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三足鳥

1 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:22:51   ID:yT4vQYoI 
中国の書『淮南子』に「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、十匹の三足烏が住んでいた」とある


淮南子(えなんじ)は前漢の淮南王劉安が学者を集めて編纂させた哲学書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である


2 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:23:32   ID:yT4vQYoI 
八紘一宇の由来は淮南子??
『日本書紀』神武天皇のことば「掩八紘而爲宇」に「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」


3 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:25:13   ID:yT4vQYoI 
「老荘」という言葉は『淮南子』の中で初めて使用された。 これらの思想家については、実在したかどうかを含めて不明な点が多い

淮南子(えなんじ)
中国前漢、成立年不詳。淮南(わいなん)王の劉安編。現存するもの21巻。諸家の思想・学説を総合的に記したもので、秦代以前の諸思想が総合的に伺える。正式の書名は「淮南鴻烈解」。
作者:淮南子(えなんじ)・劉安(りゅうあん) 古代中国、前漢の学者。前179〜前122。姓は劉、名は安。高祖の孫で、淮南(わいなん)王に封ぜられた。


4 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:27:49   ID:yT4vQYoI 
前漢代の劉安の『淮南子』「精神訓」に「日のなかに※烏(そんう)がいる」とあり、後漢代末期の 高誘が「※」は「蹲」で、そんうは三足烏である」と注を付している。また、後漢代中期の王逸が 前漢代の『楚辞』所収の「天問」に対する注に引く『淮南子』に、「堯が※(げい)に天を仰いで 十日を射るよう命じたところ、九日に命中した。九日のなかにいた九羽の烏〔九烏〕はみな死んで、 その羽翼を落とした」とある(現行本にはない)。すなわち、三足烏とは日精のことである。また、日車〔日を乗せる車〕の御者であるとも伝える。

5 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:32:27   ID:yT4vQYoI 
三本足のカラス 八咫鳥(やたのからす)

八咫(やた)とは、長さの単位であり、巨大なものを表す
のに使われてきた言葉。例えば、八咫の鏡などという言葉も、日本神話
に出てくる。

京都の上賀茂神社・下鴨神社は、賀茂建角身命(かもたけつのみこと)
、つまり、八咫烏そのものを祀っている

八咫鳥神社
奈良県橿原市五條野町にも、八咫鳥を祀った八咫鳥神社がある。祭神
の加茂武津身之命は、八咫鳥大神とも称する八咫鳥。京都の賀茂別雷神
社、賀茂御祖神社の分霊を祀っている


6 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:34:55   ID:yT4vQYoI 
古事記には、八咫烏とだけ表記(足が 三本とは記していない)。

7 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:36:07   ID:yT4vQYoI 
高句麗古墳壁画に出てくる三足烏

中国吉林地方の五〓墳(ごかいふん)4号墓、角抵塚、北朝鮮平
南の徳花里1,2号墳など高句麗古墳に描かれた三足烏


8 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:37:16   ID:yT4vQYoI 
ユーラシア大陸から北米大陸にかけて、ワタリガラス神話が分布していることが最近の比較神話学の研究によって明らかになってきている(詳しくは、『サルタヒコの旅』創元社)

9 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:39:45   ID:yT4vQYoI 
古ヨーロッパでも三本の足を回転させて天を駆ける日輪の図像がある。

藤原不比等が賀茂武角身命を功績に見合わない“烏”と いう記述にした??
藤原氏にとって、賀茂氏という家系がありがたくない存在であったから?


10 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:41:32   ID:yT4vQYoI 
家紋にある

1世紀頃の漢の時代、チェルキリク県楼蘭孤台墓地B2号墓から出てきた絹の織物に、
三本足の烏(他、一角獣などの霊獣なども)が縫われていました。
他の同時期の遺物でも、普通の二本足の烏の模様のある棺もありました。
棺の場合、烏と対比してヒキガエルの絵もあり、解説によると、漢の時代
烏は太陽を象徴し、ヒキガエルは月というように陰陽の対比であったように思えます。

シルクロード全体に、漢の時代(1〜3世紀)三本足の烏を霊獣を太陽の化身として崇めていた文化が
栄えていた???


11 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:42:40   ID:yT4vQYoI 
元々鴉は黄金に輝く翼を持ち、アポロンの伝令者としての使命を持っていた。
ある時、アポロンが愛人コロニスの元を離れる事になり、アポロンは鴉にコロニスと
の伝令の役目を命じる。だが、鴉よりコロニスとイスキュスが結婚した事を聞いた
アポロンは怒り、アルテミスにコロニスを矢で殺すように頼む。そして、この様な
情報を伝えてきた鴉の喉を潰し、翼を黒く変えてしまった。後に鴉は神々によって
星座に加えられた。


12 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:43:11   ID:yT4vQYoI 
鴨県主(かもあがたぬし)。
賀茂県主と同じき祖。神日本磐余彦天皇(諡は神武)中洲に向さんとする時に、山の中、
嶮絶しくして、ふみゆかむに路を失ふ。ここに、神魂命の孫、鴨建津之身命、大きなる烏
となりて、翔び飛り導き奉りて、遂に中洲に達る。天皇その功あるを嘉したまひて、特に
厚く褒めたまふ。天八咫烏の号は、これより始りき。


13 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:44:33   ID:yT4vQYoI 
三足鳥:中國古代的太陽精靈、也被看作太陽運行的使者。中國古代傳說太陽中居住著三足鳥,人們敬仰太陽,三足鳥也被作為祥瑞的象征來崇拜。據說由于三足鳥一共有十只,不停地在天空中運轉,導致地上遭受旱災和灼熱的煎熬。堯帝命令后羿將所有三足鳥射殺,結果后羿射落九只、留下一只,從此太陽只有一個并且在傍晚落下。 也有說法稱三足鳥是服侍西王母的精靈。

