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方格規矩鏡

1 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 11:45:03   ID:322e136053 
大田南5号墳(峰山町と弥栄町の境)

平成6年1月に発見された日本最古の年号入り古代鏡(方格規矩四神鏡
。現在は丹後郷土資料館(宮津市)に展示されています。


2 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 11:52:01   ID:322e136053 
2 青龍三年(235)方格規矩四神鏡(京都府大田南5号墳)
3 青龍三年(235)方格規矩四神鏡(大阪府安満宮山古墳)
27 方格規矩四神鏡(京都府椿井大塚山古墳)
28 方格規矩四神鏡(北京市大営村8号墓)
29 方格規矩鳥文鏡(出羽三山博物館)
30 方格規矩鳥文鏡(熊本県向野田古墳)
31 銅出徐州銘方格規矩鳥文鏡(遼寧省遼陽三道壕1号墓)
32 方格規矩鳥文鏡(福岡県津古生掛古墳)
33 方格規矩鳥文鏡(鳥取県馬山4号墳)
34 方格規矩鳥文鏡(河北省撫寧県留守営鎮馬庄村)
35 方格規矩鳥文鏡(河北省撫寧県?各庄)
36 甚獨奇銘方格規矩鳥文鏡(河北省易県燕下都)
37 方格規矩鳥文鏡(兵庫県城の山古墳)
38 方格規矩鳥文鏡(大阪府駒ケ谷北古墳)


3 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:10:28   ID:322e136053 
238 景初2 呉・赤烏元 「赤烏元年」銘 神獣鏡(山梨県鳥居原古墳出土)

240 景初4 「景初四年」銘 盤龍鏡(京都府広峰15号古墳出土)


4 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:12:33   ID:322e136053 
造山1号墳
一辺約60mを測る大型方墳
2面は方格規矩四神鏡・方格規矩鏡で鏡径17.4cm?19.0cmの中形鏡です。いずれも中国の魏晋代に製作された可能性が考えられるもの


5 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:13:57   ID:322e136053 
丹後出土

銘文三十九文字が時計回りに配されています(青龍三年顔氏作鏡成文章左龍右虎辟不詳朱爵玄武順陰陽八子九孫治中央壽如金石宜候王)。外区は鋸歯文帯と複歯文帯を組合わせた三圏帯から成る平縁


6 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:16:38   ID:322e136053 
大田古墳群

被葬者は複数の石材を組み合わせた棺に葬られ、頭の右側に銅鏡が、足元には鉄刀が納められていた。平成6年1月、石棺の中から、日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」( 235)銘を持つ青銅鏡「方格規矩四神鏡」が見つかった。

大阪府高槻市の「安満宮山古墳」からも、同型の鏡が出土していることから、中国大陸−朝鮮半島−丹後半島−大阪摂津地方となんらかの交流があったか??


7 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:17:15   ID:322e136053 
福岡県前原市教委が同市井原で発掘中の弥生時代後期(1―2世紀)の遺跡から、当時の権力者が所有したとみられる中国製銅鏡「方格規矩(きく)四神鏡」が出土した。現場は、中国の歴史書、魏志倭人伝に登場する古代のクニ「伊都国」の中心部。

8 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:18:33   ID:322e136053 
平原古墳(福岡県前原市)出土の方格規矩四神鏡を漢鏡5期の鏡とし、1世紀後半の鏡としている

9 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:19:55   ID:322e136053 
安満宮山古墳

青龍三年(235年)は中国、魏の年号であり、青龍三年の銘のある鏡は日本で発見された年号付きの鏡では最古のものであるという。青龍三年鏡はこの古墳の他に、丹後半島の大田南5号墳でも出土しているようである。


10 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:22:02   ID:322e136053 
「邪馬台国卑弥呼が持っていたのは間違いなく方格規矩四神鏡、しかも尚方(当時の官営工場)の作である。」と、中国の歴史学の大家王仲殊氏が発表しています。

11 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:22:57   ID:322e136053 
平原遺跡
ひらばる 弥生時代後期
から終末期 14m×12mの四隅が丸い長方形の墳丘墓木棺から内行花文鏡(日本製)直径46.5cm4枚を含め、方格規矩四神鏡など39枚、


12 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:23:50   ID:322e136053 
闘鶏山古墳
朱が付着した頭蓋骨とともに、三角縁神獣鏡2面、方格規矩四神鏡1面、石製腕飾り(鍬. 形石)1点、鉄刀などの副葬品が確認


13 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:27:51   ID:322e136053 
青龍三年銘 方格規矩鏡

青龍3年(235年)の年が入った二枚の方格規矩四神鏡は、大阪府・高槻市の安満宮山古墳と京都府弥生町の大田南5号墳。
もう一つは出土地不明であるが、所有者は茨城県那珂郡の方らしい


豊岡市の森尾古墳で一九一七年に出土した方格規矩(ほうかくきく)四神鏡が、約二千年前の紀元前後に中国でつくられた北近畿で最古の鏡であることが分かり、二十日、同市出土文化財管理センターが発表した。
銘文などから、中国の王莽(おうもう)が統治した新(西暦八―二三年)のころにつくられた鏡と特定。エックス線撮影で「言之紀鏡」などの文字も見つかった。「七言句で韻文をつくる。青竜は左に、白虎は右にある」などの意味とみられる。


14 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:29:48   ID:322e136053 
唐津市・桜馬場遺跡

唐津市桜馬場遺跡は、弥生時代中期からAD1世紀あたりの後期の甕棺墓地である。松浦川左岸砂丘上に当たり、戦中防空壕構築中に桜馬場3丁目の宅地から甕棺が出土し、棺内から副葬品として、後漢鏡2面、銅釧26個、巴形銅器3個、鉄刀片1個、ガラス小玉1個が発見された。

銅鏡2面は、「流雲文縁方格規矩四神鏡」と「素縁方格規矩渦文鏡」でいずれも王莽の新代から後漢初期の鏡である。有鈎銅釧は南海産のゴホウラ製貝釧をモデルとしたもので、巴形銅器は小型で、有鈎と無鈎のものがある。


15 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:31:13   ID:322e136053 
方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)
 一般国道159号押水バイパスの改築工事に伴う発掘調査で、押水町宿東山1号墳(縄文時代中期〜奈良時代前期に至る複合遺跡)から、方格規矩四神鏡などが出土しました。方格規矩四神鏡は錫の含有量などから中国鏡であることが確認されています。


16 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:33:22   ID:322e136053 
美濃市 観音寺山遺跡 流雲文方格規矩四神鏡 美濃市教育委員会
関市 砂行遺跡 方格規矩四神鏡 岐阜県教育委員会


17 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:36:02   ID:322e136053 
奈良県大和天神山古墳出土品(流雲文縁方格規矩鏡・内行花紋鏡画・文帯神獣鏡など)
京都府椿井大塚山古墳出土品(三角縁神獣鏡・方格規矩四神鏡・土師器など)


18 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:38:50   ID:322e136053 
津古生掛古墳(福岡県小郡市、前方部が非常に小さく後円部が大きい、長方形の竪穴式板石積石室、方格規矩鳥文鏡)

七つぐろ古墳群一号墳(岡山県岡山市、前方後方墳、竪穴式板石積石室、方格規矩四神鏡)


19 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:40:51   ID:322e136053 
快天山古墳(かいてんやまこふん) 【香川県綾歌郡綾歌町】

快天山古墳は、香川県のほぼ中央部の尾根先端に立地する前方後円墳である。
発掘調査の結果、全長98.8、前方部3段、後円部に3段もしくはそれ以上の段築を有する前方後円墳であることが明らかとなった。
また、葺き石が施されていたこと、テラスには3〜4間隔で円筒埴輪が配されていたことも判明した。
埋葬施設として後円部に2基の竪穴式石室と1基の粘土槨が確認され、いずれも刳り抜き式の割竹形石棺を有していた。
副葬品は盗掘を受けていたが、方格規矩四神鏡、鉄刀・鉄剣・鉄鏃、鉄斧・鉄鑿、刀子、石釧、管玉・勾玉などが出土した。
古墳の築造年代は、4世紀中頃であったと考えられている。


20 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:42:57   ID:322e136053 
糸島地域では期に全長103ⅿの一貴山銚子塚古墳が築かれ、方格規矩四神鏡1面と四葉座内行花文鏡1面、 製三角縁神獣鏡8面が副葬される。方格規矩四神鏡と内行花文鏡はいずれも大型鏡

21 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:46:52   ID:322e136053 
讃岐
後漢時代の「獣帯方格規矩四神鏡」が出土した鶴尾神社4号墳が国の史跡に追加指定


22 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:51:18   ID:322e136053 
讃岐 田村遺跡群
方格規矩四神鏡が流路から出土している


23 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:56:11   ID:322e136053 
茶臼山古墳の鏡

 鏡はいずれも小さな破片になっていたが、その出土位置から,棺外の北小口部か棺内に置かれていた可能性がつよい。 それらは、三角縁神獣鏡7ないし8面と、画文帯神獣鏡は、同向式神獣鏡・環状乳神獣鏡・求心式神獣鏡を含む3ないし4面、ぼう製の内行花文鏡3面、そして方格規矩四神鏡・獣帯鏡・斜縁神獣鏡・単き鏡が各1面ある。


24 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 13:56:56   ID:322e136053 
上記茶臼山古墳
桜井茶臼山古墳 :奈良県桜井市外山(とび)


25 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 14:00:53   ID:322e136053 
京都盆地の南西部、桂川の右岸にある向日丘陵の尾根上

寺戸大塚古墳前方部石室出土 浮彫式獣帯鏡、仿製三角縁獣文帯三神三獣鏡、仿製方格規矩四神鏡、紡錘車形・琴柱形石製品


26 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 14:04:43   ID:322e136053 
兵庫県豊岡町森尾豊岡市の森尾古墳で一九一七年に出土した方格規矩(ほうかくきく)四神鏡が、約二千年前の紀元前後に中国でつくられた北近畿で最古の鏡であることが分かり、二十 日、同市出土文化財管理センターが発表

27 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 14:07:13   ID:322e136053 
森尾古墳の東側の京都府久美浜町の函石浜遺跡から「新」(BC一年〜AD二三年)の王莽銭が二枚出土している。丹後半島に中国大陸との交流を示す証拠品が新たに追加されたことを意味する。
 丹後半島に中国大陸との交流を示す鏡(方格規矩四神鏡)が出土していたことは重要な意味をもつ


