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神櫛王と忌部

1 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:12:08   ID:a8c4790fbb 
『日本書紀』
景行天皇を父とする神櫛皇子(かんぐしのみこ)を讃岐国造に


2 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:17:42   ID:a8c4790fbb 
景行天皇─┼神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鯽魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君

和気氏、植田氏/十河氏、寒川氏、三谷氏などが後継氏族


3 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:25:28   ID:a8c4790fbb 
妃五十河媛、生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子、是讃岐国造之祖也、相伝フ

応神天皇の時代に、須売保禮命(景行天皇の子・神櫛王の三世の孫)を

神櫛皇子・神櫛別命・五十香彦命(いかひこのみこと)とも。第12代景行天皇の第17皇子。『書紀』によれば、母は五十河媛(いかわひめ)で、同母弟に稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)がいたとするが、『古事記』では、母を針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)とし、兄に櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命がいたとする。


4 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:26:00   ID:a8c4790fbb 
神櫛王は

讃岐国造(讃岐公)・紀伊国の酒部阿比古(さかべのあびこ)・宇陀酒部・酒部公の祖


5 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:27:32   ID:a8c4790fbb 
香川県に伝わる讃留霊王(さるれお)伝説によれば、景行天皇23年(93年)に讃留霊王が勅命を受け、瀬戸内の悪魚退治のために讃岐入りし、その地に留まって、仲哀天皇8年9月15日(199年10月21日)に125歳で薨去したという。この讃留霊王について、東讃では神櫛王のこととし(櫛梨神社社伝も同様)、西讃では武卵王(たけかいごのみこ。日本武尊の子)のこととしている。

日本武尊の子の方が本当かもしれない


6 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:37:23   ID:a8c4790fbb 
景行天皇は妃:五十河媛(いかわひめ)との間に

神櫛皇子(かむくしのみこ) 讃岐国造の祖
稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ) 播磨国造の祖

を生む。この頃、讃岐と播磨の交流は深かったのではないか。

製塩や酒造りなど


7 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:46:07   ID:a8c4790fbb 
景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀で記述が異なる。

8 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:47:28   ID:a8c4790fbb 
五十河彦命について舊事記には「五十河彦命、讃岐直五十河別祖」と書かれている。

姓氏録右京皇別には「讃岐公、大足彦忽代別天皇皇子、五十香足彦命之後也」と書かれている


9 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:54:34   ID:a8c4790fbb 
先代旧事本紀巻第七 天皇本紀では

日本武尊は東夷を平らげて、帰ってこられるときに途中の尾張の国で薨去された
吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとたけひめ)を妃とし、武卵王(たけみこのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)を生んだ。また、穂積氏(ほずみのかばね)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘の弟橘媛(おとたちばなのひめ)は稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだ。

ケイコウ天皇は
生まれた皇子は男女合わせて八十一皇子!!!!

神櫛別命(かみくしわけのみこと)[讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の先祖]
稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)[播磨別(はりまのわけ)の先祖]
豊国別命(とよくにわけのみこと)[吉備別(きびのわけ)の先祖]
五十河彦命(いかわひこのみこと)[讃岐値(さぬきのあたい)・五十河別(いかわけ)の先祖]

櫛見皇命(くしみしらすのみこと)[讃岐国造(さぬきのくにのみやつこ)の先祖]
などを生んだ


10 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 09:58:37   ID:a8c4790fbb 
ケイコウ天皇が

皇子に定めた六人の中、男五人、女一人。
 大碓命(おおうすのみこと)[守君(もりのきみ)等の先祖]
 次に小碓命(おうすのみこと)[日本武尊(やまとたけるのみこと)と追贈する]
 次に豊国別命(とよくにわけのみこと)[日向の諸縣君(もろあがたのきみ)等の先祖]
 次に稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)
 次に五十城入彦命(いほきいりひこのみこと)
 次に五十野姫命(いほのひめのみこと)[伊勢の天照大神を斎祠]

この頃の伊勢の天照大神を五十野姫命が斎祠している。


11 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:03:14   ID:a8c4790fbb 
大伴健比連公
    三代実録には次の様に記されている。
        「貞観三年十一月十一日、書博士正六位下佐伯直豊雄欸云(シルメ)、先祖大伴健日連公、景行天皇御世、
         随倭武命平定東国功勲盍世、賜讃岐国、以為私宅、云々」


12 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:06:58   ID:a8c4790fbb 
日本武尊は、吉備武彦、大伴健比連を連れて東国に行った。

綾氏系図には
       武皷王〜雨彌麻彦〜奈鬼爾麻命〜竈王〜多富利別命〜日向王〜多郡君〜依志君〜奴乎古君太夫〜堅石〜
       大山麿〜圓麿〜石床〜業長〜蔵捨〜季世〜百行〜能臣〜定時〜貞清〜行隆〜貞宣等々、
       代々続いて綾郡を領し、日向王以来、綾の大領と呼ばれた。


13 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:21:04   ID:a8c4790fbb 
鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祭っていると言われている

那珂郡柞原村に素戔権現の祠がある。これは篠目命が建立したとの伝説である

阿野郡陶村に有る讃留霊王の社、那珂郡興北村の讃留霊王の社、共に神櫛王を祀っている。又、城山、櫛無等の神社もこの神櫛皇子である。


14 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:28:37   ID:a8c4790fbb 
    五十河媛−+−神櫛 ……【讃岐国造】
         |
         +−稲背入彦
             ‖        【針間別佐伯直】
             ‖−−御諸別−−伊許自別
             ‖
阿邪美能伊理毘賣−+−阿邪美津比賣


15 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:31:16   ID:a8c4790fbb 
針間国造 13成務 稲背入彦命(景行皇子)孫 伊許自別命

16 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:36:24   ID:a8c4790fbb 
『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている

鷲住王は阿波の却咋より、鵜足郡富隈村に移り住み、讃岐で薨玉し、飯山に葬ったと三代実録に記述がある。


17 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:38:41   ID:a8c4790fbb 
坂元神社

讃岐富士の南麓 南西に鎮座。
境内碑

輝く星の氏子われ−坂本神社由緒−
秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。
国持の里 鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し古き地名は今もなおここなしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。
高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。

南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。
父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。
摂津・住吉また阿波内喰にあり。
一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。
薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。
飯山大権現また力山大明神とも称す。
その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。
初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。

鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。
小さいながら私らも、これにつながり生きる星。
飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。
昭和六十年六月吉日


18 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:41:57   ID:a8c4790fbb 
履仲天皇后妃

太姫郎姫【ふとひめのいらつめ】高鶴郎姫【たかつるのいらつめ】

姉妹の高鶴郎姫とともに後宮に入る。兄の鷲住王が遥か遠く遊び行き、久しく会っていないのを歎いた。天皇は鷲住王の怪力を聞いて召し出そうとしたが、再度召しても来ず、諦めたという。

坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。


19 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:45:05   ID:a8c4790fbb 
日本書紀 巻十二
鷲住王は、怪力無双でいつも住吉にいた。
相撲は強かったらしい。

《履中天皇六年(乙巳四〇五)二月癸丑朔》二月癸丑朔。喚〓魚磯別王之女太姫郎姫。高鶴郎姫、納於後宮、並為嬪。於是二嬪恒歎之曰。悲哉。吾兄王何処去耶。天皇聞其歎、而問之曰。汝何歎息也。対曰。妾兄鷲住王。為人強力軽捷。由是独馳越八尋屋而遊行。既経多日、不得面言。故歎耳。天皇悦其強力以喚之。不参来。亦重使而召。猶不参来。恒居於住吉邑。自是以後。廃以不求。是讃岐国造。阿波国脚咋別。凡二族之始祖也。


20 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:51:12   ID:a8c4790fbb 
『日本書紀』によると、宍喰の始祖は、5世紀の鷲住王とされます。この氏族は後に野根氏(野根城主)となり、藤原姓を名乗ります。
『和名類聚抄』のなかの阿波の南部に、「加伊布郷」がみえている。加伊布とは海部のことで、大里古墳ならびに和奈佐意富曾神社を中心とする下灘地方であったと推測されている。

