熊野神社の謎
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1 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 14:08:19
ID:d135567d40
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こんな話をみかけた。
熊野は一般的には「くまの」と読んでいますが、しかし、和歌山県の御坊市の熊野神社の熊野は「くまの」ではなく「いや」と読ませています(神奈備さんの資料)。「いや」といえば揖夜神社という、出雲の最古社が浮かんできます。ここの現在の祭神はイザナミを主神とし、ほかに、オオナムチ、スクナヒコナ、コトシロヌシらしいのですが、もともとここにイザナミがまつられていたとはちょっと考えにくいです。といいますのも、ここに奉納される「わらの蛇」が、なんと「アラハバキ」と呼ばれているらしいのです
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2 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 14:22:23
ID:d135567d40
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両面宿儺
位山(くらいやま)の旧名は愛宝山(あわやま)。昔は、イチイの木の産地として有名で、天智天皇が近江大津の宮を造営する際に、この山の木を使われた。その時、天皇から官位が与えられ、以来位山と呼ばれるようになったという。笏(しゃく)木の用材を伐りだす山として有名になった。日本200名山のひとつでもある。
日本書紀に拠ると、飛騨国に現れ、朝廷に背いて民衆を苦しめていたが、、仁徳天皇65年、朝廷が差し向けた武将・武振熊命(たけふるくまのみこと)により退治されたとされている。
日本書紀では朝敵として悪者扱いを受けているが、飛騨国のみならず、美濃国でも英雄、恩人と考えられ、信仰の対象となっている。高山市丹生川町(旧・大野郡丹生川村)の千光寺や善久寺は、両面宿儺を開基としており、両面宿儺は飛騨国に仏教を伝えたとされている。飛騨国、美濃国の多くの古寺でも両面宿儺を信仰の対象としている。又、飛騨国一之宮である水無神社は位山を御神体山とするのだが、祭神ははっきりしていないことから、両面宿儺が隠された祭神とする説もある
両面宿儺は双生児や兄弟の象徴であり、古代史での双生児、大碓命小碓命(つまり日本尊命とその兄)の事という。又、別の説では仲哀天皇皇子の)麛坂皇子忍熊王兄弟という。どちらも美濃国飛騨国に関係が深い。
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3 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 14:26:55
ID:d135567d40
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熊野久須毘神は、天照大神と素盞嗚尊の誓約で誕生した八皇子神の一で、この神の名前にはとってつけた不自然さを感じます。さらに、この神は他の七神と違い、現れて何もしていません。
八皇子神とは、天忍穗耳命、天之穗日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須日命、多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命(後の三姫は宗像の神です)。
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4 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 14:28:53
ID:d135567d40
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阿久留王は6本の手があったと伝えられ(両面宿禰に似てる=手が4本)、日本武尊に敗れ、木更津北方の六手(むて)の地で、八つ裂きにされた
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5 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 14:31:40
ID:d135567d40
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阿久留王とは、鹿野山を本拠地とする、まさに中央政権にとっては「鬼」にあたる、君津地方を支配する王であった。
高坂城の近くを流れる鑓水川(小櫃川の支流)は日本武尊の軍が阿久留王らと戦って血に染まった槍を洗った川といわれています。また、高坂城蹟の「鬼塚(きづか)」はこのときの合戦で討ち死にした阿久留王の兵士を葬ったものと伝えられています。
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6 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 18:56:42
ID:d135567d40
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興味深い話としては出雲は揖夜神社の摂社では藁で作った蛇が祭ってあり、 地元ではアラハバキと呼ぶそうです。
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7 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 18:59:30
ID:d135567d40
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御坊市の熊野神社は、イヤ神社という呼び名も祭神も、出雲の揖夜神社と同様ですね。
何故??
