景行天皇の時代 九州
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1 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 08:16:22
ID:436ddb62e0
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垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。
皇后:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ。若建吉備津日子の女) 景行52年薨去
櫛角別王(くしつのわけのみこ)
大碓皇子(おおうすのみこ)
小碓尊(おうすのみこと、日本武尊)
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69 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:29:50
ID:436ddb62e0
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諏訪氏
神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴は諏訪大神の大祝となったと記されている。そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。
諏訪大社は、前八坂刀売命を祭神とする前宮および建御名方富命を祭神とする本宮がある上社と、建御名方富命・前八坂刀売命の二神を春宮・秋宮として半年ずつ祭っている下社とがある
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70 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:36:24
ID:436ddb62e0
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雄略天皇の皇后若日下命に因むとみられる日下部(草部)も阿蘇にある。すなわち、阿蘇神社の神官のなかに草部権大宮司家のほか、年祢祝・修理職検校・諸神祝・擬大宮司(苗字はいずれも宮川)として見える。もう一つの権大宮司家の下田権大宮司家も、草部権大宮司家の祖・草五郎吉治の兄の草部四郎吉成の後裔という系譜があるが、後に阿蘇一族から養子が入った形になっている。地名としても阿蘇郡東南隅にあたる現高森町草部に遺名地があって、草部吉見神社が草部一族の祖神として鎮座することも興味深い。
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71 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:40:24
ID:436ddb62e0
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美穂主命の子とされるのが大宮司家の祖・武凝人乃君で、応神朝に宇治部舎人となって供奉したので宇治部公(君)姓を負うとA系図及び宮内省提譜の「阿蘇家家系」(B系図)等に見える。君などの姓は履中〜允恭朝に設けられたとみられるから武凝人乃君についての「君」は追記かもしれない
宇治部は応神の皇太子・宇治若郎子(菟道稚郎子)皇子の御名代であるから、応神朝に設置されたものでそのときの武凝人が肥後の宇治部を管掌しその職掌に因んで宇治部姓を負ったことはありえよう。
武凝人の兄弟の味吹乃君に国造職は受け継がれたとみられる。味吹の孫の宇志瓶・吹羽の兄弟は、遠明日香大宮朝(允恭朝)に阿蘇直姓となり、その甥の馬甘は長谷朝倉大宮朝(雄略朝)に穴穂部直姓となったと記される
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72 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:45:51
ID:436ddb62e0
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阿蘇氏系図に見える美穂主命が初代国造か
〔阿蘇国造家〕速瓶玉命──健淳美命──美穂主命──【宇治部】武擬人乃君──石金乃君──小国乃君--赤日子──鳥見──小杖──真理子─【宇治】角足─┬平田麿──武男──定足──┴継村─┼建人─┴共直─┼友成(阿蘇大宮司家へ)
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73 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 15:47:02
ID:436ddb62e0
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神武天皇ー神八井耳命ー武宇都彦命ー武速前命ー敷桁彦命ー健磐龍命ー速瓶玉命(阿蘇国造)−建渟美命ー美穂主命ー武凝人(宇治部君)ー倉主ー小国ー石金−赤目子ー鳥見ー小枝−真里子ー宇治角足(賜姓、宇治宿禰・阿蘇評督)−平田麻呂(阿蘇郡擬大領)
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74 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 16:13:16
ID:436ddb62e0
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木花之佐久夜毘賣の子
「古事記」では当初から火照命此者隼人阿多君之祖
熊襲を平定した後の5世紀頃から
「隼人」
と呼称されだした
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75 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 16:32:14
ID:436ddb62e0
