景行天皇の時代 九州
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1 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:16:22
ID:436ddb62e0
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垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。
皇后:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ。若建吉備津日子の女) 景行52年薨去
櫛角別王(くしつのわけのみこ)
大碓皇子(おおうすのみこ)
小碓尊(おうすのみこと、日本武尊)
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2 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:18:08
ID:436ddb62e0
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九州に関連する妃
妃:日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)
日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこのみこ)
妃:襲武媛(そのたけひめ)
国乳別皇子(くにちわけのみこ)
国背別皇子(くにせわけのみこ、宮道別皇子)
豊戸別皇子(とよとわけのみこ)
妃:日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)
豊国別皇子(とよくにわけのみこ) 日向国造の祖
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3 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:19:20
ID:436ddb62e0
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九州巡幸
景行12年(82年)熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。筑紫(九州)に入り、豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛 を誅して、11月ようやく日向国に入る。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。18年(88年)3月に都へ向け出立し、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、19年(89年)9月に還御した。なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていない。しかし最近九州の宮崎県で景行天皇と同時期の前方後円墳が発見されている事から、その関連性に興味が持たれている。
25年(95年)7月、武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。
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4 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:26:19
ID:436ddb62e0
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九州は南廻りで行く。
不思議なことだ。
日向が拠点で6年も留まっている。
熊とは熊本県球磨郡、蘇とはどこか?熊襲梟帥のいた所は?
日本武尊の活躍
27年(97年)8月、熊襲が再叛。10月に日本武尊を遣わして、熊襲を征討させる。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。
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5 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:34:37
ID:436ddb62e0
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をとめの とのこべに わがおきし つるぎのたち そのたちはや
嬢子の 床の辺に 我が置きし 劔の大刀 その大刀はや
(少女(妻の美夜受比賣)の床の側に、私が置いてきた太刀。ああ、その太刀よ)
袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜 -- 倭建命『古事記』景行記
『古事記』では倭建命の辞世。『日本書記』では景行天皇が日向で詠んだ歌。
ja.wikiquote.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1より作成
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6 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:37:48
ID:436ddb62e0
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田道間守(タジマモリ)の“橘”導入伝説は景行天皇(西暦71年即位)の時代である
11代垂仁天皇の御代(西暦61年頃)に、新羅国(朝鮮シラギ)から帰化した子孫で外国通の但馬の国出石の住人、田道間守は病気静養の天皇の勅命により、遥か南方の常世国(中国大陸南岸地帯?)に旅立った。
それは、その国に「非時香菓(トキジクノカグノコノミ)」という果物が年中実っており、それを食べると延命長寿の効果があるということで、その果物を採りに行くこととなったのである。
【橘(橘本神社内)】
以来苦節10年。田道間守は南方の海上に常世国を探し求め、ついに香菓「橘」を得て帰国する
田道間守は垂仁天皇の崩御を聞き、その皇子、景行天皇(西暦71年即位)に苦労して手に入れた橘を献上しようと、当時都から御征西中の天皇をはるばる肥後の国まで訪ね、 高田(八代市こうだ)付近でようやく巡り会って、「橘」を献上後自決した。
景行天皇はこれを哀れに思い、高田の地に田道間守が苦労の末に手に入れた「橘」を植えられた。この橘が後年、有田市糸我の伊藤孫右衛門が手にする「八代高田みかん(小ミカン)」であるとされている
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7 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:40:11
ID:436ddb62e0
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八代市球磨川の河口に、「水島」という小さな小島があります
水島という名前の由来は、日本書紀に「夏の四月に、景行天皇が芦北の小島にとどまって食事をされたときに水がなく、小左(おひだり)という者が天神地祗に祈ったところ、たちまち清水が崖のほとりから湧きだしたので、その水を汲んで奉った、この故に水島という。泉はいまも崖にある。」(日本書記7巻、景行天皇18年の条より)
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8 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:45:47
ID:436ddb62e0
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豊前の長峡宮
豊後の来田見宮
日向の高屋宮
日向の神話
日向の御刀媛
肥の国から西海へ
筑後の高羅宮
九州を巡幸した景行天皇は日向高屋宮に6年間滞在して、日向髪長大田根(ひむかのかみながのおおたね)、日向御刀媛(ひむかのみはかしひめ)と二人の女性を妃にしている
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9 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:48:43
ID:436ddb62e0
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浮羽町にある浮羽島御所跡:景行天皇の行在所
『日本書紀』によれば景行天皇が九州巡幸の途中この地で「盞(うき)を忘れてきたことを残念がった」ことから「浮羽」と呼ばれるようになったという。
景行天皇の九州一円遠征譚は『古事記』には全く記述がない
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10 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:52:06
ID:436ddb62e0
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『 古事記 』によると、九州は6世紀前後には筑紫国 豊国 肥国 熊襲(くまそ)国に四分割されていたという。
豊国とは本来、現在の福岡県行橋市の 長峡(ながお)川 流域であり、豊国直はこの地域を勢力基盤にしていたと考えられている(『大分県史』古代篇T)。『 日本書紀 』によれば、この地域は景行天皇が最初に九州に上陸した場所であり、ここを九州服属の前進基地として九州巡幸をはじめる
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11 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:53:21
ID:436ddb62e0
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豊国という地名の由来は『 豊後国風土記 』にみえる。 景行(けいこう)天皇 の時代に、 菟名手(うなで)という人物に豊国の政治を行わせたところ、 仲津(なかつ)郡 中臣(なかとみ)村 で白鳥が芋草(さといも)数千株に変わるのに出会った。そこでこの芋を天皇に献上したところ、天皇は大いに喜び、芋草を豊草、菟名手の統治する国を豊国と名付け、菟名手には 豊国直(とよくにのあたい) という 姓(かばね)を与えた。そしてのちに豊国を分割して豊前 豊後国を置いた
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12 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:55:45
ID:436ddb62e0
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「豊の国」の地名の由来は「豊後国風土記』にみえる。これも景行天皇が巡幸したときに、仲津郡中 臣村で白鳥が飛んできて餅となり、芋草(さといも)が大繁殖したので、瑞祥として天皇が芋草を豊草、 国を「豊国」と名づけたとある。
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13 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:56:41
ID:436ddb62e0
