八尺瓊勾玉
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1 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:29:02
ID:73754cf824
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八咫鏡と八尺瓊勾玉は伊勢神宮、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉られている
大きな勾玉とも、長い緒に繋いだ勾玉ともされる。「さか」は尺の字が宛てられているが本来は上代の長さの単位の咫(あた)のことである
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2 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:30:09
ID:73754cf824
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玉祖命
玉造部(たまつくりべ)の祖神とされる。古事記にのみ登場する
岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作った。天孫降臨の際ニニギに附き従って天降るよう命じられ、天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、天宇受売命(あめのうずめ)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人として随伴した。
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3 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:30:46
ID:73754cf824
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日本書紀の岩戸隠れの段では、八尺瓊勾玉を作ったのは「玉造部の遠祖・豊玉神(とよたまのかみ)」(第二の一書)、「玉作の遠祖、伊弉諾尊の児・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)」(第三の一書)としている。どちらも玉造部の祖としていることから玉祖命と同神と考えられる。
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4 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:32:08
ID:73754cf824
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玉祖神社
大阪府八尾市神立
八尾市東部・高安地区(高安郡13ヶ村)の氏神である。高安大明神ともいう
710年(和銅3年)、周防国の玉祖神社から分霊を勧請したもので、その際、住吉津から上陸し、恩智神社に泊まった後、現在地に祀られたとされている
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5 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:36:03
ID:73754cf824
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周防國佐波郡 玉祖神社
社名は、通常「たまのおや」と呼ぶが、「たまのや」「たまそ」「たまつ」と呼ばれる場合もある
延喜式に「玉祖神社二座」とあり、一座は玉祖命。
もう一座は現在未詳とされ、定説がない。
古来、天鏡命、天日神とし、八咫鏡であるといい、
あるいはそれを御霊代とする日神(天照大神)ではないかともいう。
玉祖命は、玉造連の祖神。
櫛明玉命・羽明玉命・豊玉命・玉屋命とも称する
神紋は、亀甲紋様の周りに曲玉を3つ
玉祖神社由緒
周防国一ノ宮として由緒深く、御祭神は三種の神器の一つである八坂瓊曲玉を造られた玉祖命であります。玉祖命は五伴緒神の一柱として中国地方を治められ、ここ大崎の地で歿せられたと伝えられ社殿の北、約五百米にある玉岩窟(たまのいわや)はその墓所と云われています。 神社の創建はあまりにも古く定かではありませんが、景行天皇十二年西征にあたって戦勝祈願のため宝剣を奉納されたものが今も御神宝として伝わっております。
仲哀天皇・神功皇后も西征の折ご参拝になり。今の佐野焼の始祖と云われる沢田の長に三足の土鼎と盎を作らせ米を炊き捧げられ、また軍の吉凶を占われたことに起因すると云う占手神事も昔ながらに伝えられ厳かに執行さされております。
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6 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:38:05
ID:73754cf824
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天平十年(七三八)の周防国正税帳に祢奇(祢宜)玉造部五百背の名が、 更に長徳四年(九九八)今昔物語巻十七に宮司玉祖惟高の名が見える。
社記には景行天皇十二年(八二)筑紫行幸の砌、周防裟婆(さば)に行在所を設けら れたのが玉祖神社北方の宮城の森であると伝え、その節剣を奉納されたが、今御殿奥 深くに宝剣として奉安されている。また、仲哀天皇・神功皇后西征の折も寄江(より え・神社の西南)という浜に着船、高田の土を以て沢田長(佐野焼陶工の始祖)に三 足の土鼎(なべ)とHIRAKA(はち)を作らせ、神供を備えて軍の吉凶を卜された。こ れが今も伝わる占手神事の起源である
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7 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:39:29
ID:73754cf824
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釣垂神事(つりたれのしんじ)
大祭の前日、神職が田島浦(防府市中浦)へ出向し、海辺に神籬を差立て、神饌のほ かに釣具などを供え、中浦漁業組合の人等が参列して、神事の由ならびに豊漁海上安 全の祈願祭典を執行する。後に組合員が出漁して獲た魚を、大祭当日本社へ持参し神 饌として奉献する。
当社の古記録に「八月御祭礼、往古は十五日 月之出YORI於御祖神社(浜宮御祖神社 )舞楽始り 亦釣垂之遊有り 釣舟田島浦より船三艘を奉例なり 社官鮮魚を釣て奉 供 是当社釣垂之神OTOと申伝候。右比釣舟いつとなく中絶 其船之代りに田島より 御祭礼之時に加輿丁相勤来り候・・・・」とあり、往昔の神事の様子を知ることが出来る。
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8 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:40:37
ID:73754cf824