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8 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 19:05:24
ID:d135567d40
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伊邪那美尊、事解之男命、速玉之男命の場合が多いです。
全国の熊野神社を調査中のサイトがあります
www.mikumano.net/zenkoku/index.html
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9 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 19:09:32
ID:d135567d40
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家都御子神、速玉男命、熊野夫須美神ではないか
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10 :
名無しさん@chs
2007/06/11(月) 19:12:38
ID:d135567d40
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宮中神36座では
お料理の神様は下記の3座:大膳職坐神3座(並 小)
御食津神社[ミケツ] 「天太玉命」
火雷神社[ホノイカツチ] 「火雷」
高倍神社[タカベ] 「磐鹿六*命」[イハシカムツカリ]
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11 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:12:37
ID:a11cb41c3d
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神饌(しんせん)とは、日本の神社や神棚に供える供物の事である。御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも言う。
神饌には、調理して供える熟饌(じゅくせん)と、生のまま供える生饌(せいせん)とがある。
通常お供えする神饌は、米と塩と水
神棚には、毎朝必ず「神饌(お供え物)」である米(洗米もしくは炊いたご飯)と塩と水をお供えします。 米と塩は、土器(かわらけ)または白い小皿に山形にして盛り、水は水器などに、その日の初水を入れます。 そして、これらを三方(さんぼう)または折敷(おしき)の上にのせます。 のせるときの位置は、米を中心にして向かって右側が塩、左側が水です。 このとき、水器などの蓋(ふた)は取ってお供えします。 それから、三方や折敷の向きは、縁(へり)に継目(綴目)のある方を手前に向けて下さい。
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12 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:22:13
ID:a11cb41c3d
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食事の内容は、米を蒸した御飯(おんいい)、御塩(みしお)、御水(おんみず)、魚介、海草、野菜、果物など。そのすべての材料は神宮の自給自足である。
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13 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:30:43
ID:a11cb41c3d
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国崎のあわび御膳
伊勢神宮御鎮座の地をもとめた倭姫命(やまとひめのみこと)が国崎をおとずれたおり、その海幸を伊勢神宮の神饌としたことから始まった海産物の献上し二千年を経った今も続く国崎の大切な神事となっています
あわびのえんがわ揚げとたこ珍味
酢の物 けんちん(なます)
小鉢 あわび肝の塩から
揚げ物 たこの唐揚げ
お造り たい、いか
焼き物(煮物) 地魚の塩焼き(煮つけ)
あわび あわびのお造り
煮物 あらめ煮
潮煮 さざえの潮煮
逸品 あわびのどぼ漬け
主品 国崎のあわび
古来から伝わる方法でひも状にむいていき乾燥させたものが「熨斗あわび」
汁物 海藻汁
ご飯 ひじき御飯
香の物 つわぶき
甘味 ところてん
朝食 海の七草かゆ
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14 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:35:39
ID:a11cb41c3d
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食事のことは「ケ」といい、神様の食事は、御食と書いて「ミケ」と読みます。私たちの食事も「ケ」といいます。朝食はアサケ、昼食はヒルケ、夕食はユウケといいましたが、現在はアサゲ、ヒルゲ、ユウゲと濁って発音しています。
歳神に供える神饌:屋内飾りとしては「蓬莱飾り」が代表的なもので
コンブ、ホンダワラ、ダイダイ、キンカン、串柿、搗栗(かちぐり)、伊勢エビ、タイ、打鮑、干しカズノコ、ゴマメ、黒豆、梅干し、大根などの食品の他、ウラジロ、ユズリハ、ヤブコウジ、根引き松など
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15 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:37:26
ID:a11cb41c3d
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庶民の間に普及した「ふくさ料理」といわれる膳組