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周防から豊前の長峡県(福岡県行橋付近か)に上陸、その後「碩田国」に入ったという。天皇は碩田国の地形が広大で麗しいのに感嘆して、、「大きい田」つまり碩田と名づ けたという。 「豊後国風土記」はもう少し詳しい。天皇が豊前京都の行宮より大分に入った際、「広大なる哉、こ の郡は。よろしく碩田国と名づくべし」と言ったので、この地を碩田国といい、のちに大分になった と記している
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14 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:59:32
ID:436ddb62e0
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筑後川を挟んだ朝倉市・うきは市は第12代景行天皇が九州巡幸の折、陣を敷いた所で、その時の逸話が今も各所に残っている。小生の住むうきは市の『うきは』は景行天皇が当地で野外昼食会を開いたとき、天皇の持つ杯に木の葉が落ち、酒に浮かんだ事から『うきは』の地名が生まれたそうな。その場所は浮羽島御所跡として今も保存されている。浮羽島とは当時、この地方は海だったと考えられる。
『肥前風土記』に五島関連記事「景行天皇九州巡幸の時,従者に命じて島内を視察させ,海・陸の産物,住民のことなど詳しく報告を受ける」とある
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15 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:00:35
ID:436ddb62e0
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景行天皇の九州巡幸の際、“不知火”が暗夜皇船を海岸まで導いたと日本書記や肥後風土記に記されている。
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16 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:02:11
ID:436ddb62e0
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御輿来(おこしき)は景行天皇が九州巡幸の際 あまりの景色のよさに神輿をおろしたところ
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17 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:03:11
ID:436ddb62e0
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「日本書紀」の景行天皇はこれらを征服して豊前長峡県(ながおのあがた)に行宮を建てます。そして、ここを京(みやこ)と呼びます。これが京都(みやこ)郡の起源と言われます。このように、この地方と大和王権とは深い関係があったと思われます。ここに4世紀前半に築かれた前方後円墳があります
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18 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:06:26
ID:436ddb62e0
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播磨風土記によれば、播磨稲日大郎姫(景行天皇の皇后)はのちに播磨の城宮の地で生涯を終えている。「年を経て」とあるので長生きはしたようだ。とすると熊襲征伐など出征続きの景行天皇のもとで養育されたとは考え難い。母である播磨稲日大郎姫のもとで青年期を迎えたと考えたほうがいいのではないだろうか?吉備氏と崇神朝の血を引き播磨で育ったということは、ヤマトタケルの背後には必ず吉備王権の存在があったと考えていいだろう。四道将軍の中でも抜群の働きをした吉備津彦の後裔でもある。
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19 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:09:22
ID:436ddb62e0
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ヤマトタケルに熊襲討伐をさせたのも、吉備播磨の経済力を疲弊させようとの魂胆があってのものではなかったか?タケルの率いた熊襲討伐軍は吉備・播磨に美濃・尾張によって形成されている
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20 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:11:24
ID:436ddb62e0
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天草松島と呼ばれる場所の一角である御所浦町
御所浦町はその昔、この地方土着の民族であった熊襲(クマソ)を中央政府が征伐に向かう折、景行天皇天皇巡幸の折に宿泊した地となったことに依頼するという。
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21 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:16:37
ID:436ddb62e0
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九州巡幸
夷守(宮崎県の小林市あたりか)から熊県(球磨)を通り海にでて、芦北の小島(八代市の水島か)、八代県豊村(宇城市松橋町豊福か)、高来県(島原半島)、玉杵名邑(玉名)を経て阿蘇国に行かれた
在位十八年目には、葦北の沖を船行し、八代の方向に灯っている火が舵取りの助けになったのをもってその陸地一帯を「火の国」と名付けた
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22 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:19:50
ID:436ddb62e0
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熊本県 山鹿灯籠まつり
「景行天皇伝説」(その昔、菊池川一帯に立ち込めた深い霧に進路を阻まれた景行天皇のご巡幸を山鹿の里人がたいまつを掲げてお迎えした。その時以来、里人たちが行在所跡(大宮神社)に天皇を祀って、毎年たいまつを献上した。)
熊本県山鹿市 鞠智城
7世紀に大和朝廷によって建てられた古代山城。唐と新羅の連合軍から九州の太宰府を守るために大野城(福岡)、基肄城(佐賀)、金田城(長崎)が造られたが、鞠智城はこれらの城に食料や武器、兵士などを補給する支援基地であった。また、貯水池跡からは木簡や建築用材などの貴重な遺跡が数多く発見されている
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23 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:20:52
ID:436ddb62e0
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有明海の御輿海岸
宇土市長浜から網田にかけて「御輿来(おこしき)海岸」と呼ばれる海岸が続く。8世紀前半の景行天皇が九州巡幸で御輿を止めたのが地名の由来とされている
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24 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:25:14
ID:436ddb62e0
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昔、景行天皇が熊襲(くま・そ)征伐のため九州を巡幸された際、この芦北あたりを船でお通りになった。(中略)船が入って来た岬を入御(にゅう・ご)ノ鼻、お発(た)ちになった岬を発ち崎と云(い)う
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25 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:29:54
ID:436ddb62e0
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日向国の重要人物はことごとく阿波岐原(宮崎市西海岸)周辺で生まれていることになる。阿波岐原は伊邪那岐命が禊払いをし、三貴子をはじめ多くの神々を産んでいる地である
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26 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:32:31
ID:436ddb62e0
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景行天皇は巡幸中、阿蘇の国に到着して、この国は郊の原が広く遠いが人影がないので「この国に人は住んでいるのか」とのたまわれました。この時、二人の神様が「阿蘇都彦と阿蘇都媛がいます。また、この国の号を阿蘇と言います」と答えました
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27 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:35:21
ID:436ddb62e0
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播磨国には、オホナムチ・スクナヒコナ伝承のほか、出雲国との密接な交流関係を示す伝承が数多くあります。
賀古郡比禮墓条ー景行天皇が寵愛した印南の別嬢の床掃へに奉仕した出雲臣比須良(ひすら)比売を息長命の妻に賜ったとあります
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28 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:37:30
ID:436ddb62e0
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速津媛伝承
速見郡郡名由来条は、景行天皇が球磨贈於(くまそ)を征討するため周防国から海部郡の宮浦に到着して停泊したところ、この地の速津(はやつ)媛が服順して出迎え、その言によって鼠の磐窟に住む土蜘蛛の青・白、直入郡の禰疑野の打猿・八田・国麻侶を滅ぼしたので、速津媛の国といい、後の人が改めて速見(はやみ)の郡といったとします。この条は、景行紀12年10月条とほぼ同じ内容・表現であることから、風土記編集者が紀に従って記述したと解する説が有力です。
網磯野伝承
大野郡の網磯野条は、景行天皇が巡幸されたとき、土蜘蛛の小竹鹿奥(しのかおき)、小竹鹿臣(しのかおみ)が天皇の食膳に供しようと狩をする声が非常にうるさかったため「大囂(あなみす)」と仰せられたので、この地を大囂野(あなみすの)といつたが、今は訛って網磯野(あみしの)というとあります。
彼杵郡郡名伝承