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天然記念物 日本鶏 黒柏(くろかしわ)
山口県と島根県の一帯にわずかに飼育されている貴重な日本鶏。昭和二十六年六 月九日文化財保護委員会より天然記念物の指定を受けた。羽毛は金属光沢を持つ緑紫 黒色。小国系統の長尾鶏、長鳴鶏。
社伝では天照大神の天の岩戸隠の時、常世長鳴鶏を集めて鳴かせたのがこの黒柏で、 その後玉祖命がこの鶏をつれて、ここ大崎の地に留まられたという。
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9 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:45:49
ID:73754cf824
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占手相撲
社伝によると仲哀(ちゅうあい)天皇が、神功(じんぐう)皇后とともに九州の熊襲(くまそ)に攻めた際に、軍(いくさ)の吉凶を占ったのが始まりとされる。毎年旧暦8月15日(現在は9月25日に近い日曜日)の例祭の前夜に行われ、以前は真夜中に執行していたので「夜の神事」とも、また、その形が相撲に似ているため、「占手相撲」とも呼ばれる。
裸体に羽二重(はぶたえ)の褌(ふんどし)を締めた2名の行事所役(ぎょうじしょやく)が前後左右に進退し、相撲の様な動作を行い、北面して鬨(とき)の声を挙げて退出する。神事の古式の習俗をよく伝え呪術的儀礼に富んでいる。
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10 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 11:50:10
ID:73754cf824
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裃を着用した首座が判土をつとめ、軍士と呼ばれる行事所役二人が裸体に白の褌をしめ、東西に分かれて着座、相撲の蹲踞に似た姿勢で両手を腰の上部につけ、右左右、左右左と両脚をくの字型に折り曲げながら進み出て、行き合うと各人の手のひらを見せ、己の腰を叩く。
三回くりかえして一回の行事が終わり、これを都合三度行う。
最後の段階で軍士は掌を組み合い、東と西が入れかわって地上を叩く。
平年はその数十二、関年は十三回叩き、叩き終わると神前に向って両手を上げ鬨の声を上げると神事が終了する。
鬨の声以外は全く無音の敬虔な神事である。
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11 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:08:00
ID:73754cf824
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古事記には天照(あまてらす)神が弟神である速須佐之男(すさのお)神との戦いに備えるさい
玉祖(たまおや)神が作った500個もの勾玉を体中に飾ったとの記述があります。
日本の硬質ヒスイは、フォッサマグナの中でも姫川(糸魚川市)付近でしか採れない
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12 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:08:23
ID:73754cf824
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長者ケ原遺跡 (新潟県糸魚川市)
昭和29年、長者ケ原遺跡に本格的な学術調査が入った。その結果、完成品のペンダント2個を
含むヒスイの原石が250点も出土し、さらにその多くが加工途中の半製品或いは破損品である
事が判明し、長者ケ原はヒスイを中心とする一大加工場のムラであった事が判明した。
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13 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:17:52
ID:73754cf824
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弥生時代ではヒスイが上等で、メノウとか他の石もあります。
古墳時代には水晶も多い。
また砂からガラスを作る技術は古墳時代末までなかったのでガラス製勾玉もある
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14 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:19:25
ID:73754cf824
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蘇我氏は5世紀後半から6世紀前半、奈良県樫原市
の蘇我遺跡に大規模な勾玉の官営工房をもっていました。また、物部氏は
三種の神器より前からあると考えられる十種の神宝と言われる物を扱い勾玉
の使い方を伝授されていると言われています
太子の幼少時代には胸にちゃんと勾玉がついている絵がいく
つも残っているのに対し、成人になった太子には勾玉を身に付けている絵や像は何一つない
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15 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:24:17
ID:73754cf824
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出土された状態はこの様な勾玉と竹管がいくつも同じ場所にかたまってたくさんあったとの事ですから、みすまる(首飾り状のもの)であったと考えられます。
勾玉の歴史を調べると初期は頭も尾もほぼ同じ太さで、ほぼC字形
勾玉を作り出した時は、巴とは違っていた
弥生時代後期から古墳時代になると、頭の部分が大きくなってきます。
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16 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:25:45
ID:73754cf824
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スサノオの乱暴に怒ったアマテラスが天岩戸に引きこもってしまった時、世の中が真っ暗になってしまいます。そこで、神々が集まりを練り、その中の1つに玉祖命(タマノオヤ)が八尺の勾玉の五百箇(イホツ)のミスマルの珠をアマテラスへのプレゼントとして、作った
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17 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:29:33
ID:73754cf824
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紐は大麻?