28 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 15:07:36   ID:322e136053 
時 代 : 4世紀前半
■出土地 : 富岡市北山茶臼山西古墳
■寸 法 : 直径15.9cm
■保管等 : 群馬県埋蔵文化財調査センター


29 : 名無しさん@chs    2007/05/10(木) 15:39:33   ID:9da773d090 
ukop.org.ru
私と不倫してくれる方探してます [ 日向の決意表明 ] 2006年07月23日 16:02. 吹っ切れまし
た。不倫と割り切って、私とセック○してくれる方探しています ... 最期に全裸で記念写真
とって帰ってきたぞ!
自分の人生に予測もしなかった不倫。。 理性では引き返せなくなった年下の彼との恋から我が子、夫への罪悪感、 ... 別に大した写真じゃーーないけれど 肩に腕を廻して撮った写真など・・・. アトムは私以外の女の人とも そんな写真撮っていたけど ...
ukop.org.ru


30 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:23:00   ID:33b1779977 
王莽は貨幣制度に力を入れ、治世が短かった割には多くの貨幣を鋳造しています。4次の改革により、6種28品を出しています。1次から3次の改革であまりに複雑になりすぎたため、第4次の改革として整備するために作ったのが貨布と貨泉(かせん)です。価値に違いがあり、貨布1に対し、貨泉25です。にせ金を作った者は奴隷にする罰則もありました。王莽の作った貨幣を一般的に王莽銭と呼びます。

 王莽銭のうち、貨布は前述したとおり日本国内では3例が知られるのみですが、貨泉は大阪府以西の西日本を中心に20例以上の出土例が知られています。福岡県、長崎県、佐賀県から多く見つかっています。また、大泉五十(たいせんごじゅう)については、塩屋勝利氏によって、正規の貨幣より軽いことから新代のものではなく、後世のものであることが明らかにされています。


31 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:26:06   ID:33b1779977 
韓国 
金海貝塚は、石器時代から初期鉄器時代にかけての遺跡としては、韓国最大級の貝塚である。高さ18m、幅70m、長さ200mに及ぶ。日本統治時代以来度重なる発掘調査の結果、土器、骨角器、鉄器とともに古代中国の王莽時代(BC45〜AD23年)に使用された王莽銭、炭化米、鹿の骨なども出土した。


32 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:27:51   ID:33b1779977 
倭人伝の亶州は丹後半島説

丹後半島に中国大陸との交流を示す鏡(方格規矩四神鏡)が出土していたことは重要な意味をもつ。私は、かって夷州は台湾をさすが、亶(たん)州は従来説の種子島では『三国志』呉志に記す「数万戸」の人口とはならない。亶州は丹後半島をさすと考えられると主張していた(『三角縁神獣鏡』ミネルヴァ書房)。


33 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:34:48   ID:33b1779977 
丹後の函石浜遺跡

中国の王莽(おうもう)の貨泉(紀元14年)が二枚出土したことと、中国周代の刀銭「明刀(めいとう)」が出土した
刀銭は、紀元前五5〜6世紀頃に造られた刀の形をした貨幣です。長さは14.1センチメートル、幅1.1センチメートルで側面に「明」と書かれ、青銅製


34 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:36:40   ID:33b1779977 
壱岐 原の辻遺跡

中国の古代貨幣「大泉五十」は、「新」を建国した王莽(おうもう)(紀元前45〜紀元23年)
の時代に初めて鋳造された青銅貨幣。大きさは現在の500円硬貨と同じくらいで中央は四角な穴があいている。国内では
福岡市の鴻臚館跡でも見つかっているのでこれは2例目である。
貨泉も「新」時代、紀元14年に王莽によって鋳造された貨幣で、昭和26年の調査でも出土している。最近では吉野ヶ里
でも出土しており、発行期間が短いため弥生時代の暦年を特定する基準とされる。これらの貨幣の出土は、原の辻遺跡が大
陸との交流地点であったことを証明している。


35 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:38:34   ID:33b1779977 
鳥取県青谷上寺地遺跡

青谷上寺地遺跡では、中国の「新」の時代に鋳造された「貨泉(かせん)」といわれる貨幣が四枚出土しています。この「貨泉」は、西暦一四年に王莽(おうもう)が造りはじめたもので、西暦四〇年に「後漢」の光武帝が廃止するまで造られていました。


36 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:40:41   ID:33b1779977 
編年

1期が前漢中期(武帝時代:140年頃)、2期も前漢中期(宣帝や元帝の
時代:BC74〜33)でやや時代が下がり、3期前半が前漢晩期、3期後半が新の王莽
時代、4期が後漢前期、5期が後漢中期、6期が後漢晩期


37 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:44:13   ID:33b1779977 
壱岐 原の辻は、当時の王都か?

主な出土品
《盾》
日本最古、九州で初めての出土品。
盾は、木で作られ、表面には赤い顔料を塗り、穴をあけ紐を通した跡がある。防具として利用されたと考えられる。
《銅鏃》
青銅製の矢じり。日本で最も多く(50本)出土。
「魏志倭人伝」に記載された「倭国大乱」が壱岐にも及んでいたことを裏付ける資料の一つ。
《貨泉》
中国の「新」の王莽が鋳た貨幣で、内濠から出土。


38 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:48:31   ID:33b1779977 
宮津湾はこの天橋立で、内海の阿蘇海とに分断されている。
その阿蘇海の西側に「大風呂南遺跡群」がある。
弥生時代後期後半の遺跡で、携帯電話の中継アンテナ塔を建設するための工事中に発見された。尾根上に築かれた1号墓の巨大な墓壙(ぼこう:7.3m X 4,3m X 2m)から、98年9月、これまで我が国では出土例がないガラスの釧(くしろ:腕輪)が出土した。透き通るようなブルーの鮮やかさと、断面が5角形のコンパクトな腕輪で、全国的な話題になった。他にも勾玉、青銅の鉤付き釧、11本の鉄剣などが出土したが、鉄剣はうち9本が初めから柄が付けられておらず、これは剣ではなく、何か他の鉄製品を作るための材料、即ち鉄塊だったのではないかという意見もある。


39 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:52:06   ID:33b1779977 
「四隅突出型墳墓」と言われる特殊な形をした墳墓
主に日本海側に限って、広島県、鳥取県、京都府、福井県、石川県、そして富山・新潟県にまで分布する、四角形に盛り土した墳墓の四隅だけが長く伸びて、突出している墳墓の事である。この形式の墳墓がなぜ日本海側だけに存在しているのかについてはまた別の議論がある。
この形式が丹後地方には全く見られない。


40 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:53:39   ID:33b1779977 
兵庫県豊岡市の妙楽寺墳墓群(弥生後期)
−鳥取県青谷町の青谷上寺地遺跡(弥生中・後期)
−同県淀江町・大江町の妻木晩田遺跡(弥生後期)
−島根県安来市の塩津山遺跡群(弥生後期後半)。
東に向かっては、福井市の林・藤島遺跡(弥生後期後半)
−金沢市の塚崎遺跡(同)
−富山県魚津市の佐伯遺跡(同)
−新潟県上越市の裏山遺跡(同)。

これらの遺跡からは、鉄剣・ヤリガンナ・鉄器・鉄片・鍛冶炉跡・鉄製工具・鍛冶遺構・鍬や鍬の破片等々、弥生後半期の鉄器文化の普及を示すさまざまなものが出土している


41 : 名無しさん@chs    2007/05/14(月) 13:54:35   ID:33b1779977 
近畿地方において鉄器の普及を見るのは古墳時代に入ってからなので、日本海沿岸地域における鉄器の普及は、大きく大和に先駆けていた事になる

42 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:28:55   ID:Zq2Ms2fc 
古代丹後王国

最古の玉作り工房跡といわれる奈良岡遺跡
製鉄跡の遠所遺跡
神明山(丹後町)・網野銚子山(網野町)・黒部銚子山など大型の前方後円墳
青龍三年鏡が出土した大田南5号墳:大田南5号墳:弥栄町と峰山町との町境、竹野川西岸の丘陵に広がる大田町南古墳群。5号墳からは、「青龍三年(西暦235年)」の年号を持つ国内最古の紀年銘鏡、「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」が出土。
大田南2号墳:古墳時代に前期に築かれたもので、銅鏡と鉄剣が出土。「画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)」と呼ばれるこの鏡は、中央に龍の文様が描かれている珍しいもので、国内では初めての出土例であり、中国の後漢の時代(2世紀後半)のものとされています


43 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:30:04   ID:Zq2Ms2fc 
丹後の浦島伝説

浅茂川の地は、後におとぎ話『浦島太郎』の元になったといわれる『水江浦嶋子(みずのえのうらしまこ)』伝説(『丹後国風土記』所収。嶋子は浦島太郎のモデルとなった人物)の舞台と伝えられる地。嶋子を祀った嶋児神社、嶋子の屋敷跡といわれる網野銚子山古墳、嶋子と乙姫がはじめて出会ったという洲嶼「福島」、釣った魚を入れておいたという潮溜まりの釣溜(つんだめ)といった『浦島太郎』ゆかりのスポット


44 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:31:48   ID:Zq2Ms2fc 
丹後はまさに古墳の宝庫と言ってよく、丹後半島全体の古墳の数は約6000基である。その上位3つは、・網野町の銚子山古墳(全長198mの前方後円墳)−日本海沿岸部で最大の古墳・丹後町の神明山古墳(全長190mの前方後円墳)−丹後町古代の里資料館の側・加悦町の蛭子山古墳(全長145mの前方後円墳)−

「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が出土している。青龍三年は魏の年号で、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(238)の三年前にあたる。この年号の鏡は、あと大阪府高槻市の安満宮山古墳から1面が出土しているだけで、年代的に、卑弥呼の使いが魏から貰ってきた銅鏡100枚の内の1枚ではないかと騒がれた。


45 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:34:19   ID:Zq2Ms2fc 
紀元前後、墳丘斜面を石で飾った丹後特有の方形貼石墓

「四隅突出型墳墓」
主に日本海側に限って、広島県、鳥取県、京都府、福井県、石川県、そして富山・新潟県にまで分布する、
この形式の墳墓がなぜ日本海側だけに存在しているのかについて議論がある

この形式が丹後地方には全く見られない


46 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:36:39   ID:Zq2Ms2fc 
崇神天皇の時代か???
「日本書紀」垂仁天皇5年の条に、崇神天皇が派遣した四道将軍「丹波道主命」(たにはのみちぬしのみこと)の5人の娘が垂仁天皇の后になるという記事がみえ、同15年の条にも同じ内容の記事がでている。ちなみに、前方後円墳である網野町の「網野銚子山古墳」、弥栄町の「黒部銚子山古墳」はいずれも、この丹波道主命の墓であるという伝承が残っている。

同天皇87年の条には、丹波の国に甕襲(みかそ)という人物が居て、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を献上

雄略期22年の条に「浦嶋子伝説」が見え、23年にも征新羅将軍吉備臣尾代(きびのおみおしろ)の記事があって、ここに丹波(後)という地名があらわれている。更に、世継ぎの無かった清寧天皇が、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子(いちべのおしいわのおうじ)の遺児、二人のオケ王(顕宗・仁賢)を探し出したとき、最初に二人が逃げて行った先が、丹波国の余社(よさ)郡


47 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:38:28   ID:Zq2Ms2fc 
和銅6年(713)、丹波の国を分割して「始めて丹後の国を置く」という記述が「続日本紀」にある

丹後を何故分割したか?
和銅までは、独立王国か?


