紀氏 武内宿禰
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1 :
名無しさん@chs
2007/06/07(木) 16:09:24
ID:a4a9b67546
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紀氏
ツングース系の人々が半島を経由し、紀伊と半島の両方に根拠を持ったことで、紀伊に特異な文化圏を築いた。王は木氏であり、紀氏であると言われている。木氏は蘇我氏にも分かれたとされている。 宮司の紀氏は現在で80代目とされ天皇家、出雲の千家とならび、日本では最も古い家系である。武内宿禰やその後裔に紀貫之を輩出している。
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80 :
名無しさん@chs
2008/10/18(土) 21:21:08
ID:a1cZVSco
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襲津彦−−−−−磐之媛(仁徳の妃、履中天皇を生む)
襲津彦−−−−−玉田宿禰−−−円−−−−−韓媛(雄略の妃、清寧天皇を生む)
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81 :
名無しさん@chs
2008/10/18(土) 21:24:03
ID:a1cZVSco
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716年に奏上された『出雲国造神賀詞』
アジスキタカヒコネの命を葛木の鴨の神奈備に坐せ、とあります。
葛木の鴨の神奈備とは鴨社のことをさします
797年に記されたと云う『続日本紀』
天平宝字八年(764)十一月七日 再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について法臣の円興、賀茂朝臣田守らが次のように言上した。 昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。
『土左国風土記逸文』
「土佐の高賀茂の大社 その神の名を一言主尊とする。一説では大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であると云う。」
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82 :
名無しさん@chs
2008/10/18(土) 21:25:44
ID:a1cZVSco
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高鴨神は土佐、大和、伊与に神封を持っています
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83 :
名無しさん@chs
2008/10/18(土) 21:26:50
ID:a1cZVSco
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平群都久宿禰 木角宿禰 葛城長江曽都毘古 若子宿禰. そして、これら7人の子供から、 波多臣、許勢、蘇我、平群、木臣、坂本臣などの豪族が生まれています
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84 :
名無しさん@chs
2008/12/30(火) 15:18:13
ID:PJ7mCm7E
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毛野族は紀伊国から出た
豊城入日子の先祖と見なせる名草戸畔の子孫の智名曽の娘の乎束媛に、道臣命を祖とする大伴氏の角日命が娶いて豊日命が生まれた。その子の武日命はヤマトタケルに従って東の国征伐についた一人である。東征には他に吉備武彦がいたが、紀伊の女を母とする孝霊の子あるいは子孫にあたる。日本武尊自身も播磨国出身ではあるが、その末にあたる。
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85 :
名無しさん@chs
2009/09/04(金) 06:40:56
ID:t5RaVFpA
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和歌山県橋本市の隅田八幡宮に残る人物画像鏡(国宝)。この鏡に銘文があり、「癸未(きび)年の日十大王の世、乎弟王が意柴沙加(おしさかの)宮にいます時、斯麻(しま)が(乎弟王に)長く奉ることを念じてこの鏡をつくらせた」と読める。
60年周期のえとで表記された「癸未年」はどの年か。解釈は様々だが、有力なのは443年と503年だ。
443年説での銘文解釈では、「日十大王」は允恭大王、「乎弟王」は継体の曽祖父のオオホド王で、「斯麻」をオオホド王の本拠地でのちに継体陵も造られる三島県(あがた)の豪族とする。
503年説では、「日十大王」は継体の先々代の仁賢大王、「乎弟王」は継体の即位前の名であるヲホド王とし、「斯麻」を皇子のときに倭国にいた百済・斯麻王(武寧王)にあてる。つまり継体は、即位する以前から、大和の忍坂(おしさか)(奈良県桜井市)の宮にいて、仁賢のもとで若き武寧王とも親しんだ王権中枢の人物だったことになる。
両説とも、継体ないしその一族が早くから王権と深いつながりを持っていたことを示し、そして、継体と阿蘇ピンク石棺の“出会い”をうまく説明してくれる。