大麻の用途
大相撲の化粧回しや神主さんの衣、弓の糸など神聖な物に使うのはすべて大麻なのです。
ところが敗戦後、アメリカ占領下GHQものとで1948年大麻取締法ができたのです。1950年に25118人いた大麻農家は4049.2ha、1996年には102人となり12.4haに激減していきます。現在大麻を作っている農家は、神事用の麻または、研究用のみとなっている様です。
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18 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:31:46
ID:73754cf824
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天照大御神が孫のニニギの命に「豊葦原(トヨアシハラ)の瑞穂(ミズホ)の国を治めなさい」と言いながら勾玉と剣と鏡を渡しています。こ
こでは勾玉と表現されています。これが三種の神器
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19 :
名無しさん@chs
2007/07/26(木) 13:33:40
ID:73754cf824
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崇神天皇がアマテラスの命令に背いて鏡の場所を移した理由は明らかにされていません
もう一つの神器である八尺瓊勾玉について
八尺瓊勾玉が崇神天皇を祟り、天皇の皇女ヌナキイリヒメの髪の毛がすべて抜け落ちやせ衰えてしまったという
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20 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 11:47:50
ID:8a5fe478ce
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櫛明玉神は、天明玉、豊玉、羽明玉、玉祖神などの異称をおもちになって居て、天岩戸の前で神々のお計らいで神楽を奏せられた時、真榊の枝に懸けられた八坂瓊之五百箇御統玉は此の神の御製作であった事は、古語拾遺に明記せられ、玉作部の遠祖
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21 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 11:52:22
ID:8a5fe478ce
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玉祖神社延喜式に「玉祖神社二座」とあり、一座は玉祖命。 もう一座は現在未詳とされ、定説がない。 ... 旧国幣社 玉祖神社由緒. 周防国一ノ宮として由緒深く、御祭神は三種の神器の一つである八坂瓊曲玉を造られた玉祖命であります。玉祖命は五伴緒神の一柱
勾玉紋
「二重亀甲に丸玉管玉勾玉」は、玉作湯神社の神紋。祭神櫛明玉神(玉造の祖)に由来し、付近の古墳から多く出土している。 −参拝時にうかがう−. 「曲玉組合せ」は、玉祖神社の神紋。祭神櫛明玉神(玉造の祖)に由来する。
八尾市の玉祖神社
祭神:天明玉命(櫛明玉命・くしあかるたま) 本殿:南向。妻入 千木:外削。 神紋: 場所:生駒を越えて奈良平群へ降りる峠道、十三峠への登り口の南に位置する。 略記、伝承:「式内社」。和同3(710)9月、周防国佐波郡一宮玉祖神社の分霊を勧請
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22 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 11:53:35
ID:8a5fe478ce
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玉祖神社(たまおや)
八尾市神立443番地
櫛明玉命 または 玉祖神
配祀 イザナギ命、イザナミ命、宇麻志麻治命、ほか」
摂社 吉野三十八神社「木花開耶姫命」、恩智神社「大御計都彦命、大御計都姫命」、水神社「罔象女命」、山口神社「猿田彦命」ほか
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23 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 11:55:13
ID:8a5fe478ce
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生駒山ろくの高安の神立(こうだち)に鎮座する玉祖神社は、玉作氏の祖神である玉祖命を祀る。 山ろくには古墳時代中期の前方後円墳-心合寺山(しごんじやま)古墳などのほか、碧玉や滑石などの玉作り遺跡であった高安遺跡がある。 玉祖神社は、和銅3年(710)に周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命である。『河内国高安郡玉祖大明神之縁起』によると、周防国一の宮である玉祖神社の神が一旦住吉浦へ上陸した際、鎮座の地を尋ねたところ、住吉明神は恩智の神が広大な土地を持っているので、分けてもらうように進められ、高安郡7郷のうち6郷をもらって鎮座したという
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24 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 11:58:36
ID:8a5fe478ce
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恩智神社
本殿に祀られている大御食津彦大神は天児屋根命の5世の孫、大御食津姫大神は伊勢神宮外宮の祭神である 豊受姫大神と異名同神であるとのこと。
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25 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 12:01:10
