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気多大社

1 : 名無しさん@chs    2007/08/26(日) 09:46:17   ID:883ba4b5cf 
社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。崇神天皇のときに社殿が造営された。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っている。『延喜式』では名神大社に列し、能登国一宮とされた

2 : 名無しさん@chs    2007/08/26(日) 09:49:10   ID:883ba4b5cf 
平国祭(おいで祭り)(羽咋の気多大社〜七尾の気多本宮の間の道筋を神輿の行列が約280kmにわたって往復巡行)や内浦町小木の伴旗祭(大国主命が北陸平定の時、軍船に神旗を立て海上平安を祈ったという故事にもとずく祭り)など気多社の祭神・大国主命の能登平定にまつわる祭りなど

3 : 名無しさん@chs    2007/08/26(日) 09:49:39   ID:883ba4b5cf 
658年、660年と2回にわたって大和朝廷の阿倍比羅夫に率いられた討伐のための軍船が蝦夷に出兵していますが、七尾にもおそらく立ち寄り、2回目の遠征で、能登臣馬身龍(まむたつ)が戦士しています。このことから早くから大和朝廷の東北経略の基地が鹿島津(七尾)にあったことが想像できます。

4 : 名無しさん@chs    2007/08/26(日) 09:51:24   ID:883ba4b5cf 
大伴家持は富山県高岡市にあるもう一つの気多神社(祭神大己貴命・ヌナカワ姫)と羽咋市の気多大社の両方を参拝・崇敬していた

5 : 名無しさん@chs    2007/08/26(日) 09:53:25   ID:883ba4b5cf 
気多大社周辺には、大国主命にまつわる言い伝えが多く、能登の白ウサギやオロチ退治の話など出雲文化そのままが生きている

6 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:02:14   ID:fd5b5240dd 
気比神社(きび) 和歌山県紀の川市粉河町猪垣191

祭神 品陀和氣尊、高津比賣命、市杵嶋姫命、天照皇太神、建速須佐之男命


7 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:02:21   ID:fd5b5240dd 
『古事記』に、建内宿禰命、其の太子を率て、禊せむと為て、淡海及若狭国を経歴し時、高志の前の角賀に仮宮を造りて坐さしめき。爾に其地に坐す伊奢沙和気大神の命、夜の夢に見えて云りたまひしく、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し。」とのりたまひき。爾に言寿きて曰ししく、「恐し、命の随に易へ奉らむ。」とまおせば、亦其の神詔りたまひしく、「明日の旦、浜に幸でますべし。名を易へし幣献らむ。」とのりたまひき。故、其の旦浜に幸行でましし時、鼻やぶりし入鹿魚、既に一浦に依れり。是に御子、神に白さしめて云りたまひしく、「我に御食の魚給へり。」とのりたまひき。故、亦其の御名を称へて、御食津大神と号けき。故、今に気比大神と謂ふ。

8 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:02:44   ID:fd5b5240dd 
『日本書紀』によれば神功皇后が九州へ赴く前に当地に滞在していたことになっている。その御子がわざわざ服属儀礼をさせる為に赴くのはいささか不思議なとこに思える。ましてや敦賀は神功皇后の祖先とされる天日槍命と同体とされる都怒我阿羅斯等命の子孫が統治する地とされ、また都怒我阿羅斯等命を祀る摂社もあり、伊奢沙別神そのものが天日槍命のこととも云われる程親密な関係にある。

9 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:03:55   ID:fd5b5240dd 
忍熊王を祀る神社
吉備国 岡山県和気郡和気町 由加神社に忍熊王命碑。
越前国 福井県丹生郡織田町 劒神社 素盞嗚大神 (配祀)氣比大神 忍熊王。


10 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:04:56   ID:fd5b5240dd 
式内社、崇神天皇の御代、任那の王子の都怒我阿羅斯等気比の浦に上陸し貢物を奉る。
天皇気比大神宮の司祭と当国の政治を委せらる。その政所の跡に此の命を祀ったのが当神社で現在の敦賀の地名はもと『角鹿』でこの命の御名に因る