48 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:39:34   ID:Zq2Ms2fc 
日本で出土した中では最古の紀年「青龍三年」(235)銘を持つ青銅鏡「方格規矩四神鏡」が見つかった。これは中国の三国時代・魏の年号であり、玄武・青龍・朱雀・白虎と十二支銘も刻まれている。魏志倭人伝に、239年に卑弥呼の使者が中国から「魏の鏡」を百枚持ちかえったという記事があることから、その時の鏡ではないかと騒がれた

49 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:43:21   ID:Zq2Ms2fc 
大田南5号墳出土の方格規矩四神鏡

偏平な半球状の鈕のまわりを方格で区画し、内部に直線的な交字で十二支を配
内区には線描の「玄武」「青龍」「朱雀」「白虎」の4神と瑞獣を置
外区は鋸歯交と、珠点付複波文と、鋸歯文で構成されている。

銘文は時計回りに七言句で、「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宜侯王」と鋳造された39文字が並んでいる。

下記による
www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/322.html


50 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:50:42   ID:Zq2Ms2fc 
読み方

青龍三年、顔氏が鏡を作ったが、文様も立派に出来上がった。左に龍を、右に虎を置いて不詳を避け、朱雀も玄武も陰陽に従って正しく配置した。八子と九孫が全て中央の職に就き、寿齢は金石の堅きが如く長生きし、侯王となるにふさわしい。

中央とはどこか?
やはり 丹後の道主 ???

01

安満宮山古墳
大阪府
方格規矩神獣鏡
魏・青龍三年
http://inoues.net/tango/ohta_minami.html

同じ文字が
大阪府の安満宮山古墳の 方格規矩神獣鏡( 魏・青龍三年 )にもあるらしい


51 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:55:21   ID:Zq2Ms2fc 
顔氏は魯の周公旦の血筋です。
そして、『斉王紀』には、
『斉王諱芳、字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢;宮省事秘、莫有知其所由来者。
青龍三年、立為斉王。
とあり、青龍三年は「斉王誕生年」です。

こんな説がある
青龍三年(235年)鏡は、魏が列島に顔氏を送り込んで製作された「斉王誕生祝い」の魏鏡でしょう。
青龍三年(235年)の魏鏡を賜ったのは伊声耆こと垂仁で、垂仁こそ魏が認める倭国の王でしょう。
blogs.yahoo.co.jp/tombo4545/48530867.html より


52 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 11:59:34   ID:Zq2Ms2fc 
この青龍三年銘鏡と同時に出土した三角縁四神四獣鏡の銘文には、「東王父」→「東王」、「西王母」→「王西母」と誤りがあるとの指摘があります

53 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 12:03:01   ID:Zq2Ms2fc 
景初四年銘鏡の考察があります
www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/gikyo.htm

景初四年銘鏡は、京都府福知山市の広峯15号墳出土鏡と、兵庫県の辰馬考古資料館所蔵鏡(同形鏡)の盤龍鏡2面が知られています。景初四年は実在しない年とされています。魏鏡説においては銘文「景初四年五月丙午之日」の吉祥の意味が主張されています。「五月丙午之日」とは、鋳造家にとっては好ましい最も強い火を意味します。どのような関係による「吉祥」なのかを詳しく解明することは、即ち古代史の解明につながります。鏡を貰う倭国側のこの時代は崇神天皇の時代と考えられます。ここに景初四年銘鏡の秘密が隠されている可能性大です。持論では崇神天皇の(即位〜)新都磯城瑞籬宮遷都が該当します。景初四年(正始元年、西暦240年)は、難升米等が下賜品を持ち帰る時期ですが、崇神天皇三年に当っていて九月には新都磯城瑞籬宮(奈良県桜井市金屋付近)への遷都がありました。その時に魏からも使者を招いて盛大な式典が行われたのだと思います。魏王死去での正始改元でした


54 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 12:04:31   ID:Zq2Ms2fc 
青龍三年は中国魏の年号で西暦235年にあたる。
大田南5号墳からは墳丘上に供献されたとみられる約20個体分の土師器が出土しているが3世紀後半を降るものではない。安満宮山古墳も出土した鏡や主体部の状況から、近い時期の築造と推測される。


55 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 12:05:22   ID:Zq2Ms2fc 
とすれば、崇神天皇の時代が240年頃になる

56 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 12:11:59   ID:Zq2Ms2fc 
www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/gishi3.htm
によれば

銅を産出する地域も呉内にあり、三角縁神獣鏡が洛陽で製作される可能性はないという。

前漢末に現われ、後漢に流行した方格規矩四神鏡(尚方鏡)の銘文、尚方作竟真大好、上有仙人不知老、渇飲玉泉飢食棗、浮遊天下敖四海、寿如金石為国保(上に仙人ありて老を知らず、渇えば玉泉を飲み飢えばなつめを食し、天下を浮遊し四海にたわむれ、寿命は金石のごとく国を保つ)あるいは方格規矩四神鏡(黍言鏡)の銘文、黍言之紀従鏡始、長保ニ親和孫子、辟去不羊宜賈市、寿如金石西王母、従今而往楽乃始(二親を長く保ち孫子和し、つみ去りさまよわずよろしく市にあきない、寿命は金石のごとき(不老不死の)西王母、今に従いてゆけば楽の始り)、とか神仙による縁起物であり、半島経由で輸入され、死後副葬されていたことになる。このなかで、特に神や獣の霊力にあやからんとするものが三角縁神獣鏡であったろう。倭では呉と同様そのようなものが好まれていることを魏が知っており、陳という工人が呼び寄せられ似た銅鏡を作らされたのであろう。


57 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 12:14:41   ID:Zq2Ms2fc 
その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦(わきん)・絳青糸兼(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布・丹・木犬付・短弓矢を上獻す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拜す。
伊聲耆は呉音では”いしゃうぎ”、掖邪狗は”えき?じゃく(やくやく:中古音表)”。倭錦は和の錦織、絳青糸兼は濃い赤と青の糸で堅く織った絹、緜衣は綿の衣、帛布は白いうすい絹の布、丹は丹朱、辰砂のこと


58 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 12:15:31   ID:Zq2Ms2fc 
正始四年春正月、曹芳は元服し夏四月甄(しん)氏を皇后に立てる。卑弥呼はその節目にこれを祝ってのことであろう大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、十二月に使者が朝貢していた。

59 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 13:32:24   ID:Zq2Ms2fc 
日本から三国時代の「呉年号鏡」が2枚発見されています。
山梨・三珠の狐塚古墳「赤烏元年鏡」と兵庫・宝塚の安倉高塚古墳「赤烏七年鏡」で、「赤烏」は呉・孫権の年号。
呉・赤烏元年は卑弥呼が魏帝に初めて遣使した魏・景初二年に当たります。
卑弥呼の頃の鏡です


60 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 13:34:57   ID:Zq2Ms2fc 
中国・湖南省・長沙で発掘された前漢時代の墓「馬王堆」。
当時の神仙思想を象徴する帛画

璧穴をくぐり抜けた龍が死者の魂を天上界に運ぶ壁画
天上界には扶桑樹と十個の太陽が描かれています。その太陽には烏が宿っています。

三足鳥か???


61 : 名無しさん@chs    2008/05/06(火) 13:41:35   ID:Zq2Ms2fc 
文忌寸は百済系渡来人の集中地であった河内で、王仁(わに)以来文筆専門氏族の中心的存在であり、現在の羽曳野市古市が居住地だった。父の根麻呂は壬申の乱で天武側の武将として活躍した。父の七光りで、天平宝字元年(757)には鋳銭長官

62 : 名無しさん@chs    2008/05/09(金) 10:33:58   ID:GExiT31w 
「陳是作」半円方形帯同向式神獣鏡      
         後漢の画文帯同向式神獣鏡の系譜をひくもので、内区には「伯牙」「東王父」「西王母」「黄帝」の神像といくつかの獣形を配しています。 銘文は反時計回りに「陳是作鏡 君宜高官[官のみ逆字]保子宜孫萬年」と記されています。 直径は17.6cm。同様の内区文様をもつ鏡としては「景初三年(西暦239年)」銘のある大阪府和泉黄金塚古墳出土の画文帯同向式神獣鏡や 「正始元年(同240年)」銘をもつ群馬県柴崎蟹沢古墳出土の三角縁同向式神獣鏡など。


63 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 08:29:57   ID:nt7aggo6 
快天山古墳(かいてんやまこふん)は、香川県丸亀市綾歌町栗熊東に所在する前方後円墳。築造されたのは古墳時代前期。墳長は98.8メートルを測り、四国第2、古墳時代前期に限れば瀬戸内地方で6番目の規模を有する。
埋葬施設は、後円部に3か所確認されており、それぞれ刳抜式の割竹形石棺を有する。石棺の石材は香川県鷲の山産の石材が使用され、割竹形石棺を採用した古墳の中では最古期に属すると考えられている。墳丘は、大半が地山の削り出しによって形成されているが、後円部の上半部は盛土で構築されている。3段以上の築成により、各段のテラス部には円筒埴輪が、斜面部には葺石が配されている。墳丘の主軸や埋葬施設の主軸から検討すると、讃岐型前方後円墳の築造様式と畿内前方後円墳の築造様式の双方の特徴が見られることから、非常に貴重な考古資料といえる。
第1号石棺からは、船載方格規矩四神鏡1、硬玉製の勾玉1、管玉3、鉄刀残片4、剣5、刀子4、やりがんな1、鑿2、石釧2、斧3、鉄鏃20などが出土している。