ID:8a5fe478ce
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『河内二之宮 恩智神社由緒略記』
御祭神
オオミケツヒコノオオカミ
大御食津彦大神(天児屋根の命の五世の孫)
オオミケツヒメノオオカミ
大御食津姫大神(伊勢神宮外宮の御祭神豊受姫大神異名同神)
由 緒
当神社の創建は大和時代の雄略年間(470年頃)と伝えられ、河内の国を御守護のためにお祀りされた神社で国内でも有数の古社であり、後に延喜式内名神大社に列する神社である。
「恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇三年奉二圭田一行二神事一云々」と記されている(総国風土記)奈良時代(天平宝字)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神である「天児屋根命」を常陸国「現香取神宮)より御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀年中に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀った。従って当社は元春日と呼ばれる所以である。
神功皇后が三韓征伐の際、当社の神が住吉大神と共に海路、陸路を安全に道案内し、先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により神社創建時に朝廷から七郷を賜わった。以来、朝廷からの崇敬厚く、持統天皇の元年(689)冬十月に行幸されて以来、称徳天皇(第48代)天平神護景雲二年(768)には、河内、丹後、播磨、美作、若狭の地三七戸を神封に充てられ、文徳天皇(第55代)嘉祥三年(850)10月に正三位、清和天皇(第56代)貞観元年(859)正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大明神の称号を賜り、名神大社として、延喜式、名神帳に登載される。
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26 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 12:10:09
ID:8a5fe478ce
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御食津彦は、香取神社より招いた天児屋根の命の五世の孫である。
とすれば、もっと古くからは、手力雄神であったようだ。
長谷山口神社は
大山祇大神、天手力雄神、豐受姫命
奈良県桜井市大字初瀬字手力雄4593
当社は、手力雄命を主神として大山祗命を併せ祀り、延喜式神名帳に「長谷山口神社 」と見え、神社明細帳に「祭神大山祗神、天手力雄神、豊受姫命、貞観元年正月授正 五位下」とある。
豊山玉石集には、手力雄明神、大泊瀬山の西南の尾崎にあり、延喜式神名帳に「泊瀬 山口神社という是なり」と、中世手力雄命を主神となし、大山祗命を配祀せり。 然れども、当社は六処山口社の其の一にして、即ち長谷の山霊を祭れる所なれば、も と大山祗命を以て主神となすべきなり、其の手力雄を祭り、且つ地名をも手力雄とす る由来は詳ならず、云云と記されている。
長谷寺縁起文や古文書には、此の地は古くは三神の里といい、河を神河という。表参 道朱塗の橋には神河橋と書かれている。
垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地に倭国伊豆加志本宮、また磯城厳橿の本 ともいわれ、八年間天照皇大神を斎い祀り給いし旧跡であり、当時、随神とこの地に 天手力雄神、北の山両部山中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座せられた
三神とは、
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27 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 12:27:46
ID:8a5fe478ce
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倭恩智神社
奈良県天理市海知町32
池の北の小さな社
【祭神】建凝命
『磯城郡誌』倭俺知氏の祖を祀れるもの
『大和国神社神名帳』御祭神建凝命
【由緒】創始を崇神天皇七年とする
大和国, 神別, 天孫, 奄智造, 造, 同神十四世孫建凝命之後也
古事記云、天津彦根命者、倭淹知造等之祖也。延喜式倭恩智神社あり、是は河内恩智神社と分別する為め倭字を冠する者也。
天津日子根命は、凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等が祖なり。
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28 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 12:35:55
ID:8a5fe478ce
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八柱神社−与謝郡伊根町
本社 天忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと)
天之菩卑尊(あめのほひのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
活津日子根命(かつひこねのみこと)
熊野久須毘命(くまのくすひのみこと)
市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)
多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
多寸都比賣命(たきつひめのみこと)
伊予国 浮穴郡 八柱神社
「天忍穗耳命 天穗日命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多岐津比賣命 多岐理比賣命 市杵嶋比賣命 金山彦命 天村雲命 猿田彦命 大國主命」愛媛県上浮穴郡美川村大川