11 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:07:04   ID:fd5b5240dd 
但馬國城崎郡 氣比神社
旧村社

御祭神
五十狹沙別命 配祀 神功皇后


兵庫県豊岡市にある。
豊岡駅の北13Kmほど、

敦賀にある氣比神宮と同様に、
伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし
神功皇后を配祀する神社で、
式内社・氣比神社に比定されている古社。

一説には、神功皇后が敦賀から穴門へ向う途中
若狭、加佐、與佐、竹野の海を経て、
この地から円山川を遡り、
粟鹿大神、夜夫大神、伊豆志大神、小田井縣大神を詣でた後
一時、この地で兵食を備へたという。
ある夜、越前筍飯の宮に坐す五十狹沙別大神が
神功皇后に託宣して曰く
「船を以って海を渡らば須く住吉大神を御船に祀るべし」
神功皇后は住吉三神を船に祀り
御食を五十狹沙別大神に奉って、
この地を気比浦と称するようになったという


12 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:13:20   ID:fd5b5240dd 
吉備津彦神社
岡山市一宮

祭神
天御中主大神、高御産巣日大神、神御産巣日大神、天之常立大神、國之常立大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、天照皇大御神、月讀大神、素戔嗚大神、建日方別大神、大山津見大神、大國主大神、事代主大神、少彦名大神、宇迦之御魂大神、天津神、國津神、八百萬神、大吉備津日子大神
配祀 吉備津彦命、孝靈天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、天足彦國押人命、大倭迹迹日百襲比賣命、大倭迹迹稚屋比賣命、金山彦命、大山咋命、日子刺肩別命、龍王神


当社では古代、気比比売大神、気比大明神の名で、天照皇大御神、月讀大神、素戔嗚大神、建日方別大神をお祀りしていた
由緒書。


13 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:14:04   ID:fd5b5240dd 
丹生都比賈神社の本殿の第一殿に丹生都比賈明神、第二殿に高野御子明神、第三殿に気比明神、第四殿に厳島明神が鎮座

14 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:18:12   ID:fd5b5240dd 
建日方別命が祀られている神社を調べましたが、主祭神として祀られている神社は、岡山市の国津神社一社のみ

15 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:20:39   ID:fd5b5240dd 
日本書紀によれば、第十代崇神天皇のとき、即位十年、天皇は皇族の中から四人の将軍を選んで天下の四直に派遣して天下を鎮定せしめんとした。 北陸道には大彦命、東海道には武渟川別、西道には吉備津彦、丹波には丹波道主命を任命し、それぞれ将軍の印綬を授けた。
 ただし、古事記には崇神朝に四道将軍が派遣されたという記事は見あたらない。 
 大吉備津日子命は吉備上道臣の祖、次に若日子建吉備津日子命は吉備下道臣と笠臣の祖、次に日子サメ間命は針間の牛鹿臣の祖、次に日子刺肩別命は高志之利波臣・豊国之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖であると附記している。


16 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:25:09   ID:fd5b5240dd 
式内社 越中國礪波郡 荊波神社 日子刺肩別命 配祀 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理姫命

この「櫛御方」は、「師木縣主」の系譜に見られる「日子刺肩別」?

