八幡神社
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1 :
名無しさん@chs
2008/01/09(水) 11:04:10
ID:1331985abc
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秦系の辛嶋氏が宇佐に達し、宇佐川左岸(西岸)に住んで「辛国」とした。「宇佐郡辛国宇豆高島」の島とは陸の島すなわち山であって、辛国では稲積山にあたる。ここに御大神が降臨したとあり、これが原始的なヤハタの神であった。八本の幡を立てる宗教儀礼があったものと想像される。この神官は、豊国奇巫とか豊国法師と呼ばれ、医術(毉術:文字つぶれするので)により、雄略や用明天皇の病気を治療したとされている。
宇佐氏と辛嶋氏が宇佐平野にいたが、6世紀後半には宇佐氏はそこから姿を消したようである。筑紫国造磐井の乱に連動して、勢力を失ったと見られる。替わって、大神氏(おおみわ)が宇佐川右岸(東岸)へ入ってきた。この大神氏とは三輪山奥地の宇陀市伊那佐山麓の大神氏の一族であった。宇佐氏に代わり辛島氏に圧力をかけてヤハタ神に応神霊を付与させるに至った。ここに今につながる八幡神がなった。敏達朝(572〜85)に八幡神が顕現したとされ、和銅五年(712)宇佐川左岸辛島側の鷹居の地に社殿が建てられたのである(飯沼氏は鷹神と習合したと言う:『八幡神とはなにか』 )。
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2 :
名無しさん@chs
2008/01/09(水) 11:07:44
ID:1331985abc
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上記は「八幡神と神仏習合」より
www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books247.htm
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3 :
名無しさん@chs
2008/01/09(水) 11:08:55
ID:1331985abc
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【八幡宮は現在日本中で祀られ広く知られているが、もともとは宇佐周辺で信仰されていた「地方神」だった。宇佐に初めて八幡神が顕(あらわ)れたのは欽明天皇三十二年(571)で、宇佐の御許山(おもとさん)に顕れたと言う。その後宇佐地方の神として大神(おおが)氏と辛島(からしま)氏によって祀られた。しかし、その神が一体どんな神だったかについ¥てはわかっていない。】
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4 :
名無しさん@chs
2008/01/09(水) 11:10:20
ID:1331985abc
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古来より豊前地域は秦氏やその一族である漢氏の居住していた地域とされ、新羅系加羅人と思われる秦氏の故地である「加羅」から、辛島(からしま)という名前も来ているという。辛島氏も秦氏一族なのだ。「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が古名で、「八」は多さを表し「八咫の鏡」の「八」と同義だという。「幡」は「秦」とも「旗」とも言われる。八幡とは文字通り、多数の「秦氏」が住むところ、あるいは多数の「秦=旗」が立つ所なのだ。そして欽明の出自も豊前辺りだという。この説によれば、八幡神は新羅からの外来神で、宇佐においては新羅系加羅人の氏神だったという事になる
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5 :
名無しさん@chs
2008/01/09(水) 11:13:34
ID:1331985abc
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辛嶋氏
「辛嶋勝姓系図」によれば辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入ったと云う。
辛嶋氏は伽耶国亀茲峯に酷似の宇佐郡稲積山を「宇佐郡辛国宇豆高島」と称したらしく、ここに辛国神が降臨したとして、のちこの神は乙(おとめ)社、泉社、瀬社、 崇峻(すしゅん)天皇(588〜592)の御代蘇我馬子(そがのうまこ)の時代に 鷹居社 、 改新後の 天智(てんじ)天皇(662〜671)の御代に 小山田社を祀ったという伝承がある。 更に、天智天皇以後に小倉山に入り宇佐氏と共同して北辰社を設けたらしい。
辛島氏の斎祀った神は銅鏡を好んだようであり、卑弥呼など古代の女王的な巫女を思わせる。赤留比賣神(比賣許曾神)当たりではなかろうか。
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6 :
名無しさん@chs
2008/01/09(水) 11:14:44
ID:1331985abc
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大神氏
大神氏は大和三輪の大神氏の出と渡来系とする二説がある。 弘仁12年の官符(「弘仁官符」とする)、「承和縁起」には 欽明(きんめい)天皇の御代(540〜571) 馬城峯 に太上天皇( 応神(おうじん))の御霊が現れ、同29年(568) 大神比義(おおがのひぎ) が鷹居社(鷹居瀬社とも)*5を建てたという。
また別の説では欽明32年のころ宇佐郡厩峯と菱形池(ひしがたのいけ)の間に鍛冶翁(かじおう)あり大神比義が祈ると三才童児となり、 「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大 菩薩(ぼさつ)」と託宣があった。
この縁起は『扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄』等にみえる。
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7 :
名無しさん@chs
2008/01/09(水) 11:15:36
ID:1331985abc
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宇佐氏の齋祀る比賣神のいます国に、辛嶋氏がもちこんだ外来信仰は道仏習合の信仰で、原始八幡信仰と言える。 その上にのっかって応神信仰を同化させ官社にしたのが大神比義であったということになる。このように八幡神と大神比義(おおがのひぎ) は切っても切れない関係があったが、 小倉山(おぐらやま) に八幡宮が移ると直ちに天平5年(733) 比売神の二殿ができる。 比売神の神殿の建立は宇佐氏の力によるものであり、二殿ができ宇佐氏の勢力が表に現れると、宇佐氏と辛嶋氏 は共同して、大神氏と対峙する運動を起こし、道鏡の事件(769年)を境にして、宇佐氏は官社八幡宮に登場し一時宮司に任じられた。 数百年ぶりの宇佐氏の表舞台への再登場である。
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8 :
名無しさん@chs
2008/01/09(水) 11:16:44
ID:1331985abc
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八幡宇佐宮御託宣集に「古イニシヘ吾れは震旦シンタン国の霊神なりしが、今は日域鎮守の大神なるぞ」 とある。震旦国とはチャイナを西方から呼ぶ名である。震旦国の霊神とは道教の最高神太一神、大元神を指す。日域とは日本である。大神とは道教の太上老君の意である。 聖武天皇の御代の託宣で、大仏建立が出来るのは宇佐八幡の神のみであるとの意である。 道士であった大神氏の発想の託宣であろう。
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9 :
名無しさん@chs
2011/09/30(金) 10:20:02
ID:A/XtkzKg
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>>3
>もともとは宇佐周辺で信仰されていた「地方神」だった・・・・・
八幡神が、全国神へと隆盛していった理由は、何だったの?