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饂飩(うどん)の起源に2説あり

1 : 名無しさん@chs    2007/04/16(月) 18:15:26   ID:c893d1b20e 
日本へ麺が伝わったのは8世紀頃に中国からと言われており当時の古文書に「索餅」「麦縄」など麺を表す言葉が出てきますが、製法が異なりそうめんの源流である手延べ製法でした。切り麺を日本で最初に広めたのは西暦1242年に博多に承天寺を開いた聖一国師により水磨による製粉技術とともに伝えられたとされる「博多説」と西暦804年に唐(現在の中国西安)へ渡った真言宗の宗祖、空海が生誕地の讃岐にうどんを伝えたという「讃岐説」があります。当時饂飩は貴族の口にしか入らず室町時代頃から庶民に普及します。その作り方から初めは「混飩」と呼ばれ次第に「食饂」と名付けられて「饂飩」となり「うどん」と呼ばれるようになりました

34 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 18:45:20   ID:a5715762bb 
うどんの起源は唐菓子の一種の饂飩であり、奈良時代に唐(中国)から伝えられたとする饂飩説が流布されていた。しかし、すでに平安時代の辞書に饂飩は中国料理のワンタンに近いものと書かれており、うどんとの直接的な関係はないというのが、現在の定説である

35 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 18:46:15   ID:a5715762bb 
うどんという言葉の初出は奈良・法隆寺の記録である『嘉元記』(正平7・1352年)。酒の肴として、たけのこ、麩とともに「ウトム」が出されたという記述である。もちろん、このウトムという表記だけでは、これがうどんだったと断定するわけにはいかないが、当時「うとん」と発音した可能性は高い。時代は下るが、『本朝食鑑』(元禄10年・1697年刊)などは、温飩と書いて「宇止牟(ウトム)」と訓じている。

36 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 18:54:39   ID:9e91169ef3 
膳夫経手録・中国食物史・索餅 856年
不飩(フト・わがほうとうの類)には薄くのばした細粟のもの、帯のようで長いもの、───切麺筋(日本の尋常のうどんと思われるが、麺筋=小麦粉のうち麩成分をさす)───などと種類は多いが、みな不飩の仲間だ。生羊肉を碗におき、不飩で覆い、五味の汁をかけ、椒酥を和えたものを鶻突不飩という。冷陶といい、索餅といい、幹切という。みな不飩の法と同じ。


37 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 18:54:46   ID:9e91169ef3 
延喜式・巻三十三・大膳下・年料 索餅料 原材料の小麦と米粉(小麦三十石 粉米九石)は、搗臼(臼一腰・杵二枚)で搗き、ふるいにかけて粉とする。湯を沸かし、塩(紀伊塩二石七斗)を溶かしこむ。小麦粉と米粉を臼に入れて混合し、さきほどの塩湯を注ぎ入れて練り合わせる。さめぬうちに調理台の上で押し広め、これを包丁(刀子四枚)で細長く切る。これを竹(竹百五十株)に掛け、乾燥し、乾いた索餅は、籠(乾索餅籠十六口)に取り入れて保存する。前掛・白衣・シタミ。(ふりざる、上げざるにつかうざるなど有り、これらの調理責任者は高橋氏である)

38 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 18:56:37   ID:9e91169ef3 
麦作奨励作 766
類聚三代格・巻九 五回目の麦作命令発布・大納言正三位吉備朝臣真吉備、大小麦の作付けに当たり、国群司を一名選び、管理責任者とし、その報告を計帳使の上司、最高地方官の朝集使に報告させる事とした


39 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 18:58:42   ID:9e91169ef3 
索麺 1206 頃 家必要事類全集 索麺 良質の小麦粉を用いる。春夏秋は新しい汲み水を使う。水に油と塩を入れ、小麦粉に混ぜてこねる。さらに油を加えながらねる。そして太目の箸ほどに引き伸ばす。何本も同じ長さに作る。太い細いのないようにする。一本ずつたるみのないように置き、油紙をかけておく。しばらくして、二本の箸棒に、これを一本ずつからませて、さらに細く長く引き伸ばす。そして乾燥させる。

40 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 19:00:02   ID:9e91169ef3 
うどんの初記録であると思われる文献『嘉元記』の1 352年5月10日の記述に、「─。三肴毛立タカンナ、ウトム、フ、─。」とある。この文章の訳は「酒の肴に、竹の子( タカンナ)、うどん、麩」であるが、うどんが南北朝時代に酒の肴になるほど広まっているのと同時に、うどんを「温どん」などとは言っていない証拠である

41 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 19:01:42   ID:9e91169ef3 
嘉元記 三肴・毛立・タカンナ・ウトム・フ・サウメン・一折敷・数六・粽。ムキ粽一杯・アメ一杯・ワリコ・ヒワ一フサ・白瓜少々・ハイ少々。

42 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 19:03:14   ID:a7c0f0a8ab 
コントン 1206 頃 居家必要事類全集 コントン(こんとん) 小麦粉を円錐でねり、小さな団子にし、棒で円く押し広める。まわりをごく薄くして、中に餡を入れ、まわりに水をつけてはり合わせる。

43 : 名無しさん@chs    2008/01/12(土) 19:13:24   ID:a7c0f0a8ab 
唐代揚華の『膳夫経手録』 索餅 856年

大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。

空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。




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