14 : 名無しさん@chs    2008/01/29(火) 16:45:58   ID:yT4vQYoI 
《淮南子》說「日中有鵔鳥」,即三足鳥

15 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 09:45:45   ID:JpKZVA8Y 
実は「ヤタガラスは三本足」なんてことは『古事記』『日本書紀』のどこにも書いてない

ヤタガラスを祭神として祀る和歌山県那智勝浦の熊野三所権現のシンボルマークのヤタガラスのデザインが「三本足」になっている


16 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 09:48:19   ID:JpKZVA8Y 
矢野憲一氏 「鳩の杖」
www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yano-kenichi-hatonotue.htm

『晋書』には烏杖(うじょう)という杖の頭部がカラスの形になった礼器の杖が出てくる。これは古代インドのカシミールの西北地方に烏杖那(うじょうな.烏萇)という国があり、この名を略して烏杖といったそうだが・・・
カラスも古代中国では霊鳥で、三本足のカラスが太陽にすむという神話があり、神武天皇の伝承にも三本足のヤタガラスや、天皇の弓杖に金鵄(トビ)が止まったとされ、鳥は神のお使いとする伝説がたくさんあり、鳥が霊的なシンボルとして道しるべとなる杖の飾りに用いられたと考えられます。


17 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 09:50:14   ID:JpKZVA8Y 
shop.innolife.net/shop/list.php?ac_id=108&ai_id=25736&inno_Session=2084b96fabf6637c35aeadba750ae791
三本足のカラスは元々東夷族が崇拝した神聖な鳥でした。古代人たちは三本足のカラスが太陽の中に住んでいると信じたし、ハンニムや海神を象徴する動物で檀君の杖の頭にカラスを彫刻することで檀君が神さまの獅子であることを現わしました。上古時代東夷族は中華族を圧倒して東アジアの盟主の役目をしたが後に漢族との競争に押されて中国思想の影響で「漢族を逼迫した東夷の象徴」のカラスに対する漢族の視覚が私たちの文化に染みこむようになりました。高句麗の古墳の壁画から現われた三足烏。そしてカラスの姿をした立木と十五夜のカラス祭などで神鳥としてのカラスの跡を捜すことができます。また三足鳥は高句麗の雙楹塚、角抵塚、徳興里 1号、2号古墳、鎧馬塚、江西中墓、天王地神塚、長川 1号墳、舞踊塚、薬水里壁画古墳、そして五つのお墓(五回墳) 4号墓、5号墓などに描かれています。


18 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 09:52:46   ID:JpKZVA8Y 
天山山脈とその北方には烏(ウ)のつく地名がやたらと多い。たとえば、カラマイの南(N45°E85°あたり)に烏蘇(ウス)という地名がある。烏をカラに置き換えればそのまんまカラスになる。そんなわけで私は、中国西域で烏のつく地名は現地語では「〜カラ」や「カラ〜」だったのではないかと想像するわけである。

 私は、カラのつく地名に住む人々のなかに烏をトーテムとする民族があったのではないかと想像している。イリ地方に烏孫という民族がいた。これもまた単にウソンという音を拾っただけなのかもしれないが、ひょっとして烏の子孫を意味していたのではないかとも思う。


19 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 09:52:54   ID:JpKZVA8Y 
高句麗は紀元前3世紀頃に、騎馬民族の扶余族の一集団が北方から遼寧省桓仁市付近に移住し、高句麗最初の山城を五女山上に築いて都城としたのが始まりといわれている。古代高句麗王国の首都群と古墳群は、高句麗初期の山城である五女山城(桓仁県)、平地城である国内城(集安市)、山城である丸都山城(集安市)の3つの都市遺跡と高句麗中・後期の14基の皇族古墳と26基の貴族古墳からなる40基の陵墓群(集安市)が含まれる。陵墓群は、有名な好太王(広開土王)碑、将軍塚、大王陵があり、また、舞踊塚、角抵塚、散蓮花塚、三室塚、通溝四神塚などの壁画古墳からなる。陵墓群の中には、優れた設計技術を示すものもあり、その構造や壁画などは人類の創造性を示すものである。

20 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 09:55:47   ID:JpKZVA8Y 
袞竜衣(こんりょうい)」は、その左胸に「三足鳥」、右胸に「ひきがえる」が刺繍されており、その背面には北斗七星と四神が描かれる。

21 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:08:16   ID:JpKZVA8Y 
太陽に住む三本足の鳥は中国神話にも出てきます。
伏儀と女堝


女堝氏は一般に伏犠氏の妻とか妹とか言われているが、本来洪水伝説にまつわる人物であった。漢代になると、女堝氏は人類の創造者として伏犠氏と一緒に人類の始祖神とされるようになった。ところが、儒教の歴史的論説の中でこの二人はみな上古時代の聖賢な帝王で、特に伏犠氏は歴史上の最も古い帝王(三皇)の初めとされていた。伏犠氏の事績については、儒教の教典である『易・繋辞伝下』に次のように述べている。“古者包犠氏の天下に王たるや、仰いでは即ち象を天に観し、俯しては即ち法を地に観し、鳥獣の文と地の宜とを観して、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。是に於いて初めて八卦を作り、以て神明の徳に通じ、以て万物の情を類す。結縄を作りて罠罟と為し、以て佃し以て漁す”とある。