彼杵(そのき)郡郡名由来条は、景行天皇が陪従の神代(かみしろ)直に命じて、この郡の速来津(はやきつ)姫の弟、健津三間(たけつみま)が持っていた石上の神の木蓮子(いたび)玉と白珠、さらに箆簗(のやな)が持っていた玉の三色の玉を手に入れたので、「この国を具足(そなひ)玉の国と謂ふべし」とし、彼杵(そのき)は訛りであるとします。
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29 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:45:01
ID:436ddb62e0
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福岡の八女市
八女の地名発祥といわれる「八女津媛」を祀った八女津媛神社のいわれが景行天皇がらみです。日本書紀に景行天皇がこの地に巡幸の際、水沼の県主猿大海が「この地に女神あり。八女津姫といい、常 に山中にいる」と奉上したのがはじまりとされています。
景行天皇の伝説が残るのは熊本県内では不知火、松橋、山鹿等の有明海沿岸近くで、伝説にあるような人吉・球磨地方にあるか
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30 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 09:45:19
ID:436ddb62e0
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「新・阿蘇学」の記事
異本阿蘇氏系図:多氏の系譜 新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より
阿蘇神社に五十七年春、長野県の信越放送からスペシャル番組「我は海の子」の制作スタッフがやってきた。海のない長野県に安曇郡というのがあり、そこにはワタッミ(海洋神)を祖神に祀る穂高神社がある。古代の海人族といわれる安曇族。いったい、どこからこの信州の山奥深く入り込んできたのか。そのルーツをたずねていくうちに、阿蘇神社の健磐龍命に出会ったというわけである。宮内庁にある異本阿蘇氏系図によれば、なんと科野(しなの)の国造と阿蘇国造とは「同根」の関係にあるという。というのも、健磐龍命は「武五百建命」の別名であり、その異本系図の説明書には、崇神天皇の代に今の長野県の北部に当たる科野国の国造に任命され、肥後国の阿蘇神社に祀られているとあるからだ。武五百建命の二人の子供のうち兄が速瓶玉命で、阿蘇の地にくだり、同じく崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。肥後国阿蘇郡手野に祀ってある国造神社はこれである。一方の弟の健稲背命は科野国造を賜っている。この弟の系図には、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という長野県の名門へとつながっていく。つまり、この異本系図によると、武五百建命はむしろ科野の地により深い関係があり、「健磐龍命(武五百建命)は阿蘇には来なかった」ともなりかねない。『和名類聚抄』には、長野県の小郡部の郷名に安宗(阿蘇)というのがあり、大化改新後の信濃国造族といわれた金刺氏、他田氏の祖である多氏は阿蘇氏と同祖であるといわれている。
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31 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:00:05
ID:436ddb62e0
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熊襲の語句は、主に第12代景行(けいこう)天皇の九州巡幸記述の中にでてくるのであるが、九州のかなり広い範囲で使
景行天皇の熊襲討伐の地は、旧国名の豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・肥後に亘っているようにみえる
景行12年
7月 熊襲反く
9月
鼻垂(はなたり)
菟狭(うさ)の川上(大分県宇佐市)
耳垂(みみたり)
御木(みけ)の川上(福岡・大分県境の山国川)
麻剥(あさはぎ)
高羽(たかは)の川上(福岡県田川市、遠賀川上流)
土折猪折(つちをりゐをり)
緑野(みどりの)の川上(北九州市紫川)
10月
青(あを)
速見邑(はやみのむら、大分県速見郡〜別府市)
白(しろ)
速見邑(大分県速見郡〜別府市)
打猿(うちさる)
直入県(なほりのあがた)の禰疑野(ねぎの、大分県竹田市菅生付近)
八田(やた)
直入県の禰疑野(大分県竹田市菅生付近)
国摩侶(くにまろ)
直入県の禰疑野(大分県竹田市菅生付近)
11月
日向国(ひむかのくに)に行宮(かりみや)を建てる(高屋宮)
12月
厚鹿文(あつかや)
襲国(そのくに、鹿児島県曽於郡〜国分市付近)
タ鹿文(さかや)
襲国(鹿児島県曽於郡〜国分市付近)
景行13年
5月
悉く襲国を平定した。
景行18年
4月
弟熊津彦(おとくまつひこ)
熊県(くまのあがた、熊本県球磨郡〜人吉市)
6月
津頬(つつら)
玉杵名邑(たまきなのむら、熊本県玉名郡〜玉名市)
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32 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:05:30
ID:436ddb62e0
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豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮(たかやのみや)」という仮の住まいを建てました。
ある日、天皇はクマソを討つ作戦を考えていました。
「聞くところによると、クマソにはクマソタケルという強者(つわもの)がいるらしい。何かうまく倒(たお)す方法はないものか」
すると一人の家来が進み出て言いました。
「クマソタケルには二人の娘がいます。この娘にたくさん贈り物をして味方につけましょう」
「それは良い考えだ」
天皇はそういうと、二人の娘のうち姉のイチフカヤを味方につけることに成功しました。 イチフカヤは言いました。
「私に良い考えがあります」
イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父クマソタケルにそれを飲ませるとクマソタケルは酔(よ)ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。
クマソタケルを失ったクマソ一族は、勢力を失い、その半年後には天皇によって完全にほろぼされてしまいました。
また、景行天皇はミハカシヒメという美しい女性を妻に迎(むか)え、トヨクニワケノミコという名の男の子をもうけました。トヨクニワケノミコは日向を支配した「国造(くにのみやつこ)」の先祖といわれています。
また、あるとき、天皇は児湯(こゆ)地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。
「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」
それでこの地方を名付けて「日向(ひむか)」というようになったそうです
西都原古墳群の特徴
1 柄鏡式前方後円墳の群在
古墳時代前期に築造され、前方部が細長く・高さが低く・幅が狭い特徴を持つ日向独特の築造形式の前方後円墳、日向地方以外では景行天皇の巡幸経路に存在するのみで、全国的には極めて少ない。
2 男狭穂塚と女狭穂塚の築造
両塚とも畿内及び吉備地方以外には存在しない日本最大の古墳、5世紀前半に築造された日向大国の大首長墓と思われる。
3 地下式横穴墓の北限南九州独特の墓制で、鹿児島県大隅半島から宮崎県一ッ瀬川流域にかけて600基以上が存在し、西都原古墳群では墳丘墓と混在している。
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33 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:10:43
ID:436ddb62e0
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宮崎市村角の高屋神社の境内も「高屋の宮」の跡と言われる。また、綾町の錦原は景行天皇が錦の御旗を立てて賊を討ったところと伝えられている。
、「この地の豪族の娘御刀姫(みはかしひめ)を娶って豊国別(とよくにわけ)皇子を産む」と『記紀(きき)』にある。豊国別の名は、九州が四ヶ国時代に豊国から別れた日向国を治める者ということである。
日向国造(くにつこ)(長官)は、豊国別が始まりで、国富彦・老男と三代にわたる。その治所は、現在の西都辺りとみるのが自然で、ちなみにここが大宝律令後の日向国府である。老男の子牛諸井は諸県君を命ぜられて国富へ移る。
当時の日向国は児湯県(あがた)と諸県の皇室領で、北は豊国、西南は玖摩(くま)国と曽於(そお)郡すなわち熊襲国である。日向は大和朝が多年統治に苦心した隼人勢力に接触する辺境の地であった。
老男は、応神天皇より日向国造に任ぜられ、牛諸井の娘髪長媛(かみながひめ)が仁徳天皇妃に入内(じゅだい)したことは、老男、牛諸井は応神天皇から大事な舅筋になる。また、牛諸井の婦人となる大原稚郎女命(おおはらわかいらつめのみこと)は皇神天皇皇女で天皇が諸井の舅となる。
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34 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:16:20
ID:436ddb62e0
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景行天皇以降に、后妃 皇女が出ている!!
日向国造始祖の豊国別命・老男・諸県君牛諸井は、剣柄稲荷の傍(かたわ)らの相殿社へ祭られている
髪長媛
古代、諸県君家(もろかたのきみけ)の支配地は、今の東・西・北諸、南那珂、日南、串間さらには鹿児島県曽於郡にまで及ぶ広大な領域で、その統治の中心が国富でした。
当時、この地を統治していた牛諸井は国富彦の孫で、朝廷に長く仕えたが娘の髪長媛は美人の誉れ高く、その噂は時の応神天皇の耳にまで入って、ぜひ天皇妃にほしいと申し出があった。
その年の秋、天皇は供を連れ淡路島に狩りをされ、西を望むと数人の鹿皮を着けた手こぎの舟が播磨(はりま)の水門(みなと)に入った。不思議に思って使いの者に調べさせると、それは、本庄から一月の舟旅でやっとたどり着いた牛諸井髪長媛一行であった。天皇は、大変喜び召船(めしふね)に引かせた。その後、この港を鹿子(かご)の港というようになった。
天皇は、媛を大和に近い桑津邑(くわつむら)に住まわせたが、皇子の大ささぎ尊(後の仁徳天皇)は、媛の美しさに恋慕され、想い悩まれるようになった。この事を臣下から知らされた天皇は、ある日宮廷に宴席を設けて媛をよび、皇子を媛に引き合わせた。媛はめでたく仁徳天皇妃として、終生故郷の国富に帰られることはなかった。
二人の間に、大草香皇子と幡日(はたび)皇女が生まれ、幡日皇女は、後に二十一代雄略天皇妃となられたことで、諸県君家と皇室は母子(おやこ)二代の深い親戚の間柄となった。
国富町の本庄にある稲荷神社は、彦稲飯命(ひこいなもちのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)・神倭磐余彦命(かみやまといわれひこのみこと)を祀っています。 通称剣柄(けんのつか)稲荷と呼ばれ、古墳の上に建てられた神社
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35 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:19:44