【孝安】一子
大吉備諸進命
【孝靈】四子
日子刺肩別命
彥五十狄芹彥命
彥狹島命
稚武彥命---吉備武彥命
【孝元】四子
大彥命
少名日子健豬心命
彥太忍信命
武埴安彥命


17 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:27:44   ID:fd5b5240dd 
砺波地方を開拓の祖先、利波臣志留志の祖、日子刺肩別命を奉る

古事記に「日子刺肩別命高志之利波」の記述が有り、 当社と係わりが有る


18 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:30:20   ID:fd5b5240dd 
『記』孝霊天皇段に、「次に日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊国の国前臣・五百原君、角鹿の海直の祖なり」としてみえる

角鹿国造
13成務 福井県敦賀
越前国敦賀 吉備臣の祖
若武彦の孫
建功狭日命たけいさひ 若建彦
古事記
若日子建吉備津日子
角鹿の済の直の祖
日子刺肩別


19 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:36:44   ID:fd5b5240dd 
彦狭嶋命が能登国造で出てきますが、孝霊天皇の子吉備津彦の兄弟にもあり、
古事記では日子寤間命、針間牛鹿臣祖と記述されている。
旧事紀では彦狭島命は海直等の祖となっており、稚武彦命を宇自可臣等の祖としている。
日子刺肩命は、古事記のみの記述である。


日本書紀景行五五年条は、彦狭島命を東山道一五国の都督に任じたが、任地に赴く途中に亡くなったため、彦狭島命の子・御諸別

事記考霊条では、彦狭島(彦寤間)の弟・彦刺肩命を角鹿(敦賀)海直の祖と記している

日本書紀に依れば、吉備建彦(武彦)は、日本武尊の東征に従い帰路、越国に分遣されており、角鹿国造が吉備建彦の氏族であることから、この角鹿国造一族が更に庵原国を与えられたのではないかとしている。
姓氏録に「吉備建彦命が、阿部庵原国に至り、復命の日、庵原を給う」と書かれていることから
庵原は、阿部の一部であり、吉備建彦命が、庵原を賜る前は、阿部氏が経営していたが、阿部庵原国(駿河の西部一帯)の東部を割いて、吉備建彦に賜り、庵原国としたのではないかとしている


20 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:37:13   ID:fd5b5240dd 
越智系図に「考霊天皇―伊予王子(彦狭嶋命)―大宅姓(伊豆三嶋是なり、八歳にして駿河国清見崎に着き、大宅に住む。故に大宅を以って氏となす。現三嶋大明神、従一位諸山積大明神というなり、子孫繁栄し、庵を立てて並ぶ故、庵原という」とする

21 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:41:46   ID:fd5b5240dd 
『敦賀郡誌』は「大日本史」の角鹿国造の祖の建功狭日命(たけいさひの命)としています。
舊事紀とはその中の国造本紀のことで、
角鹿国造 志賀高穴穂朝御代吉備臣祖若武彦命孫建功狭日命定賜国造
とあります。吉備の子孫なんですね。吉備と気比、やっぱし。

気比神宮
 社記に武功狹日命と傳え、一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも云う。舊事紀には「蓋し當國國造の祖なるべし」と載せてある。


22 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:46:52   ID:fd5b5240dd 
彦狭島命は孝霊天皇の皇子(伊予皇子)で吉備氏だが、豊城入彦命の孫にも同名の彦狭島命がいる

『能登国造』

垂仁天皇皇子の大入来命の孫の彦狭島命とあるが、垂仁天皇の皇子に大入来命、もしくは類似する名の皇子はいない。『古事記』には崇神天皇が尾張の連の祖先、意富阿麻比売(オホアマヒメ)を娶り、能登臣の祖となる大入杵(オオイリキ)命を生んだとある。


23 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:48:46   ID:fd5b5240dd 
越智系図が伊予王子=彦狭島命の子を庵原氏の祖としているのに対し、姓氏録及び国造本紀は、吉備建彦あるいはその子孫を庵原公乃至国造としている

24 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:52:05   ID:fd5b5240dd 
造本紀に景行の世に吉備武彦命の児の思加部彦命を国造に定めたとある。孝霊記の系譜に淡路の知知津美命の娘の(糸亘)伊呂杼の生んだ日子寤間命は五百原君等の祖とある。