沂南画像石墓墓門画像
人面蛇身の男女二神が交尾する姿である。人類の始祖である二神は、『伏戯』が手に持つ『矩』がある。ここに描かれている『矩』が直角を定める機能を備えているし物差しである(これは日本の『曲尺』である)。
これに対して、『女堝』の持ち物は拓本図像では不明瞭であるが、漢代の伏犠女堝像は他にも数例があり他の伏犠女堝図像から考えて、『女堝』は『規』つまりコンパスを手に持っていたと思われる。
『規矩』という器具に注目すると、伏犠女堝図像に国土の起源が説かれている


庖犧(ふつき)氏・女堝(ぢよくわ)氏・~農氏・夏后氏は蛇身人面、牛首にして虎鼻、此れ人に非ざるの状有れど、而かも大聖のコ有り。夏桀・殷紂・魯桓・楚穆は状貌七竅、皆な人に同じきも、而も禽獸の心有り。而るに衆人は一状を守りて以て至智を求む。未だ幾(こひねが)ふべからざるなり。


22 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:16:12   ID:JpKZVA8Y 
漢墓出土帛畫及畫像石刻中無不以蟾蜍象徵月亮,同時以金鳥(或金雞)象徵太陽。在伏羲被奉為日神的同時,女媧即被奉為月神。因之月宮古人又稱「蟾宮」,「蟾窟」。月之別名則有「蟾」和「玉蟾」之稱,於是月光也就直稱「蟾光」。著名成語「蟾宮折桂」就是由這個古老的蛙圖騰崇拜脫胎而來。所以,驪山風俗中的拜月及「送中秋」、「送八月節」風俗仍然是一個女媧圖騰崇拜紀念日。

23 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:21:29   ID:JpKZVA8Y 
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E7%BE%B2

伏羲(ふっき・ふくぎ、- Fu HsiまたはFu Xi)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に、蛇身人首の姿で描かれる。

中国古典論者の聞一多が雲南省を中心に説話を採集した。それによると、伏羲と女媧の父が雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こして攻めたために二人を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は結婚して人類を伝えたとある。聞一多は、伏羲が時に庖羲とも書かれる点に注目し、伏羲とは方舟を指しており、女媧がこれに乗って洪水の難を逃れたのではと推論している。
伏羲は女媧と同じく中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されており、洪水神話は天災によって氏族の数が極端に減少してしまった出来事が神話に反映したと言われている


24 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:22:49   ID:JpKZVA8Y 
原初の洪水説話に登場する。
大昔、大雨が降り続いた。伏犠の家で鉄籠を仕掛けておいたところ、雷公がやって来てその中に入り、閉じ込められてしまった。伏犠の父は翌朝市に出かけて香料を買い、雷公を塩漬けにして食べようとしたが、伏犠と妹の女女咼(女+咼で一文字)は父の出かけた隙に雷公を助けてやった。雷公は二人にお礼として自分の歯を一本与え、「早くこれを土の中に埋めなさい。災難に遭った時には実った果実の中に隠れなさい」と言った。兄妹が歯を埋めると一日で大きな瓢箪が実をつけた。程なく天空まで達する大洪水が起こり、地上の人間は瓢箪の中に入っていた兄妹を除いて死滅してしまった。二人はその後結婚して人類の祖先となったという。
人間に火種を与えた。伏犠のおかげで人間は動物の肉を焼いて食べられるようになったので、伏犠は「炮犠(動物の肉を焼く)」とか「庖犠」と呼ばれることがある。


25 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:28:39   ID:JpKZVA8Y 
雲南に住む苗族は、彼らの神話の中で、

「先祖はかつて洞庭湖北の荊州に住み着き、伏犠と女媧を祖霊として仰いでいた」
と伝える。日本の伝統である漆、絹、こうじ酒、赤米、納豆、餅、ナレズシ、チマキ、コンニャク、歌垣、鵜飼いなどは、苗族の住む雲南や貴州において今も見うけられる。また、彼らの風俗が一昔前の日本のそれと酷似することも、広く知られている。


26 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:29:00   ID:JpKZVA8Y 
易経「繋辞伝」
 「河、圖を出し、洛、書を出して、聖人之に則る」
史記本紀、三皇本紀 伏犠氏に「龍瑞有り」の記述
あり。龍馬が圖を負うて黄河から出たと注される。「伏
犠は蛇身人首にして聖徳有り。仰ぎて象を天に観、
伏して法を地に観、あまねく鳥獣の文と地の宜を観、
近く諸を身に取り、遠く諸を物に取り、始めて八卦
を画し、以って神明の徳に通じ、以って万物の情を
類す。」とされる。


27 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:32:18   ID:JpKZVA8Y 
聞一多 『伏犠考』
聞一多が西南連合大学教授職時代の1942年に執筆した論文。三皇五帝の伏犠(伏羲)と女媧が中国少数民族のミャオ族の先祖にあたると論証し、加上説を検証するひとつとなっている。また、伏犠と女媧のどちらも「中が空洞のもの」を表わす共通の概念が分岐したという同一説をも展開した。


28 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:37:19   ID:JpKZVA8Y 
鴆鳥−実在から伝説へ
www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/paper01/chincho.html


29 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:38:04   ID:JpKZVA8Y 
前一二〇年頃の『淮南子』繆称訓に、「暉目は晴れると鳴き、陰諧は雨が降りだすと鳴く」とあり、三世紀初の高誘はこれに「暉目は鴆鳥。陰諧は暉目の雌」と注釈する

30 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:40:40   ID:JpKZVA8Y 
「羽嘉は飛龍を生み、飛龍は鳳凰を生み、鳳凰は鸞鳥を生み、鸞鳥は庶鳥を生んだ。すべて羽あるもの、すなわち鳥類は、この庶鳥から生まれたものである。毛犢は応龍を生み……」(淮南子).