第2号石棺からは、倣製内行花文鏡片1が出土し、棺外からは斧1、碧玉製の管玉2、刀子2、剣1を検出した。若年女性とみられる遺骸が確認されている。

第3号石棺からは、遺骸(青年男性)と倣製内行花文鏡1、剣1を確認している。棺外からは鉄鏃1、土師器壺1が出土している。


64 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 08:32:51   ID:nt7aggo6 
四国最大の規模を誇る富田茶臼山古墳
さぬき市の歴史
縄文遺跡として鴨部・南谷遺跡、弥生前期の環濠集落遺跡として鴨部・川田遺跡、中期の高地性集落として津田・北山遺跡、後期の竪穴式住居跡群の石田東・森広遺跡などが知られています。市内各地に古墳群があり、富田中・富田茶臼山古墳は総長163mで四国最大の前方後円墳で、国指定の史跡となっています。


65 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 08:36:30   ID:nt7aggo6 
香川県に分布する刳抜式石棺では、地元の石材で作製されたのものと、九州に産出する阿蘇熔結凝灰岩で作製されたものが存在しています。今回見学したものは全て四国で産出する石材で作製されたもので、綾歌郡国分寺町で産出する淡黄色ないし青灰褐色の凝灰岩である通称鷲の山石と、大川郡津田町火山に産出するといわれる白色の凝灰岩で通称火山石と呼ばれる石材で作製されたものが知られています。赤山古墳の石棺が火山石製である以外は、三例とも鷲の山石で作製されたものです。最終日に訪ねた観音寺市の青塚古墳と丸山古墳では阿蘇熔結凝灰岩製の舟形石棺が出土していますが、埋め戻されており見学することは出来ませんでした。
もう一つ讃岐地方に特徴的な古墳文化に積石塚があります。その中で最も著名なものが高松市中心街の南西にそびえる石清尾山山塊に築かれた積石塚群です。この石清尾山の山頂部から北に窪む摺鉢谷と呼ばれる浸食谷の周辺部の平坦な尾根上に鶴尾神社4号墳や北大塚古墳、石船塚古墳などの前方後円墳や、猫塚古墳、鏡塚古墳などの双方中円墳が立地しています。最初に築かれたのが鶴尾神社4号墳で3世紀末期〜4世紀初頭の築造と言われています。他にも西方寺尾根や摺鉢谷、浄願寺山にも、積石塚と古墳時代後期の横穴式石室墳が分布しています。


66 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 08:39:36   ID:nt7aggo6 
新選讃岐風土記で松岡調氏は「中山城山著全讃史の牟礼城は今の揚小四郎の宅云々に対して、揚氏の宅地は山田郡古高松なれば、牟礼城と言う筈無し、この地神櫛王の殿跡と言う伝説あれば、同王の後裔と言えるなり。混いをるならん」と述べている。牟礼村の何処かにあったようだが不祥である。

67 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 08:40:34   ID:nt7aggo6 
香川県史によれば「寒川左馬允之レニ居ル、此所ハ仁徳天皇ヲ奉祀所ナリ倭名鈔ニ此地ヲ難波郷ト称ス 蓋此奉祀所アルヲ以テナラン 蓋当時ノ土民同天皇ノ恩徳ヲ追念シ 奉祀所ヲ設クルナラン」とある。みろく公園近くの冨田茶臼山古墳の平坦部に妙見神社があり、このあたりが本丸かもしれない。櫓を設けた平山城で昼寝城城主寒川左馬允は冨田茶臼山古墳を出城として築城したらしい

68 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 08:52:15   ID:nt7aggo6 
快天山古墳
この古墳は西暦4世紀中頃(古墳時代前期後半)に築かれた前方後円墳で、全長100m前後の巨大なものです。古墳時代全体を通しても香川県大川町にある富田茶臼山古墳(墳長135m 5世紀前半)に次いで四国第二位の規模です。4世紀代の古墳としては四国最大の前方後円墳となります。
快天山古墳は、古墳時代の墳墓の最も特徴的な形式である前方後円墳で、長さ98.8m、高さ10.55mです。その築造された時代は、古墳時代の前期で、だいたい4世紀の中頃になります。古墳の造られている場所は、平地部から40mほど高さのある丘陵の尾根の先端部分で、標高は約70mです。
一つはその規模で、四国の古墳の中では、さぬき市の富田茶臼山古墳に次ぐ、2番目の大きさであり、快天山古墳と同じ古墳時代前期の古墳のなかでは、四国で最も大きい古墳です。この地域に巨大な古墳を築造できる強大な勢力の存在を示しているものと思われます。もう一つは、埋葬施設に採用された割竹形石棺です。これは、近年の研究の結果、刳抜式の石棺としては、日本で一番古いものとされています。快天山古墳が造られた後、この石棺は、県内の古墳や岡山県や大阪府の古墳などに採用されていきます。快天山古墳の石棺は、国分寺町の鷲ノ山の石で造られています。この鷲ノ山の石で造られた石棺が大阪府の古墳で見つかっているのです。これは、当時の政権の中心である畿内地方の古墳に、地方の古墳が影響を与えたものと考えられます。古墳時代を象徴する前方後円墳は、一般的には、畿内地方で成立して、畿内地方との政治的関係で地方へ広がっていったとされていますので、快天山古墳は畿内との政治関係において重要な役割を象徴する古墳といえるでしょう。


69 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 08:56:34   ID:nt7aggo6 
寒川氏は讃岐公凡直千継の一族で、世々寒川郡の郡司を務め、その後裔が寒川氏を称したと伝えられている。大内・寒川の二郡および小豆島を併せ領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るった
大内・寒川の二郡および小豆島を併せ領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るった

景行天皇の子・神櫛別命の孫須売保礼命が応神朝に讃岐国造を賜うに始まる。
 敏達朝に凡直姓を賜姓、延暦10年(791)讃岐公に改賜姓、承和3年(836)讃岐朝臣に改賜姓。
 更に嫡流は本貫を京都に移して、貞観6年(864)に和気朝臣に改賜姓。
 讃岐で繁栄した後裔は、神内、三谷、寒川、由良、十河の庶子家を分出す

神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命──〔讃岐国造〕須売保礼命(讃岐氏へ)

〔讃岐国造〕須売保礼命ーーー鯽魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君


70 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 08:59:19   ID:nt7aggo6 
讃岐の主要な古代豪族は,東讃の凡直,中讃の綾公,西讃の佐伯直である。凡直は景行天皇の皇子で讃岐国造の祖とされている神櫛皇子(日本書紀・国造本紀)の後裔と称し,6世紀後期,敏達天皇の時に国造に任じられ(続日本紀),佐伯直は,5世紀前期,允恭天皇の時国造になったという(三代実録),両氏がともに国造の子孫と称していることについて,東讃・西讃にそれぞれ国造が任じられていたと解されているが,両氏の任命時期には100年以上の開きがある。6世紀は大和朝廷による国造制の再編期で特に瀬戸内海周辺地域では,広範な地域を支配する凡直国置制が敷かれたといわれており,この時期に凡直が讃岐全土を統轄する国造に任命されたのではなかろうか。

71 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:00:01   ID:nt7aggo6 
説話的なものを除き,讃岐の国名が確実な史料に見えるのは,天智天皇6年11月白村江の敗戦後,唐・新羅軍の侵攻に備えて讃岐国山田郡(郡名は大宝令後)に屋島城を築いたとある(日本書紀)のがはじめであろう。讃岐は瀬戸内海交通の要衝であり

72 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:01:40   ID:nt7aggo6 
律令制下では,讃岐は南海道に属する上国で,「和名抄」によれば,管郡は大内【おおち】・寒川【さんがわ】・三木・山田・香河(川)・阿野【あや】・鵜足【うた】・那珂・多度・三野【みの】・刈田の11郡90郷である

天平宝字8年,朝廷は使を派遣して,大和・河内などとともに讃岐に池を築かせている(続日本紀)。讃岐の古代の溜池でよく知られているのは弘法大師が修築した満(万)濃池だが,寛仁4年記の万濃池後碑銘(平遺金石文編)に,仁寿元年大雨により国中大小の池が決壊したとあり,古くから多くの溜池が築かれていた


73 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:02:45   ID:nt7aggo6 
綾氏は,平安末期阿野郡大領綾貞宣の娘が国守藤原家成の子章隆を生み,その後裔は讃岐藤原氏を称して,羽床・大野・新居・香西・福家などの諸氏に分かれて中讃を支配した

凡氏は寒川郡・三木郡,山田郡植田などに一族が居住して,その地名を姓とし,植田氏はさらに神内・三谷・十河に分かれ,東讃地域に勢力を広げた。また中央に進出した凡氏は讃岐公ついで讃岐朝臣の姓を賜り,讃岐公千継・讃岐朝臣永直などのすぐれた明法家を出した(三代実録)。


74 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:03:06   ID:nt7aggo6 
綾氏は,平安末期阿野郡大領綾貞宣の娘が国守藤原家成の子章隆を生み,その後裔は讃岐藤原氏を称して,羽床・大野・新居・香西・福家などの諸氏に分かれて中讃を支配した

凡氏は寒川郡・三木郡,山田郡植田などに一族が居住して,その地名を姓とし,植田氏はさらに神内・三谷・十河に分かれ,東讃地域に勢力を広げた。また中央に進出した凡氏は讃岐公ついで讃岐朝臣の姓を賜り,讃岐公千継・讃岐朝臣永直などのすぐれた明法家を出した(三代実録)。


75 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:03:22   ID:nt7aggo6 
綾氏は,平安末期阿野郡大領綾貞宣の娘が国守藤原家成の子章隆を生み,その後裔は讃岐藤原氏を称して,羽床・大野・新居・香西・福家などの諸氏に分かれて中讃を支配した

凡氏は寒川郡・三木郡,山田郡植田などに一族が居住して,その地名を姓とし,植田氏はさらに神内・三谷・十河に分かれ,東讃地域に勢力を広げた。また中央に進出した凡氏は讃岐公ついで讃岐朝臣の姓を賜り,讃岐公千継・讃岐朝臣永直などのすぐれた明法家を出した(三代実録)。