鷲住王はその家来たちとともに大里海岸に住みつき、はじめは漁業などに従事していた。やがて鷲住王の後裔は、海部川下流の平野を開拓して農業を行うようになり、平安時代から鎌倉時代にかけて、北の日輪庄と南の宍咋庄という二つの荘園にはさまれた地域の開発領主として武士化していった。
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国沿岸地帯において和冦が恐れられていた。和冦とは、武士や商人たちによる民間貿易の行き過ぎたかたちであり、和冦のすべてが略奪者というものではなかった。水軍の側面も有する海部氏も特産品である海部刀をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によっておおいに勢力を伸張したものと思われる。記録によれば、享徳年間(1452〜54)から天文年間(1532〜54)の約百年間にかけて、百十四万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
 まことに膨大な量の海部刀が、海部氏によって朝鮮・中国に輸出されたのである。海部氏が海外交易に従事していたことは、海部氏と関係の深かった大山権現に朝鮮鐘が伝わっており、海部氏が和冦として活躍していたことを裏付けている。


21 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:55:16   ID:a8c4790fbb 
高木神社,香川県丸亀市土居町2-,(主神)鷲住王
大山神社,徳島県海部郡宍喰町塩深字尾鼻,(主神)鷲住王命


22 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 10:59:50   ID:a8c4790fbb 
高木隼人の遺構。楠見池は弘治年間(1555〜58)築造されたと言われ、のち矢延伝六が三谷池と楠見池を一つにして現在の楠見池とした。その池の西方に標高80m程の城山に高木隼人が築城し、城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とある。

23 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:08:27   ID:a8c4790fbb 
手置帆負命
手尺の神
工匠の祖神
讃岐忌部氏の祖

天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする阿波国の阿波忌部氏、手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする讃岐国の讃岐忌部氏、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖とする紀伊忌部氏


24 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:11:35   ID:a8c4790fbb 
式内社 安房國朝夷郡 莫越山神社

千葉県南房総市沓見
手置帆負命 彦狹知命
配祀 彦火火出見尊,鸕鷀草葺不合尊,豐玉姫命
合祀 天照皇大御神,譽田別尊
由緒抜粋
 創立は神武天皇元年。天富命忌部の諸氏を率いて東方の開拓に安房の国に来臨し、東方の開拓をなされた時、随神として来られ工匠の職に奉仕した、天小民命、御道命が、忌部の神手置帆負命 彦狹知命を当社莫越山におまつりして祖先崇敬の範を示された。手置帆負命彦狹知命は工匠の祖神で氏上天太玉命に従って宮殿家屋機械器具の類をつくりはじめた神で、工匠の祖神であり家の守護神でもあります。参拝する事により工匠にかかわる人は勿論家屋に住む者すべて御神徳が授けられます。
相殿に彦火々出見尊・豊玉姫命・鸕鷀草葺不合尊


25 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:15:09   ID:a8c4790fbb 
竹田村
         昔、手置帆負命の孫が当地に居た時に鉾竿を八百竿貢いだ
           事により、竹の名地とされ竹田と呼ばれた。
            東西七町、南北十二町の広さである。丸亀から四里三十町
           の距離にあり、東は笠岡、南は上高野、北は比地と大村、西
           は下高野等の諸村に隣接する。


26 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:16:39   ID:a8c4790fbb 
手置帆負命孫
古語拾遺には次の様に書かれている。
「手置帆負命之孫、造矛竿、其裔今分任讃岐国、毎年調康之外、貢八百竿、是其事等證也」


27 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:22:39   ID:a8c4790fbb 
古語拾遺一巻 加序
 從五位下齋部宿禰廣成 撰
思兼命が、「手置帆負」、「彦狹知」二神に、
「天御量」(アメノミハカリ)を作らせた。


28 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:27:51   ID:a8c4790fbb 
手置帆負命(タオキホオイ)を祀る

三豊郡笠田村 村社 忌部神社
大川郡引田町 郷社 譽田神社


忌部五部神  
・手置帆負命(タオキホオイ) 木の神
     讃岐(香川県)忌部の祖。林業・建築業・武器製造業の神

・天日鷲命(アメノヒワシ)
     阿波(徳島県)忌部の祖。紡績業・製紙業の神


・櫛明玉命(クシアカルタマ)
     出雲(島根県)忌部の祖。装飾・美術の神

・彦狭知命(ヒコサシリ) 土の神
     紀伊(和歌山県)忌部の祖。林業・建築業・武器製造業の神

・天目一箇命(アメノマヒトツ)
     筑紫(福岡県)・伊勢(三重県)忌部の祖。金属鉱業の神


29 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:31:32   ID:a8c4790fbb 
上棟祭
木の神様の屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)
建物の神様の屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)
工匠の神の手置帆負命(たおきほいのみこと)
彦狭知命(ひこさじりのみこと)
の四柱の神様と産土神(うぶすなのかみ)をお祀りします

紀伊忌部の祖先たちを率いて山の材を採り、神武天皇の宮殿を造営した天富命の子孫が紀の名草郡に住む


30 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:38:34   ID:a8c4790fbb 
楯縫神社[たてぬい]「彦狹知命」兵庫県養父市養父町建屋字宮山839
齋神社[いつき]「天太玉命、手置帆負命」の摂社楯縫神社「彦狹知命」兵庫県養父市養父町長野字東山265

式内社 備前國御野郡 天計神社
旧村社

祭神は、手置帆負命と彦狹知命。
天計は「あまはかり」と読むが、天量の意味。
地元では「はかりの神様」とも言うらしい
国指定史跡 神宮寺山古墳
 神宮寺山古墳は、三段築成の大型前方後円墳である。規模は、全長一五〇メートル、後円部径約七十メートル、高さ約十三メートルを計測する。この古墳は沖積平野に築造されており、大部分が盛土で築成されている。
 後円部には、現在天計神社が祀られているが、竪穴式石室の所在を予測させる天井石が露出している。また、副室の小型竪穴式石室が知られており、そこから多量の鉄製農具(鍬・鎌等)・工具(鋸・やりがんな・のみ等)や武器(刀・剣等)等が出土した。
 前方部からもかって、古刀・甲冑・槍・鉾の残片が出土したと伝えられ、そこに埋葬施設があった可能性もある。


31 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:43:02   ID:a8c4790fbb 
忌部氏族は古墳を築造した

大同2年(807)斎部広成の古語拾遺にこの神は阿波の斎部の祖神天日鷲神、讃岐の斎部の祖手置帆負(ておきほおい)神、紀伊の斎部の祖彦狭知(ひこさしり)神、出雲の斎部の祖櫛明玉(くしあかるたま)神、築紫と伊勢の斎部の祖天目一箇(あめのまひとつ)神等の斎部系の諸神を率いて奉仕している。天孫降臨にも随伴したこの神々の後裔は代々大和朝廷にあって、斎蔵の長官として権力を有していた。
 斎蔵は中央政府の財物を収めた三蔵のひとつで、大蔵、内蔵とともに朝廷へ用度品を司る役所であった。
 天日鷲命を祖神とする阿波忌部は現在の美馬郡の東部及び麻植郡の西部地方に住み、おそらく5〜6世紀ごろには、ある程度の組織をもって麻、木綿などを植え、衣を織る農工技術者の集団であったことは想像ができる。


32 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:51:06   ID:a8c4790fbb 
五重塔 幸田露伴

金箔銀箔瑠璃真珠水精(すゐしやう)以上合せて五宝、丁子(ちやうじ)沈香(ぢんかう)白膠(はくきやう)薫陸(くんろく)白檀(びやくだん)以上合せて五香、其他五薬五穀まで備へて大土祖神埴山彦神埴山媛神(おほつちみおやのかみはにやまひこのかみはにやまひめのかみ)あらゆる鎮護の神を祭る地鎮の式もすみ、地曳土取故障なく、さて龍伏(いしずゑ)は其月の生気の方より右旋(みぎめぐ)りに次第据ゑ行き五星を祭り、釿(てうな)初めの大礼には鍛冶の道をば創められし天(あま)の目(ま)一箇(ひとつ)の命(みこと)、番匠の道闢(ひらか)かれし手置帆負(ておきほおひ)の命(みこと)彦狭知(ひこさち)の命より思兼(おもひかね)の命天児屋根(あまつこやね)の命太玉の命、木の神といふ句廼馳(くゝのち)の神まで七神祭りて、其次の清鉋の礼も首尾よく済み、東方提頭頼持國天王(とうばうたいとらだぢごくてんわう)、西方尾叉廣目天王(さいはうびろしやくわうもくてんわう)や南方毘留勒叉増長天(なんぱうびるろしやぞうちやうてん)、北方毘沙門多聞天王(ほつぱうびしやもんたもんてんわう)、四天にかたどる四方の柱千年萬年動(ゆる)ぐなと祈り定むる柱立式(はしらだて)、天星色星多願(てんせいしきせいたぐわん)の玉女三神、貪狼巨門(たんらうきよもん)等北斗の七星を祭りて願ふ永久安護