25 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 16:55:00   ID:fd5b5240dd 
応神天皇即位前紀の一書は,応神天皇が太子のころに角鹿の笥飯大神を拝んだとき,「大神と太子と,名を相易(あひか)へたまふ」としています。これは,前述した神功皇后時代の話のことなのでしょう。誉田別皇子は,わざわざ大和の磐余から敦賀の気比に出向いて,笥飯大神と名前を交換してきたことになるのです。そして磐余に戻って,直ちに,少彦名命が造った酒を飲んで共食したことになるのです

26 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 17:03:54   ID:fd5b5240dd 
息長足姫の息長(おきなが)は,近江の坂田郡の地名

27 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 17:04:16   ID:fd5b5240dd 
気比大神は本来新羅の王子・ツヌガアラシト????

28 : 名無しさん@chs    2007/11/09(金) 17:05:20   ID:fd5b5240dd 
「海部氏本系図」は、彦火明命の祖を
正哉吾勝勝速日天忍穂耳としている。
871〜877年頃に書かれた古い系図。
天照大神の名前はみられない。
親戚であるはずの、神武も絡んでこない。


29 : 名無しさん@chs    2007/12/20(木) 10:41:31   ID:c03d40c7d3 
越」は「こし」なのである。越前、越中、越後の呼称は、七世紀の後半頃からみられるが、もとはいえば「越」は「古志」に通じる。古志族は、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族で、日本に渡来して「越の国」という一大文化圏を作ったといわれる。

古代朝鮮史を紐解くと、北朝鮮から満州南部を版図とした高句麗がでてくるが、ツングースの騎馬集団が南下して作った国家といわれている。ツングースの粛慎(しゅくしん)族で、高句麗にきた者を靺鞨(まつかつ)族と呼んでいる


30 : 名無しさん@chs    2008/05/26(月) 22:08:30   ID:5/wBHD6g 
新羅本記 364 倭兵が大挙して侵入
百済本記 392 高句麗の広開土王が侵入 多くの領土を奪われる
新羅本記 393 倭軍が侵入 籠城戦を行う
百済本記 395 高句麗の広開土王と戦うも大敗する
百済本記 397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
新羅本記 402 倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣ミシキンを人質に送る
百済本記 402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
百済本記 403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
新羅本記 405 倭兵が侵入
新羅本記 407 倭人が東部と南部へ侵入
新羅本記 408 倭人が対馬に軍備を増強するを知って対抗策を案ずる
新羅本記 415 倭人と戦い勝利
 他に高句麗広開土王の石碑があり、倭軍の侵入を妨げて敗退させたと彫られています。


31 : 名無しさん@chs    2008/05/30(金) 10:21:04   ID:eF2v5zBo 
コウレイ天皇

大倭根子日子賦斗爾命は、大和の黒田の廬戸の宮から天下を治めました。
この天皇が、十市の県主の祖先の大目の女の細比売(くわしひめ)と結婚して産まれたのが、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)です。また、春日の千千速真若比売(ちぢはやまわかひめ)と結婚して産まれたのが、千千速比売命(ちぢはやひめのみこと)です。意富夜麻登玖爾阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)と結婚して産まれたのが、夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)、日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)、日子伊佐勢理毘子命(ひこいさせりびこのみこと)またの名を大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)、倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)の四人です。また、その妹の蝿伊呂杼(はえいろど)と結婚して産まれたのが、日子寤間命(ひこさめまのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこ)の二人です。この天皇の子は合わせて男5人、女3人です。
この大倭根子日子国玖琉命が天下を治める事となります。
大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は二人で、播磨の氷の河の埼に忌瓮を据えて神を祭り、播磨からはいって吉備の国を治めました。この大吉備津日子命は吉備の上の道の臣の祖先です。若日子建吉備津日子命は吉備の下の道の臣、笠の臣の祖先です。
日子寤間命は、播磨の牛鹿の臣の祖先です。日子刺肩別命は、高志の利波の臣、豊国の国前の臣、五百原の君、角鹿の済の直の祖先です。
天皇は享年106歳、稜は片岡の馬坂の上にあります。


