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神櫛王と忌部

1 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:12:08   ID:a8c4790fbb 
『日本書紀』
景行天皇を父とする神櫛皇子(かんぐしのみこ)を讃岐国造に


2 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:17:42   ID:a8c4790fbb 
景行天皇─┼神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鯽魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君

和気氏、植田氏/十河氏、寒川氏、三谷氏などが後継氏族


3 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:25:28   ID:a8c4790fbb 
妃五十河媛、生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子、是讃岐国造之祖也、相伝フ

応神天皇の時代に、須売保禮命(景行天皇の子・神櫛王の三世の孫)を

神櫛皇子・神櫛別命・五十香彦命(いかひこのみこと)とも。第12代景行天皇の第17皇子。『書紀』によれば、母は五十河媛(いかわひめ)で、同母弟に稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)がいたとするが、『古事記』では、母を針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)とし、兄に櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命がいたとする。


4 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:26:00   ID:a8c4790fbb 
神櫛王は

讃岐国造(讃岐公)・紀伊国の酒部阿比古(さかべのあびこ)・宇陀酒部・酒部公の祖


5 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:27:32   ID:a8c4790fbb 
香川県に伝わる讃留霊王(さるれお)伝説によれば、景行天皇23年(93年)に讃留霊王が勅命を受け、瀬戸内の悪魚退治のために讃岐入りし、その地に留まって、仲哀天皇8年9月15日(199年10月21日)に125歳で薨去したという。この讃留霊王について、東讃では神櫛王のこととし(櫛梨神社社伝も同様)、西讃では武卵王(たけかいごのみこ。日本武尊の子)のこととしている。

日本武尊の子の方が本当かもしれない


6 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:37:23   ID:a8c4790fbb 
景行天皇は妃:五十河媛(いかわひめ)との間に

神櫛皇子(かむくしのみこ) 讃岐国造の祖
稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ) 播磨国造の祖

を生む。この頃、讃岐と播磨の交流は深かったのではないか。

製塩や酒造りなど


7 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:46:07   ID:a8c4790fbb 
景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀で記述が異なる。

8 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:47:28   ID:a8c4790fbb 
五十河彦命について舊事記には「五十河彦命、讃岐直五十河別祖」と書かれている。

姓氏録右京皇別には「讃岐公、大足彦忽代別天皇皇子、五十香足彦命之後也」と書かれている


9 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:54:34   ID:a8c4790fbb 
先代旧事本紀巻第七 天皇本紀では

日本武尊は東夷を平らげて、帰ってこられるときに途中の尾張の国で薨去された
吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとたけひめ)を妃とし、武卵王(たけみこのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)を生んだ。また、穂積氏(ほずみのかばね)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘の弟橘媛(おとたちばなのひめ)は稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだ。

ケイコウ天皇は
生まれた皇子は男女合わせて八十一皇子!!!!

神櫛別命(かみくしわけのみこと)[讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の先祖]
稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)[播磨別(はりまのわけ)の先祖]
豊国別命(とよくにわけのみこと)[吉備別(きびのわけ)の先祖]
五十河彦命(いかわひこのみこと)[讃岐値(さぬきのあたい)・五十河別(いかわけ)の先祖]

櫛見皇命(くしみしらすのみこと)[讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の先祖]
などを生んだ


10 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:58:37   ID:a8c4790fbb 
ケイコウ天皇が

皇子に定めた六人の中、男五人、女一人。
 大碓命(おおうすのみこと)[守君(もりのきみ)等の先祖]
 次に小碓命(おうすのみこと)[日本武尊(やまとたけるのみこと)と追贈する]
 次に豊国別命(とよくにわけのみこと)[日向の諸縣君(もろあがたのきみ)等の先祖]
 次に稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)
 次に五十城入彦命(いほきいりひこのみこと)
 次に五十野姫命(いほのひめのみこと)[伊勢の天照大神を斎祠]

この頃の伊勢の天照大神を五十野姫命が斎祠している。


11 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:03:14   ID:a8c4790fbb 
大伴健比連公
    三代実録には次の様に記されている。
        「貞観三年十一月十一日、書博士正六位下佐伯直豊雄欸云(シルメ)、先祖大伴健日連公、景行天皇御世、
         随倭武命平定東国功勲盍世、賜讃岐国、以為私宅、云々」


12 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:06:58   ID:a8c4790fbb 
日本武尊は、吉備武彦、大伴健比連を連れて東国に行った。

綾氏系図には
       武皷王〜雨彌麻彦〜奈鬼爾麻命〜竈王〜多富利別命〜日向王〜多郡君〜依志君〜奴乎古君太夫〜堅石〜
       大山麿〜圓麿〜石床〜業長〜蔵捨〜季世〜百行〜能臣〜定時〜貞清〜行隆〜貞宣等々、
       代々続いて綾郡を領し、日向王以来、綾の大領と呼ばれた。


13 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:21:04   ID:a8c4790fbb 
鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祭っていると言われている

那珂郡柞原村に素戔権現の祠がある。これは篠目命が建立したとの伝説である

阿野郡陶村に有る讃留霊王の社、那珂郡興北村の讃留霊王の社、共に神櫛王を祀っている。又、城山、櫛無等の神社もこの神櫛皇子である。


14 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:28:37   ID:a8c4790fbb 
    五十河媛−+−神櫛 ……【讃岐国造】
         |
         +−稲背入彦
             ‖        【針間別佐伯直】
             ‖−−御諸別−−伊許自別
             ‖
阿邪美能伊理毘賣−+−阿邪美津比賣


15 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:31:16   ID:a8c4790fbb 
針間国造 13成務 稲背入彦命(景行皇子)孫 伊許自別命

16 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:36:24   ID:a8c4790fbb 
『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている

鷲住王は阿波の却咋より、鵜足郡富隈村に移り住み、讃岐で薨玉し、飯山に葬ったと三代実録に記述がある。


17 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:38:41   ID:a8c4790fbb 
坂元神社

讃岐富士の南麓 南西に鎮座。
境内碑

輝く星の氏子われ−坂本神社由緒−
秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。
国持の里 鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し古き地名は今もなおここなしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。
高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。

南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。
父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。
摂津・住吉また阿波内喰にあり。
一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。
薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。
飯山大権現また力山大明神とも称す。
その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。
初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。

鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。
小さいながら私らも、これにつながり生きる星。
飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。
昭和六十年六月吉日


18 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:41:57   ID:a8c4790fbb 
履仲天皇后妃

太姫郎姫【ふとひめのいらつめ】高鶴郎姫【たかつるのいらつめ】

姉妹の高鶴郎姫とともに後宮に入る。兄の鷲住王が遥か遠く遊び行き、久しく会っていないのを歎いた。天皇は鷲住王の怪力を聞いて召し出そうとしたが、再度召しても来ず、諦めたという。

坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。


19 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:45:05   ID:a8c4790fbb 
日本書紀 巻十二
鷲住王は、怪力無双でいつも住吉にいた。
相撲は強かったらしい。

《履中天皇六年(乙巳四〇五)二月癸丑朔》二月癸丑朔。喚〓魚磯別王之女太姫郎姫。高鶴郎姫、納於後宮、並為嬪。於是二嬪恒歎之曰。悲哉。吾兄王何処去耶。天皇聞其歎、而問之曰。汝何歎息也。対曰。妾兄鷲住王。為人強力軽捷。由是独馳越八尋屋而遊行。既経多日、不得面言。故歎耳。天皇悦其強力以喚之。不参来。亦重使而召。猶不参来。恒居於住吉邑。自是以後。廃以不求。是讃岐国造。阿波国脚咋別。凡二族之始祖也。


20 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:51:12   ID:a8c4790fbb 
『日本書紀』によると、宍喰の始祖は、5世紀の鷲住王とされます。この氏族は後に野根氏(野根城主)となり、藤原姓を名乗ります。
『和名類聚抄』のなかの阿波の南部に、「加伊布郷」がみえている。加伊布とは海部のことで、大里古墳ならびに和奈佐意富曾神社を中心とする下灘地方であったと推測されている。

鷲住王はその家来たちとともに大里海岸に住みつき、はじめは漁業などに従事していた。やがて鷲住王の後裔は、海部川下流の平野を開拓して農業を行うようになり、平安時代から鎌倉時代にかけて、北の日輪庄と南の宍咋庄という二つの荘園にはさまれた地域の開発領主として武士化していった。
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国沿岸地帯において和冦が恐れられていた。和冦とは、武士や商人たちによる民間貿易の行き過ぎたかたちであり、和冦のすべてが略奪者というものではなかった。水軍の側面も有する海部氏も特産品である海部刀をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によっておおいに勢力を伸張したものと思われる。記録によれば、享徳年間(1452〜54)から天文年間(1532〜54)の約百年間にかけて、百十四万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
 まことに膨大な量の海部刀が、海部氏によって朝鮮・中国に輸出されたのである。海部氏が海外交易に従事していたことは、海部氏と関係の深かった大山権現に朝鮮鐘が伝わっており、海部氏が和冦として活躍していたことを裏付けている。


21 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:55:16   ID:a8c4790fbb 
高木神社,香川県丸亀市土居町2-,(主神)鷲住王
大山神社,徳島県海部郡宍喰町塩深字尾鼻,(主神)鷲住王命


22 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:59:50   ID:a8c4790fbb 
高木隼人の遺構。楠見池は弘治年間(1555〜58)築造されたと言われ、のち矢延伝六が三谷池と楠見池を一つにして現在の楠見池とした。その池の西方に標高80m程の城山に高木隼人が築城し、城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。

23 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:08:27   ID:a8c4790fbb 
手置帆負命
手尺の神
工匠の祖神
讃岐忌部氏の祖

天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波国の阿波忌部氏、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする讃岐国の讃岐忌部氏、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖とする紀伊忌部氏


24 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:11:35   ID:a8c4790fbb 
式内社 安房國朝夷郡 莫越山神社

千葉県南房総市沓見
手置帆負命 彦狹知命
配祀 彦火火出見尊,鸕鷀草葺不合尊,豐玉姫命
合祀 天照皇大御神,譽田別尊
由緒抜粋
 創立は神武天皇元年。天富命忌部の諸氏を率いて東方の開拓に安房の国に来臨し、東方の開拓をなされた時、随神として来られ工匠の職に奉仕した、天小民命、御道命が、忌部の神手置帆負命 彦狹知命を当社莫越山におまつりして祖先崇敬の範を示された。手置帆負命彦狹知命は工匠の祖神で氏上天太玉命に従って宮殿家屋機械器具の類をつくりはじめた神で、工匠の祖神であり家の守護神でもあります。参拝する事により工匠にかかわる人は勿論家屋に住む者すべて御神徳が授けられます。
相殿に彦火々出見尊・豊玉姫命・鸕鷀草葺不合尊


25 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:15:09   ID:a8c4790fbb 
竹田村
         昔、手置帆負命の孫が当地に居た時に鉾竿を八百竿貢いだ
           事により、竹の名地とされ竹田と呼ばれた。
            東西七町、南北十二町の広さである。丸亀から四里三十町
           の距離にあり、東は笠岡、南は上高野、北は比地と大村、西
           は下高野等の諸村に隣接する。


26 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:16:39   ID:a8c4790fbb 
手置帆負命孫
古語拾遺には次の様に書かれている。
「手置帆負命之孫、造矛竿、其裔今分任讃岐国、毎年調康之外、貢八百竿、是其事等證也」


27 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:22:39   ID:a8c4790fbb 
古語拾遺一巻 加序
 從五位下齋部宿禰廣成 撰
思兼命が、「手置帆負」、「彦狹知」二神に、
「天御量」(アメノミハカリ)を作らせた。


28 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:27:51   ID:a8c4790fbb 
手置帆負命(タオキホオイ)を祀る

三豊郡笠田村 村社 忌部神社
大川郡引田町 郷社 譽田神社


忌部五部神  
・手置帆負命(タオキホオイ) 木の神
     讃岐(香川県)忌部の祖。林業・建築業・武器製造業の神

・天日鷲命(アメノヒワシ)
     阿波(徳島県)忌部の祖。紡績業・製紙業の神


・櫛明玉命(クシアカルタマ)
     出雲(島根県)忌部の祖。装飾・美術の神

・彦狭知命(ヒコサシリ) 土の神
     紀伊(和歌山県)忌部の祖。林業・建築業・武器製造業の神

・天目一箇命(アメノマヒトツ)
     筑紫(福岡県)・伊勢(三重県)忌部の祖。金属鉱業の神


29 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:31:32   ID:a8c4790fbb 
上棟祭
木の神様の屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)
建物の神様の屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)
工匠の神の手置帆負命(たおきほいのみこと)
彦狭知命(ひこさじりのみこと)
の四柱の神様と産土神(うぶすなのかみ)をお祀りします

紀伊忌部の祖先たちを率いて山の材を採り、神武天皇の宮殿を造営した天富命の子孫が紀の名草郡に住む


30 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:38:34   ID:a8c4790fbb 
楯縫神社[たてぬい]「彦狹知命」兵庫県養父市養父町建屋字宮山839
齋神社[いつき]「天太玉命、手置帆負命」の摂社楯縫神社「彦狹知命」兵庫県養父市養父町長野字東山265

式内社 備前國御野郡 天計神社
旧村社

祭神は、手置帆負命と彦狹知命。
天計は「あまはかり」と読むが、天量の意味。
地元では「はかりの神様」とも言うらしい
国指定史跡 神宮寺山古墳
 神宮寺山古墳は、三段築成の大型前方後円墳である。規模は、全長一五〇メートル、後円部径約七十メートル、高さ約十三メートルを計測する。この古墳は沖積平野に築造されており、大部分が盛土で築成されている。
 後円部には、現在天計神社が祀られているが、竪穴式石室の所在を予測させる天井石が露出している。また、副室の小型竪穴式石室が知られており、そこから多量の鉄製農具(鍬・鎌等)・工具(鋸・やりがんな・のみ等)や武器(刀・剣等)等が出土した。
 前方部からもかって、古刀・甲冑・槍・鉾の残片が出土したと伝えられ、そこに埋葬施設があった可能性もある。


31 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:43:02   ID:a8c4790fbb 
忌部氏族は古墳を築造した

大同2年(807)斎部広成の古語拾遺にこの神は阿波の斎部の祖神天日鷲神、讃岐の斎部の祖手置帆負(ておきほおい)神、紀伊の斎部の祖彦狭知(ひこさしり)神、出雲の斎部の祖櫛明玉(くしあかるたま)神、築紫と伊勢の斎部の祖天目一箇(あめのまひとつ)神等の斎部系の諸神を率いて奉仕している。天孫降臨にも随伴したこの神々の後裔は代々大和朝廷にあって、斎蔵の長官として権力を有していた。
 斎蔵は中央政府の財物を収めた三蔵のひとつで、大蔵、内蔵とともに朝廷へ用度品を司る役所であった。
 天日鷲命を祖神とする阿波忌部は現在の美馬郡の東部及び麻植郡の西部地方に住み、おそらく5〜6世紀ごろには、ある程度の組織をもって麻、木綿などを植え、衣を織る農工技術者の集団であったことは想像ができる。


32 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:51:06   ID:a8c4790fbb 
五重塔 幸田露伴

金箔銀箔瑠璃真珠水精(すゐしやう)以上合せて五宝、丁子(ちやうじ)沈香(ぢんかう)白膠(はくきやう)薫陸(くんろく)白檀(びやくだん)以上合せて五香、其他五薬五穀まで備へて大土祖神埴山彦神埴山媛神(おほつちみおやのかみはにやまひこのかみはにやまひめのかみ)あらゆる鎮護の神を祭る地鎮の式もすみ、地曳土取故障なく、さて龍伏(いしずゑ)は其月の生気の方より右旋(みぎめぐ)りに次第据ゑ行き五星を祭り、釿(てうな)初めの大礼には鍛冶の道をば創められし天(あま)の目(ま)一箇(ひとつ)の命(みこと)、番匠の道闢(ひらか)かれし手置帆負(ておきほおひ)の命(みこと)彦狭知(ひこさち)の命より思兼(おもひかね)の命天児屋根(あまつこやね)の命太玉の命、木の神といふ句廼馳(くゝのち)の神まで七神祭りて、其次の清鉋の礼も首尾よく済み、東方提頭頼持國天王(とうばうたいとらだぢごくてんわう)、西方尾叉廣目天王(さいはうびろしやくわうもくてんわう)や南方毘留勒叉増長天(なんぱうびるろしやぞうちやうてん)、北方毘沙門多聞天王(ほつぱうびしやもんたもんてんわう)、四天にかたどる四方の柱千年萬年動(ゆる)ぐなと祈り定むる柱立式(はしらだて)、天星色星多願(てんせいしきせいたぐわん)の玉女三神、貪狼巨門(たんらうきよもん)等北斗の七星を祭りて願ふ永久安護


33 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:52:54   ID:a8c4790fbb 
讃岐塩飽島 三所神社「天照皇大神 配 手置帆負神、天香山神」丸亀市本島町生の浜635

34 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:53:33   ID:a8c4790fbb 
讃岐多度  大麻神社「天太玉命 配 天津彦彦火瓊瓊杵尊、天香語山命、天櫛玉命、天糠戸命、天御陰命、天神立命、天三降命、天伊佐布魂命、天事湯彦命、天神玉命、天村雲命、天世手命、天湯津彦命、天神魂命、天乳速日命、天活玉命、天下春命、天鈿女命、天道根命、天明玉命、天造日女命、天玉櫛彦命、天日神命、天伊岐志迩保命、天表春命、天兒屋根命、天椹野命、天背男命、天斗麻彌命、天八坂彦命、天少彦根命、天月神命」善通寺市大麻町上ノ村山241
讃岐阿野  城山神社摂社横関神社「天香語山命」摂社長谷神社「天太玉命、天道根命」綾歌郡綾上町羽床上1697ー2
讃岐鵜足 亀山神社摂社金神社「天香山命」綾歌郡飯山町東坂元1372


35 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:20:16   ID:a8c4790fbb 
天日鷲命が祀られる大麻山

香川県には、善通寺市大麻町上ノ村山241 大麻神社「天太玉命」 と観音寺市粟井町1716 粟井神社「天太玉命」 が鎮座している

高魂命−−−O−−−太玉−−−−−O−−−天富−−−飯長媛
                           ||
神魂命・・・天手力男−天日鷲(天日鷲翔矢)−大麻彦−由布津主