31 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:42:44   ID:JpKZVA8Y 
モクセイの最古の絵画化の例は、月桂であろう。『淮南子』逸文(『太平御覧』957)に「月の中に桂樹有り」とあり、以来天香は桂の換喩となった。四川省出土の漢代画像石の「伏羲女媧{ジョカ}」を画いた例では、伏羲が太陽を支え、女媧が月を支えているが、その月の中に蟾蜍{センジョ}(ヒキガエル)と桂樹が画かれている

32 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 10:47:36   ID:JpKZVA8Y 
湖南省で発見された紀元前2世紀の馬王堆1・3号漢墓出土の、絹布に絵を描いた「帛画」に、月中に兎と蟾蜍(せんじょ・ひきがえるのこと)の図案が描かれている。 

日中、峻*烏有り。而して月中、蟾蜍有り。(『淮南子』精神訓)
月中の獣、兎・蟾蜍なり。 (『論衡』順鼓)


33 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 11:05:25   ID:JpKZVA8Y 
遇賢里三墓は江西三墓ともよばれ、大塚は江西大墓、中塚は江西中墓
:関野貞の朝鮮古蹟調査

www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Expedition/02/020200.html

中塚は、幅三〇九センチ、奥行三二四センチのほぼ正方形の玄室に、長さ六九二センチの長い羨道がつく横穴式石室
壁画は壁面に直接描かれる。北壁に玄武[53]、東壁に青龍[51]、西壁に白虎[52]、南面入口の左右には向かい合う朱雀[55、56]が描かれる。天井は、下段平行持送りの側面には美しい忍冬文、上段平行持送りの側面には一種の忍冬文、その下面には一種の火炎状の奇なる文様がある。天井の一枚石は中央に蓮花、南北に鳳凰が描かれ、東に太陽、西に太陰の象徴がある[54]。太陽は円内に黒い三足鳥を、太陰は奇妙な蟾蜍を描き、さらに四隅に蓮花および忍冬文を描く。


34 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 11:08:31   ID:JpKZVA8Y 
2002年に奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室の天井にある星宿図(天文図)の日輪の中に、三本足のカラス「三足鳥」とみられる絵が見つかったそうです。
「三足鳥」は日輪の象徴とされ、古代中国や朝鮮半島の古墳などに例があったものの、国内の古墳で見つかったのは初めてだとか。

古代中国の四神(しじん)と世界最古の星宿(星座)図が石室内に描かれた奈良県明日香村の国特別史跡・キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初頭)で、天井にある星宿図の日輪(太陽)にカラスとみられる模様、石室北壁面にネズミの頭と人の服装を組み合わせたとみられる獣頭人身像がそれぞれ描かれていることが25日までに、研究者の指摘で分かった。以前に見つかった「寅(とら)」とみられる像と合わせ、壁面には十二支が描かれている可能性が極めて高くなった。日輪内のカラスは古代中国、朝鮮の古墳などにも描かれているが、国内の古墳で確認されたのは初めて。
 文化庁などでつくる「キトラ古墳保存・活用調査研究委員会」(座長、藤本強・新潟大教授)が昨年12月、内部をデジタルカメラで撮影した。
 天井東寄りにある「日輪」内では、黒い鳥の尾羽、翼、脚2本らしい模様が確認された。古代中国の神話で太陽の象徴とされた3本足のカラスとみられる。
2/26毎日新聞より


35 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 11:15:23   ID:JpKZVA8Y 
奈良県明日香村の特別史跡「キトラ古墳」(7世紀末〜8世紀初頭)

天井に描かれた天文図のうち太陽を表す「日像」などをはぎ取ったと、文化庁は25日、発表した。
 日像は天井東にあり、直径4.5センチの金箔(きんぱく)で太陽を表している。金箔の中には鳥の足と尾羽とみられる墨の線があり、三本足のカラスが描かれているとの見方もある。
 同庁によると、日像が描かれたしっくい(縦18センチ、横13センチ)のほか、日像西側の3つの星座が描かれたしっくい(縦13センチ、横9センチ)などを、へらではぎ取った。2月中旬には天井西に銀箔で月を表した「月像」をはぎ取る予定。


36 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 11:18:10   ID:JpKZVA8Y 
安輝濬(アン・フィジュン)ソウル大教授(考古美術史)は「キトラ古墳の壁画の素材が中国から直接影響を受けたと見るのは難しい。四神図とカラスがあるという点で高句麗後期の壁画(6世紀後半)の影響を受けたのではないかと思う」と述べた。


 高句麗古墳の壁画専門の研究者である全虎兌(チョン・ホテ) 蔚山(ウルサン)大教授(美術史)は「高句麗系とみるのが真実に近いだろう」と指摘した


37 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 11:21:13   ID:JpKZVA8Y 
キトラ古墳:天武の時代

被葬者
   皇族
   豪族
   渡来人

 皇族で有力なのが、天武天皇の皇子たち。
 天武天皇には十人の皇子がおり、その墓がどこにあるか分からない人が多い。
 また、天智天皇の子孫のうち、川島皇子(かわしまおうじ・かわしまのみこ。川嶋皇子)なども候補に挙げられている。

 豪族で有力なのが、右大臣・阿倍御主人(あべのみうし。布勢御主人)。
 その名は『竹取物語』にも登場するので、御存知の方も多いであろう(「2006年1月号 偽装味」参照)。
 また、同じく登場する大納言・大伴御行(おおとものみゆき)などの名も挙がっている。