33 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:52:54   ID:a8c4790fbb 
讃岐塩飽島 三所神社「天照皇大神 配 手置帆負神、天香山神」丸亀市本島町生の浜635

34 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 11:53:33   ID:a8c4790fbb 
讃岐多度  大麻神社「天太玉命 配 天津彦彦火瓊瓊杵尊、天香語山命、天櫛玉命、天糠戸命、天御陰命、天神立命、天三降命、天伊佐布魂命、天事湯彦命、天神玉命、天村雲命、天世手命、天湯津彦命、天神魂命、天乳速日命、天活玉命、天下春命、天鈿女命、天道根命、天明玉命、天造日女命、天玉櫛彦命、天日神命、天伊岐志迩保命、天表春命、天兒屋根命、天椹野命、天背男命、天斗麻彌命、天八坂彦命、天少彦根命、天月神命」善通寺市大麻町上ノ村山241
讃岐阿野  城山神社摂社横関神社「天香語山命」摂社長谷神社「天太玉命、天道根命」綾歌郡綾上町羽床上1697ー2
讃岐鵜足 亀山神社摂社金神社「天香山命」綾歌郡飯山町東坂元1372


35 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:20:16   ID:a8c4790fbb 
天日鷲命が祀られる大麻山

香川県には、善通寺市大麻町上ノ村山241 大麻神社「天太玉命」 と観音寺市粟井町1716 粟井神社「天太玉命」 が鎮座している

高魂命−−−O−−−太玉−−−−−O−−−天富−−−飯長媛
                           ||
神魂命・・・天手力男−天日鷲(天日鷲翔矢)−大麻彦−由布津主

大麻神社:讃岐国多度郡
延喜神名式「讃岐国多度郡尓大麻神社とありて、延喜式内二十四社の一なり」。天太玉命は、高皇産霊神の御子に座して、天児屋根命と倶に祭祀を主り給い、抜群の御功績あり。天照大御神、瓊々杵尊に豊葦原瑞穂国を御依し給ひて、天孫降臨。命は供奉三十二神の五伴緒の一神にして、所謂、忌部氏の祖神なり。
御鎮座創祀は往古に属し、正史に神武天皇の御宇、諸国に忌部の社を建て祭祀せしと相伝ふ。往古当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め、その祖神天太玉命を祀り大麻天神と奉称し、村の名を大麻と云ふ。

一.12代景行天皇23年癸巳年夏、南海に悪魚ありて災害をなす。天皇、皇子神櫛王に平げ給へと勅ありて、軍士を率いて下る。討伐に際し大麻神は天孫と倶に、国土平定の守護の神なりとて祭り、果して験あり。土佐国より当国綾の海にて斯を平定し後、国造に任ぜらる。その時、崇敬愈厚く御供仕へし穂積忍山彦根をして、社殿を修営し玉串を納め祭祀を主らしめ給へり。(穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖なり)




大麻比古神社 鳴門市大麻町板東字広塚
祭神
大麻比古神命(天富命)、猿田彦命
由緒
 祭神については昔から論議されてきている。 猿田彦神説と忌部の祖神とする説に分かれる。現在はあまり関係の少ない二神を併祀している。
 忌部氏の遠祖は天岩戸隠れの段で活躍する天太玉命である。天太玉命の後裔に天日鷲命(阿波忌部氏の祖)、手置帆負命(讃岐忌部氏の祖)、彦狭知命(紀伊忌部氏の祖)、天富命(安房忌部氏の祖)となった。 阿波の忌部系の神社はほかに、麻植郡山川町の山崎忌部神社と美馬郡貞光町の五所神社が有力論社としてで本地争いをした結果、新しい忌部神社が徳島市二軒屋に作られている。


島根県室谷にある大麻山
仁和4年(888)11月3日、阿波国板野(徳島県)の権現大麻彦命の大麻にあやかり山号を大麻山と改めました。 寛平元年(889)2月10日、山号を変更したことを宇多天皇に報告し許しを得て、徳島県板野郡大麻町の大麻彦神社主祭神大麻彦命と配祀猿田彦命、徳島県二軒屋町の忌部神社祭神天日鷲命と蔵王権現(少彦名命)を請い迎えました。そして大麻山周辺では真言教と山岳密教が融合した信仰が行われていたようです


36 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:21:03   ID:a8c4790fbb 
橿原市忌部町には並名神大の天太玉命神社が鎮座、和歌山市鳴神1089 鳴神社「本来は天太玉命」 が名神大社である。 和歌山県には、他に那賀郡桃山町神田101 三船神社「木靈屋船神 配 太玉命、彦狹知命」 、和歌山市下三毛508 上小倉神社「手置帆負命 配 彦狹知命」 が知られている。

37 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:24:51   ID:a8c4790fbb 
 『随筆 石見物語』著 木村晩翠
郷社大麻山神社は、石見34座の1つである式内社で、祭神は天日鷲命及びその御
子である。猿田彦大神も相殿に祭祀してある。皇祖天照大神が天磐戸に隠れさせ給ふ
た時、天日鷲命は例の磐戸神楽を諸神と共に奏せられた。其時白和幣を作り又香弓六
挺を並べて琴を造り音も妙に掻き鳴らし、大神の心を慰め給ふた。命は兼て禍物を平
らげ鳥獣の御狩に堪能で、天香弓天香矢を御用意あらせられた。即ち武の神であり、
音楽芸術の神様とも崇められる。そして、我国農業の祖神である。命の御子はかつて
神武天皇の勅を奉じて阿波国に降り麻、楮、穀物を蕃殖せしめ、殖産興業の基を杯き
玉ひ国富み民栄えた。此命をお祀りしたのが大麻比古神社で阿波国板野郡に鎮座して
ある。上古我地方に忌部族渡来の時忌部の祖天日鷲命を祀れる忌部神社及び大麻比古
神社の諸神を遷座して大麻山に奉祀したのが、此大麻山神社の起源である


38 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:36:12   ID:a8c4790fbb 
安房神社

本宮(上の宮)                       
主祭神   天太玉命(アメノフトダマノミコト)
相殿神   天比理刀当ス(アメノヒリトメノミコト・天太玉命の妃神)
      忌部五部神 − ・櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)
                     出雲(島根県)忌部の祖。装飾・美術の神
                    ・天日鷲命(アメノヒワシノミコト)
                     阿波(徳島県)忌部の祖。紡績業・製紙業の神
                    ・手置帆負命(タオキホオイノミコト)
                     讃岐(香川県)忌部の祖。林業・建築業・武器製造業の神
                    ・彦狭知命(ヒコサシリノミコト)
                     紀伊(和歌山県)忌部の祖。林業・建築業・武器製造業の神
                    ・天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)
                     筑紫(福岡県)・伊勢(三重県)忌部の祖。金属鉱業の神
摂社・下の宮
    天富命(アメノトミノミコト・天太玉命の孫神)
    天忍日命(アメノオシヒノミコト・天太玉命の兄弟神)
末社・厳島社
    市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト・海上交通を守護される海の神)
末社・琴平社
    大物主神(オオモノヌシノカミ・海上交通・航海安全の神)


39 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:38:41   ID:a8c4790fbb 
神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ開拓を進められました。
 その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。
 この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀当スをお祭りされており、これが現在の安房神社の起源


40 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:44:20   ID:a8c4790fbb 
天太玉命神社

ご祭神 天太玉命 大宮売命
    豊石窓命 櫛石窓命 

鎮座地 奈良県橿原市
    忌部町字一之道153
斉部氏の祖神で『記』『紀』によると天孫降臨際の、天児屋根命とともに随行して、祭祀のことを掌って朝廷に奉仕したとある。その孫天富命も天種子命とともに、神武天皇に仕えて祭祀を担当して橿原宮の造営にも当ったが、当忌部の地に居住して一族の宗家となり、斉部氏を称した。
大宮売命は天太玉命の御女で、本名を天鈿女命と称する。豊石窓命、櫛石窓命は同体異名の神として強力無双の手力雄命の別号で、天太玉命の御子である。後世この神を皇居の四方の御門の左右の鎮護として、豊石窓・櫛石窓命という二柱の神名を負わせて祭ることとなった