ID:436ddb62e0
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彦火火出見尊は28年ごろ、阿波岐原の高屋神社の地で誕生している
高屋神社はホホデミの山陵伝承の他に、景行天皇の高屋行宮跡ともいわれている。都於郡城跡の近くにも高屋神社があり、道を隔てた黒貫寺にも景行天皇高屋行宮址がある。また、内之浦町の高屋神社はもともと国見山山頂にあったといい、現在地の東南二十間ばかりのところにある天子山といわれるところは、景行天皇の御所であるという。地元の伝承では、もともとこの地はクマソタケルの居城があったところで、景行天皇がクマソ征伐した際、国見山の高屋陵を遥拝するために創建したともいわれている
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36 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:25:10
ID:436ddb62e0
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讃岐
神櫛別命は景行天皇の御子で、讃岐公及び酒部公の祖先である。 貞観七年従五位上に叙せられた
式内社の高屋神社が香川県観音寺市高屋町稲積山2730に鎮座していますが、祭神については不詳
観音寺市木之郷町(きのごうちょう)
旧紀伊郷木郷村。景行天皇の皇女の和田姫命がこの地に住んで、姫郷といっていたのがなまったといわれている
房総
千倉の高家神社は、景行天皇が安房の地を訪れた際、家臣の「いわかむつかりのみこと」が白はまぐりを料理して褒められたことによる
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37 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:27:39
ID:436ddb62e0
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景行天皇が天子山に行幸され鷹屋の郷名が起こってきた
内之浦北方高屋神社の東方の天子山は高屋宮の跡であるという。天皇はまず周防から豊前、豊後を経て日向に至り、高屋の宮へ入られた。海から南方川原瀬の海岸に到着された。今でも御着が瀬と呼ばれている。上陸され休憩されたところは御腰掛けの石があるといわれる(名勝志)。丘を越えて小田部落に入られ一泊されて。このとき天皇が置き忘れられた杖が根付き大きくなったのが「小田の大楠」である。
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38 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:30:50
ID:436ddb62e0
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山鹿大宮神社
景行天皇の本営跡といわれ、同天皇を祀っている。
灯篭祭りで知られる山鹿市にある。景行天皇の本営跡といわれ、同天皇を祀っている。濃霧の日においでになった景行天皇を村人が松明を灯してお迎えしたことが、灯篭祭りの始まりと伝えている。神紋は菊池氏と同じ「並び鷹の羽」に細輪が付けられていた
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39 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:34:25
ID:436ddb62e0
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日田市「鏡坂公園」
景行天皇が郡の西にあるこの坂にお登りになって国見をして、「この国の姿は鏡の面に似たるかな」と仰せられた。よってこの坂を「鏡坂」という」と「豊後風土記」に記されている由緒あるところ。
桜の下に広がる日田市内を望みながらの花見はなかなかのもの
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40 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:36:32
ID:436ddb62e0
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阿蘇神社 肥後一宮
名神大社、888年以後は大神宝使発遣対象社。
第7代孝霊天皇御代 孝霊9年(紀元前281年)6月勅命により、神武天皇の御子である神八井耳命 (カムヤイミミノミコト)のまた御子である健磐龍命(タケイワタツノミコト)=阿蘇大明神−一の宮)を主神とし、御妃神である阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト=二の宮)、阿蘇初代国造である国造速瓶玉命(クニノミヤツコハヤミカタマノミコト=十一の宮)及び近親十神を含めて十二神(12宮)を祀る神社として創建されました。
その昔、阿蘇大明神は満々とたたえた湖水を外輪山の立野付近を蹴破って水を流し阿蘇を開拓しました。第12代景行天皇は国造速瓶玉命の子惟人に命じて神社を創建させたと伝えられます。(肥後国誌等)
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41 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:44:56
ID:436ddb62e0
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阿蘇神社
建立されたのは第12代景行天皇の時代といわれ、阿蘇家の祖は、初代神武天皇の孫だという。
神武天皇の没後、そのあとは長男が継がなかった。なんと、次男と三男が協力して異母兄の長男を討ったというのだ。さらに本来ならば、兄弟のうち兄にあたる神八井耳命が跡を継ぐのだが、彼は勇猛な弟に天皇を譲り、自らは神官になったという。そして、彼の子どもが阿蘇地方を開拓し、のちに子孫が阿蘇神社を建立したと伝えられている。
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42 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:52:41
ID:436ddb62e0
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宇佐と大神氏
www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_omiwa.html
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43 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:54:51
ID:436ddb62e0
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健磐竜(たけいわたつ)命
神武天皇の孫とされる。一説によると、祖父の神武天皇を祭祀した宮崎神宮(旧官幣大社)には、命の創建記録がのこっている。父は神武天皇の二男、八井耳(やいみみ)命で一九人の皇子がいた。その人脈をみると、阿蘇君のほか、肥後・日向・大隅・薩摩を合せ統治したのが健磐竜命で六番目の皇子であった。また筑後・肥前は四男の火(肥)の君が治め、豊前・豊後国造を五男の大分君が統治した。阿蘇神社は、健磐竜命の臣であった速瓶玉(はやみかたま)命に、孝霊7天皇九年勅命があって、健磐竜命が祭祀された。同社を創建した速瓶玉命が合祀されたのは、景行12天皇以後である。また速瓶玉命は、健磐竜命の子神ともいわれる
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44 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:58:41
ID:436ddb62e0
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健磐龍命は、神八井耳(かむや ゐ みみ)命の子とされ、大和から九州へやってきたともいふ。健磐龍命は、土地の草部(くさかべ)吉見(よしみ)命の娘・阿蘇都姫(あ そ つ ひめ)を妻とし、速瓶玉(はやみかだま)命が生まれた。速瓶玉命は阿蘇国造となり、その子孫が神職の阿蘇氏である。健磐龍命は、国土開拓の神として、一宮・阿蘇神社(一宮町)にまつられ、速瓶玉命は国造神社にまつられてゐる。
○あまねくも代々を照らして北の宮、速甕玉の神の光りは 阿蘇友隆
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45 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 10:59:50
ID:436ddb62e0
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太古のむかし阿蘇の外輪山の内側は大きな湖だったといふ。そこへ健磐龍(たけいはたつ)命といふ巨人がやって来て、外輪山の西の一角を足で蹴ると、滝ができ、水が流れ出た。だんだん湖水が引き始めると、湖の底から巨大な鯰が現はれ、湖の東半分を塞き止めてゐたので、命は太刀を振りかざして鯰を退治した。かうしてできたのが、阿蘇谷(あ そ だに)(阿蘇盆地)であるといふ。阿蘇谷には千枚田と呼ばれる棚田が広がってゐる
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46 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 11:01:41
ID:436ddb62e0
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女眞種族の同源傳説
内藤湖南
肥後の阿蘇氏の先祖のことであるが、景行紀によると、天皇が肥後の國に行かれた時に、阿蘇都彦・阿蘇都媛といふ神が、人に化(な)つて現れたといふことになつてゐるのである。其記事の模樣では、始めて行幸された國であつて、二神も皇統と何等の關係のあつたらしい形跡は見えぬ。然るに一方に於て、古事記には、綏靖天皇の兄神八井耳命は阿蘇君の祖なりとあり、又舊事紀の國造本紀には、崇神天皇の御代に、神八井耳命の孫の速瓶玉命を阿蘇の國造に定め賜ふとあつて、神八井耳命の子は健磐龍命と云ひ、延喜式の神名帳に祭られて居る神であるといはれてゐる。然るにまた國造本紀に、神八井耳命の孫の建五百建命を、崇神天皇の御代、科野國造に定め賜はつたと書いてある。この建五百建命と健磐龍命とは同じ神に違ひないが、話が兩方に分れて居る。兎も角、阿蘇の先祖は神八井耳命から分れたといふことになつてゐて、其國造に立てられた二人の命は、景行天皇よりも以前になつてゐるのである。されは其間に矛盾が種々あるといふことが明かである。是等も一種の同源説であつて、阿蘇の國造が大和朝廷に歸服する時に出來上つた、便宜上考へられた傳説が、又種々に變つて傳つたのである。
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47 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 12:04:19
ID:436ddb62e0
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阿蘇都彦は、誰か?
