相撲の起源
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1 :
名無しさん@chs
2007/04/16(月) 20:00:40
ID:c893d1b20e
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「力くらべ」
天照大神は建御雷神を派遣し帰順を勧めたところ、大国主命の御子建御名方神は勇武を好む神で、建御雷神と「力くらべ」によって、事を決めようと申し出る。そこで、建御雷神と建御名方神は「力くらべ」をする。結果、御名方神が敗れ、信濃の国の諏訪に逃走した。
『日本書紀』(巻第6)には、野見宿禰と当麻蹶速がお互い向かい合って立ち、足を挙げて足踏みをしたとあり、その結果、野見宿禰は当麻蹶速の脇骨を踏み折り、腰の骨を踏み砕いて殺してしまったと記されている。
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28 :
名無しさん@chs
2007/04/16(月) 21:12:24
ID:c893d1b20e
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上賀茂神社:烏相撲
重陽の日に行われる奉納相撲。古代京都の最大の豪族賀茂県主(かもあがたぬし)族を烏族といい、相撲を神の上覧に供したのがはじまり。細殿前の土俵の左右から弓矢を持った刀禰(とね)が盛り砂の前に出て「カアカアカア」と鳴き、あと氏子の子供が相撲をとる。
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29 :
名無しさん@chs
2007/04/16(月) 21:13:56
ID:c893d1b20e
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烏相撲は上賀茂神社の祭神の祖父である賀茂建角身命が神武天皇東征の折巨大な八咫烏(やたがらす)〔不思議な大烏〕となって先導をつとめるという大きな功績をたてたことと、悪霊退治の信仰行事としての相撲等が結びついて行われるようになった。
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30 :
名無しさん@chs
2007/04/16(月) 21:20:09
ID:c893d1b20e
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由緒によると御祭神の祖父が神武天皇東進の時八咫烏(ヤタガラス)と化って先峰をつとめ、大功をたて、その後論功行賞として山城国の北部一帯をたまわった。 それゆえに当社が山城一の宮といわれる
烏相撲内取式(からすずもううちとりしき)
上賀茂神社では9日に京都市登録無形民俗文化財「烏相撲」(からすずもう)が斎行されます
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31 :
名無しさん@chs
2007/04/16(月) 21:27:59
ID:c893d1b20e
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上宮天満宮
御祭神 武日照命
野身宿禰命
菅原道真命
日の神、武日照命の天降って鎮座された、此れの太古の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。此地は「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江匡房始め平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近い頃、正暦四年(九九四)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府へと赴いた。御霊代など奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動かず、これを先祖と共に留まりたい霊意と排察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている。
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32 :
名無しさん@chs
2007/04/16(月) 21:39:49
ID:c893d1b20e
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(天武十一年)秋七月の壬辰の朔甲午に、隼人、多に来て、方物を貢れり。
是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝庭に相撲る。大隅隼人勝ちぬ。(紀)
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33 :
名無しさん@chs
2007/04/16(月) 21:42:03
ID:c893d1b20e
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三輪周辺〜長谷にかけてが本来の出雲だった。
當麻のケハヤとノミのスクネに相撲をとらせた時、その日のうちに出雲から呼び寄せたと記紀に記されているのですが、相撲
神社の場所までその日のうちに島根の出雲から来れるはずがない。
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34 :
名無しさん@chs
2007/04/16(月) 21:46:23
ID:c893d1b20e
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鳥の一族
建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して、年を占う烏相撲を執行する。この八咫烏は熊野の夫須美神の使いでもある。熊野の火祭では烏帽をかぶり、八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって、烏と化した神官が空中に扇で呪文を書く。それは烏文字で、護符や熊野誓紙の文字ともなった。
玄海灘の宗像三女神が瀬戸内海に進出したとき、二羽の烏に導かれて厳島神社に鎮まった。その神の巡幸は宮島の七浦神社祭として再現されつづけ、海上に鳥神楽を奏で神烏(こうがらす)を招き、粢(しとぎ)団子を供する。塩飽諸島の泊港の木烏神社には、水軍と関係の深い讃岐国造の武殻王(たけがいおう)が悪魚を退治したとき、水先案内した烏を祀る。あるいは崇峻天皇の皇子、蜂子親王は三本足の大烏に導かれて出羽三山を開いた。
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35 :
名無しさん@chs
2010/03/12(金) 09:34:04
ID:hgVLW0LE
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和歌山県井辺八幡山古墳から出土した埴輪に、褌を締め、裸足の裸体の男子像がある。この立像は、鉢巻を締め、両足をガニ股のように開き、腕を前方に伸ばしているので、相撲をとっている形が想像できる。この大古墳は6世紀初頭と推定され、古墳時代にも盛んに相撲を取っていたことを立証する発見といえる。おそらく稲を作り始めた弥生時代から一般農民の間では、農作物の収穫や降雨を占う祭りごとが農耕儀式(神事相撲)として行われていた。記録の中で、神事相撲がみられるのは『年中行事秘抄公記』である。神亀2年( 725)早害で作物が凶作となり庶民は困窮した。そこで聖武天皇は各地の21社に勅使を派遣して神明の加護を祈願した。すると翌年は豊作に恵まれたことから、諸社にお礼として神前で相撲を捧げたのである。しかし弥生時代から神事相撲が行われていたと考えられる。というのは、弥生時代から奈良時代には中国の亀甲占いが伝わって、農作物の収穫を太占という占いに頼っていた事実がある。同じように占いの手段として相撲もこのころからとられていたと考えられる。
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36 :
名無しさん@chs
2011/01/25(火) 08:58:05
ID:gRtwXk2Y
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天穂日命12世孫鵜濡淳命之後也 (河内国神別)出雲臣。天穂日命12世孫宇賀都久野命之後也 (右京神別)神門臣。天穂日命12世孫鵜濡淳命之後也 (摂津国神別)土師連。天穂日命12 世孫飯入根命之後也 (右京神別)土師宿禰。天穂日命12世孫可美乾飯根命之後也
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37 :
名無しさん@chs
2011/01/25(火) 09:06:20
ID:gRtwXk2Y
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野見宿弥は新撰姓氏録や続日本紀(天応元年六月条)によると、天穂日命(あめのほひのみこと)の十四世の孫であり、崇神紀六十年の条に出て来る飯入根(いいいりね)(甘美乾飯根(うましからひね))の子、鵜濡渟(うかつくぬ)(宇賀都久怒(うかづくぬ))の子である。従って、野見宿祢は出雲の王の直系の子孫