大麻神社:讃岐国多度郡
延喜神名式「讃岐国多度郡尓大麻神社とありて、延喜式内二十四社の一なり」。天太玉命は、高皇産霊神の御子に座して、天児屋根命と倶に祭祀を主り給い、抜群の御功績あり。天照大御神、瓊々杵尊に豊葦原瑞穂国を御依し給ひて、天孫降臨。命は供奉三十二神の五伴緒の一神にして、所謂、忌部氏の祖神なり。
御鎮座創祀は往古に属し、正史に神武天皇の御宇、諸国に忌部の社を建て祭祀せしと相伝ふ。往古当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め、その祖神天太玉命を祀り大麻天神と奉称し、村の名を大麻と云ふ。

一.12代景行天皇23年癸巳年夏、南海に悪魚ありて災害をなす。天皇、皇子神櫛王に平げ給へと勅ありて、軍士を率いて下る。討伐に際し大麻神は天孫と倶に、国土平定の守護の神なりとて祭り、果して験あり。土佐国より当国綾の海にて斯を平定し後、国造に任ぜらる。その時、崇敬愈厚く御供仕へし穂積忍山彦根をして、社殿を修営し玉串を納め祭祀を主らしめ給へり。(穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖なり)




大麻比古神社 鳴門市大麻町板東字広塚
祭神
大麻比古神命(天富命)、猿田彦命
由緒
 祭神については昔から論議されてきている。 猿田彦神説と忌部の祖神とする説に分かれる。現在はあまり関係の少ない二神を併祀している。
 忌部氏の遠祖は天岩戸隠れの段で活躍する天太玉命である。天太玉命の後裔に天日鷲命(阿波忌部氏の祖)、手置帆負命(讃岐忌部氏の祖)、彦狭知命(紀伊忌部氏の祖)、天富命(安房忌部氏の祖)となった。 阿波の忌部系の神社はほかに、麻植郡山川町の山崎忌部神社と美馬郡貞光町の五所神社が有力論社としてで本地争いをした結果、新しい忌部神社が徳島市二軒屋に作られている。


島根県室谷にある大麻山
仁和4年(888)11月3日、阿波国板野(徳島県)の権現大麻彦命の大麻にあやかり山号を大麻山と改めました。 寛平元年(889)2月10日、山号を変更したことを宇多天皇に報告し許しを得て、徳島県板野郡大麻町の大麻彦神社主祭神大麻彦命と配祀猿田彦命、徳島県二軒屋町の忌部神社祭神天日鷲命と蔵王権現(少彦名命)を請い迎えました。そして大麻山周辺では真言教と山岳密教が融合した信仰が行われていたようです


36 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:21:03   ID:a8c4790fbb 
橿原市忌部町には並名神大の天太玉命神社が鎮座、和歌山市鳴神1089 鳴神社「本来は天太玉命」 が名神大社である。 和歌山県には、他に那賀郡桃山町神田101 三船神社「木靈屋船神 配 太玉命、彦狹知命」 、和歌山市下三毛508 上小倉神社「手置帆負命 配 彦狹知命」 が知られている。

37 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:24:51   ID:a8c4790fbb 
 『随筆 石見物語』著 木村晩翠
郷社大麻山神社は、石見34座の1つである式内社で、祭神は天日鷲命及びその御
子である。猿田彦大神も相殿に祭祀してある。皇祖天照大神が天磐戸に隠れさせ給ふ
た時、天日鷲命は例の磐戸神楽を諸神と共に奏せられた。其時白和幣を作り又香弓六
挺を並べて琴を造り音も妙に掻き鳴らし、大神の心を慰め給ふた。命は兼て禍物を平
らげ鳥獣の御狩に堪能で、天香弓天香矢を御用意あらせられた。即ち武の神であり、
音楽芸術の神様とも崇められる。そして、我国農業の祖神である。命の御子はかつて
神武天皇の勅を奉じて阿波国に降り麻、楮、穀物を蕃殖せしめ、殖産興業の基を杯き
玉ひ国富み民栄えた。此命をお祀りしたのが大麻比古神社で阿波国板野郡に鎮座して
ある。上古我地方に忌部族渡来の時忌部の祖天日鷲命を祀れる忌部神社及び大麻比古
神社の諸神を遷座して大麻山に奉祀したのが、此大麻山神社の起源である


38 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:36:12   ID:a8c4790fbb 
安房神社

本宮(上の宮)                       
主祭神   天太玉命(アメノフトダマノミコト)
相殿神   天比理刀当ス(アメノヒリトメノミコト・天太玉命の妃神)
      忌部五部神 − ・櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)
                     出雲(島根県)忌部の祖。装飾・美術の神
                    ・天日鷲命(アメノヒワシノミコト)
                     阿波(徳島県)忌部の祖。紡績業・製紙業の神
                    ・手置帆負命(タオキホオイノミコト)
                     讃岐(香川県)忌部の祖。林業・建築業・武器製造業の神
                    ・彦狭知命(ヒコサシリノミコト)
                     紀伊(和歌山県)忌部の祖。林業・建築業・武器製造業の神
                    ・天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)
                     筑紫(福岡県)・伊勢(三重県)忌部の祖。金属鉱業の神
摂社・下の宮
    天富命(アメノトミノミコト・天太玉命の孫神)
    天忍日命(アメノオシヒノミコト・天太玉命の兄弟神)
末社・厳島社
    市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト・海上交通を守護される海の神)
末社・琴平社
    大物主神(オオモノヌシノカミ・海上交通・航海安全の神)


39 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:38:41   ID:a8c4790fbb 
神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ開拓を進められました。
 その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。
 この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀当スをお祭りされており、これが現在の安房神社の起源


40 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:44:20   ID:a8c4790fbb 
天太玉命神社

ご祭神 天太玉命 大宮売命
    豊石窓命 櫛石窓命 

鎮座地 奈良県橿原市
    忌部町字一之道153
斉部氏の祖神で『記』『紀』によると天孫降臨際の、天児屋根命とともに随行して、祭祀のことを掌って朝廷に奉仕したとある。その孫天富命も天種子命とともに、神武天皇に仕えて祭祀を担当して橿原宮の造営にも当ったが、当忌部の地に居住して一族の宗家となり、斉部氏を称した。
大宮売命は天太玉命の御女で、本名を天鈿女命と称する。豊石窓命、櫛石窓命は同体異名の神として強力無双の手力雄命の別号で、天太玉命の御子である。後世この神を皇居の四方の御門の左右の鎮護として、豊石窓・櫛石窓命という二柱の神名を負わせて祭ることとなった


41 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:46:47   ID:a8c4790fbb 
部氏は朝廷の祭祀氏族から徐々に弾き出され、ついにはゼロに到る。危機感を持った斎部(忌部)広成はその立場を表明せんとして『古語拾遺』を著した。
 興福寺の興隆で当地もその支配下に入り、ついには式内大社であった忌部氏の氏神でさえ、多分衰亡していたのであろう、春日神社にされてしまったと云う事。


42 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:53:45   ID:a8c4790fbb 
中臣氏にしてやられた忌部氏が悔し紛れに上申した『古語拾遺』で暴露したところよると、天岩屋に祭ったのは鏡・幣・玉の他に天目一個神が作った刀・斧および鉄鐸サナギであったという。

43 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:57:02   ID:a8c4790fbb 
太玉(ふとたま)神社
古代日本正史、原田常治著によると、「太玉尊の出生地を、いろいろ探してみると曽於郡輝北町市成のようである。宮崎県、鹿児島県をどんなに探してみても太玉尊を祀ってある神社はここしかない。はっきりと太玉尊一人だけを祀って、社名も太玉神社である。よほど深い由縁がなければ、こんな大隅の山の中に一人だけ祀られることはないと思う。やはり市成の出身ではないか」と記されています。


44 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 13:02:04   ID:a8c4790fbb 
日本書紀同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。日本書紀同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。

45 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 13:13:07   ID:a8c4790fbb 
『一之宮貫前神社』(いちのみや ぬきさきじんじゃ) 群馬県富岡市一ノ宮
鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、これが創建にあたります。 
また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。
奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。


46 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 13:20:04   ID:a8c4790fbb 
神原神社
天より降りられた神宝の司、いわつつお磐筒男、いわつつめ磐筒女命と大国主命が祀られ、東側の地から古墳の上に遷し建てられともいわれています。本殿下よりわずかに露出する石材や土器の破片から神原神社古墳と呼ばれていました。近くを流れている川の改修工事計画により、昭和47年神社が移転されることとなり、古墳を発掘調査したところ、出雲地方に現れた初期の大型古墳であることがわかりました。出土品のうちのひとつに、国の重要文化財に指定されている「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が副葬されており、全国的にも大変注目すべき古式の方墳


47 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 13:27:21   ID:a8c4790fbb 
天富神社。。。。安房郡天津小湊(古代は長狭郡)の清澄山
  遠見岬(とみさき)神社。。。勝浦市浜勝浦
天富命の墳墓は富山にあり廟所が清澄の妙見山にありましたが
明治の神仏分離令で現在は山の下へ移されています


48 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 21:38:36   ID:a8c4790fbb 
仲哀天皇が亡くなると、王位を狙って神功皇后の大和入りを阻止したのが、麛坂(かごさか)皇子、 忍熊(おくしま)皇子の兄弟である。二人は仲哀天皇の妃・大中姫との間にできた皇子で、近江の豪族、犬上君の祖・倉見別と難波の吉師の祖・五十狭芽(いさち)宿禰を見方にした。この戦いで五十狭芽(いさち)宿禰は戦死したが、難波吉師は推古朝で活躍し、摂津の大豪族となっている。 神功皇后との戦いの前の狩占いで麛坂(かごさか)皇子は猪に食い殺され、凶と出ているにもかかわらず、忍熊(おくしま)皇子は難波の住吉に陣を置き戦いを続けた。神功皇后の将軍は、丸邇臣(奈良北部の豪族)の祖難波根子建振熊とも武内宿禰とも言われている。かくして神功皇后側が勝利した。

49 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 21:45:08   ID:a8c4790fbb 
吉備津彦神社:吉備津彦命(桃太郎のモデル)を祀っている吉備津彦命は、第七代考霊天皇の第三皇子で四道将軍の一人として吉備に派遣され、出雲族を制した事でも知られている。この討伐の伝承が、桃から生まれた桃太郎が犬・猿・雉を供に連れて鬼が島の鬼を退治した昔話の元になったとも言われている。

50 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 21:54:34   ID:a8c4790fbb 
仲多度郡満濃町吉野大堀

讃岐の国における神節別
酒部もその子孫と伝えられている。讃岐廻遊記には王掘は酒部道隆の子酒部成善が王掘の地に保志野神を観請したと記している。大堀館は県道吉野自治会の道路東側にある。


51 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 21:56:06   ID:a8c4790fbb 
推古天皇五年(596)郡家の戸主酒部善里が八幡神を相殿に祀り、神野八幡宮と称するようになった。

52 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:00:31   ID:a8c4790fbb 
大宮神社:満濃大橋の南、県道財田満濃線沿いに鎮座する神社。

由緒(香川県神社誌)
社傳によれば、延喜五年(紀元一五六五)和気隆従託宣に依り創祀すといふ。
隆従の傳詳ならざれども、或は聖武天皇の世豊原村に道隆寺を建立せし和気道隆の一族とも、又酒部成善の裔なりともいへり。
尚社家黒木氏は和気氏なりと云ふ。古くより近郷の大社にして大宮大明神と称へられる


53 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:03:22   ID:a8c4790fbb 
道隆寺
香川県多度津町北鴨1-3-30
開基は和銅5年(712)。領主の和気道隆が薬師如来を刻み堂宇を建立したことで、その後、唐より帰国の弘法大師に道隆の子朝祐が師事、大師自らが道隆の薬師像を胎内仏とした薬師如来を刻み本尊としました。その後は大師の弟・法光大師、甥・智証大師など名僧が代々の住職を務め、伽藍も造営されたが、兵火により壊滅し江戸時代、歴代住職の尽力により本堂、大師堂、鐘桜、妙見宮などの伽藍、300mほど離れた畑の中に本坊と護摩堂があり、かつての寺域の広大さをしのばせている。寺宝には重要文化財の星曼茶羅図や、伝弘法大師筆の五大尊画像、智証大師作の五大尊木像などがあります


54 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:13:36   ID:a8c4790fbb 
神武天皇

また、天富命は斎部(いわいべ)の諸氏を率いて、種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作った。
また、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)の孫の御祈玉(みほきたま)を造った。古語に美保伎玉(みほきたま)と云うのは祈り祭る事を言う。
また、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫は木綿及び麻の織布を造った。古語に云う荒妙(あらたえ)である。
また、天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な治に分遣し、麻の種を播き植えた。また、天富命は更に肥沃な土地を求めて良い麻・木綿を分け植えた。永く麻を大嘗会(だいじょうえ)に奉るのはこの事が始まりで有る。また、天富命は安房の国で太玉命の社を立てた。安房の社と言うのはこれで有る。
また、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の孫は矛竿を造った。今、讃岐の国が永く八百竿(やおのほこさお)を奉るのはこのためで有る。
また、天児屋命(あめのこやねのみこと)の孫の天種子命は天罪(あまつつみ)国罪(くにつつみ)の事を祓った。
また、日臣命(ひのおみのみこと)は来目部を率いて、御門を守りその開閉を掌った。
また、饒速日尊の子の宇摩志麻治命は内の物部を率いて、矛と楯を造り備えた。


55 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:22:50   ID:a8c4790fbb 
左右近衛府の名称は大同2年(807)に出来、六衛府の形が整ったのは
弘仁2年(811)
公的な儀式が行われた紫宸殿の南庭の東側に桜と橘の樹があり、警護にあたる左右近衛府はこの樹を目印としてその南側に陣
を引く習わしが有ったことから、のち左右近衛府の象徴として左近の
桜・右近の橘と称するようになったものだそうです。


56 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:28:22   ID:a8c4790fbb 
平安時代初期までは左近の梅。

『古事談』と云う書籍他に
南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也、其後天徳四年内裏焼亡ニ焼失了、仍造内裏之時、所移植重明親王家桜木也


57 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:29:15   ID:a8c4790fbb 
吉野の桜が使われた

58 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:33:32   ID:a8c4790fbb 
桓武天皇は宮庭に花樹を植える大陸渡来の伝習をマネして、紫宸殿正面に大陸の先進文明を象徴する渡来花樹の『梅と橘』を植えました。この『梅』は桓武、平城、淳和天皇を経て枯れ、次の仁明天皇は和漢二花樹の『桜と橘』を植えました。

59 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:34:44   ID:a8c4790fbb 
古い姿を残している大覚寺(嵯峨御所)では、今でも梅と橘です。結納飾りでも、原則は、向かって右から「鶴、亀、松、竹、梅」と並べます

60 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:38:30   ID:a8c4790fbb 
梅宮大社
祭神は酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の四座、式内神で二十二社に列し、もと官幣中社であった。橘諸兄の母縣犬養三千代の創建といわれ、古くは橘氏の氏神であった。


初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神である酒解神(さかとけのかみ。大山祇神)、およびその御子神である酒解子神(さかとけごのかみ。木花咲耶姫命)、その夫の大若子神(おおわくごのかみ。瓊々杵尊)、孫の小若子神(こわくごのかみ。彦火火出見尊)を主祭神として本殿に祀る


61 : 名無しさん@chs    2007/05/25(金) 14:19:36   ID:d497b09820 
村社  皇美屋社(與北村字宮前)神櫛王・大伴武日・吉備武彦
村社  垂水神社(垂水村字行時)武殻王
村社  富隈神社(高篠村大字公文字山内)吉備武彦命
郷社  櫛梨神社(象郷村大字下櫛梨字船磐)神櫛王  延喜式内社
郷社  大宮神社(吉野村字宮東)和気道隆
村社  木烏神社(本島村大字本島字甲松ヶ浦)讃留霊王

県社  宇夫階神社(宇多津町字西町)武殻王
郷社  総社神社(林田村字総社)聖武天皇
郷社  神谷神社(松山村大字神谷字川南)阿刀宿禰
村社  高家神社(松山村大字高屋字揚北)高家首

郷社  春日神社(川津村字春日)武殻王
県社  飯神社(飯野村大字東二字山根) 延喜式内社
村社  吉岡神社(飯野村大字東分字山下) 細川定禅
村社  三谷神社(坂本村大字東坂元字三谷) 細川清氏


62 : 名無しさん@chs    2007/05/28(月) 11:27:10   ID:7e52f3f8ae 
讃岐神社 竹取物語
延喜式神名帳に記された神社と考えられ、現在は大物忌命・倉稲魂命・猿田彦命・大国魂命を祭るが、『日本三大実録』元慶七年(883)の散吉大建神・散吉伊能城神に従五位下を授ける記事は当社に関する可能性が大きい。
『神名帳考証』には讃岐国と関係が深い祭神である景行天皇の皇子五十香足彦命を祭ると記される。


63 : 名無しさん@chs    2007/05/28(月) 11:43:41   ID:7e52f3f8ae 
金屋子神の実態についても八幡神、天日槍、卓素、須佐之男命、金山彦命など諸説

金屋子神の本社は島根県安来市広瀬町西比田にありますが、金屋子神の信仰は中国地方を中心に九州、四国の一部から遠く関東、東北の一部まで広がっています。
現在の祭神は金屋子神ではなく、大和の金山彦命、金山媛命になっています


64 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:25:27   ID:939cb75379 
『古語拾遺』によれば、天太玉命の率いた神の中に出雲玉作の祖の櫛明玉命がおり、また、天目一箇命は、筑紫と伊勢の忌部の祖ということになります。
『よりて、天富命(太玉命孫)をして、手置帆負、彦狭知の二柱の神が孫を率いて−(中略)―始めて山の材を採りて正殿を構立しむ。(中略)彼らの裔いま紀伊国名草郡御木、麁香の二郷にあり。材を採る斎部の居るところは御木という。殿(あらか)を造る斎部の居るところは麁香(あらか)という。これその証しなり』(造殿の斎部)
『凡て、神殿、帝殿を造奉たむことは、皆神代の職に依るべし。斎部の官は、御木、麁香の二郷の斎部を率いて―(中略)―伊勢宮及び大嘗の由紀、主基宮を造るときに、皆斎部を預からしめず。』(遺りたる四なり)
紀伊国名草郡の斎部(忌部)が、伊勢神宮の造営に関っていたことになる。
『造殿の斎部』は、『古語拾遺』の『神武東征』の後に書かれているが、伊勢神宮の造営ということになれば、当然、持統朝と考えられます。
『(前略)故に、更に斎部氏をして、石凝姥神が裔、天目一箇神が裔の二氏を率て、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、護の御璽と為す。是、いま踐祚す日に、献る神璽の鏡、剣なり。』(崇神条)
『(前略)石凝姥神をして日の像の鏡を鋳しむ。初度に鋳たるは、少に意に合わず。これ紀伊国日前の神なり。次度に鋳たるは、その状美麗し。これ、伊勢大神なり。』(日神の出現)
石凝姥神の出自については、明らかにしてないが、斎部氏が率いたとなれば、当然関係があったと思われる。
『古語拾遺』のこれらの記載から、鏡、玉、剣の三種の神器の製作に斎部(忌部)が、関っており、更に、伊勢神宮の造営にも忌部が関っていたことになる。
そして、伊勢神宮の造営に関った忌部は、紀州名草郡に居を構えている。
この名草郡には、石凝姥神が最初に造った日神の象徴(鏡)を御神体として、伊勢神宮とも関りの深い日前国懸宮が鎮座する。