76 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:09:18   ID:nt7aggo6 
西日本の山陽・南海道では国造制の再編=凡直国造制の成立が起こっていた。凡直国造とは、小国造を併合し、より広い領域を統括する大国造であった。

多氏族
神武天皇皇子、神八井耳命後裔氏族
神八井耳命については、綏靖天皇(神渟名川耳命)の同母兄と記紀に記されるが、『皇胤志』では手研耳命の同母弟と記され、これは傾聴すべきと考えられる。綏靖天皇は『書紀』などに神武の第三子と記すが、手研耳命が長子、神八井耳命が次子と考えられ、一方、手研耳命の弟に岐須美美命(「皇孫本紀」では研耳命)があげられており、この者が神八井耳命と人物的に重なり合うとみられる。
多(オホ)は太、大、意富、飯富、於保とも記される。皇別としての分岐では最古に位置づけらる氏族でもあり、分出したと称する氏も多く、その分布は全国的


77 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:12:27   ID:nt7aggo6 
多氏族から出たと称する地方の国造としては、科野国造、仲国造(常陸国那珂郡)、印波国造(下総国印幡郡。系譜には疑問もあり、留保)、長狭国造(上総国長狭郡)、石城国造(陸奥国磐城郡。実際には疑問が大)、闘鶏国造(後廃止)、及び九州四国の阿蘇国造、火国造、大分国造、伊余国造、と数多い

島田臣(録・右京)、島田朝臣(島田−尾張国海部郡人)
伊勢ノ船来直(船木直。船木−伊勢国朝明郡舟木明神祠官。西脇−同郡耳利神社祠官)、船木臣、船木宿祢(舟木、堀内−伊勢国一志郡人。乙部、中村−伊勢人)。


78 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:13:30   ID:nt7aggo6 
多臣とは別流で、宇佐国造同族の武国凝別命の族裔ではないかと推されるが、ここに併せて掲げておく。武国凝別命の子の大笠別命が大分国造・日向国造の祖、建緒組命が火国造・筑紫国造・讃岐国造・針間国造・粟国造・伊予国造等の祖であったとみられる。武国凝別命と同人(あるいは兄弟)ではないかとみられる健磐竜命の子が速甕玉命で、阿蘇国造の祖となっている。

79 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:16:50   ID:nt7aggo6 
伊余国造(伊予ノ凡直か)、伊与宿祢、伊与連、宇和別君。なお、伊余国造後裔については、武国凝別命の後裔の項(称景行天皇裔)

大分国造一族とみられるものに、大分之穴穂御埼別、海部直、海部公、海宿祢(海老原−日向国宮崎郡の奈古八幡宮祠官。黒木−日向国真幸院の一宮剣大明神神主、薩摩国出水郡加紫久利神社社司など、初め阿万(阿満)。加久藤−真幸院二宮神社祠官、安曇姓ともいう)。なお、日向国造一族もこの同族とみられるが、景行天皇後裔氏族のほうに掲げた。


80 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 09:18:00   ID:nt7aggo6 
淡道国造は淡道国(現・兵庫県淡路島、淡路・洲本・南あわじ市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると仁徳天皇(16代)の時代に神魂命(かみむすびのみこと、神皇産霊命)の9世孫である矢口足尼(やぐちのすくね、矢口宿禰)を国造に定めたことに始まるとされる。淡道国は後に淡路国となり現在に通じるのだが、その名の由来は古く淡の道、阿波への道の変化とする説、記紀神話に登場する淡路島の誕生説は日本列島の失敗作だというので、むしろ泡に由来する説、他にも百済語に由来する説等があり定かではない。
国造氏族は周防国造等と同じく凡直(おおしのあたい)の姓であり、広域を統率する大国造であったと考えられ、後には波多門部(はたものべ・はたかどべ)氏・波多氏と繋がっている。


81 : 名無しさん@chs    2010/01/11(月) 10:33:35   ID:nt7aggo6 
多坐弥志理都比古神社
祭神 神八井耳命 神泥川耳命 神倭磐余彦尊 玉依姫命
由緒 神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭る
       綏靖天皇2年、春日県(後の十市県)に大宅を造り、神籬磐境を立てる
       崇神天皇7年神祠を改作して天津日瓊玉命、天璽鏡劔神を祈賽
       天平2年(730)太神社『大倭国大税帳』
社名にも伺い知ることの出来る水知津彦火(日)知津姫の二柱の神を古くより祀り多族の祖神である神八井耳命また末孫の日本最古の史書古事記,日本書紀簒録者である太安萬侶卿を学業の守神とし,また小子部すがるの命を保育の守神として広く崇啓されている
多は、太安万侶らをはじめとする古代氏族多氏の根拠地とみられる。神社の祭神は神武天皇・神八井耳命・神淳名川耳命(綏靖天皇)・姫御神(玉依姫)の四柱で、このうち神八井耳命は多氏の祖とされる。


82 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 16:42:55   ID:Opm72ySg 
息長古墳群を形成する山津照神社古墳
【山津照神社古墳】神社境内に所在
【墳形】前方後円墳
【規模】正確な大きさは不明。推定全長約46m、高さ6m
【築造時期】古墳時代後期
石室からは、内行花文鏡、獣文鏡、五鈴鏡、金銅製装身具(冠?)残片、三輪玉、鹿角製刀子(ろっかくせいとうす)、馬具、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、切子玉(きりこだま)、さらには坏蓋(つきぶた)、坏身(つきみ)、堤瓶(ていへい)、長頸壺(ちょうけいつぼ)、大型器台(きだい)などの須恵器類が出土した。墳丘からは、朝顔形埴輪や円筒埴輪も出土した。現在、これらの出土品の大部分は、滋賀県の有形文化財に指定されているとのことだ。
この古墳は、新庄の塚の越古墳、顔戸(ごうど)の後別当古墳と人塚山古墳、高溝の狐塚古墳らと共に、息長古墳群を形成している
6世紀の初めは男大迹王(おほどのおおきみ、継体天皇)が生きた時代であり、ひょっとすると男大迹王の登極を支援した息長氏某の奥津城だったかもしれない。いずれにせよ、この古墳は、湖北地域では最後に作られた前方後円墳として知られいる


83 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 16:50:49   ID:Opm72ySg 
国造本紀(先代旧事本紀)によると仁徳天皇(16代)の時代に神魂命(かみむすびのみこと、神皇産霊命)の9世孫である矢口足尼(やぐちのすくね、矢口宿禰)を国造に定めたことに始まるとされる。

大矢口宿禰命 (おおやくちのすくねのみこと)

『録』和泉神別には大矢口根大臣命。饒速日命の四世の孫で、榎井部の祖という。

『旧』天孫本紀に、孝霊天皇の時代、宿禰となり大神を奉斎したとある。坂戸由良部姫を妻として、欝色雄命、欝色謎命、大綜杵命、大峯大尼命を生んだ。
天皇本紀も、孝霊朝に大水口命と並んで宿禰に任じられたとする。


84 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 16:55:07   ID:Opm72ySg 
宇摩志麻治命(うましまちのみこと)
四世の孫の大木食命(おおきくいのみこと)[三河国造(ミカワノクニノミヤツコ)等の先祖。出雲醜大臣命の子供]

 弟の六見宿禰命(むつみのすくねのみこと)[小治田連(オハリダノムラジ)等の先祖]

 弟の三見宿禰命(みつみのすくねのみこと)[漆部連(ヌリベノムラジ)等の先祖]
  この命は、秋津島宮(あきつしまのみや)で統治された天皇[孝安天皇]の御世に近くに宿直する縁で初めに足尼になる。次に宿禰となり大神を斎奉る。その宿禰はこの時が最初で有る。

 児の大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)[穂積臣(ほづみのおみ)・釆女臣(うねめのおみ)等の先祖。出石心大臣命の子供]

 弟の大矢口宿禰命(おおやぐちのすくねのみこと)
  この命は、廬戸宮(いおとのみや)で統治された天皇[孝霊天皇]の御世に宿禰となり大神を斎奉る。坂戸(さかど)の由良都姫(ゆらつひめ)を娶り、四児を生む。


85 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 16:57:18   ID:Opm72ySg 
『旧事本紀』饒速日尊ー宇摩志麻治命ー出石心大臣命ー大矢口宿禰命ー大綜杵命ー伊香色謎命ー十市根命ー物部膽咋ー

86 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 16:58:15   ID:Opm72ySg 
鈴木氏族は、この物部系の穂積氏より出て、はじめ紀州新宮を本拠としたが、のちに名草郡藤白湊に移り、その地の王子社の神官となり、ここを中心に発展し、同じく熊野に勢力を扶植していた大伴系の榎本・宇井( 丸子氏の本姓 )とともに三家と称された。すなわち、諸国の鈴木氏の多くは、この流から分かれる。

87 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 17:06:03   ID:Opm72ySg 
三河国造の統治下にあり,その本拠は二子古墳を中心に古墳群を形成する 現在の安城市桜井町地域であろう。

和志取神社
天日鷲命 合 伊弉諾命, 愛知県安城市柿崎和志取35. 由緒 創建は明らかでない


88 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 17:19:05   ID:Opm72ySg 
岡崎市の式内社の主張を仮に鵜呑みにすると、岡崎市には、碧海郡の一部しかないのに、式内社5という異常事態
和志取神社近くに陵墓(前方後円墳)がある『日本書紀の』五十狭城入彦皇子=『古事記』の若木之入日子王


89 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 17:20:47   ID:Opm72ySg 
讃岐国

 『南海通記』に「野原の雑賀、岡本、藤井云々」と載せてある。この雑賀氏もまた紀州雑賀氏の血脈をひくもので、石山合戦において毛利水軍とともに、雑賀水軍として活躍した。


90 : 名無しさん@chs    2010/01/16(土) 17:42:34   ID:Opm72ySg 
古代の謎・抹殺された史実: 物部・葛城・尾張氏と東海のかかわり
books.google.co.jp/books?id=0GyAzi1_3tcC&printsec=frontcover#v=onepage&q=&f=false