隅田八幡宮は紀ノ川中流域にあり、東の峠を越えれば忍坂がある大和だ。鏡は八幡宮周辺の古墳の出土品だろうが、紀ノ川河口には5世紀末の大谷古墳(和歌山市)があり、九州から渡ってきた阿蘇灰色石棺が入っている。オオホドか継体がこの鏡を贈るほどの関係だった紀ノ川豪族の阿蘇石石棺。
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86 :
名無しさん@chs
2011/02/04(金) 08:29:49
ID:tsG+ICGY
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濱宮(はまのみや)
和歌山市毛見由緒
日前国懸神社の遷宮前の場所とされている。
神武東征時、天道根命は神鏡と日矛の神宝を奉じて、加太(加太春日神社)、木本(木本八幡宮)、琴の浦の岩上へと遷ったと伝わる。 漂着神の寄りつく海辺の伝承であり、海人の斎祀った神の姿を思わせる。
一方、崇神天皇五十一年、豊鍬入姫命が天照皇大神の御霊代を奉じて名草浜宮に遷した際、同時に琴の浦から天懸大神、国懸大神も遷し、宮殿を並べたと伝えられている。 崇神五十四年、天照皇大神が吉備名方浜宮に遷座、その後、天懸大神、国懸大神は垂仁天皇十六年、名草萬代宮(現在の日前宮)に遷ったと伝わる。 この時、名草萬代宮に鎮座していた伊太祁曽神社は山東へ遷座したとされる。
浜宮は「元伊勢の大神」とたたえられた。
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87 :
名無しさん@chs
2011/02/04(金) 08:30:26
ID:tsG+ICGY
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倭姫世記云う 崇神天皇五十一年甲戊遷木之国奈久佐濱宮積三年間奉斎于時紀伊国造進舎人紀麻呂艮地口御田五十四年丁丑遷吉備國名方濱宮四年奉斎于時吉備國造進采女吉備津比賣又地口御田國造家舊記曰
神武天皇東征之時以神鏡及日矛託天道根命而斎祭焉天道根命奉二神神寶到于紀伊國名草郡加太浦自加太移于木本従木本到于名草郡毛見郷則奉安處于琴浦之岩上也至
崇神天皇五十一年豊鋤入姫命奉 天照大神御霊遷坐于當國名草濱宮之時日前国懸兩大神自琴浦移于名草濱宮並宮鎮坐蓋三年也同五十四年十一月 天照大神雖遷吉備名方濱宮日前国懸兩大神留坐于名草濱宮至 垂仁天皇十六年自濱宮遷于同郡名草之萬代宮而鎮座也今宮地是也
とあり 按するに 伊勢大神宮及日前国懸兩大神の此地に御鎮座ありし始末日前宮の條に詳なり 伊勢大神は吉備名方に遷り給ひ日前国懸は萬代宮に遷り給ひて猶其御神を此処に祭りて其舊跡を存せり 古は神田も多く 寛永記に濱ノ宮免田三段中言ノ社五段里神ノ社二段 天正十三(1585)年没収すとあり 宮居も厳粛なるに天正の兵燹に罹り社殿神領まて亡失せしに元和(1615年−)中 國命ありて再興せられ享保(1716年−)以後は伊勢ノ宮殿を模せられしかは往古の遺風宛然としていと崇き神境とはなれり 神事は八月朔日九月九日なり 昔は日前宮より神馬三匹渡れり 今は絶たり 神職は國造家兼帯なり
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88 :
名無しさん@chs
2011/02/04(金) 08:33:44
ID:tsG+ICGY
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『紀伊国名所図会』この書の当国造家旧記に、崇神天皇五十四年に天照大神が“吉備名方濱宮に遷座し給う”とあり、吉備とは山陽道の三備の地ではなくこの地の大名(おおな)で、大名から遷座した地は藺引と言い、其処を古くは浜宮とも称したという。倭姫命世記は吉備を山陽道の方にしているが、“もとよりかの「倭姫世紀」は、後人の偽作せる書なれば、拠りどころとするに足らず”などとこき下ろしている。更に、国造家旧記には吉備とのみで國の字が無く、“「倭姫世紀」に國の字あるは、この地の大名なりし吉備を、三備の吉備國にまぎらわして記せるならん。”さらに、大和へ遷るにも備中よりはこの地の方が便利だ、といった都合の良い解釈を加えている。江戸後期の国学者で実証的研究者の伴信友も、名方浜宮の紀伊説を考証している。
名高の藺引ノ森と称された処より遷祀した社は、現在の海南市日方にある@伊勢部柿本神社となった。天照大神を主祭神に、素盞嗚尊、熊野久須毘命、市杵嶋姫命を配祀する。神社には、江戸時代の千石船の模型や絵馬のほか船名を記した石燈籠などが奉納されており、県の重要文化財に指定されている。数年前には獅子舞の奉納なども復活させている。
おなじく和歌山で名方浜宮の比定地とされるもう一つの場所は、有田郡吉備町長田のA国主神社の跡地である。国主神社は有田川を挟んで対岸にある田殿(たどの)丹生(にゅう)神社(じんじゃ)に合祀された。往時を偲び、その跡地に地元の崇敬者が鳥居と小祠を建立した。境内地の一角には「吉備名方濱宮跡」の碑があった。
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89 :
名無しさん@chs
2012/03/25(日) 13:29:27
ID:KVqBTc7U
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>>38
764年仲麻呂方の中衛将監・矢田部老を射殺した紀船守や
765年淳仁天皇の甥和気王に謀叛を使嗾し、称徳女帝の命令で
絞殺された呪術師紀益女も紀氏の一族なのかな?