景行天皇の時代に阿蘇神社が創建され、速瓶玉命が合祀された話が伝わっている
また、健磐龍命は、土地の草部(くさかべ)吉見(よしみ)命の娘・阿蘇都姫(あ そ つ ひめ)を妻としたとあるから
阿蘇都彦は健磐龍命でしょう
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48 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 12:13:19
ID:436ddb62e0
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阿蘇の辺りに着いた時、天皇は人家一つない広い野原に立ち「この国は人はいるのだろうか」と言われました。すると二柱の神の阿蘇都彦・阿蘇都媛が人の姿となって現れ「我ら二人います。何ぞ人がいないことがありましょうか」と言われ、「何ぞ」をとって「阿蘇」と言うようになったそうです
ということは、景行天皇の頃、すでに阿蘇都彦は、神であったことになる
景行天皇十八年条に¬天皇・阿蘇国に到るや、天皇曰く是の国人ある乎、時に二神あり。阿蘇都彦、阿蘇都媛と曰ふ」と。此の二神は健磐龍命夫婦なり。神名式に阿蘇郡・健磐龍命神社を載せる。今の阿蘇神社である
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49 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 12:14:21
ID:436ddb62e0
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阿蘇 アソ 麻、浅、朝のアサ、アスに同じ。阿(あ)は、阿(お、を)と読まれ、大(お、おお、おほ)と同じ。安房国麻原郷は小原と註し、信濃国麻績郷は尾味と註す。信濃では大日方(おひなた)氏、大和(おわ)氏、下野では大貫(おぬき)氏、出雲では大芦(おあし)氏と称す。阿(お)、大(お、おお)は、大ノ国(後の百済)のことで、蘇は金(鉄)の意味である。大ノ国の産鉄地を阿蘇と云う。秩父地方では大野氏と浅見氏は古代の同族なりと云う。浅、浅海、浅見、アラ、オオ、ソ等参照。また、阿(あ、お)は、クマと読み、阿蘇族は熊襲(くまそ)と称し、その地を肥(くま)ノ国と云う。熊襲族は神武東征以前より景行天皇の頃に至まで関東へ大量移住する。多くは産鉄民である。東日流外三郡誌に¬筑紫(九州全部をさす)にては熊襲起りて反朝し、是れに日本武命・遠征して誅するも、熊襲一族、関東に荒吐一族を訊ねて、軍船大挙して脱せり。依て日本武命は東国に己酉年(西暦百九年)遠征して戦うも、征伐成らず退くも、熊襲・荒吐一族に恩仇して戦うこと永年に及ぶなり」と見ゆ。
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50 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 12:16:06
ID:436ddb62e0
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播磨国風土記餝磨郡少川ノ里条に¬讃岐の美濃物部から到来した一人の女性が息を引きとった直後、筑紫国火君らの祖が舟を入港させ、忽ちその女性の息を継ぎ返した」と云う。これは物部同士である
讃岐に三野郡があり、物部である
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51 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 12:18:59
ID:436ddb62e0
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筑紫ノ君磐井の地元福岡県八女市では、磐井は物部氏であると伝承あり。
homepage1.nifty.com/joichi/1-1a.html
磐井討伐に、朝廷が差し向けた物部大連麁鹿火は物部族の旧地北九州の同族を現地招集し参戦させた。仲国(後の常陸国鹿島郡)の阿蘇族討伐に、故国の肥ノ国杵島から大臣族借間命、黒坂命がやって来た。同族をもって同族を討伐する古代戦法である。逸文肥前国風土記に¬杵島山、杵島の縣にあり、杵島曲あり」と見え、此の地より阿蘇族は常陸国へ征伐に行く。常陸国風土記に¬大臣の族黒坂命は、賊をはかり滅さむと、茨をもちて城を造りき」と見え、同書に¬東のさかいの荒ぶる賊を平けむとして、建借間命を遣しき、即ち此は那賀の国造が初祖なり。杵島の唱曲を七日七夜遊び楽み歌ひ舞ひき」と見ゆ。杵島(きしま)は肥前国杵島郡なり。是等の戦争説は附会で、単なる移住説であろう。大臣族阿蘇氏は、小野、小野寺、大野を名乗り、奥州太平洋岸に多く分布す。大(多)族の名は、古代氏族系譜集成に¬神武天皇―神八井耳命―武宇都彦命―武速前命―敷桁彦命―武恵賀前命―武諸木命(多臣祖)、弟は建借間命(仲国造)、其の弟は建黒坂命(石城国造)。武恵賀前命の弟健磐龍命―速甕玉命(阿蘇国造)、弟は健稲背命(科野国造)」と見え、古事記・神武条に¬神八井耳命は、意富臣、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、科野国造、道奥石城国造、常道仲国造、長狭国造等の祖也」と見ゆ。祖先の武宇都彦命の宇都は渦の意味で、海洋民の首領(命、ミコト)で神代の時代の渡来人である。有名なる古事記撰者の多安麻呂は、意富(多)臣の子孫である。
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52 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 12:58:59
ID:436ddb62e0
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阿蘇氏系図
神日本磐余彦尊(神武天皇)━神八井耳命━健磐龍命━速瓶玉命(号国造)━稚人君命━成兼丸の流れという。
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53 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 13:02:24
ID:436ddb62e0
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垂仁天皇の正当な後嗣ぎの五十瓊敷命は皇位につけず、近江系の大足彦(景行天皇)が継いだと記紀は語っている。これらの事は、やはり荒川戸辺の娘「中大女」を妻とした物部の大新河命と十千根兄弟の大連の政権の下でのことである。荒川戸辺としては、血を分けた豊城入彦命の皇位継承を断念さされ、あまつさえ、皇妃を入れた崇神天皇の正当な流れさえ切られてしまった。
崇神天皇の妃は、阿倍臣の祖の大彦王家の媛、紀伊の媛、尾張の大海媛である
五十瓊敷命が石上神宮に泉南日野で製造した刀剣を捧げたのは紀の国の屈服であった。同じ頃、紀の国の五十猛命を祀る伊太祁曽神社が社地を明け渡している。
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54 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 13:06:49
ID:436ddb62e0
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物部麁鹿火の出自に、信濃諏訪氏の女を母とする伝えがある。袁本杼命の軍事的中核の東国となった物部兵団の将師である。外物部の中央復帰であった。
継体天皇の元で活躍した「物部麁鹿火 」(実在がはっきりしている)は、九州の「磐井の乱」を平定した。
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55 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 13:12:14
ID:436ddb62e0
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宇佐国造
「国造本紀」によれば、神武朝に 宇佐津彦命(うさつひこのみこと) を国造に定めた
国前国造
成務朝に設置され、 吉備臣(きびのおみ) と同祖とされる。『 日本書記 』の 景行(けいこう)天皇 九州巡幸説話には国前臣の祖 菟名手(うなで) の名がみえる。菟名手は『 豊後国風土記 』に景行天皇より 豊国直(とよくにのあたい) の 姓(かばね)を賜わったとみえる
大分国造
「国造本紀」の国造名列記の項では欠落しているが、火国造の項に大分国造と同祖とみえる。大分国造の系譜をひくのが 大分の君 である。大和政権の九州進出の際に重要な役割を果たした。本拠地は 大分川流域
比多国造
成務朝の設置。 葛城(かつらぎ)国造と同祖の 止波足尼(とばのすくね) が任じられたとあるが、実在は疑わしい。日田地方には 日下部君(くさかべのきみ) の一族があり、比多国造となっていた可能性がある。
豊国造
成務朝に 宇那足尼(うなのすくね) を任命したとみえる。この宇那足尼が国前臣の祖菟名手と同一人物
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56 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 13:23:24
ID:436ddb62e0
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筑後の国風土記 逸文
筑後の国の風土記に曰はく、上妻の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と各四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に当りて一つの別区あり。号けて衛頭と曰ふ。衛頭は政所なり。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。号けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。号けて偸人と曰ふ。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭あり。臓物と号く。臓物は盗みし物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。・・・生平けりし時、預め此の墓を造りき
にその広場を発掘したところ、石人、石馬、武人、裁判官、盗人、盾、猪(犬?)などの巨大な石造物の破片が発見された。衙頭(がとう)とは、磐井の君が罪人を裁いたり政(まつりごと)を行なっていた場所であろうと推測されている。現在、現物は岩戸山古墳の直ぐ下にある資料館に保存されており、「別区」にはレプリカが立てられて運動場のような広場の衙頭(がとう)が復元されている
磐井が大和朝廷軍に敗れて背走した先が大分県の宇佐、即ち「豊(とよ)の国」である
八女→山鹿→菊池→日田→豊前→求菩提山が磐井の逃走コースか?
筑後川を遡り日田から北東への山道を選んだ
現在の耶馬渓の奥までたどり着
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57 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 13:55:00
ID:436ddb62e0
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野津古墳群:八代
100メートル前後の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が4基ある古墳群。作られた時代は、いずれも古墳時代後期と考えられています。当時の豪族「火の君」の墓といわれ、石人石馬(せきじんせきば)の南限(なんげん)といわれています
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58 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 13:57:44
ID:436ddb62e0
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筑紫の君とは磐井のいた八女周辺、火の君とは阿蘇周辺、大分の君とは大分県海部郡の周辺
景行天皇が熊襲を平定するため九州にやってきたとき、夜、八代海で遠くに不思議な光火を見かけたことから火の国の名が付いたというものです。また、「肥後国風土記」逸文や「肥前国風土記」にはまったく別の神話が伝えられています。崇神天皇の頃、益城郡の朝来名峰で土蜘蛛の首魁、打猴・頸猴が180人余りを率いて天皇に背いたので、天皇は健緒組に命じてこれを討たせました。これを討ち平らげた健緒組が八代郡の白髪山に着いたとき、夕暮れに、空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告したところ、天皇は健緒組の功をほめ、火の下る国であるからこの国を火の国と名付け、健緒組は火の君の姓を賜ったというものです。
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59 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 14:00:17
ID:436ddb62e0
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東陽村の河俣には次のような言い伝えがあります。健緒組が見た白髪岳から奇火が降りたのが河俣村で、後に火の君や阿蘇の君の子孫が久木野に火の君の祖先を、谷川に阿蘇の君の祖先を祀るようになったというものです
武内宿祢という有能な家臣は助かり後々までも武内宿祢は朝廷のために大いに働き、六代の天皇に仕えた。天皇は,壱岐直・真根子の仁忠を特に喜ばれ、真根子の子、小経耳命(こえみみのみこと)を火(肥)国の帝(みこともち)となし給う
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60 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 14:22:20
ID:436ddb62e0
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『豊後国風土記』に登場してくる久津媛(ひさつひめ)久津媛という神が人となり景行天皇をお迎えしている
久津媛神社の祭神は、
大己貴神・久津媛・景行天皇
「豊後風土記より・久津媛縁起」目田郡郷は伍所(里は一十四)驛は壹所なり。昔者、纏向日代宮御宇大足彦天皇、球磨贈於を征伐て、凱旋りましし時、筑後國の生葉の行宮を發ちて、此の郡(日田)に幸しませり。神有りて名を久津媛と日ふ。化けて人となり参迎へ、國の消息を辨へ申しき。斯に因りての久津媛の郡と日ふ。今目田郡と謂ふは訛れるなり。(原文は漢文です)
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61 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 14:27:38
ID:436ddb62e0
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「往古景行天皇熊襲御征伐の時,筑紫の行宮より,当地へ行幸あらせられたる際,酋長,
久津媛,石井の鏡坂(日田市上野町鏡坂)に迎えて此地に奉す.