32 : 名無しさん@chs    2008/05/30(金) 10:23:39   ID:eF2v5zBo 
宇自可臣(牛鹿臣)は播磨国飾磨郡の牛鹿の屯倉に居り、孝霊天皇の皇子日子寤間命(ひこさめまのみこと)(あるいは彦狭島命)の後と称する氏族であるが、古事記では日子寤間命を大吉備津日子命・若日子建吉備日子命の弟としている

33 : 名無しさん@chs    2008/05/30(金) 10:26:41   ID:eF2v5zBo 
「活玉依毘賣」の子供である「飯肩巣見」は「日子刺肩別」???
とすれば「美呂浪」は「日子刺肩別」の兄弟???。
それは「伊佐勢理毘古」か?


34 : 名無しさん@chs    2008/05/30(金) 10:28:41   ID:eF2v5zBo 
三輪山の大物主神の子の天日方奇日方命の子の飯肩巣見命の子が建甕槌命であり、建甕槌命の子が大田多根子である

カモ系図

奇日方天日方命−飯肩巣見命−建甕尻命−豊御気主命−大御気主命→


35 : 名無しさん@chs    2008/05/30(金) 10:29:53   ID:eF2v5zBo 
古事記では、大物主が陶津耳の娘、活玉依毘賣を娶って産ませた子を「櫛御方」とする。母の名前が一緒だし「奇日方」(クシヒカタ)と「櫛御方」(クシミカタ)は酷似

36 : 名無しさん@chs    2008/05/30(金) 10:31:52   ID:eF2v5zBo 
太田田根子に問うて・・・。対して曰く、「父を大物主大神と曰す。母を活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり。」亦云う、「奇日方天日方武茅渟祇の女なり。」

意富多多泥古という人を求めると、河内の美努村にその人を見て得て貢ぎ進む。・・・「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶って生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、意富多多泥古ぞ。」と曰す。


37 : 名無しさん@chs    2008/06/04(水) 10:04:47   ID:zGgnqRK2 
気比大神
別称の伊奢沙和気神という神名の由来については、神功皇后の息子の応神天皇が敦賀を訪れたときに、そこに祀られていた気比大神と名前を交換し、応神天皇はもとの伊奢沙和気という名前から誉田別(ホンダワケ)に、気比大神は誉田別から伊奢沙和気大神になったという。


38 : 名無しさん@chs    2011/01/22(土) 10:27:25   ID:88z2n3go 
>>11
但馬國の気多社といえば、旧氣多郡のこちらでは?
気多神社 御祭神:大己貴命 但馬國日高町上郷字大門227  
ttp://www.genbu.net/data/tajima/keta_title.htm


39 : 名無しさん@chs    2011/04/09(土) 10:28:55   ID:ccOGdqjs 
但馬國旧城崎郡には氣比神社、旧氣多郡には氣多神社が鎮座するわけですね。
播磨風土記では、「天日槍」と「葦原志許男命」の支配地争いで、前者が城崎郡出石に、
後者が養父郡養父神社と氣多郡氣多神社に祀られたという神社ですね。
【新説但馬史】弥生3. 塗り替えられた気多の歴史 
ttp://koujiyama.at.webry.info/201005/article_1601.html


40 : 名無しさん@chs    2011/12/18(日) 10:16:54   ID:DDIX1FfI 
>>39
西隣鳥取県の気多崎のある気高郡も、明治以前は因幡國気多郡だったらしい。
128 : 天之御名無主 : 2008/12/31(水) 10:24:05
>>84
ここですね。
”白兎海岸は、確かに沖合いの島といい、ワニの背中に見立てられる恋が島といい、
気多の前(けたのさき)といい、古事記神話の舞台にぴったりの場所だと思えます。
しかし、ここは高草郡であり・・・・・・・・・・
因幡の白兎はシュモクザメに
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/998135412/84-128




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