91 : まろゆき    2010/01/20(水) 05:18:20   ID:XQP/0N2E 
もうデリ嬢とか二度と呼ばねぇっす!
だってこれなら本番ができてお金までもらえるしな!
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92 : 名無しさん@chs    2010/06/12(土) 08:37:37   ID:wEPkr4ms 
呉の孫権が名実ともに呉皇帝となった黄龍元年(229)以降は、魏は年号鏡を魏の地で製作するしかなかった。それからは呉の神獣鏡とは全く別形式の青龍三年(235)銘方格規矩四神鏡や景初三年(239)銘三角縁神獣鏡等が続々と登場することになった

93 : 名無しさん@chs    2011/02/06(日) 08:28:53   ID:GBh0C40E 
平 原 遺 跡
この遺跡は伊都国の王墓と考えられる1号墓を中心とした墳墓遺跡で、昭和40年(1965)に発見されました

1号墓は14m×12mの四隅が丸い長方形でその中央に木棺が埋葬されていました。この墓は弥生時代後期〜終末(約1800〜1900年前)に造られたものです。
 副葬品は銅鏡39枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されています。銅鏡のなかには直径46.5cmの内行花文鏡(日本製)が4枚ありますが、これは日本最大の銅鏡です。その他の銅鏡もほとんどが中国製で非常に貴重なものです。また、ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も日本一で、伊都国王の墓にふさわしい内容です。
内行花文鏡(重要文化財)(日本最大の銅鏡 直径46.5cm)
方格規矩鏡(重要文化財)(中国製 直径18cm)
曽根遺跡群は伊都国の王の墓である平原遺跡と銭瓶塚古墳、狐塚古墳、ワレ塚古墳の3基の古墳で構成されています。また、国指定史跡ではありませんが平原遺跡の東約400mの丘陵の東端の林の中に石ヶ崎支石墓があります


94 : 名無しさん@chs    2011/02/06(日) 08:31:36   ID:GBh0C40E 
この平原遺跡は、割られていた巨大な鏡が一番の特徴ですが、測量図を見ていると、墓の周りに鉄製品や砥石がある

鉄のオノ、刀子、ノミ、キリ、ヤジリがぐるりと置かれています。
(刀子は別の墓の副葬品の可能性あり。)
それに砥石も二つあります。
特に、1号鳥居の下には砥石。3号鳥居の下には矢じり があります。
この出土状況から、これらは供えられたものではないかと考えました。
当時、鉄器は特に貴重品だったはずです
墓の副葬品を思い出すと、勾玉はガラス製、鏡は青銅製、素環頭の刀は鉄製でした


95 : 名無しさん@chs    2011/02/06(日) 08:36:49   ID:GBh0C40E 
1965年発掘の福岡県の平原遺跡は、直径46.5センチの大形鏡5面と後漢式鏡をふくむ40面の鏡をもつ弥生王墓として、邪馬台国の王墓を決める上で最高の考古学的資料である。発掘当時、調査者の原田大六氏は平原遺跡を「平原弥生古墳」と命名、その時期を2世紀前半ころ(BC100〜150)と想定した。原田は平原遺跡の被葬者をオオヒルメムチ(天照大神)とし、弥生墳墓の被葬者に神をあてた。つまり考古学と神話を結びつけたのである。
平原鏡には7種19面の同型鏡がある。           

@内行花文八葉鏡1種5面

A方格規矩鏡6種14面   

平原遺跡の同型鏡は、古墳時代における三角縁神獣鏡の踏みかえし生産の先駆的意義を持っている。(三雲南小路の57面中3種4面の同型鏡     他の墳墓間に1種2面の同型鏡が知られている。

三角縁神獣鏡の同型鏡 椿井大塚山古墳 37面中4種9面

黒塚古墳 34面中7種15面

弥生時代の鉄器出土例を集成し、鉄製武器や中国鏡が九州北部に偏在している考古学的事実から邪馬台国の所在地を九州北部とする説を発表した(奥野正男『邪馬台国はここだ』毎日新聞社1981)。また、九州北部では福岡市今山産玄武岩製の太形蛤歯刃石斧の生産中止時期(弥生後期前半)を境にして、鉄器の普及が武器から農具まで完全な鉄器化−石器から鉄器への転換−が進行している事実が注目された。筆者は弥生後期の鉄の小規模生産を想定したが、まだこの時期の製鉄遺跡は未発見である


96 : 名無しさん@chs    2011/02/06(日) 08:38:16   ID:GBh0C40E 
32年 高句麗が後漢に朝貢

105年 高句麗が遼東郡を攻撃

107年 倭国王師升ら後漢に朝貢

146年  高句麗が遼東を攻撃

190年  遼東太守公孫度が独立政権を立てる。

197年  高句麗王・伯固の没後、弟・伊夷模が王になる。

      高句麗、王位継承を巡り王子間に対立激化。丸都城を築く。

兄の抜奇が公孫氏と結び沸流水(渾江)流域を支配。

198〜205年頃  遼東の公孫康が楽浪郡を分割し、の南に帯方郡を置く。

209年 弟・伊夷模(山上王197〜227)が大水(鴨緑江)中流域・輯安の国内城を王都に新国を立てる。

220年  後漢滅び、魏王朝成立。

237年  遼東の公孫淵が自立し、燕王となる。

景初中(237〜9)魏が公孫氏を撃つ。

238年 「景初二年六月、倭の女王は大夫の難升米を使わして郡に詣り、天子に詣りて朝献するを求む」(魏志)

「その年の十二月、親魏倭王の卑弥呼に制詔、五尺刀二口、銅鏡百枚を賜う」

240年 「正始元年(240)帯方太守・弓遵は、建中校尉の梯儁らを使わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣る」

243年  倭の女王・卑弥呼、再度魏に朝貢。

244年 魏は母丘倹を派遣し、遼東の公孫氏を撃ち、次いで高句麗の国内・丸都城を陥落させた。

246年 韓族が反乱し、帯方太守が戦死したことを契機に,二郡が韓地を制圧。

266年  倭の女王・壱與、西晋に朝貢。

277〜90年馬韓・辰韓ら晋に朝貢。

280年  西晋が中国を統一。


97 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:14:27   ID:Z4AKFmGI 
神原神社(カンバラジンジャ)
簡素な社である。この神社が脚光を浴びたのは社殿を50m移転させた際、その下に堅穴式石室が発見された。そしてその副葬品の中に景□三年陳是作鏡云云の銘のある三角縁神獣鏡が出た。これを景初三年と読むと卑弥呼が中国へ使者を送ったという年号と一致する。だから定説では卑弥呼が中国から貰った百枚の鏡はこれだとし、後に近畿天皇家が地方の豪族に分けたという分布図まで出来上った
有名な小林説の三角縁神獣鏡の分布図は近畿天皇家が中心に描かれているが、黄金塚の銘は神原神社の銘を要約したものであるから、地方から中心に伝播したことになる。
邪馬台国九州説に於て中国が三角縁神獣鏡を景初三年に製造して卑弥呼に贈ったとは考えにくいが、大切に残しておいた漢式鏡を与えたのではないかと博多湾岸を指し示していた。これはまがうことなく古田説である。この歴然たる鏡の分布図に学界は、いやこの鏡は一世紀だとか二世紀だとかいって逃げているのが現状である。


98 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:17:44   ID:Z4AKFmGI 
三角縁神獣鏡のうち、銘文中に魏の年号が記された鏡が4面ある。島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡、群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳、兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳、山口県周南市(旧新南陽市)竹島御家老屋敷古墳の3古墳から出土した同型の「正始元年」鏡3面である。これらの鏡4面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式である。

「景初三年」鏡
景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜□□出吏人□□□(位)□(至)三公母人?之保子宜孫寿如金石
「正始元年」鏡
□始元年陳是作鏡自有経述本自州師杜地命出寿如金石保子宜孫


99 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:19:43   ID:Z4AKFmGI 
三角縁神獣鏡が魏の鏡だと主張する人たちの最大のより所は「景初三年」鏡(島根県神原神社古墳出土)である。景初三年(239年)は魏の明帝が卑弥呼を親魏倭王に任命した年だからである。

しかし、この三角縁神獣鏡は、方格規矩四神鏡の後に現れたにもかかわらず、銘文の韻律はひどいものである。

・句末の押韻
第3句の「述」と第5句の「出」が隔句韻を踏むだけで、他はまったく押韻していない。

・平仄のルール
平仄の韻律は、まったく無視されている


100 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:21:59   ID:Z4AKFmGI 
年号 銅鏡の種類 所在地
青龍三年(235年) 方格規矩四神鏡 京都府弥栄町 大田五号墳
青龍三年(235年) 方格規矩四神鏡 大阪府高槻市 安満宮古墳
景初三年(239年) 平縁神獣鏡 大阪府和泉市 和泉黄金古墳
景初三年(239年) 三角縁神獣鏡 島根県加茂町 神原神社古墳
景初四年(240年?)
斜縁盤竜鏡 京都府福知山市 広峯15号墳
景初四年(240年?) 斜縁盤竜鏡 宮崎県西都市 持田古墳群
正始元年(240年) 三角縁神獣鏡 兵庫県豊岡市 森尾古墳
正始元年(240年) 三角縁神獣鏡 群馬県高崎市 柴崎蟹沢古墳
正始元年(240年) 三角縁神獣鏡 山口県南陽市 竹島御家老屋敷古墳
三角縁神獣鏡は、日本全国で500枚以上出土しているといわれる。その分布は右の図のようになる。

これを見るとわかるように、近畿地方を中心として、だいたい日本全国に分布している。多いのは、奈良県の77面、京都府の54面である。

100面しかもらっていないのに、出土したものだけでも、500面以上というのは、数が合わないつまり、三角縁神獣鏡には、魏からもらったものと、日本で作られたものが混じっているということになる。しかも、日本で作られたものの方が圧倒的に多いということになる


101 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:22:42   ID:Z4AKFmGI 
方格規矩四神鏡の分布

市町村 遺跡名 個数
福岡県前原市 平原遺跡1号墳 31
福岡県前原市 井原鑓溝(いはらやりみぞ)遺跡 21
佐賀県唐津市 桜馬場遺跡 1
佐賀県東脊振村 松葉遺跡 1
佐賀県東脊振村 横田遺跡 1
佐賀県大和町 池ノ上遺跡 1
佐賀県小城町 寄居1号墳 1
大阪府高槻市 闘鶏(つげ)山古墳 1
大阪府高槻市 安満宮山古墳 1
京都府 太田南5号墳 1
京都府 椿井大塚山古墳 1