 渡来人で有力なのが、百済王(くだらのこにきし・くだらのこきし)氏の人々。
 百済王氏は白村江の戦で完滅した百済の国王家であり、日本に亡命して帰化、飛鳥時代には準皇族として優遇されていた名族である。
 また、坂上田村麻呂の祖先・東漢氏の人々も候補に挙げられている


38 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:23:29   ID:JpKZVA8Y 
中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話

済州島にも太陽を落とした神話がある。
朱蒙(ジゥモング)という弓の名人


39 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:24:01   ID:JpKZVA8Y 
ミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。
 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。


40 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:24:59   ID:JpKZVA8Y 
芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである

41 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:26:59   ID:JpKZVA8Y 
鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた

42 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:31:52   ID:JpKZVA8Y 
高鴨神社 (たかかもじんじゃ) 御所市鴨神字篠

本殿の主祭神は阿治須岐高日子根命(アジスキタカヒコネノミコト:またの名を迦毛之大御神(カモノオオミカミ))、事代主命(コトシロヌシノミコト)、阿治須岐速雄命(アジスキハヤオノミコト)、下照姫命(シタテルヒメノミコト)と天稚彦命(アメワカヒコノミコト)。

高鴨神社は金剛山麓の丘陵地帯にある。弥生中期に鴨氏は大和平野の西南端(現御所市)に移り水稲生活を始めた。高鴨神社(上鴨社)、御歳神社(中鴨社)と鴨都波神社(下鴨社)が鴨一族の神社である。鴨族は4世紀に葛城国の平野部で鴨神信仰の下に集団生活を営んでいたが、次第に葛城族に征服され葛城王国に吸収されたらしい。5世紀になると、それまで併立していた三輪山麓の崇神天皇以降の三輪王朝(倭国)により亡ぼされる。その後大倭国(大和朝廷)成立時に蘇我氏がこの地に入ってくる。


43 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:32:50   ID:JpKZVA8Y 
高鴨神社の御祭神 タケツノミ(八咫烏)
八咫烏は加茂建角身が化身した姿だといわれており、建角身は賀茂御祖神社=下鴨神社(京都)の祭神ともなっています。ところで、奈良県御所市の高鴨神社では、祭神の味耜高彦根神と八咫烏を同一だと見ています


44 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:34:45   ID:JpKZVA8Y 
本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社です。

御所市内に「かも」と名のつく地名は多く、北は鴨都波神社のある旧御所町から南は鴨神の集落までの広い範囲に分布しています。

この鴨神の集落にある高鴨神社は、京都の上賀茂神社、下鴨神社の本家にあたる由緒正しい神社です。


45 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:36:22   ID:JpKZVA8Y 
大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。『山城国風土記』逸文には、賀茂建角身命が葛木山の峰から山代国に移ったと記す。『日本書紀』では、八咫烏の子孫が山城国の葛野に住む鴨県主(かものあがたぬし)であるとしている。

葵祭りで知られる上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)である。上賀茂神社は、賀茂族の氏神で、祭神として賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祀る。この神は葛木山の峰から山代国に移った賀茂建角身命の娘・玉依媛(たまよりひめ)命と山代の乙訓(おとくに)社の雷神との間に生まれた若き雷神であったと伝える。単に賀茂神社といえば、この上賀茂神社を指す。一方、下鴨神社は奈良時代の頃新しく作られた神社で、上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神の母である玉依姫とその父の賀茂建角身命を祀る


46 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:38:12   ID:JpKZVA8Y 
阿治須岐詫彦根命と下照比売命は、同母(父は大国主命・母は多
       紀理毘売命)兄妹で、天稚彦命は、下照比売命の旦那様です。
       天稚彦命は、天照大神の命で出雲に天下りますが、大国主に惚れ込んで
       しまい、大国主の娘を娶り、高天原に帰ってきませんでした。
       あまつさえ、高天原の使者(鳴女・雉)に矢を向けますが、返し矢(投
       げ返された矢)によって倒れてしまいます。


47 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:40:41   ID:JpKZVA8Y 
中国の「赤烏(三足烏)」
平群赤鳥(へぐりのあかとり)・・・・
娘が入鹿天皇の妻となり急速に政権の中枢に昇り始めた高句麗系の王族。


48 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 14:43:07   ID:JpKZVA8Y 
安芸の厳島神社 などもカラスと関係が深く カラスに神餞(しんせん)を供して年占をする烏祭 御烏喰神事(おとぐいしんじ)が行われる

49 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:20:46   ID:JpKZVA8Y 
blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/9080ed1e4586e006c60cc186e05fd988

天皇自ら籍田を耕して天地神祭祀に使う米をつくったり、天皇の正装に赤地の袞竜衣に冕をかぶったり。しかも袞竜衣の左肩には日輪の中に三本足のカラス、右肩には月輪の中にヒキガエル。背には北斗七星、両袖には龍が金糸でほどこされている


50 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:23:06   ID:JpKZVA8Y 
聖武天皇の肖像画をみたが、赤地の服の両袖に竜の刺繍をつけた袞竜衣を身につけ、頭には冕(べん)と呼ばれる冠を被っている。袞竜衣の向かって右肩には日輪の中に三本足のカラス、左肩には月輪の中にヒキガエル。称徳天皇の儀礼用衣装もまた肩の部分に三本足のカラスとヒキガエル。背には北斗七星、両袖には天子の印の龍(前足片方だけが4本爪で他の3本の足は3本爪)が金糸で施されている