65 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:28:57   ID:939cb75379 
莫越山神社
手置帆負命、彦狹知命

天富命は祭神の後裔を率いて木材を伐採し正殿を建てた。その末裔は紀伊国名草にある御木、麁香に住むとある。阿波国よりは紀伊名草の忌部一族が祭祀集団であったと推測されている。千葉県安房郡丸山町宮下27
由緒
当社は、天正天皇養老二年(七一八)、勅願所にかかり地を賜る。神武天皇辛酉元年、天富命は阿波の忌部を率いて、当国に下り給う。この時小民命、御道命の請によりその祖手置帆負命、彦狭知命を祭祀し、延喜式に載する安房六座中小四座の一なり。
古語拾遺に曰く天照大神、高皇産霊尊が天児屋根命、天太玉命に勅令して、番匠諸職の神々を天降された時にこの手置帆負命、彦狭知命を棟梁の神とされもろもろの工匠を率いて、日向国高千穂櫛触の峰に行宮を造り、天孫(迩迩芸命)の皇居を定めた。さらに神武天皇が大和国内を平定して橿原を都と定めた時、天富命が手置帆負命、彦狭知命二神の裔の一族を率い、紀伊国名草郡御木、あらか郡より斎斧斎鋤を以て始めて山の材を伐りて宮城の正殿を造り、これがわが国建築のはじめとされる。更に神武天皇の命により四国の阿波に赴き麻殻を殖培し、のち天富命は更に肥沃な土地を求め、阿波忌部氏を率いて舟で東方に向かい今の房総半島に上陸し、水利と渡度、狐座、 御木の三官有林を中心とした豊かな山林に恵まれたこの地を開拓し故国の地名より安房と称し定住し、それまで土着の民の祀っていた神体山の渡度山(莫越の山)に祖神を祀り、また付近に莫越山神社を中心として、古墳時代後期には神祭が盛んに行われていたことを物語る東畑遺跡、石神畑遺跡、六角堂遺跡などが発掘されている。

古く地名に斎部屋敷、幣造谷、番匠屋敷、禰宜屋敷、御木舞原、神火屋敷、尋岡、馬洗場都々井、神花屋敷、莫越澤などの地名も使われていた。


66 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:30:14   ID:939cb75379 
莫越山神社
由緒抜粋
神社の創立は、社記によれば神武天皇元年、天富命(安房神社の御祭神は天太玉命、天富命ですが、天富命が忌部の祖神である天太玉命を現在の地に奉斎したのです。)が忌部の諸氏を率いて、安房の国に来臨し、東方の開拓をされたときに、随神として来られた、天小民命が祖神である忌部の神、手置帆負命、彦狭知命を当社莫越山におまつりして、祖先崇敬の範を示したとしるされております。手置帆負命、彦狭知命の二柱は、皇国工匠の祖神で氏上天太玉命に従って其職を奉じ、宮殿家屋器具機械の類をつくりはじめた神です。その神業はうけつがれて今日に至り、上は宮殿から下は人家に至まで、その建築の功績は風雨寒暑をしのぎ、器具機械の効能は種々多彩につかわれ、我々人類に幸をもたらしております。この二神の御神徳によって、私どもは日々幸福な生活ができるといえましょう。従って、その業を職とする工匠は勿論のこと、一般に崇敬され、地鎮祭、起工祭、釿始、柱立祭、上棟祭、葺合祭の主神として奉斎し、小屋安大神、また家宅守護祖神として崇敬されて居ります。相殿に彦火々出見尊、豊玉姫命、・・草葺不合命を奉斎してあります。この諸神は日本敷物の祖神で畳業家の崇敬あつく、又安産育児の道を守り、海幸の御神徳、海猟海上安全の事も守られ、その道に於いて信仰されて居ります。


67 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:35:13   ID:939cb75379 
三船神社
紀の川市桃山町神田101
祭神
木霊屋船神、太玉命、彦狭知命

境内社 丹生神社、高野神社
紀伊国神名帳には正一位御船大神と記され、神田浦垣に奉祀されたのがはじめといわれる。本殿には木霊屋船神、太玉命、彦狭知命、摂社には丹生都比売命、高野御子神が祀られ、明治の末ごろから、安楽川村四ヶ大字の各神社祭神を合祀している。

『紀伊続風土記』那賀郡安楽川荘下 神田村 から
本国神名帳正一位御船大神
 村中にあり 安楽川荘中の産土神なり 三代実録貞観≡年七月二日甲戌授紀伊国正六位上御船神従五位下とある 即此神なり 当社天正の始焼失して伝記等今伝はらす 祀神御船大神は延喜式神名帳に伊勢国度会郡大神の御船神社と見えたると同神なるへし 其社は延暦儀式帳に御船神社一處称大神之御蔭川神形無倭姫内親王定祝とありて倭姫世記に 天照大御神伊蘇宮より御船に御し寒川に御船をとどめ給ひて其處に御船神社定給ふ由を記せり 按するに此地は 天照大御神の御霊代を戴き奉れる豊鋤入姫命の母君の産土なれは此神を祀れるも深き由繰ある事なるへし 天正十九年木食應其当社の衰廃を嘆きて再興せしより社殿等やや備はれり 其後寶暦年中再営に御船は社号と思ひしにや丹生高野の神を祀れるよしの棟札あり 是高野領なるを以て謾に此神とせしなり 又近世其説を非として斎部氏の祖神を祀るといふ説ありて荒川を御木麁香の麁香と一とし御船神を水霊屋船神命の又名とせり 是又甚しき臆説なり 祭礼九月十六日正月十一日三月三日なり 九月十六日流鏑馬あり 又七月十六日に神舞といひて氏子中神前に集りて一村一村次第に躍ることあり 甚古風なることなり 歌の文句も鄙からすといふ当社鐘の銘に淡州国府八幡宮大工平重吉文明九暦丁酉 十二月一日願主社僧又傍に紀州安楽河荘三船之宮明應五天辰丙 五月三日とあり 淡州の鐘転して此地に来り追ひて銘を刻むと見えたり 御湯釜も古物にて銘に安楽川荘三船宝前御湯釜永正十一年 戊甲 九月吉日とあり 社の後に蛇松といふ松あり 長十二三間龍隣の如し 宮の西馬場中程の北に高き芝あり 明神の神幸所あり 古宮といふ 今に此の地を掘るに賽銭白砂のまま出る事ありといふ 里人云ふ 当社古は黒川村にあり 後秘文の瀧の東十町餘高野村領中の宮ビいふに移し天正年中應其再建の時今の地に移すとそ
    神  職    在 井 氏
忌部氏の末裔といふ 咸状数通を蔵す 古文書の部に出せり


68 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:39:34   ID:939cb75379 
『古語拾遺』

天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫。] 手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち始めて山の材木を採取し、 正殿を建てた。[所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、 高天原に届くほど高く御殿を造られた。]その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ) の二郷に居る。[古くは正殿を麁香と言う。]材を採取する斎部の居る所を御木と言い、 殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしで有る。
また、天富命は斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、 櫛明玉命の孫は御祈玉(ミホギタマ)[古くは美保伎玉(ミホギタマ)と言い意味は祈祷である。]造る。 その末裔は今は出雲の国に居る。年毎に調物とその玉を天日鷲命の孫が造る木綿・麻・織布[古くは阿良多倍と言う。]と共に進貢した。


69 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:54:59   ID:939cb75379 
天語歌

<古事記 下巻 雄略天皇 六より>

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子
事の語る言も 是をば (一〇〇・伊勢国の三重の采女)

<現代語訳>
纏向の日代の宮は、朝日の照り輝く宮、夕日の光り輝く宮
竹の根が充分に張っている宮、木の根が長く延びている宮
(八百土よし)築き固めた宮でございます。
(真木さく)桧つくりの宮殿の、新嘗の儀式をとり行う御殿に生い立つ、枝葉のよく茂った欅の枝は、
上の枝は天を覆っており、中の枝は東の国を覆っており、下の枝は田舎を覆っています。
そして上の枝の枝先は、(ありきぬの)三重の采女が捧げ持っている
立派な盃に浮んだ脂のように、落ちて浸り漂い、おのころ島のように浮んでいます。
これこそなんとも畏れ多いことでございます。 (高光る)日の御子よ、
事の語り言として、このことを申し上げます。


倭のこの武市に 小高る市のつかさ
新嘗屋に生い立てる 葉広のゆつ真椿
その葉の広りいまし その花の照りいます
高光る日の御子に 豊御酒献らせ
事の語り言も 是をば (一〇一・大后)



ももしきの大宮人は 鶉鳥 領巾とりかけて
鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て
今日もかも 酒むづくらし 高光る日の宮人
事の語り言も 是をば (一〇二・天皇)


70 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:59:49   ID:939cb75379 
景行天皇は即位して11年後、纏向(まきむく)に日代宮(ひしろのみや)を造った。58年の2月、天皇は纒向の地を去り、近江の志賀高穴穂宮に移る。そして2年後に106歳で崩じたと日本書記は記す。しかしその遺体はまた纒向へ戻ってくる。書紀に「倭国の山邊道上陵に葬りまつる」と記されている。この古墳は、文献上三輪王朝の最盛期に築かれたと考えられるが、被葬者を巡っては古来より論議が絶えない。

71 : 名無しさん@chs    2007/11/30(金) 15:22:29   ID:924ce3957a 
須賣保禮命
    国造本紀には軽島豊明朝時代に景行帝の皇子神櫛王の三世孫に須賣保禮命がいて、国造の称を賜ったと、書かれている。
    今、鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祭っていると言われている。
    又、那珂郡柞原村に素戔権現の祠がある。これは篠目命が建立したとの伝説である。だから此の人も神櫛王の血筋であると
    考えられる。


72 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 13:40:07   ID:90o2MjAw 
散吉神社

葛城諸連峰の中の二上山寄り、平原中の西辺にある古社である。
散吉はサヌキと読み、古社としては聞こえているが、由緒不明である。
祭神は散吉大建命、散吉伊能神の男女両神とあり
オホタケルノミコトとサヌキイの神と思われる。
社殿、社地のある部落名としては、三吉という文字で記される個所が
鎮座の場所である。
三吉の「三」の漢字音はわが奈良朝廷時の読み方ではサヌ、
「吉」はキである。


73 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 16:55:05   ID:90o2MjAw 
讃留霊王の事を倭武命の御子とも書かれている。

宣長も古事記傳に讃留霊王を取り上げて、
「景行天皇二十二年、南海に悪魚の大きなのが住んでいて往来する船を悩ましているのを、倭建命の御子がこの国に
来て討ち平らげて後、この地に留まり国主となった為に讃留霊王と申し奉る。」
と書いている。
綾氏や和気氏の祖となったとも記している。
これを景行天皇の御子、神櫛王とか、大碓命とも言い伝えている。
讃岐の国主の始まりは、倭建命の御子武卵王の由、古書に書かれているので武卵王の事かも知れない。
今でも国内に変事があれば、この讃留霊王の祠が鳴動すると近来の書物に記されている。
しかしながら、讃岐の国造の初めは神櫛王であるにも関わらず倭建命の御子だと言い、また綾氏や和気の君の祖と言えば
武卵王とも考えられる。

景行天皇二十二年は倭建命御とし十三年にあたり、その御子が存在する筈も無い。又、讃留霊王は仲哀天皇五年に生まれ、二十二年には十八歳である。
さらに、阿野郡陶村に有る讃留霊王の社、那珂郡興北村の讃留霊王の社、共に神櫛王を祀っている。又、城山、櫛無等の
神社もこの皇子である。

地域の本棚 より


74 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 16:57:58   ID:90o2MjAw 
須賣保禮命
    国造本紀には軽島豊明朝時代に景行帝の皇子神櫛王の三世孫に須賣保禮命がいて、国造の称を賜ったと、書かれている。
    今、鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祭っていると言われている。
    又、那珂郡柞原村に素戔権現の祠がある。これは篠目命が建立したとの伝説である。だから此の人も神櫛王の血筋であると
    考えられる。

鷲住王
    履仲紀には、
        「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、
         悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、
         由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、
         恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」

    この王は阿波の却咋より、鵜足郡富隈村に移り住み、当地で薨玉し、飯山に葬ったと三代実録に記述がある


75 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:04:13   ID:90o2MjAw 
神主景行天皇の皇子神櫛王命の三世孫須賣保禮命〔すめほれのみこと〕

先代旧事本紀

讃岐国造。軽島豊明の帝[応神天皇]の御世に景行天皇の神櫛王の三世の孫の須賣保禮命を国造に定められた

・伊余国造。志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に印幡国造と同祖の敷桁彦命の子の速後上命を国造に定められた。
・久味国造。軽島豊明の帝[応神天皇]の御世に神魂尊の十三世の孫の伊與主命を国造に定められた。
・小市国造。軽島豊明の帝[応神天皇]の御世に物部連と同祖の大新川命の孫の子致命を国造に定められた。


76 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:05:13   ID:90o2MjAw 
天川御嶽山に座す神輿台産霊命は、往古天より降臨ます所なり。
これを神場之谷と云ふ。神斎場、醸酒嬢の義なり。
景行天皇の皇子神櫛王三世の孫須賣保禮命國造となり此の神を祭る。
時に手置帆負命の裔をして長尾郷に来らしめ大峡小峡の木を伐りて御殿を造らしめ又神祭の物を奉らしむ云々。
是より先、日本武尊吉備穴戸の悪神を誅し給ふ時吉備国に幸し吉備穴戸武媛武殻王を生む。
王亦悪神を誅するの功により讃岐に留まり香川郡以西は王の領有となり當社を崇敬し給ふ。
武殻王四世の裔綾眞玉の子酒部黒麿は世に城山長者と云ふ。


77 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:10:18   ID:90o2MjAw 
「景行天皇が倭建命の曾孫、須売伊呂大中日子王の娘、訶具漏比売を娶って」と記述されている。
したがってこの記事の中の倭建命とはヤマトタケル(幼名:小碓命、またの名は倭男具那命)とは別の人物となる。


78 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:15:42   ID:90o2MjAw 
訶具漏比売の系統

大中比売命
1.大江王(景行天皇と訶具漏比売の子)と銀王(大江王の異腹の妹)の子
2.書記では景行天皇皇子の日子人之大兄王(前述)の娘という

大中比売命は、仲哀天皇の妻となり香坂王、忍熊王を生む


79 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:20:25   ID:90o2MjAw 
奈良市押熊町(おしくまちょう) 八幡神社

三韓征伐を行い、新羅を討った翌年2月、神功皇后は穴門の豊浦宮に移り、仲哀天皇の遺骸をおさめて、海路より、京に向かわれたそうです。
つまり、神功皇后と新しく産まれた皇子は、日本に凱旋帰国をしてきたわけです。

香坂王、忍熊王は、父である仲哀天皇は亡くなられたし、神功皇后は、後に応神天皇となる皇子を連れて帰国してくるわけですから、きっと幼い皇子を、次の天皇に立てるだろうと危機感を募らせます。
で、密かに謀って、帰ってくる神功皇后や幼い皇子を、亡きものにしようと考えます。

で、香坂王、忍熊王は、神意を伺う占いをします。
もし、このはかりごとが成功するなら、良い獲物が捕れるだろう・・・と、言っていたところ、突然、赤いイノシシが急に飛び出し、香坂王を食い殺してしまいました。
忍熊王は、これは大変っ!と、兄が猪に食われたことで、あわてふためき、それまで居た住吉(神戸にほど近いところ)から、京都の宇治に退却します。

神功皇后は、京都の宇治に潜む忍熊皇子を、家臣の武内宿禰(たけのうちすくね)と、和邇(わに)の臣の祖先 武振熊(たけふるくま)に、忍熊皇子を討つよう命じます。
家臣の武内宿禰は、知恵を絞り、ズルをしまして〜 武器を隠し持ってながら、弓の弦を切り、武器を捨てたふりをして〜 忍熊皇子と和睦を進めます。

忍熊皇子は、これにすっかり騙されちゃいまして・・・近江の逢坂(おうさか)で追いつかれ、瀬田の渡りに沈んで亡くなったそうです

香坂皇子と忍熊皇子は、明石で父の陵を造るふりをしていたそうです。これは、御陵を造るためといいつつ、兵を集めていた。という説があります
大中媛(おおなかつひめ 大中津比売命)は、西国霊場24番札所 安産祈願で有名な「中山寺」(兵庫県宝塚市)に、忍熊皇子と共に墓があるそうです。


80 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:21:06   ID:90o2MjAw 
日本書紀の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物・王の1人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の巨大な前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」とのかかわりも考えてみる必要もある。

81 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:23:27   ID:90o2MjAw 
香坂・忍熊王の母という大中姫(大中津比売)である。書紀によれば仲哀の叔父彦人大兄の女というが、その出典は景行紀にはない。

82 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:26:54   ID:90o2MjAw 
彦人大兄皇子の子の茅渟王(皇極・孝徳天皇の父)の墓は北葛城郡の北の片岡にある

83 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:28:22   ID:90o2MjAw 
大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)の子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられます。

84 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:28:55   ID:90o2MjAw 
神櫛王や武卵王は伝説上の讃留霊王(さるれいおう)にも当たる人物であり、讃岐国造は『百家系図』巻9等に系図が見えますが、神櫛命の子にあげる千摩大別命の子孫として記載されます。また、五十河彦命は、神櫛王か千摩大別命とに重複する者とみられます。