41 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:46:47   ID:a8c4790fbb 
部氏は朝廷の祭祀氏族から徐々に弾き出され、ついにはゼロに到る。危機感を持った斎部(忌部)広成はその立場を表明せんとして『古語拾遺』を著した。
 興福寺の興隆で当地もその支配下に入り、ついには式内大社であった忌部氏の氏神でさえ、多分衰亡していたのであろう、春日神社にされてしまったと云う事。


42 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:53:45   ID:a8c4790fbb 
中臣氏にしてやられた忌部氏が悔し紛れに上申した『古語拾遺』で暴露したところよると、天岩屋に祭ったのは鏡・幣・玉の他に天目一個神が作った刀・斧および鉄鐸サナギであったという。

43 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 12:57:02   ID:a8c4790fbb 
太玉(ふとたま)神社
古代日本正史、原田常治著によると、「太玉尊の出生地を、いろいろ探してみると曽於郡輝北町市成のようである。宮崎県、鹿児島県をどんなに探してみても太玉尊を祀ってある神社はここしかない。はっきりと太玉尊一人だけを祀って、社名も太玉神社である。よほど深い由縁がなければ、こんな大隅の山の中に一人だけ祀られることはないと思う。やはり市成の出身ではないか」と記されています。


44 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 13:02:04   ID:a8c4790fbb 
日本書紀同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。日本書紀同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。

45 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 13:13:07   ID:a8c4790fbb 
『一之宮貫前神社』(いちのみや ぬきさきじんじゃ) 群馬県富岡市一ノ宮
鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、これが創建にあたります。 
また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。
奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。


46 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 13:20:04   ID:a8c4790fbb 
神原神社
天より降りられた神宝の司、いわつつお磐筒男、いわつつめ磐筒女命と大国主命が祀られ、東側の地から古墳の上に遷し建てられともいわれています。本殿下よりわずかに露出する石材や土器の破片から神原神社古墳と呼ばれていました。近くを流れている川の改修工事計画により、昭和47年神社が移転されることとなり、古墳を発掘調査したところ、出雲地方に現れた初期の大型古墳であることがわかりました。出土品のうちのひとつに、国の重要文化財に指定されている「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が副葬されており、全国的にも大変注目すべき古式の方墳


47 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 13:27:21   ID:a8c4790fbb 
天富神社。。。。安房郡天津小湊(古代は長狭郡)の清澄山
  遠見岬(とみさき)神社。。。勝浦市浜勝浦
天富命の墳墓は富山にあり廟所が清澄の妙見山にありましたが
明治の神仏分離令で現在は山の下へ移されています


48 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 21:38:36   ID:a8c4790fbb 
仲哀天皇が亡くなると、王位を狙って神功皇后の大和入りを阻止したのが、麛坂(かごさか)皇子、 忍熊(おくしま)皇子の兄弟である。二人は仲哀天皇の妃・大中姫との間にできた皇子で、近江の豪族、犬上君の祖・倉見別と難波の吉師の祖・五十狭芽(いさち)宿禰を見方にした。この戦いで五十狭芽(いさち)宿禰は戦死したが、難波吉師は推古朝で活躍し、摂津の大豪族となっている。 神功皇后との戦いの前の狩占いで麛坂(かごさか)皇子は猪に食い殺され、凶と出ているにもかかわらず、忍熊(おくしま)皇子は難波の住吉に陣を置き戦いを続けた。神功皇后の将軍は、丸邇臣(奈良北部の豪族)の祖難波根子建振熊とも武内宿禰とも言われている。かくして神功皇后側が勝利した。

49 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 21:45:08   ID:a8c4790fbb 
吉備津彦神社:吉備津彦命(桃太郎のモデル)を祀っている吉備津彦命は、第七代考霊天皇の第三皇子で四道将軍の一人として吉備に派遣され、出雲族を制した事でも知られている。この討伐の伝承が、桃から生まれた桃太郎が犬・猿・雉を供に連れて鬼が島の鬼を退治した昔話の元になったとも言われている。

50 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 21:54:34   ID:a8c4790fbb 
仲多度郡満濃町吉野大堀

讃岐の国における神節別
酒部もその子孫と伝えられている。讃岐廻遊記には王掘は酒部道隆の子酒部成善が王掘の地に保志野神を観請したと記している。大堀館は県道吉野自治会の道路東側にある。


51 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 21:56:06   ID:a8c4790fbb 
推古天皇五年(596)郡家の戸主酒部善里が八幡神を相殿に祀り、神野八幡宮と称するようになった。

52 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:00:31   ID:a8c4790fbb 
大宮神社:満濃大橋の南、県道財田満濃線沿いに鎮座する神社。

由緒(香川県神社誌)
社傳によれば、延喜五年(紀元一五六五)和気隆従託宣に依り創祀すといふ。
隆従の傳詳ならざれども、或は聖武天皇の世豊原村に道隆寺を建立せし和気道隆の一族とも、又酒部成善の裔なりともいへり。
尚社家黒木氏は和気氏なりと云ふ。古くより近郷の大社にして大宮大明神と称へられる


53 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:03:22   ID:a8c4790fbb 
道隆寺
香川県多度津町北鴨1-3-30
開基は和銅5年(712)。領主の和気道隆が薬師如来を刻み堂宇を建立したことで、その後、唐より帰国の弘法大師に道隆の子朝祐が師事、大師自らが道隆の薬師像を胎内仏とした薬師如来を刻み本尊としました。その後は大師の弟・法光大師、甥・智証大師など名僧が代々の住職を務め、伽藍も造営されたが、兵火により壊滅し江戸時代、歴代住職の尽力により本堂、大師堂、鐘桜、妙見宮などの伽藍、300mほど離れた畑の中に本坊と護摩堂があり、かつての寺域の広大さをしのばせている。寺宝には重要文化財の星曼茶羅図や、伝弘法大師筆の五大尊画像、智証大師作の五大尊木像などがあります


54 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:13:36   ID:a8c4790fbb 
神武天皇

また、天富命は斎部(いわいべ)の諸氏を率いて、種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作った。
また、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)の孫の御祈玉(みほきたま)を造った。古語に美保伎玉(みほきたま)と云うのは祈り祭る事を言う。
また、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫は木綿及び麻の織布を造った。古語に云う荒妙(あらたえ)である。
また、天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な治に分遣し、麻の種を播き植えた。また、天富命は更に肥沃な土地を求めて良い麻・木綿を分け植えた。永く麻を大嘗会(だいじょうえ)に奉るのはこの事が始まりで有る。また、天富命は安房の国で太玉命の社を立てた。安房の社と言うのはこれで有る。
また、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の孫は矛竿を造った。今、讃岐の国が永く八百竿(やおのほこさお)を奉るのはこのためで有る。
また、天児屋命(あめのこやねのみこと)の孫の天種子命は天罪(あまつつみ)国罪(くにつつみ)の事を祓った。
また、日臣命(ひのおみのみこと)は来目部を率いて、御門を守りその開閉を掌った。
また、饒速日尊の子の宇摩志麻治命は内の物部を率いて、矛と楯を造り備えた。


55 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:22:50   ID:a8c4790fbb 
左右近衛府の名称は大同2年(807)に出来、六衛府の形が整ったのは
弘仁2年(811)
公的な儀式が行われた紫宸殿の南庭の東側に桜と橘の樹があり、警護にあたる左右近衛府はこの樹を目印としてその南側に陣
を引く習わしが有ったことから、のち左右近衛府の象徴として左近の
桜・右近の橘と称するようになったものだそうです。


56 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:28:22   ID:a8c4790fbb 
平安時代初期までは左近の梅。

『古事談』と云う書籍他に
南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也、其後天徳四年内裏焼亡ニ焼失了、仍造内裏之時、所移植重明親王家桜木也


57 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:29:15   ID:a8c4790fbb 
吉野の桜が使われた