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『日本書紀』に見える隼人は概して朝廷に服属的で、天武11年(682年)以降、阿多隼人、大隅隼人といった諸部族が朝貢している。ところが『続日本紀』の時代になると、朝廷は隼人の〈反乱〉に直面する
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76 :
名無しさん@chs
2007/06/10(日) 16:33:43
ID:436ddb62e0
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新撰姓氏録では「阿多隼人、豊乃須佐利乃命(とよのすさりのみこと・火闌降命)の後也」また、「大角(大隅)隼人、出自火闌降命後也」とある
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77 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 14:41:35
ID:02e9d4195b
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初代 ニニギノミコト(天孫降臨) 可愛山陵・鹿児島川内市 霧島神宮 木花開耶姫
2代 ヒコホホデミノミコト(山幸彦) 高屋山陵・溝辺町(鹿児島空港そば) 鹿児島神宮 豊玉姫
3代 ウガヤフキアエズノミコト 吾平山陵・肝属郡吾平町 鵜戸神宮(宮崎) 玉依姫
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78 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 14:46:40
ID:02e9d4195b
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薩摩一之宮は、枚聞神社(ひらききじんじゃ)とこの新田神社が相争っている。薩摩国はもともと中央との関係が浅く、延喜式に載せられた神社(式内社)はわずか2社のみで、日本で一番少ない。その2社は揖宿郡(いぶすきぐん)の枚聞神社と、出水市(いずみし)の加紫久利神社である。新田神社は延喜式はもちろん、日本書紀から三代実録にいたる六国史にも登場しない。従って社格は枚聞神社が圧倒的に高いと言える。
新田神社はかって新田八幡宮と称したように、九州に根強い八幡信仰を取り入れ、武神としての性格を持ったこと、また宮司に当たる執印に、同族の惟宗氏が任命されたことから、薩摩守護島津氏と結びついた。
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79 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 14:48:15
ID:02e9d4195b
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日向一宮 都農神社
日向一宮とされる都農神社(つのじんじゃ)。
祭神は、大巳貴命(オオクニヌシノミコト)一座。
神社の創建は古く、神武天皇が大和に向かう際に、国土安穏、武運長久の祈願をしたと伝わる。
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80 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 14:52:18
ID:02e9d4195b
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肥前一宮
佐賀郡川上にある与止日女(よどひめ)神社
(式内社で肥前一宮)の大宮司職の家といわれている。
この与止日女神社(與止日女神社)は、
奈良時代には、「肥前国一の宮」
といって、最も格式の高い神社として扱われていました。
社殿後方には、石祠の境内社が並んでおり、
そのひとつに百代宮(豊玉姫命和魂神)がある。
與止日女神社略記には、御祭神 與止日女命(神功皇后の御妹)、
また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。
つまり、ここにお祭りされているのが與止日女命
または 豊玉姫命(=初代神武天皇の母の玉依毘売命の姉=龍神)
とも言われているのです。
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81 :
名無しさん@chs
2007/07/08(日) 18:49:16
ID:25e57cc0b2
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「辛嶋勝姓系図」によれば渡来系(おそらく高句麗 注)の辛島氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で祀り、さらに宇佐郡に入り、小倉山に北辰社を祀ったと言う。
「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」によれば、辛島氏は辛国宇豆島(現稲積六神社あたりか)に天降ったとされます。
播磨風土記によると4世紀初めに呉勝(くれのすぐり)が紀の国名草郡の太田に居住し、その後摂津三嶋、播磨の揖保に移住したと出ています。
これは辛嶋勝の後裔ではないかとも思えます。
神功皇后の半島行きの船の舳先にも「御船前伊太氏神」として掲げ祀られていたとされ、伊太氏神は原始八幡だけではなく応神八幡にも祀られたようです
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82 :
名無しさん@chs
2007/07/31(火) 15:19:36
ID:afe7bd7759
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日本書紀
景行紀十二年条 賢木の上枝に八握剣、中枝に八咫鏡
下枝に八尺瓊を掛けて帰順した。 神夏磯媛が景行を
迎える
日本書紀
仲哀八年条 賢木の上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、
下枝に八尺瓊を掛けて参り迎えた。 岡県主の祖熊鰐が