85 : 名無しさん@chs    2008/03/24(月) 15:05:13   ID:gq8gvT2w 
其の時讃岐の国造の始祖神櫛王遠裔益甲黒麿と言ふ者あり
那珂郡神野郷に住す。同天平十九年丁亥三月十五日庭前に天上より一つの星落ちて忽然として少女となる。
黒麿曰く、吾に嗣なし、幸に興給ふなりと厚く撫育し、名を善女と呼ぶ。
成長の後此の女能く酒を醸りぬ。酒甘美にしてくむとも、つきることなく、かつ病を治して寿域に至らしむ。
四十六代孝謙天皇に奏し酒を献じ奉る。
帝大いに賞し玉ひ勅ありて酒部の姓を賜ひ酒部黒麿と號す。
神野郷を戸長と称する事は是酒を酌む人は、其の徳に依って寿命長久を得るの謂ならむか。
善女、男子を産す。道隆の王と云ふ。又移りて良野の大堀と云ふ處に居住す。
其の跡今に存ず。


86 : 名無しさん@chs    2008/08/14(木) 20:29:02   ID:NOE7vWu6 
山崎城:吉野川市山崎
忌部氏
古代忌部氏の拠点


87 : 名無しさん@chs    2008/08/14(木) 20:32:19   ID:NOE7vWu6 
麻植持光 おえもちみつ ?〜1553
細川持隆家臣。阿波美馬郡内山(家賀)城主。忌部神社大宮司であった。主君持隆に信任されたが、持隆は三好実休により謀殺されたため、これに抵抗するも敗北。のち讃岐に逃亡したが、丹生に三好勢と戦い戦死した。


88 : 名無しさん@chs    2008/08/15(金) 09:49:22   ID:Cl129/MU 
皇子神社
丸亀市綾歌町岡田上

神櫛王命
コトデン岡田駅より原村公民館・原村生活改善クラブをめざし、西へ歩くこと10分。
香川県神社誌によると「祭神は景行天皇の皇子にして當国国造の始祖たるを以て里人其の徳を慕ひて奉祀すといふ」とある。


89 : 名無しさん@chs    2008/08/15(金) 09:52:51   ID:Cl129/MU 
庵治町の皇子神社
船渡御(庵治町) ... 全国的にも数少ない海の祭りとして知られる

讃岐國那珂郡 神野神社
香川県丸亀市郡家町八幡下2337
末社の皇子神社は、道路を挟んで当社の東300mほどにあり、
当社の御旅所となっているらしい。
当社から皇子神社までは、真直ぐな参道が続く。
馬場だったのだろう。
皇子神社の境内には、八代荒神社もある


90 : 名無しさん@chs    2008/08/15(金) 10:04:18   ID:Cl129/MU 
皇子神社  香川県三豊市山本町神田4189番

皇子(明)神社(こうじみょうじんしゃ)【朝倉村朝倉上宮ノ下甲122】
・祭神:天津彦火瓊々杵命
・境内社:熊神社(祭神:木花開耶姫命)、杵築神社(祭神:大穴牟遅命)、荒神社
・貞治年中、世田城落城後に河野通朝がこの地に落ち延びて山谷を開拓し、河野家の祖先を勧請したものという


91 : 名無しさん@chs    2008/08/15(金) 10:07:01   ID:Cl129/MU 
平成16年に公開され大ヒットした純愛映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(行定勲監督)のロケ地となったのが高松市庵治町。
高級御影石・庵治石の産地として知られる五剣山を臨みながら、石材店が軒を連ねる道路を北上すると、海岸の埋め立て地から「王の下沖防波堤」が伸びる。
主人公の高校生、松本朔太郎(サク)と廣瀬亜紀(アキ)が夕日を眺めながら語り合った場所
映画のシーンさながらに多くの若いカップルが腰を降ろし、船が行き交う海をじっと見つめている。
さらに、埋め立て地から階段で上がった丘の上の「皇子神社」の境内にはサクとアキが乗ったブランコがある。そばのフェンスにはカップルが愛を誓った南京錠が数多くかけられていて、いかにも恋人たちの空間。


92 : 名無しさん@chs    2008/09/12(金) 15:13:14   ID:q5VLP0LQ 
紀州 鳴神社を祀った忌部氏の祖先。

 鳴神社の鎮座地は忌部郷と呼ばれていました。この神社の祭神は忌部氏の遠祖の天太玉命であったとも、また紀州忌部氏の祖の彦狭知命とも言われています。 現在は天太玉命を祭神としていますが、これは3年ほど前の宮司さんが取り入れたようで、それまでは、水門の神だけでした。 今の岡崎に当たる忌部村にも天太玉命を祭る忌部里神社がありました。
 忌部氏は中臣氏台頭以前は朝廷の祭祀を司って来た氏族です。従って橿原宮造営に力を発揮したと伝わるように宮大工的な技術者集団でもあったようです。


93 : 名無しさん@chs    2008/09/12(金) 15:18:13   ID:q5VLP0LQ 
地震による地形の変化が資料で確認できるのは、約300年前にあった元禄大地震です。元禄16年(1703)11月23日午前2時頃、野島崎南方沖合約30kmを震源に、マグニチュード8.2の規模で発生しました。これによって北条海岸では海岸線が400m後退、坂田では5mを越える隆起がありました。
海に面した安房にとって欠かせないのが湊の存在です。まさに人や物・情報などが行き来をした玄関口でした。鏡ヶ浦では平久里川の河口が古代の湊「淡水門(あわのみなと)」として知られています。戦国時代になると船形や高の島で、船がかかる湊が確認されています

特異な信仰の広がりをみせたのが、洲崎神社でした。航海神としての信仰が、中世に東京湾内にひろがったのです。『永享記』という記録には、室町時代の末に江戸城を築いた太田道潅(どうかん)が、江戸神田に安房の洲崎大明神を祀ったことや、神奈川(横浜市)や品川にも洲崎明神が祀られていることを伝えています


94 : 名無しさん@chs    2008/09/16(火) 08:09:26   ID:VCaAWrS6 
伊勢国造について「旧事紀」国造本紀には、神武朝に天牟羅久怒命( 天牟羅雲命)の孫、天日鷲命をもって伊勢国造にしたとあります。

95 : 名無しさん@chs    2008/09/16(火) 08:14:58   ID:VCaAWrS6 
天日鷲命は天日別命とも書かれ、『伊勢国風土記逸文』に天日別命が、神武天皇の命令で、伊勢に住んでいた伊勢伊勢津彦を追い払ったことが記されています

古語に「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なりというは蓋しこれを謂うなり。伊勢津彦の神は近く信濃の国に住ましむ。天の日別の命、この国を懐 (なず)け柔(やわ)して、天皇に復命式。天皇、大く歓びて詔り給いしく「国は国つ神の名を取りて伊勢と号くべし」と詔り給いて、やがて天の日別の命の封地の国と為し、宅地を大倭の耳梨の村に賜ひき


96 : 名無しさん@chs    2008/09/16(火) 08:17:04   ID:VCaAWrS6 
伊勢朝臣氏は、『姓氏録』左京神別にあげられ、天底立命孫(ママ)天日別命の後なりとのみあり、具体的な系譜は不明です。この家が伊勢国造の家であることはまちがいない

伊勢朝臣が伊勢直の後で、先に中臣伊勢連を賜っており、天牟久怒命(天椹野命)は天忍雲根命(天村雲命)と同神で、年代的にその子の天種子命(中臣連祖)の兄弟に天日別命が位置づけられるとみられます


97 : 名無しさん@chs    2008/09/16(火) 08:22:41   ID:VCaAWrS6 
物部氏と関連が深いと言われる「先代旧事本紀」では、思兼命が発案し、天太玉命は諸神を率いて御幣を作り、天太玉命と天児屋命が一緒に祈祷したことになっており、その際、阿波の忌部の祖天日鷲神は木綿を作ったことになっている
「古語拾遺」によると、天日鷲は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。太玉命の孫天富命が、天日鷲の孫(阿波忌部氏系図では由布津主命)を率いて、阿波の国(徳島県)、更に総の国(千葉県)を開拓したとある


98 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 11:45:49   ID:BSKUghmY 
八坂神社 丸亀市岡田上
スサノオを祀る


香川県神社誌
「伝うる所によれば、武国凝別皇子の第二王子津守王此の地に来往し長者原の地を墾く。王の居住地を津守の王屋敷といへり。当時当地山嶺にして野獣出でて農作物を害する事甚し、依って当社を創祀すと云ふ。一説に承元年中の肇祀なりとも云へり。応安年中長尾大隅守の臣某王屋敷に在りて津森、平尾、宿母、小津守、小椎尾、三田及び栗熊村の一部なる天満、長者原、西谷、定連の地を領し、厚く当社を崇敬せしを以て、以上の里人当社を産土神として尊崇するに至れりと云ふ。


99 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 11:48:41   ID:BSKUghmY 
武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)

武国凝別皇子。景行天皇の第12皇子。
母は阿倍氏木事の女・高田媛。伊予国平定のために派遣され、神野郡(後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市他)に拠点を置いたと伝える。子孫も地方各地へ広がり、「別」の子孫が治めたということから別子という地名が生まれた。その御霊は拠点地付近に建立された伊曽乃神社に代々篤く奉られている。なお、円珍(智証大師)の自筆である『円珍俗姓系図』(承和年間、園城寺蔵、国宝)は、「景行天皇─武国凝別皇子」に始まる竪系図として貴重


100 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 11:50:22   ID:BSKUghmY 
景行天皇から十数代の後裔になる智証大師までの系図

大師自筆ではなく、承和年間に別人に書写させた旨が自筆で注記されています。

全巻にわたって大師自筆の加筆が見られ、出自について常に意を用いられていたことが知られる興味深いものです。

系図からは大師が武国凝別皇子を始祖とする讃岐因岐首の一族であったことがわかります


101 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:17:20   ID:BSKUghmY 
阿沼美神社:松山市 伊予和気駅の東
御村別の祖・景行天皇の皇子武国凝別、および別王の祖・日本武尊の御子十城別王の宮居があった場所という。
社伝記によると十二代景行天皇の皇子武国凝別(御村別の祖)日本武尊の御子十城別王(別王の祖)の宮居された所と伝えられており地名を大内小字を宮内という 別氏の子孫は阿沼美の神を奉斎して深く尊崇を尽くし四十代天武天皇四十五代聖武天皇五十代桓武天皇五十二代嵯峨天皇七十五代崇徳院等は幣帛を奉り勅願により宮殿を再造営した


102 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:20:46   ID:BSKUghmY 
伊曽乃神社
天照大神、武国凝別命を祭神とし、成務天皇時代の創建という古い歴史をもつ
景行天皇の皇子である武国凝別命が当地を開拓するにあたり、皇祖・天照大神の荒魂を奉斎したことに始まるという。 ... 永治元年(1141)正一位に極位したと伝えられ、崇徳天皇より「磯野宮」の勅額を賜ったと伝えられる


103 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:22:06   ID:BSKUghmY 
愛媛県西条市にある伊曽乃神社社家の御村別(みむらわけ)氏の支族に、伊予賀茂氏とか賀茂伊予氏という氏族もある。「いその」神社というからには、海人系であろう。因みに遠祖は、息長氏系の12代景行天皇と阿倍氏の高田媛の子、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこと)で、吉備氏系の倭建命や、讃岐氏の祖の神櫛別命、空海を出した佐伯氏の祖、稲背入彦命の異母兄弟にあたる。

104 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:22:34   ID:BSKUghmY 
倭建命と大吉備建比売(おおきびたけひめ)の子、十城別王(とおきわけのみこ)が、伊予別(いよわけ)君の祖となり、伊予を本拠地としていた

105 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:23:41   ID:BSKUghmY 
景行天皇の皇子、武国凝別命国土開発の大任をおび伊予の地に封ぜられると、皇祖天照皇大神を奉斎し庶民を愛撫し皇威を弘められた。命の御子孫は伊予三村 別氏としてこの地方にひろがり栄え、天照皇大神に始祖武国凝別命をあわせ祀った。
これが当社の創祀である。奈良時代には伊予国第一の大社として皇室の御崇敬もあつく外敵鎮圧、海賊追捕のたび毎に祈請があり、淳仁天皇の天平宝字六年(七六二年)すでに奉幣祈願のことがあり、称徳天皇は天平神護元年神戸十烟を、更に同二年五烟を奉り従四位下に叙せられたこれは、我国における神位奉授のはじめであった。延長五年(九二七年)の延喜式名神大社であり、つづいて永治元年(一一四一年)正一位に極位した。崇徳天皇御祈願と共に勅額を賜る。その後も国司領主等による社地神田の寄進及び社殿の建立等たびたびであった。昭和十五年国幣中社に列格され、昭和五十七年には浩宮様が御親拝された。


106 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:28:37   ID:BSKUghmY 
讃留霊王は建貝兒王とも記され、日本武尊と吉備大吉備の建比売との御子と『古事記』 にあります。
建貝兒王は、( 讃岐の綾君 ・伊勢の別・登袁の別・麻佐の 首 [ おびと ] ・宮首の別等の祖)。


107 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:31:21   ID:BSKUghmY 
建貝兒王とは記紀に景行天皇51年の条に事を記せる条に、『妃吉備武彦之女吉備穴戸媛生武鼓王与十別城王其兄卵王是讃岐綾君の始祖也』と見ゆ。

108 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:32:49   ID:BSKUghmY 
建貝兒王を祀る神社は讃岐の他に壱岐と三河との鎮座。
志々岐神社「武加比古王」長崎県壱岐郡石田町南触
宮道天神社「建貝兒王」愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂


109 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:36:54   ID:BSKUghmY 
音羽町にある「宮道天神社」に行きました。この神社は天武天皇と持統天皇の息子である草壁皇子が住んでいた宮の址ではないかとの伝説があるそうです。

この宮路山は壬申の乱の時に陣を張った場所だという言い伝えもあり、歴史の中には全く出てこないことなのですが、この場所(東三河)と持統天皇、草壁皇子に何か関係があるような痕跡がチラチラと残されている


110 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:37:38   ID:BSKUghmY 
壬申の乱、古事記、日本書紀の成立、伊勢神宮の縁起に大きく関わったとされる持統天皇ですが、歴史の記録に東三河のこの地に1ヶ月間滞在したと残されています。
持統天皇が亡くなる2ヶ月前の出来事


111 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:40:00   ID:BSKUghmY 
壬申の乱(西暦672年)のとき、持統上皇の子、草壁皇子が宮路山山頂近くで守備にあたり、 皇子は宮道天神社の祭神となっています。草壁皇子は上皇より先に17歳で亡くなり、 ひ孫(皇子の孫)、後の聖武天皇が生まれた年に宝に恵まれたとして、年号を大宝とした

112 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:47:58   ID:BSKUghmY 
宮道天神社の伝承によれば、日本武尊東征の際、建貝児王をこの地に封ぜられたそうです

中部地方には少ないはずのアラハバキ神なのですが、 東三河には「砥鹿神社奥宮」「砥鹿神社里宮」「竹生神社」「石座神社」「熊野神社」「 神倉神社」「宮道天神社」の7ヶ所に何故か祀られている

宮道天神社(みやじてんじんしゃ)- 建貝児王命、草壁皇子、大山咋神を祭神とする。宮路山頂付近に奥の院が、山麓に拝殿がある。8月には雨乞い祭りが行われる
奥の院は現在の三河一の宮、 砥鹿神社の方を向いて建てられている。


113 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 13:51:43   ID:BSKUghmY 
古事記には建貝兒王(タケカイゴノミコ)が「宮首(道?)之別等之祖」と記されている

姓氏類別大観日本武尊系宮道氏系図によれば宮道宿補速磨は宮道別 E の子であり、允恭大皇|雄略人豆の統冶した時代の人と推定できる。この頃に宮道天神社が創建されたと考えられる。

宮道氏は、景行の子・建貝兒命(宮道別)の裔を称し、宮道郷に封じられたとする


114 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 11:19:59   ID:PBML3zcs 
神社を中心としたる宝飯郡史」の編者・太田亮氏は、この熱田大宮司家が、萩の地
を領し、旧宝飯郡に牛頭天王信仰が広まったとするのである。
熱田大宮司家が領した萩の南に赤坂がある。
一〇世紀に成立した今昔物語には、定基が任国三河で見初めた娘の素性は、記されて
いない。
赤坂の遊君・力寿と記されるのは、一三〜一四世紀に成立した源平盛衰記に至ってか
らである。
赤坂の力寿の伝承も海東大江氏の萩進出が関わっているのであろう。
さて、この萩の地は、賀茂郷と呼ばれ、上賀茂社(祭神:別雷命・素盞嗚尊)及び下
賀茂社(祭神:玉依姫命・素盞嗚尊)が鎮座する。賀茂社に・素盞嗚尊(牛頭天王)
が祀られているあたりも海東大江氏の影響であろう。
赤坂の遊君・力寿は、後に、赤坂長者・宮道弥太次郎の娘となるのである。
宮道氏は、宮道別の裔を称し、壬申の乱の折、草壁皇子が陣を敷いたといわれる宮路
山とも関係が深い。宮道天神社の大山咋神は、定基の叡山入山と関連付けられている


115 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 11:21:19   ID:PBML3zcs 
建貝児王が宮道別の祖であり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主(国造の下位の地方長官)となられ、その子孫は引き続き当地に在住し、ある時、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社だというのです。

116 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 11:22:33   ID:PBML3zcs 
山城国宇治郡(京都府京都市及び宇治市)を本拠とした宿禰姓の宮道氏が最も知られた。承和2年(835年)11月、宮道吉備麻呂・宮道吉備継らが朝臣姓を賜った。宇治郡大領だったと伝えられる宮道弥益の娘(一説には妹)宮道列子は、内大臣藤原高藤との間に藤原胤子(宇多天皇女御)らを産み、醍醐天皇の外祖母となった。

117 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 11:24:31   ID:PBML3zcs 
景行天皇妃の襲武媛(そのたけひめ)は

国乳別皇子(くにちわけのみこ)と国凝別皇子(くにこりわけのみこ)を生み、次に国背別皇子(くにせわけのみこ)またの名は宮道別皇子(みやちわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生んだ。


118 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 12:03:08   ID:PBML3zcs 
三河 猿投神社

創始は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。猿投山の東峯に東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して古くより猿投三社大明神と厚く崇敬されれて来ている。
神階は文徳天皇仁寿元年(851)に従五位下、陽成天皇元慶元年(877)従四位下に叙位している。以後記録は絶え、昇叙について明確なことは判らないが、社蔵神号額(嘉元2年=1304)には「正一位猿投大明神」とあり、三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。
社格は延喜の制(967)では国幣の小社(三河国26座、賀茂7座)で、一宮制が施行されるや、砥鹿神社、知立神社についで三河三宮と称された。


