ひ奉らんとす。天皇夙くも此の事を聞召給ひて、歯黒皇子を軍将とし、新の森王子を副将として、数多の軍兵を勤(したが)へ之を征伐し給ふ。歯黒皇子は武勇萬夫に勝れ猛きこと雷電の如く、天皇巡幸の時は必ず此御子を伴ひ給へりとぞ。かくて出雲振根等各地の強虜をば悉く言向けやはして地方を平定し、王化を遠荒に布き給へり。
これより先皇后細媛命は天皇の御跡をしたひあすを知るベに尋ね給ふに、御産のなやみありて石の上に憩はせ給ふ、頃は五月雨のなかばにして雨多く降りければ里人菅のみの笠を奉る川の水音高く聞こゆる故「水責喧」と詔り給へは水音乃ちやむ。依って日野川のこの部分を音無川と称し今の黒坂村上菅にあり。皇后其の地を立たせ給ひし時の御歌
むら雨の露のなさけの名残をばこゝにぬきおく菅のみのかさ。
それより川上に上り給ひて帝に會ひ給ひ、日野川上宮内の里はよき富所なりとて皇居を究め給ひて多くの年月を慈におくり給へり。是を西の内裏といふ。皇后は御年百拾歳にて孝霊天皇御即位七拾壱年辛巳四月二十一日を以て、この西の御殿におひてかくれ給ふ。現今西宮の東北方崩御山と申すは皇后の御陵なりと傳ふ。古来をの斧鐵を加へず満山老樹大幹参差として書猶ほ暗く、頂上墳域の石累高さ四丈に達し、古色頗る蒼然。西宮鳥居の近くに天狗石と称し天狗の爪の痕跡を残せる石あり、傳へ云ふ崩御山の御陵の石は備中國石蟹より天翔る天狗により運ぼれしものにて此石は天空より取落とせしものなりと。蓋し天狗取りなるものならん。後天皇は東の宮殿に移り給ふ。これを東の内裏といふ。元内裏原神社の所在地にして現に内裏原と称す。
即ち當社は地方開拓に御治績ありし祖神の偉大なる御霊徳を追慕景仰して鎮祭し奉れる所にして、且つ皇后御陵のある聖地なり」
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69 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 11:07:13
ID:A3uJChiY
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伝承をまとめると、石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる
日野郡史
「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」
別伝
「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」
備中の伝承(新見市石蟹)
「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。
そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」
となっている。これは、いろいろと矛盾する伝承
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70 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 11:10:32
ID:A3uJChiY
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近江國甲賀郡 水口神社
御祭神
大水口宿禰
配祀 大己貴命 素盞嗚尊 稻田姫命
滋賀県甲賀市にある
社伝によると、主祭神・大水口宿禰は
饒速日命六世の孫である出石心大臣命の御子。
出石心大臣命の母・淡海川枯姫は、
川枯首阿目加伎袁四世の孫である阿自夷沙比止命の後で、川枯神社の祭神。
大水口宿禰は、その縁により当地に居住し、
土地開拓の祖神として人々に崇敬されたという
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71 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 11:12:29
ID:A3uJChiY
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大和國城上郡 水口神社 旧村社
御祭神 譽田別命
水口大神 『大和・紀伊 寺院神社大事典』
大水口宿禰 『特撰神名蝶』他
奈良県天理市にある。
169号線のそば、景行天皇陵の近く。
畑の向うに、道路から境内が見える
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72 :
名無しさん@chs
2011/03/11(金) 11:16:45
ID:A3uJChiY
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亀山市の新羅神社と考えられている神社は忍山神社である。
式内社「忍山神社」白鬚大明神
一、神紋 花菱
一、鎮座地 亀山市野村四―四―六五(大字一一〇九番地字忍山)
一、主祭神 猿田彦命(本宮)、天照皇大神(別宮)
祭神 天児屋根命、 天布刀玉命、
素盞鳴尊(天王社)、大穴牟遅神(和賀社)
一、皇大神宮遷幸地跡
一、弟橘媛命生誕地
「社記」には崇神天皇(四世紀初)の七年秋九月、饒速日尊五世の孫伊香我色雄命が勅を奉じて猿田彦大神を祀り、伊香我色雄命の子・大水口宿禰の子孫相次ぎ神職となる。猿田彦の一族と伊香色雄命一族(後の忍山氏)とが何らかの因縁で結ばれていたのかも知れない。さらに、垂仁天皇(四世紀)の二十五年、皇女である倭姫命が、天照大神を祭るのに最も適した場所を求めて大和(現奈良県)から近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)を経て伊勢国に入り、忍山の地に至った時に大彦命が「ここは味酒の鈴鹿国奈具波志忍山」と姫に答えたことにより、六ケ月間、皇大神宮の鎮座地となった。その跡が忍山宮または、小山宮といわれた。その間に神戸及び神田が寄進され、之が本となって後世に鈴鹿神戸郷といわれるようになった、その中心人物が忍山宿禰であった(皇大神宮はその後、磯宮、宇治家田田上宮などを経て五十鈴川上に鎮座となった)といわれる。忍山神宮の祠官である忍山宿禰(「紀」の景行天皇の条に穂積氏忍山宿禰とある)については社記に「地主祖神と申事。饒速日尊五世の孫、伊香我色雄命の子大水口の宿禰と相次いで神主となり同社に奉仕した」とある。「新撰姓氏録」によると、穂積の忍山氏は左京神別上・天神の部に属し「穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命速日命六世の孫・伊香色雄の後」とある。また、大水口宿禰も同録に、左京神別・上に穂積朝臣は「伊香賀色男、大水口宿禰之後也」とある。饒速日命は物部氏の祖であるので、この神社の祭神は忍山宿禰の祖・饒速日命ということになる。