51 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:27:21   ID:JpKZVA8Y 
景初2年の確かな証拠
blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/3eb5e3c9cffb11a43b588e5eaa3b0b56
『魏書』高貴郷公紀には、「甘露元年夏四月に、大将軍・司馬文王に冕と服を賜り、赤い沓を副えた」とある。この服もたぶん、赤色の袞竜衣だったろうと思われる。 そもそもは、始皇帝が皇帝と臣下に関する正装儀礼をまとめて、これが漢の時代に完成したものだといわれている


日本の王家はいたいいつごろから三本足のカラス、ヒキガエル、北斗七星に四神を信仰のシンボルとしてきたのだろうか。一説によると、天武天皇時代から袞竜衣が正式に決められてこれに準じてきたといわれている


52 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:33:24   ID:JpKZVA8Y 
天武天皇は自らを漢の皇祖(劉邦)になぞらえていた

私幣禁断とは一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年、日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」と規定した(『類聚国史』「延暦十五年」)。
799年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して「京畿の百姓」に「北辰」(北極星)に「灯火を奉る」ことを禁じた(『日本後紀』「延暦十八年九月」)。
811年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヶ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」を禁じた(『日本後紀』「弘仁二年九月一日」)。


53 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:34:52   ID:JpKZVA8Y 
中国の唐の高宗は「天皇」と称し、死後は皇后の則天武后によって「天皇大帝」の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による「天皇」の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。

道教では「北極紫微大帝(北極大帝・紫微大帝)」とも成り、また北斗七星が神格化された「北斗真君(北斗星君)」と習合した。「北極紫微大帝」と「北斗真君」とは本来は別の神であったが、現在でも分ける場合と同一視する場合とがある。たとえば江戸時代の『和漢三才図絵』は北極星(こぐま座のα星・Polaris)ではなく北斗七星(おおぐま座のドゥーベ・Dubhe)の付近を天皇大帝としている。中国の皇帝や日本の天皇家の北斗信仰にもこの同一視が見られる。中国の皇帝の祭服の左袖には北斗七星、右袖には織女星がデザインされている。宮内庁所蔵の孝明天皇の礼服 [1] は背中の中央上部にも北斗七星が置かれている。ただし、織女星は無い。


54 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:37:37   ID:JpKZVA8Y 
日本では奈良の都を平城京というが、その奈良時代中期に、聖武天皇が天平、神亀の年号を用い、大極殿で政治をとった。次の称徳天皇の時には、皇居を紫微宮とし、紫微令を任命している。

55 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:40:08   ID:JpKZVA8Y 
北辰とは具体的には北極星を含む北極五星と四輔四星からなり、これらを紫微垣(しびえん)とも紫微宮ともいう。地上においては天子の居所を指し、内裏の中心建物を紫宸殿と名付けている。北極五星は横一列に並び、北極・後宮・庶子・帝・太子と名付けられ、この極星を囲むように四輔(四弼)の四星が配置している。北斗七星は北極星を規則正しく巡り、つねに北極を指す星座である。伊勢神道は北斗の柄杓(ひしゃく)形(魁=かけ)は食物を太一・天帝(天照太神)へ運ぶ食物神、或は車の形から天帝の乗物と考え、豊受大神が丹波の竹野の里から勧請され、外宮に奉斉した。

天智、天武天皇(668〜686)は、白村江の戦い(663)で日本連合軍として敗れた百済からの学者、文人の亡命者より陰陽五行思想を受容し、(1)太極(太一)は子(ね)にあり、北極星は天の中央にある不動星で天皇大帝である。(2)子(ね)は月に宛てれば冬至を含む旧十一で、陰が極って「一陽来復の象」。午は夏至を含む旧5月で陽が極って「一陰萌す象」。つまり子→午は無から有への軌(みち)。午→子は有から無への軌(みち)。万象は子と午の軌道に乗ってはじめて、輪廻転生の永遠性が生まれる。太一の一元から陰陽の二極(二元)が派生し、対立する陰陽は、対立する故に互いに交感し五原素(木火土金水)を生み、この五気は循環輪廻し万物に永遠の生命を与える


56 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:41:03   ID:JpKZVA8Y 
高松塚古墳
藤原京から南に直線を引くと鬼の雪隠を通り、高松塚古墳につきあたる。発見は昭和47年。七世紀から八世紀初頭、持統天皇、文武天皇、元明天皇の頃に造られたものと推定され、天井の星宿図は中央に紫微宮があり、四周に二十八宿の星座、周囲の壁には四神図が描かれている


57 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:44:15   ID:JpKZVA8Y 
紫微中台(しびちゅうだい)は藤原仲麻呂(恵美押勝)が749年に創設した、光明子(紫微中台創設当時、既に夫の聖武天皇は娘の孝謙天皇に譲位していたため、光明皇太后である)の家政機関。令外官。

元来、皇后宮職・皇太后宮職と呼ばれていた組織が唐風に改称された。家政機関であったが光明皇太后の命令(詔勅)を施行・兵権を発動する機能を持ち、仲麻呂の権力拡大とともに国家の実質的な最高権力機関・軍事機関へと変貌した。太政官に準じた位置にあり、長官の紫微令は準大納言待遇、のちに紫微内相と呼称がかわると準大臣待遇になった。758年に官職の唐風改称が行われると坤宮官と改称され名実共に太政官と並ぶ機関となった。長官職は創設以来仲麻呂が務めていたが、758年に仲麻呂が大保(右大臣)に転じ空位になると、次第に重要性が低下し760年の光明皇太后の死によって廃止された。