一汁三菜による本膳の組み方は、膳の左手前が飯椀、右手前が汁碗(付汁、味噌汁)で、右向こうが坪(膾など)、左向こうが平(煮物)、中の木皿を中皿または中猪口といい、これには梅干しや香の物を入れるのが普通であり、古くは手塩皿でした。本膳膳組の第一の特徴は、飯が主体となり、これに付汁を添えることです。付汁は味噌汁で、飯に付ける汁という意味です。「おつけ」ともいい、女房ことばで「御御御付汁」と丁寧なことばになります
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16 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:41:41
ID:a11cb41c3d
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愛知県の「コノワタ」、岐阜県の「ウルカ」、そして三重県の「アワビ」と、この東海三県は古代の″三大珍味″が、それぞれに発祥した土地
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17 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:44:32
ID:a11cb41c3d
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長良川の「ウルカ」
「ウルカ」には、つぎの四種ある。
しぶウルカ……若アユの内臓だけで作ったもの。
子ウルカ……卵巣だけで塩蔵したもの。
白ウルカ……オスの白子だけで作ったもの。
切り込みウルカ……アユの骨を抜いて頭と尾を除き、内臓といっしょに身を刻んで塩蔵し熟成させる
鮎のつくだ煮や鮨もある
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18 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:54:53
ID:a11cb41c3d
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延喜式や奈良時代の木簡には「鮫楚割」というのがあり、これが現在の「サメのタレ」にあたる。「楚割(すわやり)」とは魚の身を細長く切り、「楚」=「木の枝」のごとくして塩漬け、干したもの。これが中世には「たれ」となる。またこのサメの干物は伊勢神宮、香取神宮、津島神社などの神饌でもある。神饌としての「たれ」は「楚」すなわち木の枝のように細長くするのではなく、塩漬けのサメ肉を長方形に切り、干すもの
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19 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 14:57:18
ID:a11cb41c3d
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風土記
常陸(ひたち)の国
ノリ浜で紫菜(むらさきのり)を干していた
海苔も神饌?
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20 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 15:48:35
ID:a11cb41c3d
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郷土史家の澤村経夫さんの「熊野の謎と伝説」
「大国魂神社の主神は、大国主命である。出雲の国造の統治権を継承する火鑽(ヒキ)りの神事は、大国主命を祀っている出雲大社ではおこなわれず、不思議なことに島根県八束郡八雲町にある熊野神社でおこなわれた。出雲族の最高神は、大国主命ではなく、熊野大神であった。大国魂神社の鴉団扇と、熊野三山の鴉のいずれも熊野大神に源を発することに気づかれるだろう」
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21 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 16:06:42
ID:a11cb41c3d
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島根県八束郡八雲町にある熊野神社
祭神
神祖熊野大神櫛御気野命
摂社
稲田神社「奇稻田姫命 配 脚摩乳命、手摩乳命、少彦名命、武御名方神」
伊邪那美神社「主 伊邪那美命 合 磐坂日子命、埴山姫命、 稚産靈命、天兒屋根命、猿田彦命、天宇受賣命、五十猛命、麓山祇命、爾保都比賣命、 山雷神、速玉之男命、天照大神、月夜見命、天熊人、保食命、事解男命、速玉之男命、 岐神、長道磐神、煩神、開囓神、道敷神、八雷神、菊利姫命、泉守道命、須佐之男命、 大山祇命、大國主命、蛭子命、足仲彦尊、氣長足姫尊、譽田別尊
五十猛命と爾保都比賣命が合祀されている。
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22 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 16:07:10
ID:a11cb41c3d
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揖夜神社(いや)
島根県八束郡東出雲町揖屋
祭神
伊弉冉命、大己貴命、少彦名命、事代主命
摂社
韓國伊太氏神社「素盞嗚命」五十猛命である。
三穂津姫神社「三穗津姫命」
恵比須神社「事代主命」
稲荷神社「倉稻魂命」
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23 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 16:10:03
ID:a11cb41c3d
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揖夜神社:『日本書紀』斉明天皇五年の条に出てくる言屋社とされる
延喜式神名帳に揖夜神社[イフヤ]同社坐韓國伊太氏神社[・・カラクニイタテ]と記載されている
千家俊信の考証で、伊太氏神をして五十猛神、伊太祁曽神とされ、大方の支持を得た定説となっている。 定説に従えば、揖夜神社の同社の祭神が素盞嗚尊となっているが、五十猛命として差し支えはない?