仲哀を迎える。
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83 :
名無しさん@chs
2007/08/02(木) 15:15:18
ID:fd6b6582e6
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仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手がそれぞれ白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出して降伏している
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84 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:18:53
ID:a4d1321a83
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仁徳以降雄略まで、その皇后が葛城氏の出自であるのに対し、その後は春日氏・息長氏に転じている事からも
推察できる。
武烈天皇
即位前、大伴金村と共に、平群真鳥・鮪を討つ。
武烈4年、百済武寧王即位とある。これは501年に相当する
河内方面の勢力と奈良盆地方面の勢力との争いである。
その過程で、この時期に主導権を握ったのが、大伴氏であった
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85 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:21:17
ID:a4d1321a83
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継体は大伴金村に擁立された訳であるが、擁立に際して、河内馬買首荒籠に探索させ、
当初は河内の樟葉宮(大阪府枚方市)に宮居している。
5年に山城筒城宮(京都府綴喜郡田辺町)、更に12年山城弟国宮(京都府乙訓郡)を経て、20年磐余玉穂宮(奈良県高市郡明日香村)に入ったとされる。
継体の宮居の地を考えると、河内、田辺はいずれも古来より百済系の色濃い地である。
更に半島との関係で考えれば、任那4県割譲の件も併せて、継体は明らかに百済系である
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86 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:22:11
ID:a4d1321a83
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磐井が豊前求菩提山に走ったというのは、この方面に新羅系辛島氏がいたからに他ならない。
辛島氏は宇佐の巫女を出す家系であり、遠祖は五十猛命とされ出雲系でもある。
磐井は敗戦に際し宇佐の三氏族に対し調停を求めたものと考えられるのである。無論継体が息長氏の系譜である事とも無関係ではない。
宇佐が歴史の表舞台に出てくるのは欽明期からである
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87 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:24:48
ID:a4d1321a83
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始八幡信仰は豊国の神=辛国神、祭祀を司る氏族は秦氏の系列・辛島氏。辛島氏は新羅系の鋳銅技術を持つ氏族である
奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の神職、大神氏(おおがし)が宇佐神社の神職になるはず
だったが宇佐氏・辛島氏との勢力争いに負けて大野の緒方に逃れる。
大神惟基、緒方姓を名のる。緒方氏の豊後計略。
その子 高知保・・・・・由布院
惟季・・・・・・・阿南
季定・・・・・・・稙田
基平・・・・・・・大野
惟盛・・・・・・・臼杵 をそれぞれ守らせ強固にして行く。(豊後武士団)
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88 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:26:19
ID:a4d1321a83
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宇佐八幡宮の神官としては、宇佐氏(天孫系?一番古い?)辛島氏(新羅系渡来人?)大神氏(出雲系・大三輪氏系?)の3家があり、複雑に絡み合ってきた歴史がある
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89 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:38:51
ID:a4d1321a83
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愛媛県今治市と広島県尾道市の間の島々は、三島(さんとう=来島・能島・因島)村上水軍の本拠地でした
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90 :
名無しさん@chs
2009/10/06(火) 20:16:17
ID:Z3vJTwgY
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阿蘇国造 阿蘇君 阿蘇直
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91 :
名無しさん@chs
2010/06/03(木) 12:36:19
ID:giZxu3tU
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阿蘇国造美穂主命
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92 :
