宇多源氏佐々木氏 加地氏
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1 :
名無しさん@chs
2007/05/31(木) 15:08:19
ID:998b6167e2
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家紋:四つ目結/三つ星
(宇多源氏佐々木加地氏流)
春綱が屋敷を寄進し菩提寺とした香伝寺の寺紋は四つ目結
盛綱は、兄定綱とともに流人の身であった源頼朝に二十年間属し、頼朝の挙兵にも初めから加わった。以後、頼朝の側近として、平家追討にも功をたて、鎌倉幕府創業になると、佐々木兄弟は十七ケ国の守護に任じられた
盛綱は越後国加地荘を賜った
盛綱には系図上、三人の子がいた。そのうちの信実が「号加地」と記されていることから、父盛綱の譲りを受けて加地荘を相伝したとみられる。
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196 :
名無しさん@chs
2011/01/01(土) 16:20:06
ID:EWo0FgYA
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> 沙沙貴神社佐々木系図
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> 氏綱┬景綱─貞綱─宗綱
> ├経綱─宗経
> └時綱
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> 尊卑分脈・続群書類従本
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> 氏綱┬景綱─宗綱─景綱
> ├経綱─宗経
> └時綱
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> 沙沙貴神社所蔵佐々木系図では、七郎左衛門尉氏綱流の佐々木加地氏は氏綱―景綱―貞綱―宗綱と続く。
> 宗綱が宗経であった
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197 :
名無しさん@chs
2011/01/01(土) 16:26:22
ID:EWo0FgYA
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佐々木 氏信(ささき うじのぶ)は鎌倉時代中期の武将。佐々木氏支流京極氏の始祖であり、京極 氏信(きょうごく うじのぶ)とも呼ばれる。
承久2年(1220年)、後に近江の守護へと任ぜられる佐々木信綱と、その正室である執権北条義時の娘との間に、四男として生まれたとされるが、母は武蔵国河崎庄の荘官の娘とする説もある
仁治3年(1242年)に父が亡くなり、江北に在る高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智の六郡と、京の京極高辻の館を継ぐ。これにより子孫は後に京極氏と呼ばれる様になり、江南と京の六角堂近くの館を継いだ兄の泰綱は佐々木宗家を継ぎ六角氏の祖となる。
文永2年(1265年)に引付衆、翌年には評定衆に加わり、弘安6年(1283年)には近江守へと任ぜられ、この頃には後に京極氏の菩提寺となる清滝寺を創建している。永仁3年(1295年)5月3日に76歳で死去。
佐々木氏信
生誕 承久2年(1220年)
死没 永仁3年5月3日(1295年6月16日)
戒名 清滝寺殿道善大居士
官位 左衛門尉、検非違使、対馬守、近江守
氏族 近江源氏、佐々木氏
父母 佐々木信綱、北条義時の娘?
子 頼氏、範頼、満信、宗綱、
娘(加地経綱正室)、娘(吉良満氏側室)、
娘(上田佐時正室)、娘(武石宗胤正室)、
娘(久明親王側室)
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198 :
名無しさん@chs
2011/01/01(土) 16:30:19
ID:EWo0FgYA
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尊卑分脈や続群書類従本では氏綱―景綱―宗綱―景綱とする。これは貞綱(貞経)が脱落しているとも考えられるが、あるいは尊卑分脈・続群書類従本もまた事実を伝えているとすれば、氏綱―宗綱(宗経)―宗綱(宗敦)―景綱となり、貞経が宗敦と改名したと考えられる。越前佐々木加地氏の惣領は、氏綱(七郎左衛門尉)―宗経(四郎左衛門尉・大宰権少弐)―宗敦(越前権守)―景綱(近江権守)―氏綱(近江四郎)となる。得宗北条貞時の一字を捨てて「宗敦」と名乗ったのであれば、「宗」の字は得宗北条時宗の一字ではなく、皇族将軍宗尊親王の一字であろう
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199 :
名無しさん@chs
2011/01/01(土) 16:36:19
ID:EWo0FgYA
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佐々木三郎長綱は、盛綱─信実─秀忠─景秀─秀綱─高信─長綱とつづく秀忠流磯部氏の人物で、室町幕府執事細川清氏の孫細川頼氏の養子になり、越後白河庄上下条と遠江相良庄を相続していた人物であるが、生活に窮して足利義満に直訴していた。
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200 :
名無しさん@chs
2011/01/01(土) 16:42:31
ID:EWo0FgYA
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佐々木氏は元々蒲生郡佐々木荘(現安土町/安土駅周辺)を根拠地とする武士団で、「近江源氏」とも呼ばれます。
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203 :
名無しさん@chs
2011/01/25(火) 13:04:12
ID:Zcv3TSDo
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三重県四日市市水沢(すいざわ)町2550
水沢城(すいざわじょう)応永5年(1398)加治信濃守が築城し、7代居城した。永禄11年(1568)、6代孫九郎の時に信長に臣従した。
元亀元年(1570)清十郎が継いだが、天正5年(1577)滅んだ。
『現地説明碑より』
沢城跡には常願寺が建てられている。山門へ到る参道の右手に「加治信濃守城址」の標柱が建ち、本堂の手前には城と城主についての説明付きの石碑が建てられている。
本堂の南側から裏手にかけては土塁が残っている。
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204 :
名無しさん@chs
2011/01/25(火) 13:09:56
ID:Zcv3TSDo
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加治信濃守城跡:(水沢城跡・本町)
室町時代、足利義持のころ応永5年(1398)加治(一説には森)信濃守が辻瀬戸(今の常願寺境内)に城を築いた。その後天正5年(1577)7代にて滅亡した。
現在常願寺境内の南と西に土累があり、堀は本堂の背後の西側に潅漑用水路として残っている。東側にも一部土累があり、その上に鐘楼が建っている。常願寺は、本郷(現在の宮妻町)にあったものが戦火のためこの城跡に移設されたと言われる。
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205 :
名無しさん@chs
2011/01/25(火) 14:09:46
ID:Zcv3TSDo
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秩父郡名栗村の加地氏 上名栗村文化九年馬頭尊に「か治原講中」とあり、今の字八ヶ原の古名なり。越後国北蒲原郡加地庄より起る佐々木氏族加地氏に附会す。秩父志に「名栗村は加持ノ庄に属す。有馬山と云ふ山腹に居跡あり、中古加持源左衛門尉なる者ありて、此地を領地せしとき此に居し所と云。同所に古墳数基あり、思に加持氏の子族の墳墓ならんか」と。風土記稿下名栗村条に「元弘三年に関戸村に於て討死せし加治源太左衛門は、この村を領せしと云ふ」と見ゆ。太平記卷十四の佐々木加治源太左衛門にて、越後国の加地氏なり。