五男神、三女神ともに、天の安河原で、天照大神と素盞鳴尊が誓約をしたとき生れた神々で、素盞鳴尊系とされる
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29 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 12:44:08
ID:8a5fe478ce
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旧事紀天神本紀には、天斗麻禰命あまのとまねとなっている。 天津日子根−天御影−天斗麻禰といった系譜になる
凡河内氏の祖神である天津彦根命や、児とされる天御影命
河内国魂神社: 摂津国菟原〔うはら〕郡3座の一つ。小社。現在、神戸市灘区国玉通3丁目にある通称五毛の天神社と呼ばれる神社に比定されている
この神社の森は古くから「御影の森」と呼ばれている。 摂津国西部に居住していたと考えられる凡河内氏が奉祀していた神と考えられている。凡河内氏は、本来は河内を本拠としていた豪族と考えられるが、当地方に河内国から遷し祭られたものと思われる
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30 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 12:45:54
ID:8a5fe478ce
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凡河内氏/広峯氏
神武天皇大和平定の後、天津彦根命の曾孫彦己曽根命を凡河内国造に封じるに始まる。
凡河内躬恒は三十六歌仙の一人で、古今集撰者の一人でもある。
国造家の後裔は播磨国飾磨郡広峰神社祠官家として現代に至る
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31 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 12:48:56
ID:8a5fe478ce
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天津彦根神は現在も多くの神社に祭神として祀られている。 天御影神は凡河内氏、山背国造氏の祖として播磨、但馬、丹波、近江などに祀られている。 これが海部氏の倭宿禰だとすると年代的には合ってくるから不思議である
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32 :
名無しさん@chs
2007/08/05(日) 12:50:57
ID:8a5fe478ce
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海部氏の勘注系図は初代彦火明(天照国照彦火明櫛玉饒速日尊)から、児天香語山、孫天村雲、三世孫倭宿禰と続く。
丹後海部氏の勘注系図では、三世孫倭宿禰命の注文に、 亦名天御蔭命、亦名天御蔭志楽別命 とある。天村雲命と伊加里姫の子となっている
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33 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 21:57:55
ID:a4d1321a83
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八尺瓊勾玉は由来不明ですが、
瓊は赤色を意味しますから、瑪瑙で作られた赤色の勾玉と云うことでしょう。
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34 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 21:58:51
ID:a4d1321a83
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出雲地方の伝承で、大己貴命は、その死に際して、「6尺の勾玉を抱いた姿で埋葬された」という話が残っています
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35 :
名無しさん@chs
2007/11/23(金) 22:06:10
ID:a4d1321a83
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八咫の鏡
「遠岐斯鏡」(おきしかがみ)とも云います。
「おき」と云うのは招くと云う意味で、神霊を招くという意味です
『是に其(そ)の遠岐斯(をきし=招きし)八尺(やさか)の勾タマ、鏡及草那芸剣、』
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36 :
名無しさん@chs
2007/12/14(金) 21:02:01
ID:2ffcd12387
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新潟は糸魚川
翡翠のとれる川です。姫川の辺りは、大国主命のお妃となる奴奈川比売(ヌナカワヒメ)のおさめられていた土地です。「ヌナ」という大和言葉は「玉」という意味になるのだそうです
『ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも
拾いて得し玉かも
あたらしき君が 老ゆらく惜しも』
万葉集
大国主命のお妃となる奴奈川比売
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37 :
名無しさん@chs
2007/12/14(金) 21:08:28
ID:2ffcd12387
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大国主が高志沼川姫を娶って、建御名方命を生んだらしい。
越の勾玉を抱いて葬られた大国主
諏訪神社の建御名方命も、葛城で生まれたのか???