119 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 12:03:57   ID:PBML3zcs 
三河 猿投神社

主祭神 大碓命  相殿 景行天皇(第12代) 垂仁天皇(第11代)
大碓命は景行天皇の第1皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。日本書紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘2人を妃とせられ、2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云云とある。社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査書)に「景行天皇52年(122)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。現在、西宮後方に御墓所がある。


120 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 12:05:15   ID:PBML3zcs 
社蔵縁起書に「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し王座に侍せしむ。猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東征の時、壮士三河国より来たりて従う。平定の後、尊に曰く、先に慈恩を蒙れる猿なり。勅恩に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。猿投山の称、是より起こる」とある

121 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 12:18:37   ID:PBML3zcs 
宮道天神社
日本武尊が東征したとき第三王子の建貝児王をこの地に封じという言い伝えがある。建貝児王は日本武尊と、穴戸武媛(吉備武彦の息女)のあいだに生まれた子である。
また、大宝二年(七〇二)持統天皇の御幸した地だといい頓宮跡がある。町の東方をは穂の国の天野で、白鳳年間に草壁皇子(のちの天武天皇)がこの地に住んだという伝承があって草壁皇子が宮路山上に祀ったとされる祠が残されていた。ここに、のちに村民らが三神を合祀して鎮守としたのが宮道天神社だという。


122 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 12:23:43   ID:PBML3zcs 
猿投神社
大碓命が主祭神とされたのは近世以降で、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など諸説あった

景行紀、日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦と大伴武日が従う。

駿河國益頭 燒津神社日本武尊配祀 吉備武彦命 大伴武日連命 七束脛命静岡県焼津市にある。


123 : 名無しさん@chs    2008/09/20(土) 12:31:07   ID:PBML3zcs 
壬申の乱
東国,特に尾張の兵が多数味方したことと,美濃,三河,伊勢,信濃,甲斐の兵が集結したこと


124 : 名無しさん@chs    2008/09/30(火) 13:14:29   ID:pOqsaGY+ 
矢田部造氏の一族が讃岐国寒川郡に居て(『三代実録』元慶元年十二月に正六位上木工大允の矢田部造利人が山城国へ貫付)、矢田部が同国大内郡に居た事情が関連してあげられる。矢田部造と借馬連は、近い系譜関係か通婚関係があったものか。矢田部は阿波国板野郡や周防国玖珂郡にも居た事情がある。延喜八年(九〇八)の周防国玖珂郡玖珂郷戸籍に矢田部子師丸が見えており、吉敷郡に八田郷があった(『和名抄』)。

125 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:15:21   ID:9s2iMjs+ 
登弥神社
所在地:奈良市石木町木島(大和郡山市城町主水山の近隣)
「鳥見神社」「木嶋(このしま)大明神」
祭神:

東本殿
高皇産霊神、誉田別命
西本殿
神皇産霊神、登美饒速日命(とみ・にぎはやひのみこと)、天児屋命
攝(摂)社
大日[るめ]命、豊受比賣神、天宇受女神、大山祇神、庭高津日神、
大物主神、菅原道真公、猿田彦神、大己貴神、八重事代主神、
瀬織津姫神、速秋津姫神、速佐須良姫神、気吹戸主神、
表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上十七柱を五社に合祀)

皇紀四年春二月二十三日、神武天皇がこの地に於いて、皇祖天神を祭祀されたのがそもそもの渕源であり、その後登美連が、祖先である天速饒速日命の住居地・白庭山であったこの地に命ご夫妻を奉祀したのが当神社のご創建であります


126 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:17:25   ID:9s2iMjs+ 
登美饒速日命
ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている


127 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:23:40   ID:9s2iMjs+ 
神社神域は饒速日命の住居或いは墓所であった白庭山であるとの伝説もありますが、その後饒速日命の子孫である登美連が、ゆかりのこの地に先祖である饒速日命御夫妻と併せて天神地祇をお祀りしたのが当神社のご創建であらうといわれております。その年代は、詳ではないが慶雲二年(七〇四年)枚岡明神の春日遷幸の折当地に暫しお休みになりました縁故を以て、和銅年間春日明神を勧請せりと記録にもあり奈良朝のかなり以前より既に創建されていたことは想像に難くありません

128 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:25:38   ID:9s2iMjs+ 
古事記--故、しかして迩藝速日命參ゐ赴きて、天神の御子に白さく、「天神の御子天降り坐しぬと聞きしが故に、追ひ參ゐ降り来つ。即ち天津瑞を献りて仕へ奉らむ」と。故、迩藝速日命、登美毘古が妹、登美夜毘賣を娶りて生める子。宇麻志麻遲命[此は物部連、穗積臣、[女采]臣の祖なり]。-----神武東征のところ。

129 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:29:14   ID:9s2iMjs+ 
三炊屋媛は、古代の河内・大和一帯を治めていた登美一族の長、長髄彦の妹君です

130 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:32:05   ID:9s2iMjs+ 
石切剣箭神社 石切駅を降りて線路沿いに下ると200m程で突き当たりになる。左手のガードをくぐり道 なりに登ると石切上之宮へでる。上之宮の左手奥に石切登美霊社があり、長髄彦の妹、 饒速日の妃「三炊屋媛(みかしきや)」を祭る。

131 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:33:45   ID:9s2iMjs+ 
ニギハヤヒは妻のミカシキヤヒメの夢に現れ、「我が子を私の形見としなさい」と言って、天璽の宝を授けた。そこで、天羽羽弓(あまのははゆみ)、天羽羽矢(あまのははや)、および神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)の三物を登美白庭邑(とみのしらにわのむら)に埋葬し、これを持って墓と為した。

132 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:39:25   ID:9s2iMjs+ 
穗積臣遠祖大水口宿禰。伊勢麻績君。三人共同夢而奏言。昨夜夢之。有一貴人。誨曰。以大田田根子命爲祭大物主大神之主。

133 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:44:04   ID:9s2iMjs+ 
崇神天皇の皇后である御間城姫

『古事記』には、「若倭根子日子大毘々命(開化天皇)、……庶母伊迦賀色許女(伊香色謎女)を娶りて生みし御子は、御真木入日子印恵命(崇神天皇)。次に、御真津比売命(御間城姫)。」
御真津比売命(御間城姫)は、孝元天皇の息子である大毘古命(大彦命)の娘(『新編日本古典文学全集 日本書紀1』

鬱色謎命=孝元天皇


134 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:46:31   ID:9s2iMjs+ 
大彦は孝元紀で、皇后の鬱色謎命の長子として生まれました。開化紀はこの皇后を穂積臣の遠祖の鬱色雄命の妹と記しています。今度は孝元記を開くと、「この天皇、穂積臣が祖、内色許男命の妹、内色許売に娶ひて、生みませる御子、大毘古命、云々」とあります。

崇神の母、伊香色謎命は物部氏の遠祖の大総麻杵の女と崇神紀にありますが、それは兄の伊香色雄命が物部氏の女、天孫本紀によると荒姫に大新河命、弟玉手姫に十市根命とそれぞれ生ませて物部連の祖といわれても、その所生は内臣族にありました。これを整理して云えば、内臣族から内色許売命の子の開化、伊香色謎 命の子の崇神、そして御間城姫の生んだ垂仁天皇という具合に、三代にわたる皇統を出していた


135 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:47:06   ID:9s2iMjs+ 
崇神の同母兄、孝元を父にもつ彦太忍信命、記の比古布都押之信命は、記紀の系譜を総合すると、葛城の高千那毘売に味師内宿禰、紀伊国造祖の宇豆比古の妹、山下影日売に武内宿禰を生ませたのです

136 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:51:02   ID:9s2iMjs+ 
景行紀五十五年に至って、豊城入彦の孫、彦狭嶋王が再度、東山道十五国の都督カミに任命された
しかし春日のあたりで病急死

翌年、彦狭嶋王の子、御諸別王が派遣されました。
毛野一族は赤城山の赤城神社に、豊城入彦を祭神として祀っています。また佐野市の府田神社には御諸別王の伝承や居住跡伝承もあります。この御諸別王の名前、先祖の豊城入彦が御諸山に上って皇位争に敗れた、その屈辱を負う名にちがいないのです。


137 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:52:32   ID:9s2iMjs+ 
豊城入彦命の四世の孫、奈良別王が下毛野国造に任ぜられたのは仁徳朝

利根川の南側にも120m 級の巨大な後期前方後円墳が現れる
金象眼文字の鉄剣で有名な埼玉稲荷山古墳も、このころのものです


138 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:54:33   ID:9s2iMjs+ 
。『古事記』に崇神天皇の子・大入来命(おおいりきのみこと)が能登の祖とされています。『国造本紀』によると、成務天皇の世に、大入来命の孫・彦狭嶋命を国造に定めたとある

139 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:56:52   ID:9s2iMjs+ 
信濃 旧望月町
比田井の県道近くに遠目にも古墳かと見える彦狭嶋王の墳墓という伝承のある王塚がある。『日本書紀』の景行天皇55年2月の条に「彦狭嶋王を以って、東山道の都督(かみ)を拝(ま)け給ふ。是、豊城命の孫なり」の記事が見える。豊城命は豊城入彦のことで、上毛野(かみつけぬ・群馬)下毛野(しもつけぬ)君の始祖であるそうな。孫の彦狭嶋王が春日の穴咋邑(あなくいむら)に到り病に臥(ふ)して亡くなった。東国の百姓、この王が来なかったことを悲しんで、ひそかに王の亡きがらを盗んで上野国(かみつけののくに)に葬ったそうな。春日穴咋邑は今の奈良市古市町で猿田彦を祀る穴栗神社の一帯がその伝承地でもあるが、旧望月町では春日地区一帯に比定する考えが有力である。
 王塚のある地字名は鹿島で、鉄磨ぎの場と学んでいるので伝承主は鉄に関わりがありそうである


140 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:58:00   ID:9s2iMjs+ 
旧望月町の古墳から出土したおびただしい鉄器類は、須恵器と同じに地産地消であったろうか。

彦狭嶋王の祖父が活躍したとされる榛名町も鉄処と考えられるし、王の墳墓伝承地もまた鉄処である


141 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 16:59:47   ID:9s2iMjs+ 
神櫛:カムクシ皇子と稲背入彦:イナセイリビコ皇子を生んだ。兄は讃岐国造:さぬきのくにのみやつこ(香川県の氏族)の始祖、弟は播磨別:はりまのわけ(兵庫県南部の氏族)の始祖

142 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:09:28   ID:9s2iMjs+ 
。「古事記」の孝霊天皇の段に、「大吉備津彦命と稚武吉備津彦命とは、二柱相副ひて、針間の氷河(ひかわ)の前(さき)に忌瓮(いわいべ)を居ゑて、針間を道の口として、吉備国を言向け和したまひき。」

143 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:11:59   ID:9s2iMjs+ 
記紀の垂仁紀に、五十瓊敷入彦命が剣を千本作らせて、石上神宮へ奉納した後、石上の神宝を管理したとある
四道将軍大吉備津彦尊の別名、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)に似ている


144 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:12:40   ID:9s2iMjs+ 
五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)
7代孝霊天皇と意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめ・倭国香媛)の子。倭迹迹日百襲姫命の弟。
四道将軍(記紀伝承で、10代崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命)。


145 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:14:00   ID:9s2iMjs+ 
紀元前88年(崇神天皇10年)、四道将軍大毘古命と武渟川別|建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出会った土地を「会津」と言う

146 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:20:12   ID:9s2iMjs+ 
吉備氏出身の播磨稲日大郎姫と景行の結婚
景行天皇は、播磨稲日大郎姫との間に二人の男子を得る。双子である。兄の名はオオウスといい、後美濃に入ることになる。弟の名はコウス、長じての名をヤマトオグナ、後にヤマトタケル(日本武尊)と名乗ることになる

播磨風土記によれば、播磨稲日大郎姫はのちに播磨の城宮の地で生涯を終えている


147 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:20:57   ID:9s2iMjs+ 
播磨稲日大郎姫は崇神朝においては景行天皇の皇后、吉備王権にとっては時代の吉備王となるはずのヤマトタケルの母だった

148 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:22:48   ID:9s2iMjs+ 
年を経て、播磨稲日大郎姫は城宮にて崩御された。墳墓を日岡に造成し、そこへご遺体を迎えようと、遺体を運ぶ一行が加古川を渡ろうとしたとき、「大きなつむじ風」が遺体を川の中へと吹き飛ばしてしまった。遺体はいくら探しても見つからない。僅かに彼女が使っていた領布と櫛箱が見つかっただけであった。仕方がないので、日岡の墓には領布と櫛箱を収めるた。だから播磨稲日大郎姫の墓は別名「ヒレ墓」という。播磨稲日大郎姫の死を大変悲しんだ景行天皇は、遺体が消えた加古川で取れた魚をたべないと宣言された。】

149 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:27:33   ID:9s2iMjs+ 
『上毛野(カミツケヌ) 国造』

豊城入彦命の孫の彦狭島命とあるが、豊城入彦命は崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクワシヒメ) の皇子で、日本書紀には母親は紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘、古事記は木の国の造の荒河刃弁(アラカワトベ)の娘と記している。

 また、彦狭島命は孝霊天皇の皇子(伊予皇子)で吉備氏だが、豊城入彦命の孫にも同名の彦狭島命がおり、もし同一人物であれば、孝霊と崇神も同一人物になるが、いずれにせよ、豊城入彦命も彦狭島命も安倍氏ではない。


150 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:28:54   ID:9s2iMjs+ 
『能登国造』

垂仁天皇皇子の大入来命の孫の彦狭島命とあるが、垂仁天皇の皇子に大入来命、もしくは類似する名の皇子はいない。『古事記』には崇神天皇が尾張の連の祖先、意富阿麻比売(オホアマヒメ)を娶り、能登臣の祖となる大入杵(オオイリキ)命を生んだとある。

彦狭島命が豊城入彦命の孫なら紀氏、大入杵命の孫なら尾張氏


151 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:31:02   ID:9s2iMjs+ 
『針間鴨国造』上毛野国造と同祖の御穂別(ミホワケ)命の子の市入別(イチイリワケ)命

北陸地方には、高志国造、高志深江国造、加宜国造、能登国造、若狭国造がおり、福岡県には筑志国造、兵庫県には針間国造、針間鴨国造がいるが、これらは全員が安倍氏の国造???


152 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:32:26   ID:9s2iMjs+ 
御諸別命は毛野一族の針間鴨国造の祖であって、この御諸別命と、稲背入彦命の男で針間国造の祖である阿良都命とが針間を中分したものではないか???

153 : 名無しさん@chs    2008/10/09(木) 17:33:51   ID:9s2iMjs+ 
播磨は、明石国、針間鴨国(はりまかものくに:加西市)、針間国(はりまのくに)の三国に分けられていました。朝廷から国造に任命され、この針間国を治めていた豪族・ 佐伯氏(さえき)で、姫路・白国神社のある白国の台地に住んでいたそうです

154 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 13:39:36   ID:/h4roMTE 
伊勢国造。
橿原の帝[神武天皇]の御世に天降る天牟久努命の孫の天日鷲命を勅して国造に定められた。


155 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 13:52:57   ID:/h4roMTE 
紀の国
木国造、荒河刀辧の女のことが書かれているのは、崇神天皇の時代
「荒川郷は、荒川刀弁なる木の国造荒川に住みしため、安楽川庄は、美福門院の領土となりてのち門院高野を尊信し、この領土を高野に寄付し、安楽国を願いて改めて安楽川といわれり」


156 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 13:54:13   ID:/h4roMTE 
荒河戸畔は天道根命の4代の子孫にあたります。彼女の娘は崇神天皇や物部大新河の妻となります

157 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 22:41:34   ID:EsOLQ4ho 
日本武尊──武卵王──建久呂彦命──宮道別王

宮道天神社
武卵王の一族が祭ったようです。


158 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 22:49:30   ID:EsOLQ4ho 
宮道天神社。 
愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂字宮路。 
祭神:宮道大明神、緑大明神、客人大明神。 

現在の祭神は 建貝兒王(讃岐の祖)、草壁皇子、大山咋命 の三座。 宮道天神社の主祭神は「宮道別」です。 穂国(大宝律令制定前は、三河国は三河国と穂国に分かれていた)の県主の宮道別の祖で、景行天皇の子の宮道別王とする説と、日本武尊の子(景行天皇の孫)の健貝児王(日本武尊東征の時に、日本武尊によってこの地を与えられ、この地に残された)とする説があります。


159 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 22:52:21   ID:EsOLQ4ho 
宮道氏(みやじし)は、日本の氏族の一つ。日本武尊の子である武卵王(たけかいこのみこ)の子孫と伝える宮道別の後裔氏族と推察される。

古代日本には複数系統の宮道氏が存在したらしいが、中でも山城国宇治郡(京都府京都市及び宇治市)を本拠とした宿禰姓の宮道氏が最も知られた

宮道天神社の伝承によれば、日本武尊東征の際、建貝児王をこの地に封ぜられたそうです。この建貝児王が宮道別の祖であり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主(国造の下位の地方長官)となられ、その子孫は引き続き当地に在住し、ある時、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社だというのです。
『先代旧事本紀』の「天皇本紀」では、宮道君の祖は、第二皇子・稚武王とし、第三皇子は武卵王で、讃岐綾君等の祖としています。 


160 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 22:53:14   ID:EsOLQ4ho 
武殻王は、鵜足郡井上郷玉井村(現在の綾歌郡飯山町下法軍寺)の讃留霊王神社に讃留王大明神として祀られており、神社の裏手にある前方後円墳は武殻王を葬ったものと云われている。

161 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 22:54:12   ID:EsOLQ4ho 
弟橘比賣命(父:忽山宿禰:穂積氏の祖先)----->子:若建王

162 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 22:56:18   ID:EsOLQ4ho 
宮道神社(みやじじんじゃ)

祭神:日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚武王(わかたけるのおおきみ)
京都市山科区勧修寺仁王堂町
宮道神社は寛平10年(898)創祀されたとある。その後、宮道弥益、宮道列子、藤原高藤、藤原定方、藤原胤子等が合祀され宮道大明神・二所大明神とも称されている。
宮道氏は山城国宇治郡、宇治郡(現在の京都府宇治市・京都市山科区周辺)を本拠としていた氏族で、この地は宮道の邸宅跡。