58 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:33:32   ID:a8c4790fbb 
桓武天皇は宮庭に花樹を植える大陸渡来の伝習をマネして、紫宸殿正面に大陸の先進文明を象徴する渡来花樹の『梅と橘』を植えました。この『梅』は桓武、平城、淳和天皇を経て枯れ、次の仁明天皇は和漢二花樹の『桜と橘』を植えました。

59 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:34:44   ID:a8c4790fbb 
古い姿を残している大覚寺(嵯峨御所)では、今でも梅と橘です。結納飾りでも、原則は、向かって右から「鶴、亀、松、竹、梅」と並べます

60 : 名無しさん@chs    2007/05/06(日) 22:38:30   ID:a8c4790fbb 
梅宮大社
祭神は酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の四座、式内神で二十二社に列し、もと官幣中社であった。橘諸兄の母縣犬養三千代の創建といわれ、古くは橘氏の氏神であった。


初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神である酒解神(さかとけのかみ。大山祇神)、およびその御子神である酒解子神(さかとけごのかみ。木花咲耶姫命)、その夫の大若子神(おおわくごのかみ。瓊々杵尊)、孫の小若子神(こわくごのかみ。彦火火出見尊)を主祭神として本殿に祀る


61 : 名無しさん@chs    2007/05/25(金) 14:19:36   ID:d497b09820 
村社  皇美屋社(與北村字宮前)神櫛王・大伴武日・吉備武彦
村社  垂水神社(垂水村字行時)武殻王
村社  富隈神社(高篠村大字公文字山内)吉備武彦命
郷社  櫛梨神社(象郷村大字下櫛梨字船磐)神櫛王  延喜式内社
郷社  大宮神社(吉野村字宮東)和気道隆
村社  木烏神社(本島村大字本島字甲松ヶ浦)讃留霊王

県社  宇夫階神社(宇多津町字西町)武殻王
郷社  総社神社(林田村字総社)聖武天皇
郷社  神谷神社(松山村大字神谷字川南)阿刀宿禰
村社  高家神社(松山村大字高屋字揚北)高家首

郷社  春日神社(川津村字春日)武殻王
県社  飯神社(飯野村大字東二字山根) 延喜式内社
村社  吉岡神社(飯野村大字東分字山下) 細川定禅
村社  三谷神社(坂本村大字東坂元字三谷) 細川清氏


62 : 名無しさん@chs    2007/05/28(月) 11:27:10   ID:7e52f3f8ae 
讃岐神社 竹取物語
延喜式神名帳に記された神社と考えられ、現在は大物忌命・倉稲魂命・猿田彦命・大国魂命を祭るが、『日本三大実録』元慶七年(883)の散吉大建神・散吉伊能城神に従五位下を授ける記事は当社に関する可能性が大きい。
『神名帳考証』には讃岐国と関係が深い祭神である景行天皇の皇子五十香足彦命を祭ると記される。


63 : 名無しさん@chs    2007/05/28(月) 11:43:41   ID:7e52f3f8ae 
金屋子神の実態についても八幡神、天日槍、卓素、須佐之男命、金山彦命など諸説

金屋子神の本社は島根県安来市広瀬町西比田にありますが、金屋子神の信仰は中国地方を中心に九州、四国の一部から遠く関東、東北の一部まで広がっています。
現在の祭神は金屋子神ではなく、大和の金山彦命、金山媛命になっています


64 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:25:27   ID:939cb75379 
『古語拾遺』によれば、天太玉命の率いた神の中に出雲玉作の祖の櫛明玉命がおり、また、天目一箇命は、筑紫と伊勢の忌部の祖ということになります。
『よりて、天富命(太玉命孫)をして、手置帆負、彦狭知の二柱の神が孫を率いて−(中略)―始めて山の材を採りて正殿を構立しむ。(中略)彼らの裔いま紀伊国名草郡御木、麁香の二郷にあり。材を採る斎部の居るところは御木という。殿(あらか)を造る斎部の居るところは麁香(あらか)という。これその証しなり』(造殿の斎部)
『凡て、神殿、帝殿を造奉たむことは、皆神代の職に依るべし。斎部の官は、御木、麁香の二郷の斎部を率いて―(中略)―伊勢宮及び大嘗の由紀、主基宮を造るときに、皆斎部を預からしめず。』(遺りたる四なり)
紀伊国名草郡の斎部(忌部)が、伊勢神宮の造営に関っていたことになる。
『造殿の斎部』は、『古語拾遺』の『神武東征』の後に書かれているが、伊勢神宮の造営ということになれば、当然、持統朝と考えられます。
『(前略)故に、更に斎部氏をして、石凝姥神が裔、天目一箇神が裔の二氏を率て、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、護の御璽と為す。是、いま踐祚す日に、献る神璽の鏡、剣なり。』(崇神条)
『(前略)石凝姥神をして日の像の鏡を鋳しむ。初度に鋳たるは、少に意に合わず。これ紀伊国日前の神なり。次度に鋳たるは、その状美麗し。これ、伊勢大神なり。』(日神の出現)
石凝姥神の出自については、明らかにしてないが、斎部氏が率いたとなれば、当然関係があったと思われる。
『古語拾遺』のこれらの記載から、鏡、玉、剣の三種の神器の製作に斎部(忌部)が、関っており、更に、伊勢神宮の造営にも忌部が関っていたことになる。
そして、伊勢神宮の造営に関った忌部は、紀州名草郡に居を構えている。
この名草郡には、石凝姥神が最初に造った日神の象徴(鏡)を御神体として、伊勢神宮とも関りの深い日前国懸宮が鎮座する。


65 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:28:57   ID:939cb75379 
莫越山神社
手置帆負命、彦狹知命

天富命は祭神の後裔を率いて木材を伐採し正殿を建てた。その末裔は紀伊国名草にある御木、麁香に住むとある。阿波国よりは紀伊名草の忌部一族が祭祀集団であったと推測されている。千葉県安房郡丸山町宮下27
由緒
当社は、天正天皇養老二年(七一八)、勅願所にかかり地を賜る。神武天皇辛酉元年、天富命は阿波の忌部を率いて、当国に下り給う。この時小民命、御道命の請によりその祖手置帆負命、彦狭知命を祭祀し、延喜式に載する安房六座中小四座の一なり。
古語拾遺に曰く天照大神、高皇産霊尊が天児屋根命、天太玉命に勅令して、番匠諸職の神々を天降された時にこの手置帆負命、彦狭知命を棟梁の神とされもろもろの工匠を率いて、日向国高千穂櫛触の峰に行宮を造り、天孫(迩迩芸命)の皇居を定めた。さらに神武天皇が大和国内を平定して橿原を都と定めた時、天富命が手置帆負命、彦狭知命二神の裔の一族を率い、紀伊国名草郡御木、あらか郡より斎斧斎鋤を以て始めて山の材を伐りて宮城の正殿を造り、これがわが国建築のはじめとされる。更に神武天皇の命により四国の阿波に赴き麻殻を殖培し、のち天富命は更に肥沃な土地を求め、阿波忌部氏を率いて舟で東方に向かい今の房総半島に上陸し、水利と渡度、狐座、 御木の三官有林を中心とした豊かな山林に恵まれたこの地を開拓し故国の地名より安房と称し定住し、それまで土着の民の祀っていた神体山の渡度山(莫越の山)に祖神を祀り、また付近に莫越山神社を中心として、古墳時代後期には神祭が盛んに行われていたことを物語る東畑遺跡、石神畑遺跡、六角堂遺跡などが発掘されている。

古く地名に斎部屋敷、幣造谷、番匠屋敷、禰宜屋敷、御木舞原、神火屋敷、尋岡、馬洗場都々井、神花屋敷、莫越澤などの地名も使われていた。


66 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:30:14   ID:939cb75379 
莫越山神社
由緒抜粋
神社の創立は、社記によれば神武天皇元年、天富命(安房神社の御祭神は天太玉命、天富命ですが、天富命が忌部の祖神である天太玉命を現在の地に奉斎したのです。)が忌部の諸氏を率いて、安房の国に来臨し、東方の開拓をされたときに、随神として来られた、天小民命が祖神である忌部の神、手置帆負命、彦狭知命を当社莫越山におまつりして、祖先崇敬の範を示したとしるされております。手置帆負命、彦狭知命の二柱は、皇国工匠の祖神で氏上天太玉命に従って其職を奉じ、宮殿家屋器具機械の類をつくりはじめた神です。その神業はうけつがれて今日に至り、上は宮殿から下は人家に至まで、その建築の功績は風雨寒暑をしのぎ、器具機械の効能は種々多彩につかわれ、我々人類に幸をもたらしております。この二神の御神徳によって、私どもは日々幸福な生活ができるといえましょう。従って、その業を職とする工匠は勿論のこと、一般に崇敬され、地鎮祭、起工祭、釿始、柱立祭、上棟祭、葺合祭の主神として奉斎し、小屋安大神、また家宅守護祖神として崇敬されて居ります。相殿に彦火々出見尊、豊玉姫命、・・草葺不合命を奉斎してあります。この諸神は日本敷物の祖神で畳業家の崇敬あつく、又安産育児の道を守り、海幸の御神徳、海猟海上安全の事も守られ、その道に於いて信仰されて居ります。