58 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 16:49:34   ID:JpKZVA8Y 
藤原不比等を祖父に、聖武天皇を父に光明皇后を母にもった阿倍内親王がやがて史上初の女性の皇太子となり、孝謙天皇となり、さらに重祚(ちょうそ)して称徳天皇になったという、日本史上でも希有の女帝となった

阿倍は孝謙天皇として31歳で即位した。日本史上初めて皇女が天皇の位についたのだ。即位を記念して天平勝宝と改元され、上皇となった聖武念願の大仏開眼会が派手に挙行された。いわゆる天平文化のスタートである。皇太后となった光明のためには紫微中台(しびちゅうだい)が設置され、仲麻呂が長官に任命された。即位まもない女帝を補佐するための機関である。
仲麻呂はここで一気に権力の頂点の掌握をめざした。「大倭」(やまと)を「大和」と改称し、孝謙を譲位させて中国風に「皇帝」と呼び変え、大炊王を新天皇に即位させるという計画を練った。かくて天平宝字2年、淳仁天皇が誕生する。新たな権力体制である。
それにしても皇帝の名を冠するという狙いは仲麻呂らしい。孝謙は「宝字称徳孝謙皇帝」となり、亡くなった聖武にも「勝宝感神聖武皇帝」の諡号(おくりな)がおくられたばかりか、過去の天皇にも漢風諡号(しごう)をつけた。

仲麻呂は天皇は天皇家の血筋が継承するが、皇帝は天皇家以外の者が着任する可能性があるとみなしたのである。すべてを中国式にすることによって、過去の天皇主義による政治体制を一変しようという計画だった。仲麻呂自身も恵美押勝と名を変え、太政大臣を太師と改称して政務のトップに就いた。


59 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 17:23:19   ID:JpKZVA8Y 
淳仁天皇が即位した天平宝字二年の八月。 紫微中台は坤宮官という名前に改まります。

60 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 17:35:48   ID:JpKZVA8Y 
延暦15年(796年)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止しました(北辰祭の禁止令)。

延暦15年(796年)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止しました。表だった理由は「風紀の乱れ」などであったようですが、実際は大衆とともに多くの官吏が信仰していたため、色々と政務に乱れを生じたためであるようです。

妙見信仰として有名なのは千葉県の字にもなっている千葉氏
妙見信仰が関東地方に伝わったのは、天智天皇の666年から霊亀(716年)に近畿・駿河・甲斐・相模などに住んでいた帰化人を関東地方に移住させたことで、文化の1つとして伝わった?


61 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 17:36:26   ID:JpKZVA8Y 
中国では「天皇大帝北辰星也」と古典にあるように、「天皇」の呼び名はここから生まれています

62 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 17:39:00   ID:JpKZVA8Y 
『日本霊異記』によると、民間でも信仰が盛んになり、貴族の間では妙見法が修法され、鳥羽法皇の眼病平癒のために聖昭上人が妙見法をしたと記されています。
当初の妙見信仰は、北極星との関係はあまりなく、豊穣や御霊などに対する信仰で(農耕神、地鎮神、鎮守神)あったようで、武勇の信仰神ではなかったといわれています


63 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 17:46:01   ID:JpKZVA8Y 
高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。
いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞嗚尊)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?

八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主(いりしおみ)の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖だ。このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔鳴尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。


64 : 名無しさん@chs    2008/01/30(水) 17:47:02   ID:JpKZVA8Y 
高麗郡(こまぐん)は、かつて埼玉県に存在した郡である。

716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の移民1799人を武蔵国に移したことにより高麗郡(こまのこおり)として設置されたのが最初である。


65 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 10:34:12   ID:ByidSUEY 
西周中期 鳥形尊
說明:寶雞市博物館藏 高23厘米,長30厘米,腹深10.6厘米,重3公斤。
這件西周中期鳥尊高23厘米,長30厘米,腹深10.6厘米,重3公斤。鳥尊有誇張之意。鳥身中空,背部開方口,口上似應有蓋。鳥昂首勾喙,雙目圓睜。鳥腹下有極粗壯的三足,搴ュ了尊的穩定性,鳥尾羽ェ大,從兩邊方折下垂。方形鳥羽和鳥之三足起穩定均衡作用。三足鳥,現實生活中所無,周人鑄三足銅鳥,可能和神話傳說中的太陽鳥—三足烏有關。現藏寶雞青銅器博物館。


66 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 10:38:14   ID:ByidSUEY 
高句麗の金属製品は、盗掘されやすい構造の墓の特性上古墳からはほとんど遺物が発見されていない。「透刻草花文金銅冠」は幅の狭い金銅の板をアーチ型に立てたシンプルな装飾のみの冠である。「金銅透彫金具」は高句麗金属工芸を代表する優れた作品で、太陽を象徴する三つ足のカラスである三足烏が透かし彫りで描かれている。三足烏下部の前面に見られる雲のなかに鳳凰を配置し、その下には玉虫の羽を付けてある。

67 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 10:46:36   ID:ByidSUEY 
永泰公主墓 (えいたいこうしゅぽ)
西安市の西方77km、乾県の北原にある。
永泰公主(684〜701)は、唐4代中宗(3代高宗の子)の7番目の娘で、高宗と則天武后には孫娘にあたる。彼女は、則天
武后の甥「武延基」(武承之の子)と結婚したが、則天武后の怒りに触れ、大足元年(701)に17歳で夫とともに武則天よ
り死を賜った

有名なのは侍女図で、庭を逍遙する女官、如意や小箱をもつ女官などが優雅に、そして生き生
きと描かれている。これら、羨道にあでやかに描かれた宮女たちは、死後の彼女に仕えさせるためであろうといわれ、ここ
の壁画が、奈良の高松塚壁画のモデルともいわれている