因みに、忍山宿禰の長女である弟橘媛は日本武尊の妃である。この忍山神宮は延喜式記載の鈴鹿郡忍山神社であろう
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73 :
名無しさん@chs
2011/07/31(日) 18:13:20
ID:spNMGI9+
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愛媛県西条市にある伊曽乃神社社家の御村別(みむらわけ)氏の支族に、伊予賀茂氏とか賀茂伊予氏という氏族もある。「いその」神社というからには、海人系であろう。因みに遠祖は、息長氏系の12代景行天皇と阿倍氏の高田媛の子、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこと)で、吉備氏系の倭建命や、讃岐氏の祖の神櫛別命、空海を出した佐伯氏の祖、稲背入彦命の異母兄弟にあたる。また、倭建命と大吉備建比売(おおきびたけひめ)の子、十城別王(とおきわけのみこ)が、伊予別(いよわけ)君の祖となり、伊予を本拠地としていたことから、吉備氏との関係も窺える。御村別・伊予別の両氏は、後に「和気氏」を名乗った。
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74 :
名無しさん@chs
2011/07/31(日) 18:19:01
ID:spNMGI9+
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武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)は、記紀などに伝える古墳時代の皇族。武国凝 別皇子。景行天皇の第12皇子。母は阿倍氏木事の女・高田媛。伊予国平定のために派遣 され、神野郡(後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市他)に拠点を置いた
満濃町(まんのうちょう)と丸亀市(まるがめし)の両方に「神野神社(かんのじんじゃ)」がある。
伊予国神野郡の人久留島(和気氏の一族)が当地に移住し、その祖神である伊曽乃社を創祀し、神野神社と称した
創始の時期は継体天皇2年とのことで、この和気氏(わけし)の一族は初めは満濃町の地に移住していたが、後に丸亀に移動したということである。
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75 :
名無しさん@chs
2011/07/31(日) 18:28:32
ID:spNMGI9+
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新居浜市別子山
別子という名前の由来は、景行天皇第12皇子「武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)」が伊予の御村(新居・宇摩・周桑)を治める郡司として君臨して以来、その子孫が営々として三村を治めました。その別(わけ)の子孫がいた所であることから、別子という名がうまれてきたといわれています。
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76 :
名無しさん@chs
2011/07/31(日) 18:33:56
ID:spNMGI9+
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曹子神社 そうし
祭神
・襲武媛命(そのたりひめのみこと)
・国凝別皇子
・国乳別皇子
・小確命
・創立:永正3年(1506年)3月4日
・由諸沿革
景行天皇の御代に熊襲が反いたため、
天皇が親征され
日向に6年おられたことが
「日本書紀」に記されているが
社伝によると、皇妃襲武媛
命はお伴をされて内助の功を
たてられた、皇妃並びに2皇子を祭神とする雑司権現は●札によると、後柏原天皇の永正3年3月建立され、西支弁分後河内、山下にあった。
同じく西弁分後谷堂山にあった荻原権現
と2社とも安政6年(1859年)現在地に遷座●したという。
安産、子育ての神として、また開発の神として地在の住民尊崇が曹子とは部屋住みの弟子の意味だが「日本書紀」によると襲武媛の子は、国乳別皇子、国背別皇子l、豊戸別皇子、3人で国凝別皇子は高田媛との間の武国凝別皇子かと見られる。
小●命は稲日太郎媛との間の第2子で日本武尊の別名である。
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77 :
名無しさん@chs
2011/12/04(日) 13:11:36
ID:AfOl5Alo
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>>53
>温羅、遂にずい(方ヘンに垂)旗を垂れ鋒刀を棄てて降ったと・・・・・・・
吉備国には、吉備津彦の温羅征討伝承があり桃、桃太郎、黍団子と言えば岡山県が
高名ですが、前田晴人氏説では、桃太郎の鬼退治話は御伽草子でも吉備地方の民話でも
何でもなく、細川幽斎が創作した征西譚らしいですね。家来の犬・猿・雉は、鬼の住む
西方の戌・申・酉の方角の寓意だと。