67 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:35:13   ID:939cb75379 
三船神社
紀の川市桃山町神田101
祭神
木霊屋船神、太玉命、彦狭知命

境内社 丹生神社、高野神社
紀伊国神名帳には正一位御船大神と記され、神田浦垣に奉祀されたのがはじめといわれる。本殿には木霊屋船神、太玉命、彦狭知命、摂社には丹生都比売命、高野御子神が祀られ、明治の末ごろから、安楽川村四ヶ大字の各神社祭神を合祀している。

『紀伊続風土記』那賀郡安楽川荘下 神田村 から
本国神名帳正一位御船大神
 村中にあり 安楽川荘中の産土神なり 三代実録貞観≡年七月二日甲戌授紀伊国正六位上御船神従五位下とある 即此神なり 当社天正の始焼失して伝記等今伝はらす 祀神御船大神は延喜式神名帳に伊勢国度会郡大神の御船神社と見えたると同神なるへし 其社は延暦儀式帳に御船神社一處称大神之御蔭川神形無倭姫内親王定祝とありて倭姫世記に 天照大御神伊蘇宮より御船に御し寒川に御船をとどめ給ひて其處に御船神社定給ふ由を記せり 按するに此地は 天照大御神の御霊代を戴き奉れる豊鋤入姫命の母君の産土なれは此神を祀れるも深き由繰ある事なるへし 天正十九年木食應其当社の衰廃を嘆きて再興せしより社殿等やや備はれり 其後寶暦年中再営に御船は社号と思ひしにや丹生高野の神を祀れるよしの棟札あり 是高野領なるを以て謾に此神とせしなり 又近世其説を非として斎部氏の祖神を祀るといふ説ありて荒川を御木麁香の麁香と一とし御船神を水霊屋船神命の又名とせり 是又甚しき臆説なり 祭礼九月十六日正月十一日三月三日なり 九月十六日流鏑馬あり 又七月十六日に神舞といひて氏子中神前に集りて一村一村次第に躍ることあり 甚古風なることなり 歌の文句も鄙からすといふ当社鐘の銘に淡州国府八幡宮大工平重吉文明九暦丁酉 十二月一日願主社僧又傍に紀州安楽河荘三船之宮明應五天辰丙 五月三日とあり 淡州の鐘転して此地に来り追ひて銘を刻むと見えたり 御湯釜も古物にて銘に安楽川荘三船宝前御湯釜永正十一年 戊甲 九月吉日とあり 社の後に蛇松といふ松あり 長十二三間龍隣の如し 宮の西馬場中程の北に高き芝あり 明神の神幸所あり 古宮といふ 今に此の地を掘るに賽銭白砂のまま出る事ありといふ 里人云ふ 当社古は黒川村にあり 後秘文の瀧の東十町餘高野村領中の宮ビいふに移し天正年中應其再建の時今の地に移すとそ
    神  職    在 井 氏
忌部氏の末裔といふ 咸状数通を蔵す 古文書の部に出せり


68 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:39:34   ID:939cb75379 
『古語拾遺』

天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫。] 手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち始めて山の材木を採取し、 正殿を建てた。[所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、 高天原に届くほど高く御殿を造られた。]その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ) の二郷に居る。[古くは正殿を麁香と言う。]材を採取する斎部の居る所を御木と言い、 殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしで有る。
また、天富命は斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、 櫛明玉命の孫は御祈玉(ミホギタマ)[古くは美保伎玉(ミホギタマ)と言い意味は祈祷である。]造る。 その末裔は今は出雲の国に居る。年毎に調物とその玉を天日鷲命の孫が造る木綿・麻・織布[古くは阿良多倍と言う。]と共に進貢した。


69 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:54:59   ID:939cb75379 
天語歌

<古事記 下巻 雄略天皇 六より>

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子
事の語る言も 是をば (一〇〇・伊勢国の三重の采女)

<現代語訳>
纏向の日代の宮は、朝日の照り輝く宮、夕日の光り輝く宮
竹の根が充分に張っている宮、木の根が長く延びている宮
(八百土よし)築き固めた宮でございます。
(真木さく)桧つくりの宮殿の、新嘗の儀式をとり行う御殿に生い立つ、枝葉のよく茂った欅の枝は、
上の枝は天を覆っており、中の枝は東の国を覆っており、下の枝は田舎を覆っています。
そして上の枝の枝先は、(ありきぬの)三重の采女が捧げ持っている
立派な盃に浮んだ脂のように、落ちて浸り漂い、おのころ島のように浮んでいます。
これこそなんとも畏れ多いことでございます。 (高光る)日の御子よ、
事の語り言として、このことを申し上げます。


倭のこの武市に 小高る市のつかさ
新嘗屋に生い立てる 葉広のゆつ真椿
その葉の広りいまし その花の照りいます
高光る日の御子に 豊御酒献らせ
事の語り言も 是をば (一〇一・大后)



ももしきの大宮人は 鶉鳥 領巾とりかけて
鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て
今日もかも 酒むづくらし 高光る日の宮人
事の語り言も 是をば (一〇二・天皇)


70 : 名無しさん@chs    2007/09/10(月) 10:59:49   ID:939cb75379 
景行天皇は即位して11年後、纏向(まきむく)に日代宮(ひしろのみや)を造った。58年の2月、天皇は纒向の地を去り、近江の志賀高穴穂宮に移る。そして2年後に106歳で崩じたと日本書記は記す。しかしその遺体はまた纒向へ戻ってくる。書紀に「倭国の山邊道上陵に葬りまつる」と記されている。この古墳は、文献上三輪王朝の最盛期に築かれたと考えられるが、被葬者を巡っては古来より論議が絶えない。

71 : 名無しさん@chs    2007/11/30(金) 15:22:29   ID:924ce3957a 
須賣保禮命
    国造本紀には軽島豊明朝時代に景行帝の皇子神櫛王の三世孫に須賣保禮命がいて、国造の称を賜ったと、書かれている。
    今、鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祭っていると言われている。
    又、那珂郡柞原村に素戔権現の祠がある。これは篠目命が建立したとの伝説である。だから此の人も神櫛王の血筋であると
    考えられる。


72 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 13:40:07   ID:90o2MjAw 
散吉神社

葛城諸連峰の中の二上山寄り、平原中の西辺にある古社である。
散吉はサヌキと読み、古社としては聞こえているが、由緒不明である。
祭神は散吉大建命、散吉伊能神の男女両神とあり
オホタケルノミコトとサヌキイの神と思われる。
社殿、社地のある部落名としては、三吉という文字で記される個所が
鎮座の場所である。
三吉の「三」の漢字音はわが奈良朝廷時の読み方ではサヌ、
「吉」はキである。


73 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 16:55:05   ID:90o2MjAw 
讃留霊王の事を倭武命の御子とも書かれている。

宣長も古事記傳に讃留霊王を取り上げて、
「景行天皇二十二年、南海に悪魚の大きなのが住んでいて往来する船を悩ましているのを、倭建命の御子がこの国に
来て討ち平らげて後、この地に留まり国主となった為に讃留霊王と申し奉る。」
と書いている。
綾氏や和気氏の祖となったとも記している。
これを景行天皇の御子、神櫛王とか、大碓命とも言い伝えている。
讃岐の国主の始まりは、倭建命の御子武卵王の由、古書に書かれているので武卵王の事かも知れない。
今でも国内に変事があれば、この讃留霊王の祠が鳴動すると近来の書物に記されている。
しかしながら、讃岐の国造の初めは神櫛王であるにも関わらず倭建命の御子だと言い、また綾氏や和気の君の祖と言えば
武卵王とも考えられる。