163 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:01:46   ID:EsOLQ4ho 
本武尊は東夷を平らげて、帰ってこられるときに途中の尾張の国で薨去された。初め両道入姫皇女を娶られ、稲依別王、次に足仲彦尊、次に布忍入姫命、次に稚武王を生まれた。また、吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛を妃とし、武卵王と十城別王を生んだ。また、穂積氏の忍山宿禰の娘の弟橘媛は稚武彦王を生んだ。

164 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:06:42   ID:EsOLQ4ho 
上の記事は
先代旧事本紀 巻第七
景行天皇
播磨の稲日太郎姫を立てて皇后とした。皇后は三男を生まれた。第一に大碓命、次に小碓命、次に稚倭根子命で有る。その一二の皇子は一日に同じ腹に双子として生まれた
神櫛別命[讃岐国造の先祖]


165 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:08:56   ID:EsOLQ4ho 
旧事紀の巻の七・天皇本紀の第一二代景行天皇の条は、景行天皇の子・倭宿祢を三川大伴部直の祖と記載する。なお、この倭宿祢についても、天平勝宝五(七五三)年に大倭宿祢小東人(ヤマトノスクネコアズマンド)が、三河国司に任命されている。 記紀は、景行の子は、八〇人あまりいたとし、そのなかの二〇人あまりの名を記載する。倭宿祢の名は、記紀には、記載されない。記紀は、八〇人あまりの子のうち、第一三代の成務のほか数人を残し、そのほかの皇子は、国造、群造に分け地方に封じたとする。そして、日本書紀景行条は、これら地方に封じた皇子が、諸国で「別」を称する氏族の祖であると記載する。

166 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:12:12   ID:EsOLQ4ho 
旧事紀の巻の五・天孫本紀は、天忍日を連想させる天忍人(アメノオシヒト)を火明命の三世孫とし、忍人の弟を忍男、妹を忍日女とする。
火明命を祖とする海部氏が、代々神職を務める丹後一宮・籠神社が所蔵する国宝の祝部氏系図は、火明命の三世孫を倭宿祢とする。また、籠神社が、所蔵する海部氏本紀は、天孫本紀と同様、天忍人を火明命の三世孫とするが、別伝として天忍人を倭宿祢とする。


167 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:14:14   ID:EsOLQ4ho 
倭宿祢命は「天皇本紀」では景行天皇の子に倭宿祢命、三川大伴部直祖とあり、大和国造の祖という伝もあるという。「「皇孫本紀」では、武位起命を大和国造の祖と記しているが、珍彦は国つ神で倭直部の始祖となっている

168 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:15:57   ID:EsOLQ4ho 
平城京の木簡からは、志摩国の贄を納めた氏族として膳大伴部の名前が多く見つかっている。

膳大伴部――――阿倍朝臣同祖、大彦孫磐鹿六雁命の後


169 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:20:59   ID:EsOLQ4ho 
「古事記・景行天皇」の段

『此の御世に田部を定め、又東の淡水門を定め、又膳の大伴部を定め、又倭の屯家(みやけ)を定め、又坂手池を作りて、即ち竹を其の堤に植ゑたまひき』(記 211頁)などとあることが、『東の淡水門』、つまり、舞台を「関東」に移して、『景行天皇』が定めた『膳の大伴部』

「日本書紀」には、より詳しく「景行天皇53年条」
冬十月に、上総国に至りて、海路より淡水門に渡りたまふ。是の時に、覚賀鳥(かくがのとり)の声聞ゆ。其の鳥の形を見(みそな)さむと欲(おもほ)して、尋ねて海の中に出でます。
仍(よ)りて白蛤を得たまふ。是に、膳臣(かしはで)の遠祖、名は磐鹿六鴈(いはかむつかり)、蒲を以て手繦(たすき)にして、白蛤(うむき)を膾(なます)に為(つく)りて進(たてまつ)る。故(かれ)、六鴈臣(むつかりのおみ)の功(いさみ)を美(ほ)めて、膳大伴部を賜ふ


170 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:21:57   ID:EsOLQ4ho 
三河国の「穂(ほ)郡」が二字好字令により「宝飫(ほお)郡」となり、誤記により、 現在は「宝飯(ほい)郡」になっているよう

171 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:30:59   ID:EsOLQ4ho 
三河の伴氏について景行天皇後裔の大伴部直姓と太田亮博士はみている

172 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:34:01   ID:EsOLQ4ho 
関川神社は長保三年(1001)に赤坂の長者、宮道弥太次郎長富が関川のクスノキの元に市杵島姫命を祀ったお宮を建立した。

173 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:38:44   ID:EsOLQ4ho 
宮道天神社
祭神 大山咋神 建貝児王命 草壁皇子命
大宝二年(七〇二)持統天皇の御幸した地だといい頓宮跡がある。町の東方をは穂の国の天野で、白鳳年間に草壁皇子(のちの天武天皇)がこの地に住んだという伝承があって草壁皇子が宮路山上に祀ったとされる祠が残されていた。ここに、のちに村民らが三神を合祀して鎮守としたのが宮道天神社だという。

日本武尊が東征したとき第三王子の建貝児王をこの地に封じという言い伝えがある。建貝児王は日本武尊と、穴戸武媛(吉備武彦の息女)のあいだに生まれた子


174 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:40:54   ID:EsOLQ4ho 
天武天皇と持統天皇の息子である草壁皇子が住んでいた宮の址ではないかとの伝説があるそうです。

175 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 23:43:30   ID:EsOLQ4ho 
宮路山の御津町側にある「白山神社」にもあるのです。そこには草壁皇子のお墓があると言われています。天皇になる予定だった草壁皇子は若くして亡くなってしまったようなのですが、葬られた場所がこの地だったとの伝承がある

176 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 11:28:53   ID:/OWI7L1w 
ご落胤伝説
文武天皇の3年間にわたる星野宮に滞在中(病気療養中)に地元の女性と仲良くなり、皇子(武児親王)がお生まれになったそうです。しかし、すぐに病気になり、利修仙人にご祈祷していただきましたが、おなくなりになられました。そのお墓が「太子塚」だそうです。また、武児親王は、文武天皇とともに式内・石巻神社(主祭神:大己貴命)のご祭神となっています。


177 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 11:52:07   ID:/OWI7L1w 
猿投神社由緒
御祭神
主祭神 大碓命  相殿 景行天皇(第12代) 垂仁天皇(第11代)
大碓命は景行天皇の第1皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。日本書 紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野 国造の祖神の娘2人を妃とせられ、2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云云とあ る。

猿投山とサナゲの語義
社蔵縁起書に「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し王座に侍せしむ。 猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東 征の時、壮士三河国より来たりて従う。平定の後、尊に曰く、先に慈恩を蒙れる猿な り。勅恩に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。猿投山の称、是より起 こる」とある。


178 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 11:54:05   ID:/OWI7L1w 
菟足神社[うたり]
愛知県宝飯郡小坂井町小坂井宮脇2
由緒
白雉元年(650年)創建
「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城 襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東 三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造し て斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一 年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はや く正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳 には正三位と記されたり(中略)。


179 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:20:49   ID:n87hiXs+ 
宮路山(標高362m)山頂の「二の丸」と呼ばれる頂に「宮地山聖碑」が立ち、その東隣りの頂に「 宮道天神社」が在る。

邇波氏族の中臣大嶋は、壬申の乱で三河守備、草壁皇子と。
壬申の乱功績で、天武天皇から、藤原姓賜り衣、袴、額田王戴く


180 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:23:17   ID:n87hiXs+ 
継体天皇の妃(目子媛)を輩出し、壬申の乱で天武天皇を支えた尾張氏

181 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:26:55   ID:n87hiXs+ 
御津(みと)町

大宝二年(702)十月十日持統上皇は、伊勢より船で御津の湊へ上陸し国府に滞在され、十一月十三日に尾張を訪れている。
当地は一カ月ほどの長期滞在
後世の人がそのときの行在所(あんざいしょ)の跡に小さな祠を建て、御所宮と称し崇敬を集めた。このお宮は現在、音羽川下流の下佐脇の佐脇神社境内に移され御所大明神としてお祀りしている。
御津町と音羽町の境にある宮路山へ御幸され紅葉を遊覧


182 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:29:32   ID:n87hiXs+ 
岡崎市史

持統は大宝二(702)年冬、東海地域へ行幸
11月13日 尾張国に至る。尾冶連若子麻呂と同年牛麻呂に姓(かばね)「宿祢(すくね)」を、国守多冶比真人水守に封土10戸を賜う。
11月17日 美濃国不破郡大領 宮勝(すぐり)木實に外従五位下の位階を授け、国守従五位上石河朝臣子老に封土10戸を賜う。
11月22日 伊勢国に至る。国守佐伯宿祢石湯に封土10戸を賜う。
11月24日 行幸の経路の諸国(尾張・美濃・伊勢・伊賀)の郡司および百姓のそれぞれに叙位・賜禄を行う。
11月25日 藤原京に遷都(車駕 参河より至る)。


183 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:33:49   ID:n87hiXs+ 
射穂神社[いぼ]
「廣國押建金日命、春日山田皇女、神前皇女」
天武天皇白鳳元年。愛知県豊田市保見町北山26 

社伝に清見原之皇子大友皇子御征伐之節御勝利祈願 のために白鳳年間御即位に神社御建立
末社八幡宮、八柱神社、秋葉神社、津島神社、武稲 神社、神明社、伊豆社、御鍬社を合祀す


184 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:37:42   ID:n87hiXs+ 
和志取神社「天日鷲命 合 伊弉諾命」
愛知県安城市柿崎和志取35

和志取神社[わしとり]
「五十狹城入彦皇子」愛知県岡崎市西本郷町字御立4
五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大 王主等を捕らえ、これより国内治まり庶民大いに安堵するという。
御墓は当町字和志山にあり前方後円墳で前後三十五間、面積七百七十六坪、周辺に六 基の円墳即ち倍塚がある


185 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:39:45   ID:n87hiXs+ 
幡頭神社[はず]
「建稲種命」建稲種命は日本武尊東夷御征討から帰途海上で御薨去、御遺骸この岬に着かれたのをお祭りした。愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60 


186 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:41:50   ID:n87hiXs+ 
石座神社[いわくら]
「天御中主命、比賣大神、大山祇神、素盞嗚尊、天稚彦命、伊弉册命、倉稻魂命」
愛知県新城市大宮字狐塚14

攝社 須波南宮社 鍵南方刀自命従四位下  児御前社 石鞍若御子天神従五位上
末社
百山社 白山比命
水神社 速秋津姫命
神楽社 安須女命
伊雑社  伊雑大神
山神社 大山祇命
金比羅社 大物主命
保食社 倉稲魂命
荒波婆岐社 豊石窓命 奇石窓命
素盞嗚社 素盞嗚命
祖霊社 天児屋根命


187 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:44:50   ID:n87hiXs+ 
石川王(いしかわのおおきみ)は、天武天皇の時代、吉備大宰を務めた。
また、『日本書紀』によれば679年の死亡時に石川王は吉備大宰であった。
672年の壬申の乱の後、石川王の大宰任命、天武天皇8年(679年)3月9日に吉備で死んだ。

石川王は吉備大宰(吉備総領)として少なくとも吉備国(後の備前国・備中国・備後国・美作国)と播磨国を治めた


188 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:46:05   ID:n87hiXs+ 
天武天皇元(672)年6月、近江朝廷の大友皇子側は、東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった

189 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:48:42   ID:n87hiXs+ 
備前の中心であった旧赤坂郡(現在、赤坂郡と磐梨郡が合併し赤磐郡となっている)は鳥取と呼ばれ、吉備の石上神社は、日本書紀の記述と同じく「鳥上の山」そのものである。
吉井町の石上神社が鎮座する山の麓の石上の集落は御津郡である。(ただし、古くは赤坂郡に属した) このことは、出雲に進攻したのは、吉備国の物部部族の軍団、なかんずく、御野郡の物部?


190 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:50:07   ID:n87hiXs+ 
赤磐市 石上布都魂神社
「和漢三才図会」

石上神社。赤坂郡に在り。祭神は布都御魂。
素戔鳴尊が大蛇を斬りし十握剣、これを用いて祭るところなり。
崇神天皇の朝、大和山辺郡石上に移し、布留社と号づく。」


191 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:50:54   ID:n87hiXs+ 
奈良県天理市 石上神宮の縁起
布都斯魂大神 素盞嗚尊の以って八岐大蛇を斬り給ひし十握劒の威霊を称奉る御名なり。日本書紀神代巻一書に、其断蛇劒、号曰蛇之麁正在石上宮也と見之、古語拾遺に、素盞嗚神、自天而降到於出雲国簸之川上、以天十握劒(其名天羽々斬、今在石上神宮古来大蛇謂之羽々、言斬蛇也)斬八岐大蛇とありて、もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る


192 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 19:54:49   ID:n87hiXs+ 
備前國赤坂郡 石上布都之魂神社
備前國一宮
素盞嗚尊
布都御魂 『吉備温故秘録』江戸後期
十握劒 『神社明細帳』明治初年
日本書記一書に「其の蛇を断りし劒をぱ、號けて蛇之麁正(おろちのあらまさ)と曰ふ。此は今石上に在す」また一書に「素盞嗚尊、蛇の韓鋤(からさひ)の劒を以て、頭を斬り腹を斬る、(中略)其の素盞嗚尊の、蛇を断りたまへる劒は、今吉備の神部の許に在り。」さらに一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断(あまのははぎり)の劒を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記す。総合すると素盞嗚尊が大蛇を切った劒は「蛇の韓鋤の劒」「天蝿断の劒」あるいは「蛇の麁正の劒」で、吉備の神部のところ、石上にあることになる。「韓鋤の劒」は韓から伝来した刀の意・「天蝿断の劒」は蛇を切った劒、すなわち韻霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を祀ったのが布都魂神社である。


193 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:01:52   ID:n87hiXs+ 
和爾坐赤阪比古神社
阿田賀田須命(赤坂比古命)

愛知県春日井市 
両社宮神社「阿田賀田須命」、朝宮神社「阿太賀田須命」、天神社「吾田片隅命」、和爾良神社「阿太賀田須命」

『赤磐郡誌』では赤坂郡と磐梨郡が合併して赤磐郡になったのだが、「我が国で剣工と云へば備前、備前と云へば我が郷土即ち 赤磐郡及其の周辺を込めた地である


194 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:08:47   ID:n87hiXs+ 
健飯賀田須(阿田賀田須命)
@父:大御気主  母:大倭国民磯姫
A子供:太田田根子 
B和迩君等祖。

三島明神の縁起によると、三島明神が最初に鎮座したのは三宅島の富賀神社とする。庵原の西隣の清水市清水原に砥鹿神社があり、三河穂国一宮砥鹿神社と同名である。穂国の砥鹿神社神主砥鹿氏=日下部は、このようにして東遷したという。


195 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:14:25   ID:n87hiXs+ 
三河 参河國造  物部連の祖出雲色大臣命の孫・知波夜命
美濃 三野後國造 物部連の祖出雲色大臣命の孫・臣賀夫良命


196 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:19:10   ID:n87hiXs+ 
宇摩志麻治命(うましまちのみこと)
孫の味饒田命(うましにぎたのみこと)[阿刀連(あとのむらじ) 等の先祖]
三世の孫の大禰命(おおねのみこと)[彦湯支命の子供]
四世の孫の大木食命(おおきくいのみこと)[三河国造(ミカワノクニノミヤツコ) 等の先祖。出雲醜大臣命の子供]


197 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:22:37   ID:n87hiXs+ 
『三河國一宮砥鹿神社誌』では「保食神」「大木食神」「火産霊神」「朝廷別王」がある

石巻神社[いしまき」「大己貴命」三河国造知波也命祖大木食命の勧請。愛知県豊橋市石巻町字金割1
三河 宝飯 大木神社「大木食命」
ニギハヤヒ命・ウマシマジとその子孫、出雲色大臣と大木喰命は三河一宮・大木から 豊川下流の神社に鎮座する


198 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:25:49   ID:n87hiXs+ 
伊香色雄命(いかしこおのみこと)
  この命は、春日宮で統治された天皇の御世に大臣となり、磯城の瑞籬宮で統治された天皇から大臣の詔を受け、神の種類を分け、天社(=天津神の神社)と国社(=国津神の神社)を定めた。物部八十手(もののべのやそて)が作った、神祭りの方法で、八十萬の神を拝んで祭った。この時、建夫都大神(たけるふつのおおかみ)の社を大倭の国の山邊の郡の石上邑(いそかみのむら)に遷した。饒速日尊が天祖から授かり、天より持ってきた天璽瑞宝も同じく収めて祭った。石上大神(いそかみのおおかみ)と名付けた。


199 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:29:13   ID:n87hiXs+ 
垂仁二十五年、倭姫命をよりしろとして天照大神を伊勢に祀ったとき、大水口宿禰命に、倭大神がのりうつって言った。
「最初のはじまりのときに約束して、『天照大神はすべての天原(あまのはら)を治めよう。
代々の天皇は葦原中国の諸神を治め、私には自ら地主の神を治めるように』ということであった


200 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:35:05   ID:n87hiXs+ 
大水口宿禰命〔建忍山宿禰の娘弟橘媛 (日本武尊の妃)

水口神社。 
滋賀県甲賀郡水口町宮の前。 
祭神:大水口宿禰 配 大己貴命、素盞嗚尊、稻田姫命 。 

大水口宿禰は饒速日命の3世の孫、出石心大臣の御子で、郷土開拓の祖神とされている。 系譜を記すと、饒速日命−宇麻志麻治命−出雲色多利姫−出石心大臣命−大水口宿禰とつながる。 また、別の異説があり、『姓氏録』では穂積朝臣の祖と言われ、伊香色雄命の子とされる。


201 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:43:40   ID:n87hiXs+ 
大水口宿禰━建忍山宿禰┳━大木別垂根━穂積

内々神社
愛知県春日井市
祭神は建稲種命 日本武尊 宮簀媛命です。創建は熱田神宮より8〜9年早く、日本武尊東征の帰路、副将軍である建稲種命が駿河の海で水死されたことを知った日本武尊は「うつつかなうつつかな」と嘆かれ、その霊を祀ったのが内々神社です。


202 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:48:15   ID:n87hiXs+ 
第13代 成務天皇の時代