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24 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 16:12:54
ID:a11cb41c3d
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出雲と韓国との交流は深い。紀の一書には素盞嗚尊・五十猛命が往来されたとあり、『出雲国風土記』には新羅の一部を引いたという国引きの話がある。
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25 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 16:15:56
ID:a11cb41c3d
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阿波の山奥の祖谷、紀州熊野については、御坊市に熊野神社と書いて「イヤ」と読む神社が鎮座する。 この熊野神社の由緒は、往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当社に熊野神が一時留まりませる」ということが創祀説話になっている。
日本書紀の一書の伝えに、須佐之男の命が鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。
用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛,大屋都比売,都麻都比売の三柱の神がよく木種を播いた。
御子達は、父神須佐之男の命と共に、韓国の曽尸茂梨(そしもり)に天降り、その地には木種を蒔かず、これを持って日本に帰り、木種を蒔いて、最後に紀の国に赴いたと伝えられている。
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26 :
名無しさん@chs
2007/06/12(火) 16:19:24
ID:a11cb41c3d
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阿須伎神社
主祭神 阿遅須伎高日子根命は大国主命の長男神にして、かってはこの地に阿須伎神社と称する同名の社が、出雲国風土記に38社、延喜式(905)に11社もある、かっては著名な神社であったが現在は同名の社は当社を遺すのみである。出雲大社の攝社として10月10日の例祭には出雲大社の宮司の名代が献幣使として参向する。
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27 :
名無しさん@chs
2007/06/13(水) 10:54:01
ID:ee384b5567
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恩智字向谷の安養寺の裏山、字垣内山と称する所から、大正10年7月に採土中、高さ45cmの銅鐸が発見された。これは流水文で下端に鋸歯状の紋帯があり、その下の一方はには、他面には鹿の図が浮彫りされている珍しい文様のものである。
またその後昭和24年1月には、その山の頂上付近で、開墾中に高さ39.5cmの銅鐸が出土した。これは袈裟襷文で、前の発見のものと相対するものと思われる
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28 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:19:45
ID:02e9d4195b
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スサノオは,周りの人々に推されて出雲国を建国し,国王となった。大原郡大東町の須我神社の地で政務を司った。須我神社は日本初之宮と伝えられており、日本で最初の宮跡といわれる
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29 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:22:11
ID:02e9d4195b
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対馬はスサノオが開祖で代々スサノオの子孫が対馬を統治しているとされている。
対馬の最北端には嶋頭神社(那祖師神社に合祀)があり,この地は,その昔スサノオが韓地ソシモリにわたったときの行宮の足跡といわれている。また、那祖師神社の伝承では素盞嗚尊は三韓経営のため対馬と朝鮮半島を往復した、とある。スサノオの朝鮮半島訪問は1回ではなく複数回に及んだものと推定される。そして,神話では,朝鮮半島に渡ったスサノオは全国に木の種を配って回ったとされている。
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30 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:22:41
ID:02e9d4195b
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。「尾張名所図絵」等の資料によると,愛知県の津島神社の創始について,
「朝鮮半島に祭られていた素盞嗚尊の御魂が,七代孝霊天皇の時に,西海の対馬に遷された。」とある。
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31 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:24:33
ID:02e9d4195b
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日本書紀一書(第四)