景行天皇二十二年は倭建命御とし十三年にあたり、その御子が存在する筈も無い。又、讃留霊王は仲哀天皇五年に生まれ、二十二年には十八歳である。
さらに、阿野郡陶村に有る讃留霊王の社、那珂郡興北村の讃留霊王の社、共に神櫛王を祀っている。又、城山、櫛無等の
神社もこの皇子である。

地域の本棚 より


74 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 16:57:58   ID:90o2MjAw 
須賣保禮命
    国造本紀には軽島豊明朝時代に景行帝の皇子神櫛王の三世孫に須賣保禮命がいて、国造の称を賜ったと、書かれている。
    今、鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祭っていると言われている。
    又、那珂郡柞原村に素戔権現の祠がある。これは篠目命が建立したとの伝説である。だから此の人も神櫛王の血筋であると
    考えられる。

鷲住王
    履仲紀には、
        「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、
         悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、
         由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、
         恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」

    この王は阿波の却咋より、鵜足郡富隈村に移り住み、当地で薨玉し、飯山に葬ったと三代実録に記述がある


75 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:04:13   ID:90o2MjAw 
神主景行天皇の皇子神櫛王命の三世孫須賣保禮命〔すめほれのみこと〕

先代旧事本紀

讃岐国造。軽島豊明の帝[応神天皇]の御世に景行天皇の神櫛王の三世の孫の須賣保禮命を国造に定められた

・伊余国造。志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に印幡国造と同祖の敷桁彦命の子の速後上命を国造に定められた。
・久味国造。軽島豊明の帝[応神天皇]の御世に神魂尊の十三世の孫の伊與主命を国造に定められた。
・小市国造。軽島豊明の帝[応神天皇]の御世に物部連と同祖の大新川命の孫の子致命を国造に定められた。


76 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:05:13   ID:90o2MjAw 
天川御嶽山に座す神輿台産霊命は、往古天より降臨ます所なり。
これを神場之谷と云ふ。神斎場、醸酒嬢の義なり。
景行天皇の皇子神櫛王三世の孫須賣保禮命國造となり此の神を祭る。
時に手置帆負命の裔をして長尾郷に来らしめ大峡小峡の木を伐りて御殿を造らしめ又神祭の物を奉らしむ云々。
是より先、日本武尊吉備穴戸の悪神を誅し給ふ時吉備国に幸し吉備穴戸武媛武殻王を生む。
王亦悪神を誅するの功により讃岐に留まり香川郡以西は王の領有となり當社を崇敬し給ふ。
武殻王四世の裔綾眞玉の子酒部黒麿は世に城山長者と云ふ。


77 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:10:18   ID:90o2MjAw 
「景行天皇が倭建命の曾孫、須売伊呂大中日子王の娘、訶具漏比売を娶って」と記述されている。
したがってこの記事の中の倭建命とはヤマトタケル(幼名:小碓命、またの名は倭男具那命)とは別の人物となる。


78 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:15:42   ID:90o2MjAw 
訶具漏比売の系統

大中比売命
1.大江王(景行天皇と訶具漏比売の子)と銀王(大江王の異腹の妹)の子
2.書記では景行天皇皇子の日子人之大兄王(前述)の娘という

大中比売命は、仲哀天皇の妻となり香坂王、忍熊王を生む


79 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:20:25   ID:90o2MjAw 
奈良市押熊町(おしくまちょう) 八幡神社

三韓征伐を行い、新羅を討った翌年2月、神功皇后は穴門の豊浦宮に移り、仲哀天皇の遺骸をおさめて、海路より、京に向かわれたそうです。
つまり、神功皇后と新しく産まれた皇子は、日本に凱旋帰国をしてきたわけです。

香坂王、忍熊王は、父である仲哀天皇は亡くなられたし、神功皇后は、後に応神天皇となる皇子を連れて帰国してくるわけですから、きっと幼い皇子を、次の天皇に立てるだろうと危機感を募らせます。
で、密かに謀って、帰ってくる神功皇后や幼い皇子を、亡きものにしようと考えます。

で、香坂王、忍熊王は、神意を伺う占いをします。
もし、このはかりごとが成功するなら、良い獲物が捕れるだろう・・・と、言っていたところ、突然、赤いイノシシが急に飛び出し、香坂王を食い殺してしまいました。
忍熊王は、これは大変っ!と、兄が猪に食われたことで、あわてふためき、それまで居た住吉(神戸にほど近いところ)から、京都の宇治に退却します。

神功皇后は、京都の宇治に潜む忍熊皇子を、家臣の武内宿禰(たけのうちすくね)と、和邇(わに)の臣の祖先 武振熊(たけふるくま)に、忍熊皇子を討つよう命じます。
家臣の武内宿禰は、知恵を絞り、ズルをしまして〜 武器を隠し持ってながら、弓の弦を切り、武器を捨てたふりをして〜 忍熊皇子と和睦を進めます。

忍熊皇子は、これにすっかり騙されちゃいまして・・・近江の逢坂(おうさか)で追いつかれ、瀬田の渡りに沈んで亡くなったそうです

香坂皇子と忍熊皇子は、明石で父の陵を造るふりをしていたそうです。これは、御陵を造るためといいつつ、兵を集めていた。という説があります
大中媛(おおなかつひめ 大中津比売命)は、西国霊場24番札所 安産祈願で有名な「中山寺」(兵庫県宝塚市)に、忍熊皇子と共に墓があるそうです。


80 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:21:06   ID:90o2MjAw 
日本書紀の伝承にある忍熊王は、当時、この地域を支配していた実在性の高い人物・王の1人であったと考えられる。そして、この地域にある日本有数の巨大な前方後円墳を含む「佐紀盾列古墳群」とのかかわりも考えてみる必要もある。

81 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:23:27   ID:90o2MjAw 
香坂・忍熊王の母という大中姫(大中津比売)である。書紀によれば仲哀の叔父彦人大兄の女というが、その出典は景行紀にはない。

82 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:26:54   ID:90o2MjAw 
彦人大兄皇子の子の茅渟王(皇極・孝徳天皇の父)の墓は北葛城郡の北の片岡にある

83 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:28:22   ID:90o2MjAw 
大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)の子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられます。

84 : 名無しさん@chs    2008/03/21(金) 17:28:55   ID:90o2MjAw 
神櫛王や武卵王は伝説上の讃留霊王(さるれいおう)にも当たる人物であり、讃岐国造は『百家系図』巻9等に系図が見えますが、神櫛命の子にあげる千摩大別命の子孫として記載されます。また、五十河彦命は、神櫛王か千摩大別命とに重複する者とみられます。

85 : 名無しさん@chs    2008/03/24(月) 15:05:13   ID:gq8gvT2w 
其の時讃岐の国造の始祖神櫛王遠裔益甲黒麿と言ふ者あり
那珂郡神野郷に住す。同天平十九年丁亥三月十五日庭前に天上より一つの星落ちて忽然として少女となる。
黒麿曰く、吾に嗣なし、幸に興給ふなりと厚く撫育し、名を善女と呼ぶ。
成長の後此の女能く酒を醸りぬ。酒甘美にしてくむとも、つきることなく、かつ病を治して寿域に至らしむ。
四十六代孝謙天皇に奏し酒を献じ奉る。
帝大いに賞し玉ひ勅ありて酒部の姓を賜ひ酒部黒麿と號す。
神野郷を戸長と称する事は是酒を酌む人は、其の徳に依って寿命長久を得るの謂ならむか。
善女、男子を産す。道隆の王と云ふ。又移りて良野の大堀と云ふ處に居住す。
其の跡今に存ず。


86 : 名無しさん@chs    2008/08/14(木) 20:29:02   ID:NOE7vWu6 
山崎城:吉野川市山崎
忌部氏
古代忌部氏の拠点


87 : 名無しさん@chs    2008/08/14(木) 20:32:19   ID:NOE7vWu6 
麻植持光 おえもちみつ ?〜1553
細川持隆家臣。阿波美馬郡内山(家賀)城主。忌部神社大宮司であった。主君持隆に信任されたが、持隆は三好実休により謀殺されたため、これに抵抗するも敗北。のち讃岐に逃亡したが、丹生に三好勢と戦い戦死した。