遠淡海 (トオツアウミ) 国造(静岡県浜松市周辺)物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の子の印岐美(イキミ)命
珠流河(スルガ)国造(静岡県富士川下流、富士市・沼津市・裾野市)物部連の先祖の大新川(オオニイカワ)命の子の片堅石(カカシ)命
三野後(ミノノシリ)国造(岐阜県美濃)物部連の先祖の出雲大臣(イズモオオオミ)命の孫の臣賀夫良(オミカフラ)命
尾張(オワリ)国造(愛知県西部)天別の天火明(アメノホノアカリ)命十世の孫の小止與(オトヨ)命
参河(ミカワ)国造(愛知県三河地方)物部連の先祖の出雲色大臣(イズモシコオノオオオミ)命の五世の孫の知波夜(チハヤ)命


203 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:49:49   ID:n87hiXs+ 
神功皇后の時代

伊豆(イズ)国造(静岡県伊豆半島)物部連の先祖の天御桙(アメノミホコ)命の八世の孫の若建命(ワカタケ)命


204 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:51:29   ID:n87hiXs+ 
謁播神社
岡崎市
祭神は、知波夜命。 物部氏の祖・出雲色大臣命の五世孫で、 成務天皇の御代、参河国造に任命された。


205 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:52:47   ID:n87hiXs+ 
三河額田  石座神社「天照國照日子火明命 ほか」 額田郡額田町大字石原字宮ノ
三河額田  七所神社「饒速日命、可美眞手命、味饒田命、彦湯伎命、大禰命、出雲醜大臣命、出石心大臣命」岡崎市百々町字池の入28


206 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 20:56:01   ID:n87hiXs+ 
穂国造の本拠は宝飯郡であるが、確定できる主要な古代遺跡がないため中心地は不明である。

西三河に該当する三河国造の本拠は、二子古墳のある鹿乗川流域遺跡群(安城市桜井町地域)と推定されている[

豊川市白鳥町上郷中・下郷中付近説で、総社があることや「おとど(大臣)」の地名から推定された


207 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:00:18   ID:n87hiXs+ 
由緒
祭神、春日明神、知波夜命。
本社古文書に、出雲色大臣命5世之孫知波夜命当村に来り給ふをもって来山といふ


208 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:00:36   ID:n87hiXs+ 
豊橋駅西は羽田町と呼ばれ、羽田氏の勢力の強いところである。聖徳太子から弥禄菩薩像を譲り受け、京都の広隆寺に安置した秦河勝も信州や関東に活躍地があり、東三河にも拠点を持っていた可能性がある。小坂井の菟足神社には、河勝の長男・石勝が天武朝に逗留したことが伝えられている。

209 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:02:06   ID:n87hiXs+ 
宮下文書

 徐福の編纂した「十二史談」は富士山の延暦大噴火(800)の際、相模の寒川神社に疎開し、建久3年(1192)に、宮下家49代・源太夫義仁が写本した。この間約400年間は、富士山を留守にしていた。
 寒川の原本はその後、洪水により流失して、今はない。
 写本が里帰りした後は、「みだりに開くべからず。もし開かば明を失すべし」と密封されていた。
明治16年(1883)に開封されるまで、門外不出の秘経として、天井裏に秘匿されていた。


210 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:04:16   ID:n87hiXs+ 
相模国大山寺縁起によると、大山寺の第三世は、真言宗の開祖・弘法大師であるという
寒川町・寒川神社に徐福文献とも称される「宮下文書」が存在した。富士古文献とも呼ばれ、富士山の爆発を逃れて、相模川下流に移動したと記す。


211 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:05:18   ID:n87hiXs+ 
「海部氏勘注系図」の九世孫「意富那比命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「倭トト日百襲姫命」「千々速日女命」「日神」「神大市姫命」であるという。
 また、十一世孫「子登與命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「小豊姫命」「豊秋津姫命」「宮ズ姫命」「日神荒魂命」「玉依姫命」とある


212 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:08:15   ID:n87hiXs+ 
三遠式銅鐸
大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の二種がある。近畿式は大和・河内・摂津で生産され、三遠式は濃尾平野で生産されたものであろうと推定されている
静岡県引佐郡三ケ日町釣荒神山出土
青銅製
高57.6(cm)
弥生時代(後期) 2〜3世紀


213 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:11:44   ID:n87hiXs+ 
大正13年に宝飯郡伊奈で発見された銅鐸三基

三遠式銅鐸という銅鐸で、三河遠江で流行する1メートル前後の大型銅鐸


214 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:13:56   ID:n87hiXs+ 
楽浪郡出土資料の8割がこのグループ
近畿式・三遠式銅鐸の鉛同位体比とよく一致している。年代も、紀元2世紀を中心とし紀元前2世紀〜紀元4世紀の間におさまる


215 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:19:06   ID:n87hiXs+ 
遠江國引佐郡 乎豆神社
旧郷社

御祭神
内宮 天照大御神 外宮 豊受大神

相殿 天手力男命 拷幡千千姫命 瓊瓊杵命
相殿 天児屋根命 天太玉命
静岡県の浜松市細江町

細江町から、現在まで9口の銅鐸が出土している。この銅鐸の形式は三遠式であり、この三河・遠江に主として分布する三遠式銅鐸は260年〜290年に鋳造され使用されたとされる。


216 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:20:19   ID:n87hiXs+ 
延喜式内社 乎豆神社
 乎豆神社は 平安時代に醍醐天皇の命により編纂された法典「延喜式」の中の「神名帳」に名前が記されている古い由緒と格式を誇る神社です 江戸時代には幕府から社領十五石が寄進されていたと伝えられています
 祭神は 天照皇大神(内宮)と豊受姫大神(外宮)をお祀りしてあり 今日まで広く信仰されてきました
 現在 乎豆神社のある細江町中川地区は 五世紀には大和朝廷により「刑部の御名代」と定められ 平安時代の終りには 伊勢神宮の「刑部御厨」が置かれました


217 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:37:03   ID:n87hiXs+ 
景行天皇

大臣の物部膽咋宿禰の娘の五十琴姫命を妃とした。五十功彦命を生む

四日市
江田神社は延喜式内社、祭神に五十功彦命(いことひこのみこと)を祀る。五十功彦命は日本武尊(やまとたけるのみこと)の弟で、日本武尊とともに各地で賊と戦ったが別れてこの坂部の地に留まり、国遣として耕地を開墾して統治と伝承されているそうだ。「日本武尊が伊吹山で妖神と戦い病になり帰る途中、五十功彦命を訪ねるためにこの近くで足を洗い、「吾が足三重にぞ勾ると言った」という後日談の伝説付きである。


218 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:43:51   ID:n87hiXs+ 
五十功彦命(いこひこのみこと)[伊勢刑部君(いせのおさかべのきみ)・三川三保君(みかわのみほにきみ)の先祖]

中田憲信編『皇胤志』では、景行天皇の皇子五十功彦命の子の久々理彦命が大野君(美濃国大野郡住)等の祖??

彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)=〔吉備・吉備上道祖。日下部公祖。火葦北国造。刑部靱負部(刑部靱部)。


219 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:44:43   ID:n87hiXs+ 
桃太郎のモデルとされる吉備津彦命(五十狭芹彦命)の古墓は岡山にあるとされるが、 実は愛知県安城市にもその古墳がある

220 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:47:22   ID:n87hiXs+ 
讃岐国一の宮である田村(たむら)神社がある。祭神は倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹彦命・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命で,「田村大神(タムラノオオカミ)」と総称する

221 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:53:27   ID:n87hiXs+ 
『先世旧事本紀』

この書を書いたのは、興原敏久 (おきはらのみにく)(物部敏久)とされ、それは平安時代の事だと言われている。興原敏久(物部敏久)は三河の国の出身で、平城・嵯峨・淳和天皇の時代の法律家である。

大同初年ごろに大宰少典でだったが、同三年正月に外従五位下に昇り、弘仁二年には明法博士だった


222 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 21:54:48   ID:n87hiXs+ 
饒速日命の二世の孫である出雲色大臣の、その五世孫、「知波夜」は成務天皇のとき参河国造
知波夜の子孫が興原敏久であると言われているらしい


223 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:03:34   ID:n87hiXs+ 
『先代旧事本紀』の巻五「天孫本紀」に、物部十市根大連の子・物部胆咋宿禰が三川穂国造美己止直の妹伊佐姫を娶ったとある。これは成務朝の事
、『先代旧事本紀』の巻十「国造本紀」には、雄略朝に葛城襲津彦四世孫菟上足尼を穂国造に定めたとある


224 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:07:06   ID:n87hiXs+ 
穂国にも配置された日下部を朝廷別王の子孫が管理し、日下部は日下戸、草鹿砥と表記が変わり砥鹿氏になったのではないかとされる
『日本書紀』の景行紀に祟神の子の豊城命の孫狭嶋王を東山道十五国の都督に就けたとある
伊予皇子=彦狭嶋命と父の孝霊は丸邇氏の出


225 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:12:54   ID:n87hiXs+ 
駿河国とは、珠流河国造が7世紀に廬原国造の領域と併せて駿河国を建て、この時の領域は現在の静岡県の中部と東部
一宮は富士宮市大宮町鎮座の、国内1300余にのぼる浅間神社の総本宮である富士山本宮浅間大社で、二宮は庵原郡由比町町屋原鎮座の豊積神社である。三宮は静岡市清水区三保の御穂神社


226 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:15:10   ID:n87hiXs+ 
吉備一族の国造

吉備地方の下道国造(備中国下道郡)、上道国造(備前国上道郡)、加夜国造(備中国賀夜郡)、三野国造(備前国御野郡)、笠国造(備中国小田郡)のほか、盧原国造(駿河国盧原郡。系譜に疑問もあり,和邇氏族の影響がある)、角鹿国造(越前国敦賀郡)、伊弥頭国造(越中国射水郡)
盧原・角鹿・伊弥頭の諸国造など東国の吉備一族は、日本武尊の東国遠征に随従した吉備武彦の子弟が遠征路上に置かれて始められたと伝える。


227 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:16:11   ID:n87hiXs+ 
廬原公は吉備氏族の出と称するが、庵原・阿倍郡には白髭神社が多く分布し、実際には和邇氏族の出ではないかとも推される

228 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:16:52   ID:n87hiXs+ 
孝霊から系譜する吉備氏の子孫が伊豆半島根元の廬原国造となって三嶋神社に大山祗神を祭った。伝承は孝靈皇子の彦狭嶋命から系譜している

229 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:20:10   ID:n87hiXs+ 
知立神社
愛知県知立市西町神田
景行天皇の時創立という
江戸時代は「智鯉鮒大明神」と称していた
由緒
当神社は、第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国ご平定のさい、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給い、依って以て数々の危難を脱して平定の大功を完うし給えるにより、其の報斎のため、建国の祖神、彦火火出見尊、鵜鵜草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後世、文化の恩神聖徳太子を合わせ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をもお祀り申し上げてあります


230 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:20:36   ID:n87hiXs+ 
知立神社
摂社  親母神社 御祭神 豊玉媛命
同   土御前社 御祭神 吉備武彦命(知立神杜創建の御奉行と伝ふ)
末社  小山天神社。合祀殿。秋葉社


231 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:23:02   ID:n87hiXs+ 
猿投神社
愛知県豊田市猿投町
御祭神
大碓命
配祀 景行天皇 垂仁天皇大碓命を主祭神とする現在の祭神は、
近世以降のものらしく、それ以前には、
猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、頬那芸神、大伴武日命など、
異説が多いのは、古くから祀られていた古社らしい


232 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:25:20   ID:n87hiXs+ 
猿投神社

日本書紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘2人を妃とせられ、2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云云とある。社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査書)に「景行天皇52年(122)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。


233 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:26:00   ID:n87hiXs+ 
猿投神社
社蔵神号額(嘉元2年=1304)には「正一位猿投大明神」とあり、三河国国内神名帳にも「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。


234 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:27:22   ID:n87hiXs+ 
久佐奈岐神社
鎮座地 清水市(現静岡市清水区)山切字宮平101番地 ご祭神 日本武尊 合祀 弟橘媛命 吉備武彦命 大伴武日連命 膳夫七掏胸脛命


235 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:29:57   ID:n87hiXs+ 
庵原氏
「新撰姓氏録」庵原公、笠朝臣と同祖。稚武彦の後である。孫の吉備武彦は、景行天皇の時、東方に遣わされ、毛人及び凶鬼神を伐ち阿部庵原国(駿河国庵原)に到った。
庵原氏は、吉備氏や国前氏と同族。天智2(663)年、庵原君臣は白村江に進行する


236 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:35:59   ID:n87hiXs+ 
大野東人 (=安部東人?)

奈良時代の武将。天武13年大野朝臣姓を賜う。 陸奥国(東北地方)に鎮守将軍として赴任し、多賀城を創建する
天平九(737)年、鎮守府将軍大野東人が出羽国への「玉野道路」を開く


237 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:38:12   ID:n87hiXs+ 
大山積神社所蔵文書にある系図によれば、玉澄を玉興の弟としその子が安元であるとしている。玉澄は藤原広嗣の乱に際して、大野東人に従って乱の鎮圧に功があった。また、玉澄の孫広成は越智宿禰姓を与えられ、以後、伊予に分流が蟠踞

238 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:43:14   ID:n87hiXs+ 
若日子建吉備津彦命に一男二女がおり、姉妹ともに景行天皇の後宮に入り、姉は天皇の皇后に立ち櫛角別王・大碓命・小碓命を生んだ。 この小碓命は日本武尊である。 景行天皇即位四年、日本武尊の東征に従って大功があった。

239 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:46:21   ID:n87hiXs+ 
景行の皇子のなかにあげる神櫛別命、櫛角別命や、倭建命の子にあげる綾県主の祖・武卵王(たけかいこのみこ)は同人?
景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀が合致しません。

神櫛王や武卵王は伝説上の讃留霊王(さるれいおう)にも当たる人物であり、讃岐国造は『百家系図』巻9等に系図が見えますが、神櫛命の子にあげる千摩大別命の子孫として記載されます。


240 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:54:09   ID:n87hiXs+ 
大伴常盛は、幡豆・八名の両郡司であったとされる。
天平勝宝五(七五三)年に大倭宿祢小東人(ヤマトノスクネコアズマンド)が、三河国司に任命されている。 記紀は、景行の子は、八〇人あまりいたとし、そのなかの二〇人あまりの名を記載する。倭宿祢の名は、記紀には、記載されない。
大伴神社は、明治四一(一九〇八)年、賀茂神社(豊橋市賀茂町、旧八名郡賀茂)に合祀された


241 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 22:55:42   ID:n87hiXs+ 
大伴神社の祭神は、三河大伴直の祖・倭宿祢であったと考えられる。
火明命を祖とする海部氏が、代々神職を務める丹後一宮・籠神社が所蔵する国宝の祝部氏系図は、火明命の三世孫を倭宿祢とする。また、籠神社が、所蔵する海部氏本紀は、天孫本紀と同様、天忍人を火明命の三世孫とするが、別伝として天忍人を倭宿祢とする。


242 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 23:03:42   ID:n87hiXs+ 
堤根神社の祭神は仁徳天皇ではなく、茨田連(まんだのむらじ)の先祖の彦八井耳(ひこやいみみ)命(神武天皇の皇子)です。茨田連は堤の建設 に深く関わった

243 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 23:06:35   ID:n87hiXs+ 
彦八井耳命は健磐龍命の岳父に当たるわけで、健磐龍命を祀る阿蘇神社でも三の宮として彦八井耳命が祀られています

244 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 23:07:24   ID:n87hiXs+ 
日子八井命(ひこやいのみこと、生没年不詳)は、日本神話に登場する日本の皇族。彦八井耳命・彦八井命・武国竜命・高知保神。『古事記』によれば、初代神武天皇の皇子で、母は大物主神の女・伊須気余理比売命であり、同母弟に神八井耳命・神沼河耳命がいる。しかし、『日本書紀』には日子八井命の名は無く、『新撰姓氏録』・『阿蘇氏系図』では神八井耳命の子となっている。

菅原道真と共に大阪府門真市・堤根神社の祭神として祀られている


245 : 名無しさん@chs    2008/10/26(日) 23:13:13   ID:n87hiXs+ 
伊須気余理比売 
奈良県奈良市の率川神社、大阪府茨木市の溝咋神社などに祭神として祀られている

神武の正妃を紀は事代主神の大女で媛蹈鞴五十鈴媛命とのみするが、記は狭井河の上に家がある伊須気余理比売とする

伊須気余理比売の長子の神八井耳命は多氏の始祖となり、次子の神渟名川耳命が二代目の綏靖となった。綏靖の皇后は磯城依媛の妹の五十鈴依媛である。そして磯城氏の男が同じ磯城氏の女に生ませた子は必然的に磯城津彦玉手看、すなわち三代目の安寧である。その子の一人もまた磯城津彦命という。


246 : 名無しさん@chs    2008/10/29(水) 13:59:54   ID:q8fKtChw 
昭和十二年に発行となった『神道大辞典』には、八剣神社の主なものとして、愛知県では宝飯郡三谷町、岐阜県では羽島郡八剣村下印食、同郡桑原村八神、土岐郡肥田村、養老郡笠郷村があげられています

熱田神宮境内に別宮八劔宮として鎮座します。同社の祭神は素盞嗚神とも草薙剣に因んで日本武尊ともされますが、尾張国造一族が奉斎してきた事情からみて、おそらくは海神族の祖八千矛神を祀るものとみられます。


247 : 名無しさん@chs    2008/10/29(水) 14:00:45   ID:q8fKtChw 
度津臣、度津宿祢という古代姓氏もあり、三河国宝飫郡渡津〔度津〕郷に起るのではないかとみられますが、これも和邇氏族と推されます。

248 : 名無しさん@chs    2008/10/29(水) 14:02:14   ID:q8fKtChw 
大碓皇子〔=身毛津君・守君・大田君・島田君の祖。三野宇泥須別。牟宜都君。守君・島田〕

249 : 名無しさん@chs    2008/10/29(水) 14:08:14   ID:q8fKtChw 
多神社に伝わる「多神社注進状」
「大宮二座、珍子賢津日靈神尊、皇像瓊玉に坐す。天祖聖津日嬖神尊、神物圓鏡に坐す。神淳名川耳天皇の御世、二年辛巳歳、神八井命帝宮より降り、当国春日県に居り大宅を造営し国政を塩梅す。ここに皇祖天神を祭礼し、幣帛を陳し祝詞を啓す。県主遠祖大日諸を祀となし、奉仕せしむるなり。
 御間城入彦五十瓊殖天皇の御世、七年庚寅歳冬中、卜により八十萬群神を祭らしむるとき、武恵賀別の子にして神八井命五世の孫武恵賀前命に詔し、神祠を改めつくり「珍御子命皇御命、新寶天津日瓊玉矛等を奉斎し、社地を号け太郷という。天社の封を定む。神地の舊名春日宮、今多神社という」とある。