「素盞嗚尊の行いはひどいものであった。そこで、神々が、千座の置戸の罪を科せられて追放された。 この時素盞嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨(ソシモリ)の所においでになった。そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ。」と。 ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。」
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32 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:25:53
ID:02e9d4195b
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スサノオは,五十猛と抓津姫,大屋津姫を引き連れ,朝鮮半島に渡った。日本列島への帰還は,対馬−壱岐の伊宅郷−筑紫−長門の須佐−岩見の神主−温泉津−仁摩の韓島を経て五十猛町の韓浦に上陸した,と伝えられている。
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33 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:27:50
ID:02e9d4195b
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玄海灘の対馬には、阿麻テ留(あまてる)神社があり、その祭神は天日神(ひにみたま)命(阿麻テ留は天照ことで、本来この地方の天照神だったようです。『対馬神社誌』には照日神=テルヒノカミとも称したとしています。海人族の奉じた天照国照彦火明命であったようです)です。
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34 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:33:24
ID:02e9d4195b
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。『延喜式』には対馬の「阿麻氐留(アマテル)神社」、播磨の「粒坐天照」(イイボニアマテル)神社」丹波の「天照玉命(アマテルミタマノミコト)神社」などの「アマテル」の読みを持つ神社が見られる。
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35 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:36:41
ID:02e9d4195b
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「吉蘇志略」というむかしの地誌の記載です。
恵那山の北のふもとに、河の中に浴槽みたいな形をした岩があります。
そこの住人が云うには、
天照大神が生誕されたときに産湯を使った場所だというのですね。
また、天照大神の胞衣を山に貯蔵したので、
恵那山(えなさん)というようになったと。
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36 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:38:17
ID:02e9d4195b
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神代のころ、伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の大神から生まれた天照大神(アマテラスオオミカミ)の胞衣(エナ、へその緒)を洗い清めてこの地に納めたというものです。そのエナが山名の語源ですが、恵那山という山名になったのは、江戸時代中期以降であるともいいます。へその緒を切ったとされる鎌は、恵那神社の社宝となっています。山上には、伊邪那岐、伊邪那美の2神を祭った奥宮本社と、それを守る6つの社があります。その6つの社は、一言主大神(ヒトコトヌシオオカミ)、木花咲開姫大神(コノハナサクヤヒメオオカミ)、速玉男命(ハヤタマオノミコト)、天照大神・豊受姫大神(アマテラスオオミカミ・トヨウケヒメオオカミ)、天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)、猿田彦大神(サルタヒコオオカミ)です
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37 :
名無しさん@chs
2007/06/14(木) 13:46:05
ID:02e9d4195b
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5世紀の初め頃、両面宿儺(しゅくな)が山頂小池の神龍が村人に危害を加えるので退治し、寺を建てたのが始まりという。小池は雨乞いの池であった。鎌倉時代干ばつが続き北条政子の夢の中にこの神龍が現れ、「日龍峰寺の池に法華経を書写供養して納めよ」とお告げがあった。政子は七堂伽藍を寄進し祈願した。
この両面宿儺という怪人については、 4世紀頃飛騨・美濃を我が物顔に荒らしていたので、朝廷が討伐したことになっている。しかし飛騨では英雄で、丹生川村の千光寺は両面宿儺が開いたとされ彼の像があり、宿儺の洞窟は町の文化財という。当時のこの地方の実力者であったのだろう。
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38 :
名無しさん@chs
2007/06/20(水) 12:59:13
ID:b25b820547
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山陰の出雲国の出雲大社が海岸に近い杵築に建てられる以前、出雲国造は山裾の意宇にいて熊野神を祭っていました。これが紀伊国の熊野から出雲国へ追われたのか、あるいは紀伊の熊野社は出雲から進出してきたのか、何ともいえない。