天皇此所に軍勢を集めて,御覧ありたるに由に,会所山(えそやま)と称し,亦国見岳と
もいふ.
文徳天皇天安二戊寅年(858)御鎮座にて,古の勅願所なり,峯に御影石あり,景行帝
天神地祗を祭り賜ひし所なるを以て,我今に至りても尚幣を奉り,祭祀を行ふ,此石を俗
に,御腰掛石と云伝ふ云々.
又,会所宮なる名称の起源に就いては,豊日誌に下の如く紀せり,日く成務天皇5年(紀
元795)乃,鳥羽宿禰(とばのすくね)に命じて日田の国造りと為す,靭負(ゆきおい
)に居り常に民庶を会して耕作の事を教ふ,遂に其居を名付けて会所宮といふ云々」
尚,この会所山へ会所宮から登ると,左に鳥羽宿禰の塚,頂上近くに景行天皇御腰掛石が
ある.
止波(鳥羽)宿禰は西暦470年以降古墳時代後期に靱編連(ユギアミノムラジ)現在の日田市刃連町あたりに会所宮(現在の会所山久津媛神社周辺)とよばれた屋敷に居住し村人に農業などを指南した偉人として「豊日志」に記されている
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62 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 14:34:49
ID:436ddb62e0
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「國造本紀」には、止波足尼とある
志賀高穴穂朝の御世に、葛城国造と同祖・ 止波足尼 ( とはのすくね ) を国造に定められました
・大隈国造(おおすみのくにのみやつこ)
纏向の日代の帝[景行天皇]の御世に平らげ治め隼人と同祖の初小。仁徳天皇の御世には伏布を日佐として国造に定められた。
・薩摩国造(さつまのくにのみやつこ)
纏向の日代の帝[景行天皇]の御世に薩摩隼人等を討ち仁徳天皇の御世に日佐を改め直とする。
現在日田市内には消滅したものを含めて58基の古墳の存在が確認されている。@
本書で調査報告を行った会所宮遺跡A区の南側に位置する会所山にも、3基の古墳の
存在が知られている。鳥羽塚古墳、後山古墳A、会所宮古墳である。B
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63 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 14:43:40
ID:436ddb62e0
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景行天皇の御代には物部竹子連が石見国造に任じられ、子孫相次ぎ、建久三年(1192)には物部連道美は安濃郡地頭に補せられた。
物部神社は延喜式の小社であるが、石見国三十四座の筆頭にあり石見国一宮といわれた。社領の増減はあたが、豊臣秀吉のときは三百石
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64 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 14:53:11
ID:436ddb62e0
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日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)は、日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)を生みました
襲武媛(そのたけひめ)は、国乳別皇子(くにちわけのみこ)、次に国凝別皇子(くにこりわけのみこ)、次に国背別皇子(くにせわけのみこ)、またの名は宮道別皇子(みやじわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生みました。
美人を御刀媛(みはかしひめ)といいます。豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生みました
豊門別命(とよとわけのみこと)[三嶋水間君(みしまのみぬまのきみ)、奄智首、壮子首(わかこのおびと)、粟首(あわのおびと)、筑紫火別君(つくしのひわけのきみ)の先祖です]。
熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと)[日向穴穂別(ひむかのあなほわけ)の先祖です]。
豊国別命(とよくにわけのみこと)。[日向諸県君(ひむかのもろあがたのきみ)の先祖です]。
五百野姫皇女命(いおのひめのひめみこのみこと)[伊勢の天照太神をお祀りしました]。
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65 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 14:59:10
ID:436ddb62e0
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宮道天神社の主祭神は「宮道別」です。穂国(大宝律令制定前は、三河国は三河国と穂国に分かれていた)の県主の宮道別の祖で、景行天皇の子の宮道別王とする説と、日本武尊の子(景行天皇の孫)の健貝児王(日本武尊東征の時に、日本武尊によってこの地を与えられ、この地に残された)とする説があります。
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66 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:09:09
ID:436ddb62e0
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安曇の神
志賀海神社(福岡県東区志賀島)
祭神 綿津見三神(底・中・表津少童(わたつみ)命)
祖神 綿津見豊玉彦命、阿曇磯良(丸)
社家 阿曇氏
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67 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:10:00
ID:436ddb62e0
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宗像の神
宗像大社(福岡県宗像郡玄海町)
祭神 宗像三女神(市杵島姫神、湍津姫神、田心姫神)
祖神 大国主命、事代主命(三輪氏、賀茂氏と同系)
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68 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:12:27
ID:436ddb62e0
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阿曇磯良丸は少童命(わたつみのみこと)を祖神とする海洋族の酋長で神功皇后の三韓御親征の砌、志賀島に召されて軍船を整え海上指揮を仕え奉りて無事大任を果たした航海熟達の海士(あま)であります
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69 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:29:50
ID:436ddb62e0
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諏訪氏
神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴は諏訪大神の大祝となったと記されている。そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。
諏訪大社は、前八坂刀売命を祭神とする前宮および建御名方富命を祭神とする本宮がある上社と、建御名方富命・前八坂刀売命の二神を春宮・秋宮として半年ずつ祭っている下社とがある
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70 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:36:24
ID:436ddb62e0
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雄略天皇の皇后若日下命に因むとみられる日下部(草部)も阿蘇にある。すなわち、阿蘇神社の神官のなかに草部権大宮司家のほか、年祢祝・修理職検校・諸神祝・擬大宮司(苗字はいずれも宮川)として見える。もう一つの権大宮司家の下田権大宮司家も、草部権大宮司家の祖・草五郎吉治の兄の草部四郎吉成の後裔という系譜があるが、後に阿蘇一族から養子が入った形になっている。地名としても阿蘇郡東南隅にあたる現高森町草部に遺名地があって、草部吉見神社が草部一族の祖神として鎮座することも興味深い。
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71 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:40:24
ID:436ddb62e0
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美穂主命の子とされるのが大宮司家の祖・武凝人乃君で、応神朝に宇治部舎人となって供奉したので宇治部公(君)姓を負うとA系図及び宮内省提譜の「阿蘇家家系」(B系図)等に見える。君などの姓は履中〜允恭朝に設けられたとみられるから武凝人乃君についての「君」は追記かもしれない
宇治部は応神の皇太子・宇治若郎子(菟道稚郎子)皇子の御名代であるから、応神朝に設置されたものでそのときの武凝人が肥後の宇治部を管掌しその職掌に因んで宇治部姓を負ったことはありえよう。
武凝人の兄弟の味吹乃君に国造職は受け継がれたとみられる。味吹の孫の宇志瓶・吹羽の兄弟は、遠明日香大宮朝(允恭朝)に阿蘇直姓となり、その甥の馬甘は長谷朝倉大宮朝(雄略朝)に穴穂部直姓となったと記される
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72 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:45:51
ID:436ddb62e0
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阿蘇氏系図に見える美穂主命が初代国造か
〔阿蘇国造家〕速瓶玉命──健淳美命──美穂主命──【宇治部】武擬人乃君──石金乃君──小国乃君--赤日子──鳥見──小杖──真理子─【宇治】角足─┬平田麿──武男──定足──┴継村─┼建人─┴共直─┼友成(阿蘇大宮司家へ)
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73 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:47:02
ID:436ddb62e0
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神武天皇ー神八井耳命ー武宇都彦命ー武速前命ー敷桁彦命ー健磐龍命ー速瓶玉命(阿蘇国造)−建渟美命ー美穂主命ー武凝人(宇治部君)ー倉主ー小国ー石金−赤目子ー鳥見ー小枝−真里子ー宇治角足(賜姓、宇治宿禰・阿蘇評督)−平田麻呂(阿蘇郡擬大領)