102 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:23:53   ID:Z4AKFmGI 
平原(ひらばる)周溝墓の謎

仮に、方格規矩四神鏡が卑弥呼の鏡だとすれば、それを31面も出土した福岡県前原市の平原遺跡はどのように考えたらよいのだろうか。平原周溝墓の1号分に葬られた人物は、副葬品の内容から女性であるという意見が大勢を占めている。つまり、女王であった可能性が非常に高い。

よく、前原市は伊都国であるといわれる。魏志倭人伝には、伊都国について「代々王がいる」と書かれている。つまり、王とは書かれているが、女王とは書かれていない。中国にとっては、卑弥呼のような女王というのは珍しかったらしく、魏志倭人伝には、盛んに女王という言葉が出てくる。仮に、伊都国の王が女王ならば、王ではなく、女王と書いていたものと思われる。このことから前原市は通説にあるように、伊都国ではないのではないかと考えることもできる。


103 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:24:43   ID:Z4AKFmGI 
平原遺跡(1号墳)の出土品
国産鏡 5面 内行花文鏡(国内最大) 直径46.5cm…4面 27cm…1面 
中国鏡 34面 方格規矩四神鏡…31面 方格規矩鏡…1面 内行花文鏡…1面
       き竜文鏡…1面 
ガラス製首飾り ガラス製勾玉 メノウ製腕輪 
中国製鉄剣 巴形銅器3個 


104 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:26:34   ID:Z4AKFmGI 
福岡県前原市
高祖神社は彦火々出見尊を主座に、左座に玉依姫命、右座に息長足比女命の三柱をお祀りする神社で、いま創建の時を詳かに出来ないが、九州諸将軍記には「神代より鎮座あり神功皇后、三韓より凱旋の後、当社の社殿を乾の方に向け御建立」と記されている。
当社は、古代から怡土郡の惣社(中世には怡土庄一の宮)と崇敬される神社で、三代実録には、いまから千百五年前の元慶元年九月二十五日発亥「正六位高礒比賣神に従五位下を授く」と記されている。
この高礒比売神とは高祖神社のことで、相殿に玉依姫命、息長足比売命をお祀りしてあるので、このように呼ばれたと語り伝えている


105 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:29:00   ID:Z4AKFmGI 
潤神社
福岡県前原市大字潤
祭神
五十猛尊 配 伊弉諾命、宗像三柱大神、住吉三柱大神
 福岡県神社誌は伊弉諾命ではなくて伊弉册命となっている
由緒  糸島郡内で五十猛命を祀る神社は社名は白木神社である。潤神社も元の名は白木神社であったが、配神を祀る七神社を明治40年に合併して潤神社と改めた。
 さらに白木神社は新羅神社であったと推定されている


106 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:30:36   ID:Z4AKFmGI 
産宮神社(さんのみやじんじゃ)
【鎮座地】〒819-1103 福岡県前原市大字池田
【御祭神】奈留多姫命 鵜鵜草葺不合尊 玉依姫命
御祭神奈留多姫命は御懐妊に当たり大いに胎教を重んじられ、母玉依姫・おば豊玉姫の三育の瑞祥あるを尊重され、両神の前に「月満ちて生まれん子端正なれば永く以て万世産婦の守護神とならん」と誓われました。果たしてお産に臨んで心忘れたように何の苦しみもなく皇子神渟名川耳命(第二代綏靖天皇)を安産されました。
以後「産宮」と称え安産守護の神様として広く崇敬をあつめてきました


107 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:36:50   ID:Z4AKFmGI 
伊都国王墓
 南小路遺跡(紀元前一世紀の王墓と王妃墓)
鑓遺跡(紀元一世紀の墳墓)
江戸時代の天明年間(1781〜88)、怡土郡井原村の鑓溝という所から銅鏡を多数副葬した甕棺が発見されました。これが井原鑓溝遺跡です。このとき発見された出土品は現在伝えられていませんが、その図が『柳園古器略考』(青柳種信著)に記録されています。それによると銅鏡21面、巴形銅器3個、刀剣の類、鎧の板の様なものなどが出土しています。出土した銅鏡はすべて中国製のものです。この甕棺は出土品からみて弥生時代後期(約2000〜1800年前)のものと考えられます。
 この遺跡も出土した豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられ、三雲南小路遺跡に埋葬された王の何代か後の王が埋葬されたものと考えられます。


108 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:40:44   ID:Z4AKFmGI 
奴国と考えられている那珂遺跡群の一部から巴形銅器鋳型が出土した。弥生時代後期のもので井原鑓溝王墓から出土の巴形銅器に類似。

平原弥生墓は年代的に3世紀初の築造とされ、下池山古墳(4世紀初)より遡るものですから、これらの大型内行花文鏡の製作年代も平原のほうが先行するものでしょう。前表のその他各古墳も平原よりも年代が下るものですから、現在判明しているところからすれば、これらの古墳から出土した大型鏡は平原出土のものが最古ということになります。

とすれば、このような大型鏡が最初に作られた地は北部九州であった可能性が高いわけです
中国鏡にない特徴をあげています。
1.直径46.5cmは、中国鏡にない超大型鏡である。
2.鈕座の八葉紋や九重の同心円紋は、中国鏡に類例がない。
3.湯口位置が鈕孔方向に直交しており、中国鏡製作技術と異なっている。
そして、さらに次のように指摘しています。
13.同型鏡が5面と多いことは、大量生産技術や政治体制を備えていることを示している


109 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:42:04   ID:Z4AKFmGI 
最古級の古墳である奈良県下池山古墳出土の直径37.6cm大型内行花文鏡は確実に倣製鏡であり、伊都国の弥生倣製鏡の技術が受継がれている。
弥生中期前半以後北九州では、有柄式銅剣、大型杷頭飾(銅剣の柄の飾り)、立鉤付巴型銅器などを土製鋳型で製作する技術がある


110 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:43:54   ID:Z4AKFmGI 
内行花文八葉鏡
昭和40年(1965)に発見され、発掘調査された平原遺跡出土の、直径46.5センチメートルの大型の青銅鏡
通常の内行花文鏡とは異なり、文字類の刻印はなく、文様だけという銅鏡。  その文様を説明すると「中心から鈕、鈕座、八葉、内行花文、9本の同心円、外縁部となり、縦縁に1,500本の弧状線[3]、そして鏡面(正面)」となる。

直径46.5センチメートルとは漢代の寸法でいうと「二尺」となり、この直径では円周が「八咫」となる。

原田大六はこの鏡の文様から他の内行花文鏡と区別するために「内行花文八葉鏡」とこの大鏡を名付けた。そして、その円周「八咫」から、この銅鏡を「八咫鏡」と呼ばれる伊勢神宮の神宝「八咫鏡」と同型の鏡であると結論付けた
桜井茶臼山古墳出土の「大型内行花文鏡」とは、名称こそ同じであるものの、平原遺跡1号墓(平原弥生古墳)出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」とは、その大きさや文様自体が異なる。よってここに平原遺跡出土鏡を他と区別するために「内行花文八葉鏡」とする事を推奨する


111 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:46:56   ID:Z4AKFmGI 
原田大六氏、森浩一氏
伊勢神宮の八咫鏡は福岡県前原市にある平原遺跡(平原1号墓)から出土した径46.5cmの八葉座の超大型内行花文鏡と同じものだと言う

その根拠を要約する。
・【咫】周代の小尺における長さの単位。一咫は大尺で約八寸、今の約18cm。八咫で円周144cm。直径約46cm。
・内宮の御神体を容れる樋代の内径は1尺6寸3分。これは唐尺で、今の約49cm。
・『伊勢二所皇御大神御鎮座傳記』に、伊勢太神宮の宝鏡について以下の注が付いている。
> 一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。中臺圓形座也。圓外日天八座。
 鏡は太陽を象ったものである。大きさは八咫である。八頭花崎は内行八花文のことである。八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことである。通常の内行花文鏡は四葉座であるから平原のこの超大型内行花文鏡の八葉座は例がない。
・後漢代の内行花文鏡は、前漢代の、日光鏡、清白鏡の系譜上にあると言ってよく、まさに太陽を象ったものである。


112 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:48:07   ID:Z4AKFmGI 
仮説
4世紀後半から終末の頃、北部九州で生まれた誉田別は、平原の超大型内行花文八葉鏡(八咫鏡)を御神体とする天照大神を奉斎して東上した。同行したのは住吉三神を奉斎する海洋氏族であった。触れなかったけれども、天児屋(アメノコヤネ)命を祖とする後の中臣氏もこのとき同行したのではないかと思う。
 まず、住吉大社が応神の時代に創建された。雄略の時代に伊勢が平定され、その時天照大神も伊勢に遷された。


113 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:50:33   ID:Z4AKFmGI 
為賀悉利祝は為賀悉利の神に仕える神職。為賀悉利の神は『住吉大社神代記』に、
> 紀伊国伊都郡、丹生川上社 天手力男意気続流(あめのたちからおおけつづくる)住吉大神
> 一、猪加志利乃神、二前。一名為婆天利(ゐばてり)神
> 「吾は住吉大神の御魂ぞ」と『為婆天利神、亦は猪加志利之神と号す』

 この神社は、今の「相賀八幡神社」(和歌山県橋本市胡麻生)のことと思われる。
 祭神は、「誉田別尊(応神)」「足仲彦尊(仲哀)」「気長足姫尊(神功)」だが、由緒記に、
> 当神社の創建は不明。『南海道紀伊国神名帳』によると、「天手力雄・気長足魂・住吉神」とあり、古くは住吉大社の神を祀っていたようである。


114 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:51:59   ID:Z4AKFmGI 
『住吉大社神代記』に次のような記述がある。
> 一、天平瓮(あめのひらか)を奉る本記
> 右、大神、昔皇后に誨(おし)へ奉りて詔(の)り賜はく、「我をば、天香个山(あめのかごやま)の社の中の埴土(はに)を取り、天平瓮(あめのひらか)八十瓮(やそき)を造作(つく)りて奉斎祀(いはひまつ)れ。又覬覦(みかどかたぶく)る謀(はかりごと)あらむ時にも、此(かく)の如く斎祀(いつきまつ)らば、必ず服(まつろ)へむ。」と詔り賜ふ。古海人老父(あまのおきな)に田の蓑・笠・箕(み)を着せ、醜き者として遣わして土を取り、斯(これ)を以て大神を奉斎祀(いはひまつ)る。此れ即ち、為賀悉利祝(ゐがしりのはふり)、古海人等なり。斯(ここ)に天平瓮を造る