古事記に「大巳貴神娶辺津姫生一男一女、児都味歯八重事代主神・妹高照姫命云々、次娶高志沼川姫生一男児建御名方命」
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38 :
名無しさん@chs
2007/12/14(金) 21:10:36
ID:2ffcd12387
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葛城の鴨氏の親戚が高志沼川姫と建御名方命
崇神天皇の御代大賀茂祇命に勅して初めて葛城邑賀茂の地に社をたてて祭らしめられ、加茂君の氏を賜った
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39 :
名無しさん@chs
2007/12/14(金) 22:05:31
ID:2ffcd12387
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オオクニヌシとタギリヒメの間に生まれた子はアヂスキタカヒコネ
このアヂスキタカヒコはオオクニヌシの子として出雲国風土記にも伝承が多く残ってるし
別名賀茂大神と呼ばれ全国に分布してます
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40 :
名無しさん@chs
2007/12/15(土) 10:21:05
ID:bc01342eed
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尾張国
風土記に云はく、日本武尊、東夷を征ちて當國に還り到り、帶ばせる劔を以て熱田の宮に藏(をさ)めたまひき。其の劔は、原(もと)、八岐(やまた)の巨蛇(をろち)の尾より出でたり。仍りて尾張の國と號く。
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41 :
名無しさん@chs
2007/12/15(土) 10:28:10
ID:bc01342eed
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凡海嶋と伊去奈子嶽
籠神社の海の奥宮といわれる冠島・沓島は凡海嶋(おほしあまのしま)あるいは凡海の息津嶋と海部直等氏之本紀(勘注系図)では記され、海部氏の始祖彦火明命が天降った場所とされている
彦火明命の天降り場所は、伊去奈子嶽と凡海息津嶋の二箇所があり、伊去奈子嶽については、単にそこに天降ったことが記されているのみである。凡海息津嶋への天降りは、その後由良之水門に遷り、そこで神宝辺津鏡を天香語山に授けたことが続いている。さらに続いて、彦火明命のまたの名が天照国照彦天火明命櫛玉饒速日命すなわち饒速日命で、天磐船に乗り虚空に登りて凡河内国に降り、其の後大和国登鳥見白辻山に遷って登美屋彦の妹登美屋姫を娶って可美眞手命を生み、また天翔りて丹波国に遷り凡海の息津嶋に留ったことが記されている。時代が下って、大宝元年三月の大地震で凡海嶋が海中に没し、「漸く纔かに嶋中の高山二峯立岩神と海上に出で今常世嶋と号く 又俗に男嶋女嶋と稱す 嶋毎に神祠有り 祭らるるは彦火明命と日子郎女神なり 當國風土記に在り」と記されている。大地震によって「此の嶋一夜にして蒼茫変じて海と成る」という状態になったことから、「故爾に彦火明神佐手依姫命と共に養老三己未年三月廿二日籠宮に天降り給ふ」ということになった。籠神社の社伝では、養老元年以前には彦火明命の別名とも伝えられる彦火火出見命が主神とされていたが、彦火明命が主神となり、彦火火出見命は養老年間以後境内の別宮に祭られ現在に及んでいるという。
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42 :
名無しさん@chs
2007/12/26(水) 15:46:06
ID:9a8d0b53d8
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長髄彦(古事記には一名登美毘古)の女に登美屋姫といふのが居られて饒速日命と婚せられた。姓氏録によれば鳥見姓は饒速日命の裔にて長髄彦は其の外戚に当たるのである。鳥見とは饒速日命の居られた所であらねばならぬ。
山辺郡鳥見
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43 :
名無しさん@chs
2007/12/26(水) 15:50:26
ID:9a8d0b53d8
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長髄彦の血縁者を見てみると、妹の名が、『日本書紀』では、三炊屋媛
(みかしきやひめ)、あるいは、長髄媛(ながすねびめ)、あるいは、鳥見屋媛
(とみやびめ)とあり、『古事記』には、登美屋毘売(とみやびめ)とあります
(なお、『先代旧事本紀』天孫本紀には、御炊屋姫とある)。
そして、その妹の子(父親はニギハヤヒ)の名は、『日本書紀』には可美真手
命(うましまでのみこと)、『古事記』には宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)
とあります(なお、天孫本紀には味間見命とある)。
三炊屋媛・可美真手命・宇摩志麻遅命は、地名から成り立っていませ
んので、「本名」
石切剣箭神社
石切上之宮へでる。上之宮の左手奥に石切登美霊社があり、長髄彦の妹、
饒速日の妃「三炊屋媛(みかしきや)」を祭る。
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44 :
名無しさん@chs
2007/12/26(水) 15:54:39
ID:9a8d0b53d8
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鳥見は、旧事本紀に「饒速日命、大倭国鳥見の白庭山に遷ります」とあり、文脈からして河内から降ったと見られ、現在の郡山市の西岩木町の登弥神社の地と思われる。長髓彦が鳥見彦、妹の三炊屋媛が鳥見屋媛というのはこれによる。したがって鵄に由来するという磐余の傍の「鳥見」の地は、神武以降のそれであって長髓彦とは関係がないかも知れない
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45 :
名無しさん@chs
2007/12/26(水) 15:55:26
ID:9a8d0b53d8
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上記の出所
www9.plala.or.jp/juraku/dsoki1_2.html
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46 :
名無しさん@chs
2007/12/26(水) 15:58:55
ID:9a8d0b53d8
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石切劔箭神社上の社と登美霊社