いずれにしても大国魂神社の「からすうちわ」は、古代まで翻って熊野と出雲へ関わる可能性を秘めています
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39 :
名無しさん@chs
2007/06/20(水) 13:01:35
ID:b25b820547
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小野神社の祭神は天下春命・瀬織津比[口羊]という、近江国に本拠があって、小野妹子や篁を出した小野氏の氏神の小野神社と同じであることから、小野氏が武蔵国司として下向したとき以来と考えられます。
延喜19年(919) 武蔵守の高向利春が武蔵国前権介源仕に国府を襲われており、小野氏系図によると利春は小野篁の曾孫で、はじめ小野氏の人とされています。さらに翻れば、貞観六年(846) 小野春風が武蔵介任じられていますが、これは赴任したかどうか分からない。
いずれにしても武蔵国と小野氏との関係は少なからずあり、小野氏の子孫と称するのが府中から都下八王子の横山町に勢力のあった、武蔵七党の横山党でした。
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40 :
名無しさん@chs
2007/06/20(水) 13:02:42
ID:b25b820547
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武蔵国内の各地にあって府中に勧請された六社とは、以下の通りです。
小野神社(府中市・多摩市) 小河神社(都下あきるの市) 氷川神社(埼玉県大宮市) 秩父神社(埼玉県秩父市) 金佐奈神社(埼玉県児玉) 杉山神社(神奈川県横浜市) これによると地元の小野神社を一宮として北は埼玉県秩父市、西は神奈川県横浜市まで武蔵国に入っていたことが分かります。
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41 :
名無しさん@chs
2007/06/20(水) 13:10:06
ID:b25b820547
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出雲大社の創建は何時かと考える手掛かりとしては、まず斉明紀五年の記事の「この歳、出雲国造 名をもらせり。に命じて、神の宮を修り厳ヨソはしむ」とあります
それにこの記事はつづけて「狐、於友(意宇)郡の役丁の執れる葛の末を噛ひ断ちて去りぬ。又、狗、死人の手臂タダムキ を言屋社に噛ひ置けり」とあって、意宇郡の熊野神社の記事とみなされ、出雲郡杵築の出雲大社ではないことになります。
肝心の出雲国造は、当時はまだ意宇郡に居たことがわかっています。出雲国造が意宇郡大領を兼任して出雲郡の杵築へ移住したのは、文武朝の慶雲三年(706) の26世出雲国造兼連のときでした。出雲国造が兼任した意宇郡大領を解かれたのは、桓武朝になってからですから、約九十年後のことです。まして出雲国造のいない出雲郡の杵築に出雲大社が創建されることは有り得ませんから、それはは出雲国造が杵築へ移住した文武朝以降としなければなりません。
大宝律令の施行にともなって文武慶雲三年(706) 出雲国では評制から郡制にきりかえられ、それまで各評を統括していた出雲国造は、一つの意宇郡司に引き下げられたのです。一方、出雲国造がお意宇郡大領をこの年から兼任したことは、26世出雲国造兼連のときであった
中央から派遣された貴族の出雲国司、正五位下忌部宿禰子首が着任したのは、それから二年後の元明女帝和銅元年(708) はじめでした
忌部宿禰子首は元は忌部首の姓で、子人、子麻呂とも名乗り、随分低い位置にあったらしく、同族の弟の色沸と一緒に壬申乱に大海人皇子側について参戦し、古京の守備についていました。
太田亮は同書から判断して、排仏運動に敗れた中臣氏に代わって神祀の司にのし上がったとしています。つまり、蘇我氏が屯宅支配によって朝廷の財務を握って勢力を延ばしたように、忌部氏は神祀の道具等を管理する役目として隠然たる力を所持するにいるのに至ったのではないか、ということ
天武紀十年(681) になると忌部連子首は「帝紀、上古の諸事制定」チームに参加を命じられていますから、要するに『日本書紀』編纂委員会に参加したことになります。そして十三年(684) 末に八色姓制定に伴い、忌部宿禰を賜姓しました。
次に、持統紀四年(690) の持統即位に際し、弟の忌部宿禰色夫知は、神祗伯の中臣朝臣大嶋が天神壽を読んだ後、神爾の剣・鏡を皇后に奏上していますが、この日、中臣氏に追い抜かれたようです。
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42 :
名無しさん@chs
2007/10/24(水) 16:03:12
ID:1282ec5e8d
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丹生都比売は天照大神の妹神とされ、またタカオカミやクラオカミ、そしてミズハノメもイザナギ、イザナミの御子神として「天つ神」に格上げされている。海人族の祖神といわれる表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神、応神天皇を主祭神とする八幡神も同様の天つ神といえる。
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43 :
名無しさん@chs
2007/10/29(月) 18:12:44
ID:734630ba11
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恵那神社
恵那山の山上には、伊邪那岐、伊邪那美の2神を祭った奥宮本社と、それを守る6つの社があります。