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74 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 16:13:16
ID:436ddb62e0
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木花之佐久夜毘賣の子
「古事記」では当初から火照命此者隼人阿多君之祖
熊襲を平定した後の5世紀頃から
「隼人」
と呼称されだした
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75 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 16:32:14
ID:436ddb62e0
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『日本書紀』に見える隼人は概して朝廷に服属的で、天武11年(682年)以降、阿多隼人、大隅隼人といった諸部族が朝貢している。ところが『続日本紀』の時代になると、朝廷は隼人の〈反乱〉に直面する
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76 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 16:33:43
ID:436ddb62e0
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新撰姓氏録では「阿多隼人、豊乃須佐利乃命(とよのすさりのみこと・火闌降命)の後也」また、「大角(大隅)隼人、出自火闌降命後也」とある
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77 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 14:41:35
ID:02e9d4195b
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初代 ニニギノミコト(天孫降臨) 可愛山陵・鹿児島川内市 霧島神宮 木花開耶姫
2代 ヒコホホデミノミコト(山幸彦) 高屋山陵・溝辺町(鹿児島空港そば) 鹿児島神宮 豊玉姫
3代 ウガヤフキアエズノミコト 吾平山陵・肝属郡吾平町 鵜戸神宮(宮崎) 玉依姫
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78 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 14:46:40
ID:02e9d4195b
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薩摩一之宮は、枚聞神社(ひらききじんじゃ)とこの新田神社が相争っている。薩摩国はもともと中央との関係が浅く、延喜式に載せられた神社(式内社)はわずか2社のみで、日本で一番少ない。その2社は揖宿郡(いぶすきぐん)の枚聞神社と、出水市(いずみし)の加紫久利神社である。新田神社は延喜式はもちろん、日本書紀から三代実録にいたる六国史にも登場しない。従って社格は枚聞神社が圧倒的に高いと言える。
新田神社はかって新田八幡宮と称したように、九州に根強い八幡信仰を取り入れ、武神としての性格を持ったこと、また宮司に当たる執印に、同族の惟宗氏が任命されたことから、薩摩守護島津氏と結びついた。
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79 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 14:48:15
ID:02e9d4195b
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日向一宮 都農神社
日向一宮とされる都農神社(つのじんじゃ)。
祭神は、大巳貴命(オオクニヌシノミコト)一座。
神社の創建は古く、神武天皇が大和に向かう際に、国土安穏、武運長久の祈願をしたと伝わる。
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80 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 14:52:18
ID:02e9d4195b
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肥前一宮
佐賀郡川上にある与止日女(よどひめ)神社
(式内社で肥前一宮)の大宮司職の家といわれている。
この与止日女神社(與止日女神社)は、
奈良時代には、「肥前国一の宮」
といって、最も格式の高い神社として扱われていました。
社殿後方には、石祠の境内社が並んでおり、
そのひとつに百代宮(豊玉姫命和魂神)がある。
與止日女神社略記には、御祭神 與止日女命(神功皇后の御妹)、
また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。
つまり、ここにお祭りされているのが與止日女命
または 豊玉姫命(=初代神武天皇の母の玉依毘売命の姉=龍神)
とも言われているのです。
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81 :
名無しさん@chs
2007/07/08(日) 18:49:16
ID:25e57cc0b2
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「辛嶋勝姓系図」によれば渡来系(おそらく高句麗 注)の辛島氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で祀り、さらに宇佐郡に入り、小倉山に北辰社を祀ったと言う。
「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」によれば、辛島氏は辛国宇豆島(現稲積六神社あたりか)に天降ったとされます。
播磨風土記によると4世紀初めに呉勝(くれのすぐり)が紀の国名草郡の太田に居住し、その後摂津三嶋、播磨の揖保に移住したと出ています。
これは辛嶋勝の後裔ではないかとも思えます。
神功皇后の半島行きの船の舳先にも「御船前伊太氏神」として掲げ祀られていたとされ、伊太氏神は原始八幡だけではなく応神八幡にも祀られたようです
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82 :
名無しさん@chs
2007/07/31(火) 15:19:36
ID:afe7bd7759
-
日本書紀
景行紀十二年条 賢木の上枝に八握剣、中枝に八咫鏡
下枝に八尺瓊を掛けて帰順した。 神夏磯媛が景行を
迎える
日本書紀
仲哀八年条 賢木の上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、
下枝に八尺瓊を掛けて参り迎えた。 岡県主の祖熊鰐が
仲哀を迎える。
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83 :
名無しさん@chs
2007/08/02(木) 15:15:18
ID:fd6b6582e6
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仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手がそれぞれ白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出して降伏している
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84 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:18:53
ID:a4d1321a83
-
仁徳以降雄略まで、その皇后が葛城氏の出自であるのに対し、その後は春日氏・息長氏に転じている事からも
推察できる。
武烈天皇
即位前、大伴金村と共に、平群真鳥・鮪を討つ。
武烈4年、百済武寧王即位とある。これは501年に相当する
河内方面の勢力と奈良盆地方面の勢力との争いである。
その過程で、この時期に主導権を握ったのが、大伴氏であった
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85 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:21:17
ID:a4d1321a83
-
継体は大伴金村に擁立された訳であるが、擁立に際して、河内馬買首荒籠に探索させ、
当初は河内の樟葉宮(大阪府枚方市)に宮居している。
5年に山城筒城宮(京都府綴喜郡田辺町)、更に12年山城弟国宮(京都府乙訓郡)を経て、20年磐余玉穂宮(奈良県高市郡明日香村)に入ったとされる。
継体の宮居の地を考えると、河内、田辺はいずれも古来より百済系の色濃い地である。
更に半島との関係で考えれば、任那4県割譲の件も併せて、継体は明らかに百済系である
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86 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:22:11
ID:a4d1321a83
-
磐井が豊前求菩提山に走ったというのは、この方面に新羅系辛島氏がいたからに他ならない。
辛島氏は宇佐の巫女を出す家系であり、遠祖は五十猛命とされ出雲系でもある。
磐井は敗戦に際し宇佐の三氏族に対し調停を求めたものと考えられるのである。無論継体が息長氏の系譜である事とも無関係ではない。
宇佐が歴史の表舞台に出てくるのは欽明期からである
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87 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:24:48
ID:a4d1321a83
-
始八幡信仰は豊国の神=辛国神、祭祀を司る氏族は秦氏の系列・辛島氏。辛島氏は新羅系の鋳銅技術を持つ氏族である
奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の神職、大神氏(おおがし)が宇佐神社の神職になるはず
だったが宇佐氏・辛島氏との勢力争いに負けて大野の緒方に逃れる。
大神惟基、緒方姓を名のる。緒方氏の豊後計略。
その子 高知保・・・・・由布院
惟季・・・・・・・阿南
季定・・・・・・・稙田
基平・・・・・・・大野
惟盛・・・・・・・臼杵 をそれぞれ守らせ強固にして行く。(豊後武士団)
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88 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:26:19
ID:a4d1321a83
-
宇佐八幡宮の神官としては、宇佐氏(天孫系?一番古い?)辛島氏(新羅系渡来人?)大神氏(出雲系・大三輪氏系?)の3家があり、複雑に絡み合ってきた歴史がある