登美霊社は饒速日尊の妃で可美真手命の母君である登美夜比売(三炊屋媛)をお祀りしているが、その社殿は、前方後円墳と竪穴式住居を模しており、その造形は優美で一見の価値がある。
上の社はその登美夜比売の兄、古代生駒山麓から奈良盆地にかけて勢力を誇っていた「隠された英雄・長髄彦」を祀っていると言われている。
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47 :
名無しさん@chs
2007/12/26(水) 16:06:22
ID:9a8d0b53d8
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大田(おおだ)物部神社
ウマシマジを祀っている。
ここの社伝では、ウマシマジは神武東征にあたって神武を助け、その功績が認められてフツノミタマの剣を賜ったとある。ウマシマジはその後、天香山命(ウマシマジの腹違いの兄)とともに兵を率いて尾張・美濃・越を平定し、さらに西に進んで播磨・丹波をへて石見に入り、そこの鶴降山(つるぶせん)で国見をして、八百山が天香具山に似ていたので、そこに居を構えたというふうにある。
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48 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 13:28:27
ID:78b610f5cb
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日本神話。三種の神器の一つ。天照大神の天の岩戸隠れに際し、天布刀玉命のもつ榊に飾られたのが、この勾玉で、神璽ともいう。作者は、後に玉造連の祖神となる玉祖命(たまおやのみこと)である。天孫降臨に際し、瓊瓊杵尊に授けられ、現在は、御璽として宮中に安置されている。
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49 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 13:30:15
ID:78b610f5cb
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宮中三殿の賢所に安置され、他の2宝とは異なる扱いを受けています。
この事から、玉爾の性格を持っていると云えます。
月の象徴???
天照大神…太陽神…鏡
素盞嗚尊…武神……剣
月読尊……月神……勾玉
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50 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 13:31:16
ID:78b610f5cb
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鏡、剣、勾玉、の3種を飾るというのは、神道の習慣でもあり、
榊(さかき)の木に掛けて、神前に飾ります。
景行記や継体記では、この様な飾り方をする事が記されています。
神社の神殿には、今では鏡が必ず中心に置かれています。
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51 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 13:31:49
ID:78b610f5cb
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現在の皇室典範では皇位継承に際して、これら3種の神器を継承することが記されています。
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52 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 13:33:14
ID:78b610f5cb
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宮中にも奉安されているが、古語拾遺以降複製とされている。宮中に奉安されているものは歴史上数度の紛失、焼失などを被っている。
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53 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 17:17:05
ID:78b610f5cb
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記紀によれば第10代崇神天皇の時に神器と共に寝起きすることを畏れ多いと考えた天皇が鏡と剣を笠縫邑に移し神器を模した形代を作らしめました。そして11代垂仁天皇の時に伊勢神宮に移されさらに12代景行天皇の時に剣が日本武尊の手によって熱田神宮にうつされることになったとされています。
三種の神器は神と交流する神具であり、祭政一致のシンボル
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54 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 17:22:05
ID:78b610f5cb
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現在、天皇即位の際に使われる剣と鏡
須賀利御太刀と内侍所の御鏡
「三種の神器」という言葉が文献に初めて登場するのは「類聚神祇本源」という
南北朝時代に書かれた神道書。1320(元応2)『類聚神祇本源』で、伊勢外宮の渡会家行は、神道五部書を基礎に教義を集大成するとともに、旧事本紀を重視して、神主仏従の立場で聖徳太子を聖人視する思想を体系化します。
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55 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 17:23:07
ID:78b610f5cb
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伊勢神道においては、豊受大神を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とを同一神であるとする(「御鎮座伝記」)。天御中主神は「古事記」冒頭に出てくる神である。記紀神話においては、天御中主神は最初にひとこと出てきて後は姿を消してしまう神である。中世神話ではこの神が重要視される。その考えの先駆けとみられる記述が、渡会家行「類聚神祇本源」に引用されている「大和葛城宝山記」の「神祇」の項にある。そこでは、インド系の神である梵天(ブラフマー神)と天御中主神とが同一視されている。「類聚神祇本源」は多くの文献からの厖大な引用集であり、「大和葛城宝山記」は葛城修験系の人が書いたと考えられる書である。
もともと丹波国の食事の神だったはず豊受大神と天御中主神とを同一視???