その6つの社は、一言主大神(ヒトコトヌシオオカミ)、木花咲開姫大神(コノハナサクヤヒメオオカミ)、速玉男命(ハヤタマオノミコト)、天照大神・豊受姫大神(アマテラスオオミカミ・トヨウケヒメオオカミ)、天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)、猿田彦大神(サルタヒコオオカミ)です。山頂付近のヒノキは、伊勢神宮の社材として21年ごとに奉納されていたこともありました。
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44 :
名無しさん@chs
2007/10/30(火) 14:39:04
ID:ff047a4158
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熊野神社
群馬県太田市強戸
祭神
主神 櫛御氣野命、五十猛命、大屋槌命、抓津姫命
主祭神の櫛御氣野命はまた家津美御子命との記され、 食物を司る神とされている。素盞嗚尊の別名とされている。
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45 :
名無しさん@chs
2007/10/30(火) 14:43:45
ID:ff047a4158
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出雲國造神賀詞いずもこくそうかむよごと
八十日やそかひは在あれども,今日けふの生いく日 ひの足たる日ひに出雲國いずものくにの國造姓名くにのみやつこかばねな,恐かしこみ恐かしこみも申まをし賜たまはく,
掛かけまくも恐かしこき明御神あきつかみと大八嶋おほやしまの國知くにしろしめす天皇命すめらみことの大御世おほみよを手長たながの大御世おほみよと齋いはふと為して,
出雲國いずものくにの青垣山あをがきやまの内うち に,下したつ石根いはねに宮柱太知みやばしらふとしり立たて,
高天原たかまのはらに千木高知ちぎたかしり坐います伊射那伎いざなぎの日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御氣野命國作ひまなごかぶろきくまぬのおほかみくしみけぬのみことくにつくり坐まし,
大穴持命おほなもちのみこと,二柱ふたはしらの神かみを始はじめて,百八十六社ももやそまりむつのやしろに坐ます皇神達すめかみたちを,某甲それがしが弱肩よわかたに太襷取ふとたすきとり掛かけて,
伊都幣いつぬさの緒結をむすび,天あめの美賀秘冠みかげかがふりて,伊豆いつの真屋まやに麁草あらくさを伊豆いつの席むしろと苅かり敷しきて,
伊都閉黒いつへくろまし,天あめの嚴和みかわに齋いみこもりて,志都宮しづみやに忌いはひ靜しづめ仕つかへ奉まつりて,
朝日あさひの豐榮登とよさかのぼりに伊波比いはひの返事かへりごとの神賀吉詞かむほぎのよごとを奏まをし賜たまはくと奏まをす.
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46 :
名無しさん@chs
2007/10/30(火) 14:46:15
ID:ff047a4158
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『延喜式』をみると、神名帳の意宇郡四十八座のなかに、この熊野大社と同じ祭神の社が少なくとももう一座はあったことに気付く。『延喜式』に収める「出雲國造神賀詞」には「伊射奈伎乃日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野神命」とあって、クシミケノすなわち「霊妙なる御食つ神」という意味の神名が明記されている。さらに冒頭の熊野坐神社から数えて三十一番目に「山狭神社」とあり、その次に「同社坐久志美気濃神社」とある。これらは風土記の在神祇官社「夜麻佐神」二社に相当するものであるが、風土記ではこれがまだ合祀の形にはなっておらず、一つは冒頭の熊野大社の次に掲げられ、一つは冒頭から十二番目に掲げられている。そのいずれが『延喜式』における「山狭神社」につながり、いずれが「同社坐」のほうにつながるかは明かではないが、いずれにしてもその鎮座地がともに現在の能義郡広瀬町山佐地区であったことは社名からして疑いない。
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47 :
名無しさん@chs
2007/10/30(火) 14:47:09
ID:ff047a4158
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『令義解』に天神・地祇の説明として「天神とは伊勢・山城鴨・住吉・出雲國造が斎く神等の類是れぞ、地祇とは大神・大倭・葛城鴨・出雲大汝神等の類是れぞ」とある。つまり、出雲國造が斎く熊野大神は伊弉諾の真名子であり天つ神であるが、出雲大汝神のほうは国土開発の祖神ではあっても、宮廷とは系譜を異にする地方神だというわけである
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48 :
名無しさん@chs
2007/11/12(月) 14:34:04
ID:fa79f09ace
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奥ノ院は開祖弘法大師空海をまつってあります。参道は杉や
ヒノキがうっそうと茂る石畳で、大小さまざまな石塔や鳥居がならんでいます。
古いのは平安時代997年の多田満仲の墓をはじめ、上杉謙信、武田信玄・勝
頼父子、とくに興味を引くのは当地を攻略した織田信長や明智光秀などの墓石
もならんでいる。
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49 :
名無しさん@chs
2007/11/21(水) 14:08:52
ID:f75aee3c57
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熊野三神の中心である本宮大社の祭神
「スサノオ」か?