88 : 名無しさん@chs    2008/08/15(金) 09:49:22   ID:Cl129/MU 
皇子神社
丸亀市綾歌町岡田上

神櫛王命
コトデン岡田駅より原村公民館・原村生活改善クラブをめざし、西へ歩くこと10分。
香川県神社誌によると「祭神は景行天皇の皇子にして當国国造の始祖たるを以て里人其の徳を慕ひて奉祀すといふ」とある。


89 : 名無しさん@chs    2008/08/15(金) 09:52:51   ID:Cl129/MU 
庵治町の皇子神社
船渡御(庵治町) ... 全国的にも数少ない海の祭りとして知られる

讃岐國那珂郡 神野神社
香川県丸亀市郡家町八幡下2337
末社の皇子神社は、道路を挟んで当社の東300mほどにあり、
当社の御旅所となっているらしい。
当社から皇子神社までは、真直ぐな参道が続く。
馬場だったのだろう。
皇子神社の境内には、八代荒神社もある


90 : 名無しさん@chs    2008/08/15(金) 10:04:18   ID:Cl129/MU 
皇子神社  香川県三豊市山本町神田4189番

皇子(明)神社(こうじみょうじんしゃ)【朝倉村朝倉上宮ノ下甲122】
・祭神:天津彦火瓊々杵命
・境内社:熊神社(祭神:木花開耶姫命)、杵築神社(祭神:大穴牟遅命)、荒神社
・貞治年中、世田城落城後に河野通朝がこの地に落ち延びて山谷を開拓し、河野家の祖先を勧請したものという


91 : 名無しさん@chs    2008/08/15(金) 10:07:01   ID:Cl129/MU 
平成16年に公開され大ヒットした純愛映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(行定勲監督)のロケ地となったのが高松市庵治町。
高級御影石・庵治石の産地として知られる五剣山を臨みながら、石材店が軒を連ねる道路を北上すると、海岸の埋め立て地から「王の下沖防波堤」が伸びる。
主人公の高校生、松本朔太郎(サク)と廣瀬亜紀(アキ)が夕日を眺めながら語り合った場所
映画のシーンさながらに多くの若いカップルが腰を降ろし、船が行き交う海をじっと見つめている。
さらに、埋め立て地から階段で上がった丘の上の「皇子神社」の境内にはサクとアキが乗ったブランコがある。そばのフェンスにはカップルが愛を誓った南京錠が数多くかけられていて、いかにも恋人たちの空間。


92 : 名無しさん@chs    2008/09/12(金) 15:13:14   ID:q5VLP0LQ 
紀州 鳴神社を祀った忌部氏の祖先。

 鳴神社の鎮座地は忌部郷と呼ばれていました。この神社の祭神は忌部氏の遠祖の天太玉命であったとも、また紀州忌部氏の祖の彦狭知命とも言われています。 現在は天太玉命を祭神としていますが、これは3年ほど前の宮司さんが取り入れたようで、それまでは、水門の神だけでした。 今の岡崎に当たる忌部村にも天太玉命を祭る忌部里神社がありました。
 忌部氏は中臣氏台頭以前は朝廷の祭祀を司って来た氏族です。従って橿原宮造営に力を発揮したと伝わるように宮大工的な技術者集団でもあったようです。


93 : 名無しさん@chs    2008/09/12(金) 15:18:13   ID:q5VLP0LQ 
地震による地形の変化が資料で確認できるのは、約300年前にあった元禄大地震です。元禄16年(1703)11月23日午前2時頃、野島崎南方沖合約30kmを震源に、マグニチュード8.2の規模で発生しました。これによって北条海岸では海岸線が400m後退、坂田では5mを越える隆起がありました。
海に面した安房にとって欠かせないのが湊の存在です。まさに人や物・情報などが行き来をした玄関口でした。鏡ヶ浦では平久里川の河口が古代の湊「淡水門(あわのみなと)」として知られています。戦国時代になると船形や高の島で、船がかかる湊が確認されています

特異な信仰の広がりをみせたのが、洲崎神社でした。航海神としての信仰が、中世に東京湾内にひろがったのです。『永享記』という記録には、室町時代の末に江戸城を築いた太田道潅(どうかん)が、江戸神田に安房の洲崎大明神を祀ったことや、神奈川(横浜市)や品川にも洲崎明神が祀られていることを伝えています


94 : 名無しさん@chs    2008/09/16(火) 08:09:26   ID:VCaAWrS6 
伊勢国造について「旧事紀」国造本紀には、神武朝に天牟羅久怒命( 天牟羅雲命)の孫、天日鷲命をもって伊勢国造にしたとあります。

95 : 名無しさん@chs    2008/09/16(火) 08:14:58   ID:VCaAWrS6 
天日鷲命は天日別命とも書かれ、『伊勢国風土記逸文』に天日別命が、神武天皇の命令で、伊勢に住んでいた伊勢伊勢津彦を追い払ったことが記されています

古語に「神風の伊勢の国は常世の浪の寄する国なりというは蓋しこれを謂うなり。伊勢津彦の神は近く信濃の国に住ましむ。天の日別の命、この国を懐 (なず)け柔(やわ)して、天皇に復命式。天皇、大く歓びて詔り給いしく「国は国つ神の名を取りて伊勢と号くべし」と詔り給いて、やがて天の日別の命の封地の国と為し、宅地を大倭の耳梨の村に賜ひき


96 : 名無しさん@chs    2008/09/16(火) 08:17:04   ID:VCaAWrS6 
伊勢朝臣氏は、『姓氏録』左京神別にあげられ、天底立命孫(ママ)天日別命の後なりとのみあり、具体的な系譜は不明です。この家が伊勢国造の家であることはまちがいない

伊勢朝臣が伊勢直の後で、先に中臣伊勢連を賜っており、天牟久怒命(天椹野命)は天忍雲根命(天村雲命)と同神で、年代的にその子の天種子命(中臣連祖)の兄弟に天日別命が位置づけられるとみられます


97 : 名無しさん@chs    2008/09/16(火) 08:22:41   ID:VCaAWrS6 
物部氏と関連が深いと言われる「先代旧事本紀」では、思兼命が発案し、天太玉命は諸神を率いて御幣を作り、天太玉命と天児屋命が一緒に祈祷したことになっており、その際、阿波の忌部の祖天日鷲神は木綿を作ったことになっている
「古語拾遺」によると、天日鷲は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。太玉命の孫天富命が、天日鷲の孫(阿波忌部氏系図では由布津主命)を率いて、阿波の国(徳島県)、更に総の国(千葉県)を開拓したとある


98 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 11:45:49   ID:BSKUghmY 
八坂神社 丸亀市岡田上
スサノオを祀る


香川県神社誌
「伝うる所によれば、武国凝別皇子の第二王子津守王此の地に来往し長者原の地を墾く。王の居住地を津守の王屋敷といへり。当時当地山嶺にして野獣出でて農作物を害する事甚し、依って当社を創祀すと云ふ。一説に承元年中の肇祀なりとも云へり。応安年中長尾大隅守の臣某王屋敷に在りて津森、平尾、宿母、小津守、小椎尾、三田及び栗熊村の一部なる天満、長者原、西谷、定連の地を領し、厚く当社を崇敬せしを以て、以上の里人当社を産土神として尊崇するに至れりと云ふ。


99 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 11:48:41   ID:BSKUghmY 
武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)

武国凝別皇子。景行天皇の第12皇子。
母は阿倍氏木事の女・高田媛。伊予国平定のために派遣され、神野郡(後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市他)に拠点を置いたと伝える。子孫も地方各地へ広がり、「別」の子孫が治めたということから別子という地名が生まれた。その御霊は拠点地付近に建立された伊曽乃神社に代々篤く奉られている。なお、円珍(智証大師)の自筆である『円珍俗姓系図』(承和年間、園城寺蔵、国宝)は、「景行天皇─武国凝別皇子」に始まる竪系図として貴重


100 : 名無しさん@chs    2008/09/19(金) 11:50:22   ID:BSKUghmY 
景行天皇から十数代の後裔になる智証大師までの系図

大師自筆ではなく、承和年間に別人に書写させた旨が自筆で注記されています。

全巻にわたって大師自筆の加筆が見られ、出自について常に意を用いられていたことが知られる興味深いものです。

系図からは大師が武国凝別皇子を始祖とする讃岐因岐首の一族であったことがわかります




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