115 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:54:06   ID:Z4AKFmGI 
新撰姓氏録が、『新良貴(しらぎ)』氏の祖先は鵜茅葺不合尊の子・稲飯命で、『是は新良国に出まして国主と為りたまふ』(新撰姓氏録の研究 考証編第二 291頁)と載せる。

116 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:55:41   ID:Z4AKFmGI 
岡山県で、「真金吹く吉備の中山」と歌われた「吉備の中山」は吉備氏の本拠地で、古代の鉄の産地であった。

 その土地の郷土史研究者たちは、そこの古い「有木神社」が和名抄「阿多郡」の「有木」の集落と関係ありとして、国内の地名「有木」の悉皆調査をされている。

 千葉県市原市に「海士有木」という地名を挙げておられるが、和名抄では上総国市原郡海部郷に比定されている。東京湾に注ぐ養老川沿いにあって、養老川の名は「美濃の隼人神社」の地域にある「養老の滝」を思わせるが、

 豊玉姫や玉依姫を祀る「玉前神社」が多い「市原市」の名「市原」は、関東域を対象にした大きな市場があったのではないかと思わせる。

 つまり、『南海産』の貝製品や『塩土翁』の塩だけでなく、「吉備中山の鉄」や鳥取県日野郡日南町、和名抄『阿太郷』の「幻の逸品 印賀鋼(いんがはがね)」までも、「巻向の大市」や房総半島「市原」などで商っていた「交易の民・隼人」の確かな歴史が想定可能となる。


117 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:58:22   ID:Z4AKFmGI 
古事記には、『金銀を本(はじめ)と為て、目の炎耀(かがや)く種々の珍しき宝多(さわ)に其の国に在り』(記 237頁)と載せられ、日本書紀には、『眼炎(まかがや)く金・銀・彩色(うるはしきいろ)、多(さは)に其の國に在り』(紀上 327頁)と載せられる

118 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 09:58:50   ID:Z4AKFmGI 
天皇家では神武天皇の兄「稲飯命」が、『海に入りて、鋤持神(さひもちのかみ)と化為(な)る』(紀上 194頁)とあって、「新羅王」とも伝えられていた

119 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:00:25   ID:Z4AKFmGI 
若狭地方の新羅神社


社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、 稲飯命は神武天皇の兄に当る。従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。


120 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:01:55   ID:Z4AKFmGI 
渡来系の新羅神社であるにもかかわらず、祭神が天孫邇々芸命(高天原に天降った神)である。邇々芸命は大山津見神の娘・木花開耶姫(神吾田津姫)と出会い、海幸彦・山幸彦(天津日高日子穂手見命)など三柱の子神を産むのであるが、山幸彦の子が鵜茅葺不合尊であり、孫が稲飯命である。

121 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:03:43   ID:Z4AKFmGI 
稲飯命(いなひのみこと) 稲氷命 彦稲氷命は古代日本の皇族。

『日本書紀』では稻飯命。『古事記』では、稻氷命、彦稲氷命。

彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と海神の娘である玉依姫の第二子(第三子とも)。兄に五瀬命、弟に御毛沼命、若御毛沼命(磐余彦尊)がいる。磐余彦尊が後に神武天皇になる。

『古事記』では、稲氷命は妣國である海原へ入坐とし、『日本書紀』では稲飯命は神武東征に従うが、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか(「嗟乎 吾祖則天神 母則海神 如何厄我於陸 復厄我於海乎」)と行って、剣を抜いて海に入り、鋤持(サヒモチ)の神になったとする。鋤持とは鰐(ワニ)、鯱(シャチ)のことと言う。『古事記』にある山幸彦と海幸彦の神話に、海神宮から葦原中国に帰る火遠理命(ホオリ 山佐知毘古(山幸彦))を送った一尋和邇(一尋鰐)が、その御礼に、火遠理命が身に付けていた紐小刀を鰐魚の首につけてもらったので、この一尋和邇を、今謂う佐比持神(さひもちのかみ)とある。つまり、鰐となって母の国海神の国へ行ったということであろう。玉依姫の姉、伯母のトヨタマビメの正体は、八尋和邇であった。『古事記』と『日本書紀』の話は対応している。


122 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:05:23   ID:Z4AKFmGI 
玉依毘売命(たまよりびめのみこと)
綿津見豊玉彦命の次女、鵜葺草葺不合命の妃で、五瀬命・稲飯命・御毛沼命・初代神武天皇の母となった


123 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:08:17   ID:Z4AKFmGI 
男木島、女木島、直島の氏神だった男木島の豊玉姫神社は安産の神として信仰を集めていた
鵜羽神社
屋島の南嶺と北嶺の間に谷があり、その谷を下った所に「浦生(ウロ)」と
呼ばれる集落がある
神社誌によると「伝ふる所によれば、神代の昔 豊玉姫命浦生の地に
来たり(ウガヤフキアエズノミコト)を産み給ふ。
豊玉姫命八尋の産殿を造らせ給ひしかば島の名を八尋島と言ふ。
後世に至り山容 家の形に似たる故を以って屋島と言えリ…」とある

鰐河神社は讃岐国三木郡の式内小社、和尓賀波神社の論社です。 ・鰐河神社【祭神:応神天皇、豊玉姫命】三木町下高岡四条1843番地 社伝によれば、祭神の応神天皇は延喜7年の勧請で、それ以前は豊玉姫命だけを祀っていたそうです


124 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:09:43   ID:Z4AKFmGI 
綿積豊玉彦
天孫でない〈地祇〉。海部氏は海ノ神綿津見命の後裔で、同じく綿津見命を祖とする安曇氏と同族か。新撰姓氏録(西暦八一五)によれば
宗形朝臣(むなかたのあそみ)。大神朝臣(おほみわのあそみ)と同じき祖。吾田片隅命(あたかたすみのみこと)の後なり。
安曇宿禰(あづみのすくね)。海神綿積豊玉彦神(わたつみとよたまひこのかみ)の子、穂高見命(ほたかみのみこと)の後なり。
海犬養(あまのいぬかひ)。海神綿積命の後なり。
凡海連(おほしあまのむらじ)。同じき神の男、穂高見命の後なり。
青海首(あをみのおびと)。椎根津彦命(しひねつひこのみこと)の後なり。
古事記応神記(第十五代)には「此之御世定賜海部・山部・山守部・伊勢部也」とあり海部と伊勢部の始まりか。

日本書紀の応神記に、「海部が騒いだので、安曇連の祖大浜宿称を遣わして鎮撫」とあり、綿積豊玉彦神の後裔が海部を鎮撫している。


125 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:21:06   ID:Z4AKFmGI 
椎根津彦神社(大分市)
御祭神, ・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)
(合祀) ・武位起命(たけいこのみこと) ・稻飯命(いなひのみこと)
合祀の・武位起命は彦火々出見命の御子、鵜草葦不合尊の御昆弟で椎根津彦命の御父
    ・稻飯命は鵜草葦不合尊の御子で神武天皇の御兄
    ・祥持姫命は椎根津彦命の御姉で稻飯命の御妃
    ・稚草根命は稻飯命、祥持姫命の御子と伝えられ合祀の年代は詳らかでない。


126 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:26:40   ID:Z4AKFmGI 
綿積豊玉彦命ーー宇都志金折命(穂高見命)ー多久置命ー穂己都久命ー摩幣区利命ー意伎布利根命ー小栲梨命ー麻曽杵命ー大栲成吹命ー百足足尼命ー大海宿禰ー安曇連浜子-安曇氏へ

応神期
大浜宿禰(おおはまのすくね)が15代応神期に各地の海人を平定し、海部の宰(みこともち)に任命された。
663年
安曇比羅夫が白村江の戦いで戦死。

691年(持統5年)
朝廷に纂記を提出。


127 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:27:15   ID:Z4AKFmGI 
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。

128 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:29:32   ID:Z4AKFmGI 
播磨国
  揖保郡浦上里、石海 安曇連百足

讃岐国
  大内郡入野(ニフノ)郷 安曇茂丸戸他、讃岐是秀 安曇直眉他

阿波国
  男帝の御宇に供奉する神祇官選定阿曇部、名方郡の人安曇部栗麻呂宿禰
  和多都美豊玉比賣神社、海部郡

淡路国
  三原郡南方の野島は海人の本拠地、西南の方に阿萬(アマ)郷
摂津国
  安曇犬養連等の地、難波津の安曇江、安曇寺
山城国
  阿曇宿禰等の地


129 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:30:43   ID:Z4AKFmGI 
阿曇磯良
磯武良(いそたけら)と称されることもある。  
石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。
同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。


130 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:32:33   ID:Z4AKFmGI 
安曇比羅生没
生年不明−663年(天智2年)?
舒明期
在任中に百済に使者として派遣されていた。

641年
舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。
またこのとき百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎えている。

661年
高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。

662年
日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。
大錦中に任じられた。
663年8月27−28日
白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。
同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる


131 : 名無しさん@chs    2011/02/17(木) 10:34:15   ID:Z4AKFmGI 
海部穀定『元初の最高神と大和朝廷の元始』によれば、火明命十六世孫大倉岐命は亦名大矢田宿祢、亦名倭宿祢命とあり、一伝では彦火明命を亦の名彦火火出見尊といい、其の子を武位起命、孫を宇豆彦命、三世孫を倭宿祢命と云っているとある。倭宿祢命は「天皇本紀」では景行天皇の子に倭宿祢命、三川大伴部直祖とあり、大和国造の祖という伝もあるという。「「皇孫本紀」では、武位起命を大和国造の祖と記しているが、珍彦は国つ神

132 : 名無しさん@chs    2011/11/22(火) 12:04:19   ID:QxnCcW+k 
awa
萩原噴丘墓一号墓から画文帯神獣鏡はヤマトのホケノ古墳と同范鏡のようで、半島の楽浪・帯方郡域からも出ており、交流の深さは偲ばれます。3世紀初頭でのこの鏡の分布図を下記に示しました。萩原の東に3世紀中頃の西山谷2号墓(円墳)があり、積石の竪穴古墳でこの形状では日本最古とされており、この技術がヤマトに伝わったとみられています。




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