「ケツミノミコト」とされていますが、これは出雲熊野大社の祭神「クマノノオオカミクシミケノミコト」と同一
「紀伊続風土記」には、
沢山の木を植えた「クマノクシミタマミケヌノミコト」
という
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50 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 21:34:00
ID:a4d1321a83
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10月10日から17日まで一週間、「出雲大社上宮」で、大国主尊を中心に、
集まった神様の会議が行われ、
その後、松江北方の「佐太神社」で、佐太大神(猿田彦大神)主催の宴会が行われ、
26日には斐伊川河畔の、「万九千社」から各地に戻られます。
唯一、諏訪大神だけは、出雲に来られません。
出雲地方の人たちは、この間、御忌みに入ります
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51 :
名無しさん@chs
2007/11/26(月) 15:37:37
ID:7488b1b981
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善通寺から車で10分ほど行った所にある弥谷寺(いやだにじ、香川県三豊市[旧三野町])。
貴弥谷(きねがたに)社
三重県南牟婁郡鵜殿村貴祢谷(矢渕中学校裏)
御由緒
神代の頃に新宮の神倉山にお降りになった熊野神が約2500年前にここにお移りになり始めは速玉大神、夫須美大神、家津御子大神の三柱の神を二つの社殿に祀り約2000年前に石渕の祭神の内 家津御子大神が本宮へ移られ約1900年前に石渕の熊野神が新宮へお移りになった。この時に鵜殿諸手船(もろたぶね)神船を先導し奉ったことが伝えられている(熊野権現御垂迹縁起、帝王編年記、扶桑略記)
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52 :
名無しさん@chs
2007/11/26(月) 15:39:38
ID:7488b1b981
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御坊市には熊野(いや)神社が鎮座、由緒には、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、当社に熊野神が一時留まりませる」とある。 「いや」と読ませて、伊射那美神であるので、揖屋神社も同じ系統かも知れないし、また阿波の祖谷(いや)の入り口にも延喜式の伊射奈美神社[イサナミ](現在の高越神社か)が鎮座している。
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53 :
名無しさん@chs
2007/11/28(水) 13:37:32
ID:8d3cb06aa7
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弥彦神社 やひこじんじゃ. 古くから「おやひこさま」と呼ばれ、信仰される神社。「神の山」弥彦山の東麓に鎮座する。開創は711年。現在の社殿は1916年に再建された。越の国に農業や漁業をもたらした天香具山命を祀る。(弥彦村).
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54 :
名無しさん@chs
2007/11/28(水) 13:41:48
ID:8d3cb06aa7
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石見国一ノ宮 物部神社
境外摂社. 漢女神社, 栲幡千々姫命・市杵島姫神・抓津姫命. 伊夜彦神社, 天香具山命
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55 :
名無しさん@chs
2011/09/16(金) 15:58:47
ID:taBL/2iA
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>>1
御坊市の熊野神社の熊野というのは、今月初旬の台風12号豪雨で
被災し、堰きとめ湖ができた紀伊半島の熊野地区のことですね?
【速報】和歌山熊野の土砂ダム10ミリの雨で満水→11ミリ降水
//hatsukari.2ch.net/test/read.cgi/news/1316153492/