名無しさん@chs
2010/10/26(火) 15:41:43
ID:znOgY4mI
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今は昔、垂仁(すいにん)天皇の御世、朝鮮半島は新羅の王子天日槍(あめのつぼこ)は、自分の国を弟の知古(ちこ)に譲り、七種(ななくさ)の神宝を携えて渡来し帰化しました。天皇は、自ら好む所に住いすることを許され、天目槍は、近江、若狭の国々を巡り、ついに但馬(たじま)国を永遠の住処(すみか)としたのです。そして、但馬国出島(いづしま)の太耳(ふとみみ)が娘、麻多鳥(またお)を妻として迎えました。その五代の子孫が田道間守(たじまのもり)で、古代豪族三宅連(みあけむらじ)の子孫にあたる方です。
菓祖田道間守が奉納祀されているのが、前述の三宅連の発祥の地、兵庫県(旧但馬国)豊岡市三宅に鎮座されている中嶋神社であります。創建は推古天皇の時代といわれ延喜式神明帳にある古社です。昭和二十九年七月吉日に、九州菓子業の守護神として奉祀するため、太宰府天満宮の御本殿東側、天神の森の畔に社殿を建立し観請して、御祭神の神跡を景抑し、その神徳を崇敬することは、九州菓子業の有志の切なる希望によるものでした
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93 :
名無しさん@chs
2010/10/26(火) 15:43:42
ID:znOgY4mI
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田道 間守の七代あとの連(むらじ=官職位)三宅 吉士が、祖神を祀る中嶋神社の元宮を建立しました。
中嶋の由来は、 間守のお墓が垂仁天皇陵の濠の中に在って、島のように見えたからと云われています。
柑橘を倭国に持ち帰った田道 間守は、橘祖神として祀られました。
〜中嶋神社は、兵庫県の旧県社で、豊岡市に在ります〜社伝の創建は、569年〜
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94 :
名無しさん@chs
2010/10/26(火) 15:45:25
ID:znOgY4mI
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伊萬里神社(いまりじんじゃ)は佐賀県伊万里市に所在する神社
旧県社の香橘神社(こうきつじんじゃ)と戸渡嶋神社(ととしまじんじゃ)、岩栗神社(いわくりじんじゃ)が合祀され1962年(昭和37年)に現在の伊萬里神社が成立した。旧戸渡嶋神社及び岩栗神社の鳥居も境内に残されている。
香橘神社は社伝では垂仁天皇の代に天皇の命で常世の国から不老長寿の妙薬と称された非時香菓(ときじくのかぐのこのみ、橘のこと)を持ち帰った田道間守命が帰途この地に非時香菓を一株植えたことから、日本における橘の初渡来地として「橘の宮」と称されたことが始まりと言われている。そのことから、田道間守命を祀る中嶋神社が境内社として本殿近くに合祀されている。
また、伊万里出身の森永製菓創業者である森永太一郎の胸像が境内に建立されている
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95 :
名無しさん@chs
2010/10/26(火) 15:46:52
ID:znOgY4mI
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倭国は中国の王朝に朝貢を行ってきた。後漢には倭国王師匠が、魏には卑弥呼が、西晋には台与が使者を送った。田道間守も垂仁天皇が東晋に送った使者ではなかったのか。 田道間守は、中国南部の東晋の温州あたりに行ったときに、食用ミカンの「ときじくのかぐの実」を手に入れたのであろう。
『古事記』『日本書紀』の田道間守の伝承は、垂仁天皇の時代に田道間守が東晋に派遣された史実があって、それを核として成立した伝承の可能性が高い。
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110 :
名無しさん@chs
2011/01/17(月) 12:17:11
ID:xD2lb60c
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>>3
8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から・・・・
この女酋長ですね。
>>10
魏志の記す卑弥呼は、紀景行天皇段の記す豊前の地京都郡の女酋長「神夏磯媛」か?
ttp://www.geocities.jp/ojyaru_24/keikoi.html
宇佐八幡宮
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1293265517/10-24
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111 :
名無しさん@chs
2011/04/09(土) 22:24:56
ID:5xkZJsRc
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>>3
この景行天皇九州親征は、神武天皇以来の天皇家の宿願だったの?
”九州を制覇していた漢人は、神武天皇に攻撃をうけました。完全に制覇でき
なかったために、続く天皇が何度も九州を攻めています・・・・・・・”
大毘古命をば高志道へ遣わし
ttp://homepage1.nifty.com/o-mino/page818.html
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112 :
名無しさん@chs
2011/04/10(日) 13:43:42
ID:DV9nr5OE
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>>32
>「クマソタケルには二人の娘がいます。この娘にたくさん贈り物をして・・・・・
熊襲酋長の市乾鹿文・市鹿文姉妹のことですね。父を裏切り、父の武具
弓弦を予め断ち天皇に協力した姉の市乾鹿文は、その後どうしたのだろ。
天皇の后妃群にはその名は見られないが。裏切り恥じて自経?