注進状には、崇神のとき多の宗家は武恵賀別といったとある。武恵賀前という人物も出てくる。この語根はむろん「恵賀」であろうが、恵賀はそもそも買う地志紀の地名であった。恵賀川の地名もある


250 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:02:55   ID:JBH/hGzg 
八十主神社(丸亀市)

 延久五年(1073)創立され、当時池の下に鎮座していた八十主神社が寛文四年(1664)九月現在地に移った。
 祭神は大国主命(大己貴命)大国主神はスサノオノミコトと稲田姫との間に生まれた、御子神になっている。
 大国主神はたくさんの兄弟で八十神たちからら軽んじられていた。
 だから稲羽(因幡)に八上比売という美しい姫が居るときいて、八十神たちがそろって求婚の旅に出かけたときも大国主神は、大きな荷物を持たされた。
 因幡の白兎の伝説でたすけた兎が「八十神たちは誰1人八上比売を娶る事はできません。八上比売は、あなたを選ばれるでしょう」と云った。
 果して八上比売は大国主神を選んだ。
 すると、八十神たちは怒って大国主神を殺そうと謀りだまされた大国主神は死んでしまった。
 母君の刺国若比売はなげき悲しんで高天原へ行き、神産巣日之命にわが子を生き返らせてくださいと頼んだ。
 神産巣日之命は蚶貝比売と蛤貝比売を遣され「さきがい」は身を削って粉を出し「うむぎ」は父のような汁をだして粉を練り上げてそれを大国主神の死体に塗ったところたちまち蘇生された。


251 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:06:53   ID:JBH/hGzg 
『古事記』では刺国若比売命
夫は須佐之男命の五世の孫にあたる天之冬衣神で、この神との間に出雲神話の主役神である大国主神を生んでいる。しかし父神の刺国大神と共にその名の起源については詳らかではない。


252 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:07:58   ID:JBH/hGzg 
母の刺国若比売は、大国主命を大屋毘古命の元へ逃した
大国主命、母の刺国若比売の助けをかりて大屋毘古命の元に避難
 「因幡の白兎」の後、大国主命は八十神命の迫害にあって二度生命を落とした。
  一度目が赤猪岩神社、二度目が大岩見神社においてである。
 母の刺国若比売は、大国主命を大屋毘古命の元へ逃した(→ 伊太祁曽神社 )。 大屋毘古命は、貴志川の大国主神社で大国主命を匿ったが、八十神命の追撃が激しかったため、伊太祁曽神社で木の股をくぐらせて、熊成の岳にいる国照神(素盞嗚尊)の元へ大国主命を逃した。


253 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:10:03   ID:JBH/hGzg 
鳥取県日野郡日野町根雨の根雨神社
境内社・十二所権現に四柱の神
蚶貝比売神  (3 叔母?)
 天之冬衣神  (1 父)
 刺国若比売命 (2 母)
 蛤貝比売神  (4 叔母?)


254 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:21:43   ID:JBH/hGzg 
刺国とは

刺国大神(さしくにおほのかみ)の娘、刺国若比売(さしくにわかひめ)を妻として生んだ子は、大国主神。亦の名は大穴牟遅神(おおなむぢのかみ)と言い、亦の名は葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)と言い、亦の名は宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)と言い、あわせて五つの名がある。

名草郡刺田比古神社
祀神刺田比古[サスタヒコ]ノ神大國主合祀
刺田比古[サスタヒコ]は古事記に載る所の刺國大神[サスクニオオノカミ]と一神ならむ 刺國は刺田の誤ならんか 古事記の刺國大ノ神は大國主ノ神の外祖父なり 本國に大國主ノ神の縁あり故に所在多く大國主ノ神を祭れり當社其外祖父を祭るも其縁なり


255 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:30:42   ID:JBH/hGzg 
金拆神社大神神社末社 金拆社 宇都志日金拆命

宇都志日金拆命  住吉三神  天児屋根命
『古事記』に「此の三柱の綿津見の神は阿曇の連等が祖神ともちいつく神なり。
かれ、阿曇の連等はその綿津見の神の子、宇都志日金拆命の子孫なり」と記され
綿津見三神を奉祀するのは宇都志日金拆命の子孫である阿曇家となっている。


256 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:33:23   ID:JBH/hGzg 
穂高見命(宇都志日金拆命)
阿曇の連等者が、その綿津見神の子である宇都志日金拆命の子孫です。


257 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:40:25   ID:JBH/hGzg 
氷鉋斗賣神社[ひがのとめ]「宇都志日金拆命」

神谷神社当社は崇神天皇十年秋九月、四道将軍旦波道主命、出雲国なる八千矛神を迦へ奉りて、字神谷の地に齋き祀られしを始とす。 垂仁天皇の代道主命薨去後国人同命を追慕し、久美の地を卜して神社を創建し、佩かせ給ひし国見剱を神霊として此処に齋き祀る


258 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:42:50   ID:JBH/hGzg 
壱岐 住吉神社
住吉大明神
続風土記によると軍越(くさごえの)神は住吉高磯強石将軍(住吉大明神)と称して八千矛神(大国主)ともいう
住吉大明神は「御伝記」によると、イザナギ大神が筑紫の日向の橘の小戸のアワギガハラにつかえた時に出生した神で、アマテラス大神、月読尊、スサノウノミコト、の兄にあたる


259 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:51:27   ID:JBH/hGzg 
大国主の母は刺国大神の娘、名は刺国若姫です。刺(さし)国とは
宗像の西側の津屋崎一帯の宮地???


260 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 12:58:09   ID:JBH/hGzg 
天之冬衣神. (あめのふゆぎぬのかみ). 『古事記』には天之冬衣神、『日本書紀』には登場していない。 この神は『古事記』に淤美豆奴神と布帝耳神の間に生まれた神で刺国若比売命との間に大国主神を生んだ

天之葺根(あめのふきね)の命の伝承は、日御碕神社創建の伝承に残る。

日御碕神社
林神社(摂社) 天葺根命(天冬衣命)
 境外、宇竜港附近の山上に鎮座す。天葺根命は天照大御神を経島に祀り、素盞鳴尊を隠ケ丘に祀り絡うた。即ち日御碕神社の祭主であって、命の子孫は世々その職を嗣ぎ(中世以降日御碕検校と称す)現小野宮司は実に九十七代の後 に当る。

日御碕神社の目前には、経(ふみ)島があるのですが、その島は御厳島(みいつくしま)とも呼ばれているのです。
 ということは、厳島とは市杵嶋姫


261 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 13:01:06   ID:JBH/hGzg 
日御碕神社 日沈宮
 日の宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(文島又日置島ともいう)に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎き祀り給うたと伝う。
神劔奉天神事
八岐の大蛇を退治て天の雲劒を得たまいし時、御子神天葺根命を御使いとして之を天照大御神に奉り給うた故事に由来するもので、天葺根命の子孫で日御碕神社祭祀家たる小野家に伝わる家伝祭である。斎主たる宮司は毎年十二月、大晦日の深夜唯一人神山(天一山)に登りて之を行う。
この神事は古代より今日まで絶えたことなく、当夜は雨雪いかに甚しくとも神事の始まると共に空晴れ渡り、いまだ嘗て斎主の祭服を霑したことがないという。


262 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 13:02:17   ID:JBH/hGzg 
天葺根命(天冬衣命)
境外、宇竜港附近の山上に鎮座す。天葺根命は天照大御神を経島に祀り、素盞鳴尊を隠ケ丘に祀り絡うた。即ち日御碕神社の祭主であって、命の子孫は世々その職を嗣ぎ(中世以降日御碕検校と称す)現小野宮司は実に九十七代の後 に当る。


263 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 13:08:44   ID:JBH/hGzg 
香取神宮にお祀りされている経津主大神は、武甕槌大神とともに大国主命と交渉して国譲りを実現

264 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 13:14:25   ID:JBH/hGzg 
「古事記」にはこの剣は「都牟刈(つむがり) の太刀」と言う名で現れる。本居宣長は「都牟刈」を、「物を鋭く切る」という意味だろうとしているが、こんな表現は他のどんな伝承記事にもなく、本居宣長も自分の想像で言っているだけのようである。「都牟刈」を「丸くなっている」意味だとして、「草薙の剣」を環頭太刀にあてる意見もある。

265 : 名無しさん@chs    2008/11/02(日) 13:22:02   ID:JBH/hGzg 
葦原中国にある出雲の鳥髪山(現;船通山)へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣を天照大神に献上した

素戔嗚尊から天照大神に奉納され、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊に授けられた。後に、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、東国征伐に出たときに使用


266 : 名無しさん@chs    2009/01/01(木) 19:48:18   ID:ms3MO0Fo 
平 忠常(たいら の ただつね、天延3年(975年)
- 長元4年6月6日(1031年6月28日))は平安時代の武士。父は陸奥介平忠頼。母は左京大夫藤原教宗の娘(または平将門の娘)。平忠将・常将・常近・常遠・胤宗・忠高らの父。諱は忠桓、忠恒とも記す。従五位下、上総介、武蔵国押領使。房総平氏の祖。
経歴
祖父の平良文は武蔵国村岡に土着して村岡五郎と称して、下総国相馬郡の大半を所領とした。父の忠頼も関東で有力な武士として名をはせた。忠常は祖父と父の地盤を引き継ぎ、常陸国、上総国、下総国に広大な所領を有し、上総介(『日本紀略』による。『応徳元年皇代記』には下総権介)、武蔵押領使に任官されている(これらの官に任官はされず自称という説もある)。諸系図では下総国千葉郡にて千葉小次郎と称したと言うが、不明である。京に上り藤原教通(藤原道長の次男)に仕えていた形跡がある。
忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞い、国司の命に従わず租税も納めなかったとされる。


267 : 名無しさん@chs    2009/01/01(木) 19:52:51   ID:ms3MO0Fo 
千葉神社
千葉の地を治めた千葉氏の祖・平良文は、戦のたびごとに妙見尊に祈願して御加護をいただき、 常に大勝利を収めておりましたので、以後、千葉家では代々一門の守護神として熱烈な信仰を捧げてまいりました。
このような関係から、現在地には千葉家三代忠常により先に御分霊が祀られ(年代不詳)、 その後、忠常の次男、覚算大僧正により立派に伽藍整備がなされ、第66代・一条天皇の眼病平癒の勅願所としての功ともあいまって、長保2年(西暦1000年)旧暦9月13日、『北斗山金剛授寺』なる寺号を賜り中興開山されました。

【主祭神】北辰妙見尊星王(=天之御中主大神)
【相殿神】経津主命 ならびに 日本武尊命
経津主命(ふつぬしのみこと)様は、現在の境外末社・香取神社(千葉神社東側・和田病院裏)の御祭神。この香取神社の境内地(通称・香取山:かんどりやま)を割譲して、主祭神である妙見様が御鎮座することになったという経緯により、相殿として祀ることになったという伝えです。


268 : 名無しさん@chs    2009/01/01(木) 20:15:46   ID:ms3MO0Fo 
妙見尊は桓武平氏及び、その末裔・千葉氏の守護神

千葉氏など関東八平氏の守護神が妙見菩薩(星の神)


269 : 名無しさん@chs    2009/01/31(土) 17:21:31   ID:XFu/B/f6 
讃岐国造

景行天皇の子・神櫛別命の孫須売保礼命が応神朝に讃岐国造を賜うに始まる。
敏達朝に凡直姓を賜姓、延暦10年(791)讃岐公に改賜姓、承和3年(836)讃岐朝臣に改賜姓。
更に嫡流は本貫を京都に移して、貞観6年(864)に和気朝臣に改賜姓。
讃岐で繁栄した後裔は、神内、三谷、寒川、由良、十河の庶子家を分出する


270 : 名無しさん@chs    2009/01/31(土) 17:29:09   ID:XFu/B/f6 
〔讃岐国造〕須売保礼命─┴鯽魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君---【紗抜大押】星──坂根──【凡】笠麻呂─小櫛麻呂--海万呂─┬【讃岐】千継──広直─浄直─永成

271 : 名無しさん@chs    2009/02/18(水) 13:56:56   ID:x6HpKD/k 
悪魚退治物語の主人公は神櫛王(かんぐしおう)であるともいわれています(I)。神櫛王は、父が第12代景行天皇で、母が稚武彦命(わかたけひこのみこと)の娘である五十河媛(いかわひめ)です。稚武彦命は讃岐国平定で先陣を切り、桃太郎のモデルになった人物ともいわれており、神櫛王の祖父に当たります。また景行天皇には別の女性との間に既に生まれた日本武尊がおりましたので、神櫛王は日本武尊の異母弟に当たります。したがって、神櫛王と武殻王は系譜上叔父、甥の関係に当たります。神櫛王は讃岐の国造(くにのみやつこ)の始祖とされており、その子孫が分かれて三木、神内、植田、十河、三谷、由良、池田、寒川、村尾等の諸氏が生まれ、主として山田、三木、寒川の諸郡で繁栄したといわれています。

272 : 名無しさん@chs    2010/02/18(木) 15:31:02   ID:GILLJ6rc 
牟岐城主、浅川城主、宍喰城主、いずれも藤原氏を名のる鷲住王の子孫の一族である。甲浦の惟宗氏、野根氏、安芸氏など、ともに鷲住王の子孫といわれると町史は述べる。

273 : 名無しさん@chs    2010/02/18(木) 15:37:49   ID:GILLJ6rc 
大山神社
海陽町塩深にある「大山神社」は宍喰の始祖「鷲住王」を祀る由緒ある神社です。


274 : 名無しさん@chs    2010/02/18(木) 15:44:48   ID:GILLJ6rc 
西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。

野根八幡宮
安芸郡東洋町


275 : 名無しさん@chs    2010/02/18(木) 15:48:23   ID:GILLJ6rc 
鷲住王(わしずみおう)は讃岐(さぬき)の国造(くにのみやつこ)および阿波(あわ)脚咋別(あしくいわけ)の先祖(せんぞ)でもある。脚咋別(あしくいわけ)は海陽町宍喰(かいようちょうししくい)を中心(ちゅうしん)に南隣(みなみどなり)の高知県東洋町(こうちけんとうようちょう)を含(ふく)む一帯(いったい)である。脚咋(あしくい)が宍喰(ししくい)になった。

276 : 名無しさん@chs    2010/02/28(日) 21:33:26   ID:ut+YxLyI 
姓氏録右京皇別には 「讃岐公、大足彦忽代別天皇皇子、五十香足彦命之後也」と書かれている。

277 : 名無しさん@chs    2010/03/14(日) 18:31:21   ID:OnqrypZc 
讃岐國苅田郡 加麻良神社
神社誌料には、山の名を御神室と云う、大己貴神・少彦名神、四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。
古老の伝説口碑に伝うるところ「昔、神田村羽方二の宮大水上神社に少彦名命が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝に命を乗せて川に流すと、神室山の中腹(この下、石宮)に着き泣き止む、土地の人たち、光明を放つこと不思議に思い近寄る人に、のり玉うは「我を大己貴の神の鎮まる此山に祭れ、然れば夜泣きをぞ守給うと」依て祠を厳樫の本に建奉りしなり、此の神の流れつきし所を御神室と言う、又此処の古石祠を石宮と稱す。流岡の地はこの事に由来する、大己貴神と少彦名神は協力してこの四国を拓き、農工商すべての産業開発と、方除治病(夜泣き)造酒、製薬、交通、航海安全、縁結び等世の中の幸福を増進することを叶られました。人間生活の守護神であらせられます。


278 : 削除    削除   ID:削除 
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279 : 名無しさん@chs    2010/04/29(木) 18:36:42   ID:8avKRqyA 
桑田山道隆寺明王院(七十七番)
 元明天皇時代の和気道隆という人にまで、開基は遡る。道隆は日本武尊の後裔だとい
う。道隆の荘園にある桑園で、大きな桑の木が怪異を起こした。その木を伐って薬師如
来像を作らせた。小さな堂を建てて薬師像を安置し、朝な夕な供養した。
 延暦末年、道隆の子孫・朝祐の代になっていた。空海と出会って道隆について語り、
薬師像を見せた。像が小さいので朝祐は空海に、大きな像を作ってくれと頼んだ。空海
は信仰心の篤さに打たれ、高さ二尺五寸の薬師像を作り、胎内に道隆の小像を納めて、
永く失われないようにした。朝祐は真言密教に深く帰依し、髪を剃り出家した。荘園も
財物も捨てて寺を建て、薬師像を本尊とした。空海を供養して過ごした。


280 : 削除    削除   ID:削除 
削除

281 : 名無しさん@chs    2011/11/01(火) 00:20:03   ID:VA1cZCe+ 
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめの)命『古事記』= 倭国香媛(やまとのくにかひめ)『日本書紀』は、第七代「孝霊天皇」の妃であり、その皇子の一人が、「日子刺肩別尊」(ひこさしかたわけのみこと)。

高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。

姉が有名な、「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)、弟が四道将軍の一人「大吉備津彦命」である。

倭迹迹日百襲媛命は、お隣り香川県の式内社「水主神社」の御祭神。
讃岐一宮「田村神社」でも、大吉備津彦命とともに御祭神となっている。

祖父に当たる「孝昭天皇」御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)を祀る式内社は、全国で阿波一国「御間都比古神社」のみ。

異母兄に当たる第八代「孝元天皇」大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)の妃、及び、第九代「開化天皇」の皇后となった「伊迦賀色許売命」(いかがしこめのみこと)を祀る式内社も、日本唯一、阿波国の「伊加賀志神社」のみ。


282 : 名無しさん@chs    2012/04/14(土) 13:05:39   ID:5K/YW1Us 
>>31
阿波忌部氏は、カミムスビ系なのですね。
205 :日本@名無史さん:2011/12/17(土) 15:04:05.66
・・・忌部氏には、もう一つ、カミムスビ系の系譜がいる。
この家系は、タカミムスビ系の一族の女性と、
カミムスビ系の男子が婚姻して婿養子に入ったものの家系で
阿波忌部氏などが、その代表的な一族・・・・・・
神武天皇や神武東征をほのぼの語ろう
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