食事の神の役割を豊受大神から切り離して、名前の似たトヨウカノメとトヨウケビメに負わせることにしている。トヨウカノメは「丹後国風土記」に出てくる天女である。伊勢神道書では、トヨウカノメは外宮の酒殿の神になっている。トヨウケビメは記紀にあらわれる穀物神で、ワクムスヒの子である。「御鎮座伝記」によれば、天照大神が丹波に滞在していたときに豊受大神が天から降りてきて、一緒に酒を飲んだことになっている。そこで、その神酒を献上するのがトヨウケビメである。
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56 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 17:33:03
ID:78b610f5cb
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鏡・玉・剣のセットが民俗祭祀に用いられたという証拠などはどこにもない。むしろ、鄭重に埋葬された
「権力者」や「豪族」と思われる弥生墳墓や古墳からこれらは出土する
「記紀」の時代においては宝物という意味では剣と鏡が中心であったようである。「神器」と言う言葉が広く定着するのは「南北朝」の頃だとも言われている。
「鏡・剣・玉」のセットもまた、王権のシンボルとして認識されてはいたのである。
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57 :
名無しさん@chs
2007/12/27(木) 17:33:57
ID:78b610f5cb
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伝承によれば、第10代崇神天皇の時代までは天照大神として宮中に祀られていた。しかし神の勢いが強く、これを恐れた天皇は代替品を造ってこれを宮中に残し、現物は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して宮中外へ運び出させやがて伊勢の地に落ち着いた。これが伊勢神宮(内宮)の起こりであり、八咫の鏡が御神体となった。(古語拾遺)
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58 :
名無しさん@chs
2010/01/12(火) 12:57:20
ID:oCK9NMfk
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『三国志』で、台与からの貢献品の中の「青大句珠」は、ヒスイ勾玉を指すと考える説も有ります。倭国の勢力が及んだ
朝鮮半島南部の、新羅・百済・任那の旧領でも、ヒスイ勾玉が大量に出土します。
ところが、次第にヒスイの利用は減っていき、天平20(748)年頃に作られた東大寺
三月堂の不空羂索観音立像が、確認されている最後の使用例です。
日本でのヒスイを指していると思われる文献と言えば、『釈日本紀』引用の、
“越後国風土記曰、八坂丹玉名、謂玉色青、故云青八坂丹玉也。”位のもので、その
後完全に忘れ去られ、昭和16(1941)年に東北大の河野義礼さんが再発見するまで、ヒスイが産出していたことは忘れ去られています。
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59 :
名無しさん@chs
2010/01/12(火) 13:00:11
ID:oCK9NMfk
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鴨都波八重事代主命神社二座<並名神大月次相嘗新嘗>
(御所村大字御所鎮座。下鴨神社と称する)
葛木坐一言主命神社<名神大月次相嘗新嘗>
(吐田郷村森脇鎮座。祭神一言主神は大穴持尊の子味耜高彦根尊)
多太神社<鍬靫>(吐田郷村多田鎮座。祭神太田田根子古命)
長柄神社<鍬靫>(吐田郷村長柄鎮座。祭神天乃八重事代主命)
鴨山口神社<大月次新嘗>(櫛羅村櫛羅鎮座)
大穴持神社(葛村朝町鎮座。祭神大己貴尊)
大倉比売神社(葛村古瀬鎮座。祭神大倉比売は下照姫の別名。大己貴尊の子)
高鴨阿治須岐詫彦根命神社四座<並名神大月次相嘗新嘗>
(葛城村神通寺鎮座。祭神は大己貴尊の子)
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60 :
名無しさん@chs
2011/09/22(木) 16:14:32
ID:Gxbf3V5I
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>>58
翡翠の大珠と言えば、越後の隣国富山県氷見市朝日貝塚から発見された
10余cm級の鰹節型のが有名ですね。
忘れ去られたのは、縄文人と違って弥生人は硬玉に関心が薄かったからなのか?