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89 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:38:51
ID:a4d1321a83
-
愛媛県今治市と広島県尾道市の間の島々は、三島(さんとう=来島・能島・因島)村上水軍の本拠地でした
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90 :
名無しさん@chs
2009/10/06(火) 20:16:17
ID:Z3vJTwgY
-
阿蘇国造 阿蘇君 阿蘇直
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91 :
名無しさん@chs
2010/06/03(木) 12:36:19
ID:giZxu3tU
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阿蘇国造美穂主命
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92 :
名無しさん@chs
2010/10/26(火) 15:41:43
ID:znOgY4mI
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今は昔、垂仁(すいにん)天皇の御世、朝鮮半島は新羅の王子天日槍(あめのつぼこ)は、自分の国を弟の知古(ちこ)に譲り、七種(ななくさ)の神宝を携えて渡来し帰化しました。天皇は、自ら好む所に住いすることを許され、天目槍は、近江、若狭の国々を巡り、ついに但馬(たじま)国を永遠の住処(すみか)としたのです。そして、但馬国出島(いづしま)の太耳(ふとみみ)が娘、麻多鳥(またお)を妻として迎えました。その五代の子孫が田道間守(たじまのもり)で、古代豪族三宅連(みあけむらじ)の子孫にあたる方です。
菓祖田道間守が奉納祀されているのが、前述の三宅連の発祥の地、兵庫県(旧但馬国)豊岡市三宅に鎮座されている中嶋神社であります。創建は推古天皇の時代といわれ延喜式神明帳にある古社です。昭和二十九年七月吉日に、九州菓子業の守護神として奉祀するため、太宰府天満宮の御本殿東側、天神の森の畔に社殿を建立し観請して、御祭神の神跡を景抑し、その神徳を崇敬することは、九州菓子業の有志の切なる希望によるものでした
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93 :
名無しさん@chs
2010/10/26(火) 15:43:42
ID:znOgY4mI
-
田道 間守の七代あとの連(むらじ=官職位)三宅 吉士が、祖神を祀る中嶋神社の元宮を建立しました。
中嶋の由来は、 間守のお墓が垂仁天皇陵の濠の中に在って、島のように見えたからと云われています。
柑橘を倭国に持ち帰った田道 間守は、橘祖神として祀られました。
〜中嶋神社は、兵庫県の旧県社で、豊岡市に在ります〜社伝の創建は、569年〜
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94 :
名無しさん@chs
2010/10/26(火) 15:45:25
ID:znOgY4mI
-
伊萬里神社(いまりじんじゃ)は佐賀県伊万里市に所在する神社
旧県社の香橘神社(こうきつじんじゃ)と戸渡嶋神社(ととしまじんじゃ)、岩栗神社(いわくりじんじゃ)が合祀され1962年(昭和37年)に現在の伊萬里神社が成立した。旧戸渡嶋神社及び岩栗神社の鳥居も境内に残されている。
香橘神社は社伝では垂仁天皇の代に天皇の命で常世の国から不老長寿の妙薬と称された非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘のこと)を持ち帰った田道間守命が帰途この地に非時香菓を一株植えたことから、日本における橘の初渡来地として「橘の宮」と称されたことが始まりと言われている。そのことから、田道間守命を祀る中嶋神社が境内社として本殿近くに合祀されている。
また、伊万里出身の森永製菓創業者である森永太一郎の胸像が境内に建立されている
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95 :
名無しさん@chs
2010/10/26(火) 15:46:52
ID:znOgY4mI
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倭国は中国の王朝に朝貢を行ってきた。後漢には倭国王師匠が、魏には卑弥呼が、西晋には台与が使者を送った。田道間守も垂仁天皇が東晋に送った使者ではなかったのか。 田道間守は、中国南部の東晋の温州あたりに行ったときに、食用ミカンの「ときじくのかぐの実」を手に入れたのであろう。
『古事記』『日本書紀』の田道間守の伝承は、垂仁天皇の時代に田道間守が東晋に派遣された史実があって、それを核として成立した伝承の可能性が高い。
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110 :
名無しさん@chs
2011/01/17(月) 12:17:11
ID:xD2lb60c
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>>3
8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から・・・・
この女酋長ですね。
>>10
魏志の記す卑弥呼は、紀景行天皇段の記す豊前の地京都郡の女酋長「神夏磯媛」か?
ttp://www.geocities.jp/ojyaru_24/keikoi.html
宇佐八幡宮
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1293265517/10-24
-
111 :
名無しさん@chs
2011/04/09(土) 22:24:56
ID:5xkZJsRc
-
>>3
この景行天皇九州親征は、神武天皇以来の天皇家の宿願だったの?
”九州を制覇していた漢人は、神武天皇に攻撃をうけました。完全に制覇でき
なかったために、続く天皇が何度も九州を攻めています・・・・・・・”
大毘古命をば高志道へ遣わし
ttp://homepage1.nifty.com/o-mino/page818.html
-
112 :
名無しさん@chs
2011/04/10(日) 13:43:42
ID:DV9nr5OE
-
>>32
>「クマソタケルには二人の娘がいます。この娘にたくさん贈り物をして・・・・・
熊襲酋長の市乾鹿文・市鹿文姉妹のことですね。父を裏切り、父の武具
弓弦を予め断ち天皇に協力した姉の市乾鹿文は、その後どうしたのだろ。
天皇の后妃群にはその名は見られないが。裏切り恥じて自経?
記ならば叙述されるのだろうが、叙事重視の紀だから無関心なのかな?
-
113 :
名無しさん@chs
2011/04/10(日) 15:18:30
ID:DV9nr5OE
-
>>2
>九州に関連する妃....
紀の記すこの3名の他の后妃、播磨稲日大郎・八坂入比売・水歯郎媛・五十河媛
・高田媛に記のみ記す訶家具漏比売を加えた9名で、もうけた子女80名って......
尤も在位AD71〜AD131年の60年は未だしも、享年106歳となるとの紀の著者は
大法螺吹きと言えるだろうが。
-
114 :
名無しさん@chs
2011/05/30(月) 23:29:54
ID:HEvQwhJ2
-
>>18
この播磨稲日大郎姫ですね。
91 : 名無しさん@chs 2009/09/01(火) 13:56:35 ID:lVyessL2
景行天皇
母は皇后・日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)といいます。丹波道主王(たんばのみちのうしのきみ)の娘です
播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて、皇后とされました。皇后は、三人の皇子を生まれ
ました。第一が大碓命(おおうすのみこと)、次が小碓命(おうすのみこと)、次が稚根子命(わかねこのみこと)
またの妃、五十河媛(いかわひめ)は、神櫛皇子(かむくしのみこ)と稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生みました
またの妃、襲武媛(そのたけひめ)は、国乳別皇子(くにちわけのみこ)、次に国凝別皇子(くにこりわけのみこ)、次に
国背別皇子(くにせわけのみこ)、またの名は宮道別皇子(みやじわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生み・・・・
和邇氏 www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/98/91-91
-
115 :
名無しさん@chs
2011/09/02(金) 13:37:08
ID:b6It5zZI
-
>>31
>鼻垂・・・耳垂・・・麻剥・・・土折猪折・・・青・・・白・・・打猿・・・
紀の記す熊襲討伐途上で、景行天皇が戦った土蜘蛛と侮蔑表現
されている筑紫・豊地方の原住民部族らですね。
その軍勢に、筑紫国糟屋郡志珂郷を本貫とする安曇連氏も随行
していたようですね。
安曇氏の経歴と分布 ttp://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf
-
116 :
名無しさん@chs
2011/09/30(金) 10:54:34
ID:A/XtkzKg
-
>>112
日向隈谷に蕃居していた熊襲梟帥の娘市乾鹿文・市鹿文姉妹のうち、
父討伐の手引きをした姉市乾鹿文は、不孝者と糾弾され景行により
処刑されたことになっています。
『飫肥伝説録』に拠れば、隈谷南方の毛吉田に市乾鹿文を祀った祠が
あったようです。
このあたりイワレヒコ東遷、ヤマトタケル武勇伝も同様ですが、謀略計略で
敵を打ち負かすのは、何らうしろめたいことではなかったようです。
古墳時代はむろん、記紀が上梓された8世紀においてもです。
正々堂々名乗り組み合い戦う12世紀源平争乱の世までの間に、どういう
思惟変遷があったのでしょうか?
因みに、妹市鹿文は咎めもなく火国造に任命されたと。
-
117 :
名無しさん@chs
2011/10/01(土) 15:40:12
ID:G4a3Bsj2
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>>110
景行の九州親征には、豊前神夏磯媛、豊後速津媛、肥前海松橿媛、
筑後八女津媛等女酋が頻出し、また敵方は土蜘蛛と蔑称表現されて
いるのが多数なのに、神夏磯媛だけは「神」という文字で書かれて
いるのだろ?
服属した中でも同系の天孫部族と看做されていたのか?
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118 :
名無しさん@chs
2011/11/20(日) 15:11:03
ID:wALUD24Q
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>>31
>豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・肥後に亘っているように・・・・・・・
景行遠征当時4世紀前葉の北部九州の筑紫・肥前地域には、邪馬台国或いは倭国連合が
支配しており侵攻を回避したか侵攻するも敗戦で記述されなかったのだろう。