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天智天皇 天武天皇

1 : 名無しさん@chs    2007/12/25(火) 13:40:03   ID:8dd61eb9b0 
斎明天皇行宮伝説

土佐国 朝倉神社
祭神:天津蹄註_

維新前までは朝倉木ノ丸社と称した。
斎明天皇の六年(六六〇年)、新羅と百済とが国交絶え、新羅は大唐の援兵を得て百済を攻めその国王を虜にして大唐に送った。当時百済王子豊璋が日本に質となっていたので、豊璋は重臣福信によって百済に還った。この時斎明天皇は戦艦を造り兵器を集め郡国の兵力を三韓に送った。その時龍駕を土佐朝倉山橘広庭宮に駐められた。朝倉山では天皇をお迎えして早速山林を拓き黒木の御所を仮造営して木の丸殿と申上げた。宮中の百官警護の者とも木の丸殿の御前を通過するときは皆姓名を名乗って往来したという。

朝倉や木の丸殿にわが居れば  

名告げをしつつ行くは誰か子ぞ

の御歌は当時の模様をよく表している。天皇はその年の七月朝倉の行宮に崩御遊ばされた。

天智天皇は青廬におり、

 秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ  

我が衣手は露にぬれつつ

という御製はこの土佐の朝倉におけるものであるという

このことは王代一覧、本朝歴代編年録を初め諸書に掲載されているが、日本紀に還て朝倉宮に遷御すとの本文があって国名がないから、この朝倉の地に牽強附会したものと思う。然るに天皇御幸の朝倉宮は筑前であって、扶柔略記斎明紀には、

七月五日、天皇遷居筑紫朝倉橘広庭宮

とあり、元来天皇の征西は百済の後援が目的であったから、筑紫に赴かれたのが当然で遥々南溟の果てに遷行されることは考え得られない事柄である。

しかし朝倉の近傍には伝説地として小谷谷、釣井元、小磐嶺橘広庭、男女渓、苅萱関、鵜来巣山等がある。維新後は特に天皇を当社の祭神に配祠せられているのはこの伝説によるものであろう

www.geocities.jp/kyoketu/5967.html


40 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:22:18   ID:AzZesnu2 
初代橘諸兄(もろえ)、橘佐為(さい)兄弟は敏達天皇の4世孫にあたる。系図を見ると、

敏達天皇―難波皇子―栗隈王―三野王(美努王とも)―葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)

となる。


41 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:27:55   ID:AzZesnu2 
天武天皇に宇陀の吾城、甘羅で従った「美濃王」は「美濃の国司」ではなく、筑紫太宰の「栗隈王(敏達天皇の曾孫・難波王の子供)」の王子で、「武家王」の兄である。
 「第30代」の「敏達天皇(渟中倉太数珠)」は「欽明天皇」の子供で、母は「石姫」

美努王の死を悼んだ挽歌:「万葉集」の「十三(13)」

 百小竹の、三野の王、西の厩、
 立てて飼う駒、東の厩、
 立てて飼う駒、草こそはとりて飼うがに、

 水こそは
 邑(手+邑=く)みて飼うがに、
 何しかも、
 葦毛の馬の嘶え立ちつる

 反歌

 衣手葦毛の馬の嘶ゆ声、
 情あれかも常ゆ異に鳴く


42 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:43:49   ID:AzZesnu2 
日本書紀

天武天皇2年(673年)12月17日に、小紫(従三位)・美濃王は、小錦下・紀訶多麻呂 とともに造高市大寺司に任じられた
天武天皇4年(675年)4月10日に、小紫(従三位)・美濃王は小錦下・佐伯広足とともに遣わされて竜田の立野で風神を祀った
天武天皇11年(682年)3月1日に、小紫・美濃王及び宮内官大夫等に命じて新城(平城)に遣いして、其の地形をみるように命令する
天武天皇13年(684年)の2月28日には、三野王は采女筑羅とともに信濃国に遣わされ、地形を見るよう命じられた。
天武天皇閏4月11日に、三野王は信濃国の図を提出した。
持統天皇8年(694年)9月22日に、浄広肆(従五位下)三野王は筑紫大宰率に任命された


43 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:45:07   ID:AzZesnu2 
小紫(従三位)であったものが、浄広肆(従五位下)に下がっています

44 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:46:16   ID:AzZesnu2 
壬申の乱

大海人皇子は、自身が行動をおこす2日前の6月22日に、村国男依、和珥部君手、身毛広は3人で美濃国に先行するよう命じた。

彼らの任務は多品治に連絡し、まず安八磨郡を挙兵させることであった。

彼らと多品治は無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。


45 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:47:07   ID:AzZesnu2 
天武天皇12年(683年)12月13日に、多品治は伊勢王、羽田八国(羽田矢国)、中臣大島とともに、判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。
この事業は年内には終わらなかった。品治の位はこのとき小錦下であった。

天武天皇13年(684年)11月1日に、多臣など52氏は新たに朝臣の姓を授かった


46 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:50:06   ID:AzZesnu2 
天武が最初の領邑(美濃にあった)湯沐邑と名付けたのは、劉邦が故郷の沛を湯沐邑に指定したのを真似たのではないか、と推測された

大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月27日)に吉野を出立し伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができる


47 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:55:56   ID:AzZesnu2 
物部雄君連 (もののべのおきみのむらじ)

朴井連(えのいのむらじ)雄君ともいう。壬申の乱の天武側の武将。天武天皇の舎人だった。

天武1年5月、私用で美濃に赴いたとき、近江朝廷が美濃・尾張の国司に命じて山陵を造るために人夫を徴発し、彼らに武器を取らせたことを知った。これは山陵を造るためではなく、事変の前兆だろうと考えた雄君は、急ぎ吉野にかえって、大海人皇子に報告し、すみやかに避難すべきことをすすめた。
同1年6月、大海人皇子に従って東国に赴く。

『旧』天孫本紀には、饒速日15世孫、父は守屋大連とあり、天武天皇の時代、氏上・内大紫位を賜り、神宮(石上)を奉斎したとある。物部目の娘・豊媛を妻として忍勝、金弓の二児を生む。

ただし、雄君を守屋の子とするのは年代的に合わない。


48 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:57:29   ID:AzZesnu2 
大海人皇子の経済的所領湯沐邑・美濃国「安八磨郡」は、現在の大垣市・安八郡・不破郡・揖斐郡南部に及ぶ広大な地域といわれ、その当時において最も人口が集中し、生産性に恵まれていた地域と推定され、かつこの所領民は何時でも直属の武力団化ができ、そこに皇子の腹臣多臣品治が支配人として配されていたことである。二つめは、この地域は関ヶ原の山峡によって、東西交通の要所、つまり朝廷からみると、この地を抑えられると東国の武力を得られなくなることである。三つめは、皇子は、近従者に美濃の豪族たちの子弟、村国雄依・身毛君広・和珥部臣君手・朴井連雄君らを積極的に採用し、美濃国の豪族たちとの親交を図っていた

49 : 名無しさん@chs    2009/02/14(土) 16:58:24   ID:AzZesnu2 
元明天皇(女帝)は、天武の意志であったわが国の史書編さんを、さきの多臣品治の子で美濃出身とみられている太安万侶に命じて、『古事記』を撰上させた。

 次の女帝元正天皇は、即位すると直ちに美濃国多度山(養老山)に行幸して、この地の美泉を賞賛し、717年に元号を「養老」と改元して、美濃国の人々に位や贈物・減税をおこなった




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