記ならば叙述されるのだろうが、叙事重視の紀だから無関心なのかな?
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113 :
名無しさん@chs
2011/04/10(日) 15:18:30
ID:DV9nr5OE
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>>2
>九州に関連する妃....
紀の記すこの3名の他の后妃、播磨稲日大郎・八坂入比売・水歯郎媛・五十河媛
・高田媛に記のみ記す訶家具漏比売を加えた9名で、もうけた子女80名って......
尤も在位AD71〜AD131年の60年は未だしも、享年106歳となるとの紀の著者は
大法螺吹きと言えるだろうが。
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114 :
名無しさん@chs
2011/05/30(月) 23:29:54
ID:HEvQwhJ2
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>>18
この播磨稲日大郎姫ですね。
91 : 名無しさん@chs 2009/09/01(火) 13:56:35 ID:lVyessL2
景行天皇
母は皇后・日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)といいます。丹波道主王(たんばのみちのうしのきみ)の娘です
播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて、皇后とされました。皇后は、三人の皇子を生まれ
ました。第一が大碓命(おおうすのみこと)、次が小碓命(おうすのみこと)、次が稚根子命(わかねこのみこと)
またの妃、五十河媛(いかわひめ)は、神櫛皇子(かむくしのみこ)と稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生みました
またの妃、襲武媛(そのたけひめ)は、国乳別皇子(くにちわけのみこ)、次に国凝別皇子(くにこりわけのみこ)、次に
国背別皇子(くにせわけのみこ)、またの名は宮道別皇子(みやじわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生み・・・・
和邇氏 www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/98/91-91
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115 :
名無しさん@chs
2011/09/02(金) 13:37:08
ID:b6It5zZI
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>>31
>鼻垂・・・耳垂・・・麻剥・・・土折猪折・・・青・・・白・・・打猿・・・
紀の記す熊襲討伐途上で、景行天皇が戦った土蜘蛛と侮蔑表現
されている筑紫・豊地方の原住民部族らですね。
その軍勢に、筑紫国糟屋郡志珂郷を本貫とする安曇連氏も随行
していたようですね。
安曇氏の経歴と分布 ttp://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf
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116 :
名無しさん@chs
2011/09/30(金) 10:54:34
ID:A/XtkzKg
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>>112
日向隈谷に蕃居していた熊襲梟帥の娘市乾鹿文・市鹿文姉妹のうち、
父討伐の手引きをした姉市乾鹿文は、不孝者と糾弾され景行により
処刑されたことになっています。
『飫肥伝説録』に拠れば、隈谷南方の毛吉田に市乾鹿文を祀った祠が
あったようです。
このあたりイワレヒコ東遷、ヤマトタケル武勇伝も同様ですが、謀略計略で
敵を打ち負かすのは、何らうしろめたいことではなかったようです。
古墳時代はむろん、記紀が上梓された8世紀においてもです。
正々堂々名乗り組み合い戦う12世紀源平争乱の世までの間に、どういう
思惟変遷があったのでしょうか?
因みに、妹市鹿文は咎めもなく火国造に任命されたと。
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117 :
名無しさん@chs
2011/10/01(土) 15:40:12
ID:G4a3Bsj2
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>>110
景行の九州親征には、豊前神夏磯媛、豊後速津媛、肥前海松橿媛、
筑後八女津媛等女酋が頻出し、また敵方は土蜘蛛と蔑称表現されて
いるのが多数なのに、神夏磯媛だけは「神」という文字で書かれて
いるのだろ?
服属した中でも同系の天孫部族と看做されていたのか?
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118 :
名無しさん@chs
2011/11/20(日) 15:11:03
ID:wALUD24Q
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>>31
>豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・肥後に亘っているように・・・・・・・
景行遠征当時4世紀前葉の北部九州の筑紫・肥前地域には、邪馬台国或いは倭国連合が
支配しており侵攻を回避したか侵攻するも敗戦で記述されなかったのだろう。