後墓室の天井には天象図があるが、よく見えない。東の方は太陽
を象徴する三足金鳥で、西の方は月を象徴する玉兎、その間は天の川で、星々が正しい位置に配置されている。これもキト
ラや高松塚の原型のような。唐代の陵墓の特徴は、当時の宮殿を真似て作られ生前の生活を再現しようとした点にあり、墓
道や玄室には様々なものを飾り、色鮮やかな壁画は写実的に描かれて、柩は全て家屋の形をしている。


68 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 10:48:58   ID:ByidSUEY 
武帝は特別の条件で広く人材を天下に求め、東方朔を採用。諸子百家に通じ、奇行飄逸・機知・能弁「西王母が寵愛の、三足の青鳥が翼をならべ、宮中に飛び廻(めぐ)るは、王母の参内」と奏聞。

69 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 10:51:11   ID:ByidSUEY 
青磁三足尊汝窯の青磁は古来、中国陶磁の最高峰に位置づけられている。天青色と呼ばれる美しい空色の釉色が特徴であるが、世界で僅か数十点しか現存が確認されていない。この三足尊はその中でも最も美しいものの一つである。芸術をこよなく愛したことで知られる徽宗皇帝の時代に作られ、以後、歴代王朝の宮廷に伝えられた

70 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 11:19:10   ID:ByidSUEY 
後漢時代『論衡』に「日の中に三足烏がいる」。 前漢時代『淮南子』に「日の中に蹲烏(三足烏?)」。 ということでした

71 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 11:20:47   ID:ByidSUEY 
王充撰『論衡』には驚くべき事に西周時代の倭人について記述

倭についてはじめて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた
『漢書』地理志であり、王充が著した『論衡』(ろんこう)である。

『漢書』では、倭は朝鮮半島の南の海のかなたにあると書いており、
『論衡』では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。


72 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 11:21:50   ID:ByidSUEY 
「論衡」. 周時、天下太平にして、越裳、雉を献じ、倭人、鬯艸を貢す。(巻八). 暢草は倭より献ず。(巻十三)

《論衡.說日篇》云:「儒者曰:日中有三足烏,月中有兔、蟾蜍。」


73 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 11:23:24   ID:ByidSUEY 
「和名抄に、歴天記云、日中有三足烏赤色、今案文選謂之陽烏、日本紀謂之頭八咫烏、とあるは心得ず、」 ――とあります。
つまり、『倭名類聚抄』の中で源順が『〈八咫烏〉=〈三足烏〉』としているのは納得できない――と言っているのです


74 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 11:30:42   ID:ByidSUEY 
『金烏玉兎集』の「金烏」は 金=太陽、烏(ウ、カラス)=太陽の黒点を示し、「玉兎」は 玉=月、兎=月の兎の影を意味しているので、太陽と月の運行に対する天文知識の集積を著述した本らしい
吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。


75 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 13:22:40   ID:ByidSUEY 
仙女の西王母の仙薬を盗み飲んで月に昇った嫦娥(じょうが)という
女性が、副作用でひきがえるに変身したという伝説

漢籍においては、「蟾蜍(せんじょ)」は兎(ウサギ)とともに、月の象徴。夫の羿を裏切って一人で神になろうとした嫦娥と言う女性の伝説が由来である。日烏と呼ばれる3本脚のカラスが太陽を象徴したのに対して、月には陰気の動物であるヒキガエル(蟾蜍)またはウサギ(月兎)が棲むとされた

羿は弓の名手で、十日(太陽)のうち九日を打ち落とした。その功をもって西王母から不死の薬をもらうが、妻の嫦娥は一人でそれを飲み、仙人となって月に逃れてしまう。(『淮南子』)


76 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 13:22:53   ID:ByidSUEY 
岐阜県の南宮大社は中山金山彦神社という舌を噛みそうな名前でもある。ここに金山彦神が神武東征のときに金鵄を飛来させて戦勝をもたらしたという社伝がある

77 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 13:26:28   ID:ByidSUEY 
ヒキガエルは「蟾蜍(せんじょ)」とも呼ばれ、月が欠けるのはこのヒキガエルが月を食べるためと言われています。

78 : 名無しさん@chs    2008/01/31(木) 13:29:41   ID:ByidSUEY 
嫦娥、月にのぼる
八月十五日の中秋節の由縁

japanese.cri.cn/chinaabc/chapter16/chapter160110.htm


79 : 名無しさん@chs    2008/02/04(月) 14:35:16   ID:WSw0lyLc 
耽羅の貴族と一般民たちは故朱蒙の付与征伐政策によって付与民たちと貴族たちは南下して済州島で定着するようになります. ここで済州島神話を見れば高氏, 付与さん, そして梁氏という性が耽羅を建国するようになると言います.

80 : 名無しさん@chs    2008/02/04(月) 14:38:11   ID:WSw0lyLc 
耽羅は百済に帰属なる前に高句麗と密接な関係があった。

高麗神社の祭神・高麗王若光は、実は高句麗王族(高氏)の血縁かどうかはっきりしていない


81 : 名無しさん@chs    2008/02/04(月) 14:42:50   ID:WSw0lyLc 
中国の辞書で解説すると、高氏は、渤海郡にいた姜姓の一族
【姜】自体は、もともと西域〜四川省西部の高原地帯でしょうね


82 : 名無しさん@chs    2008/02/04(月) 14:44:34   ID:WSw0lyLc 
百済の扶余氏、新羅の朴氏などはそれらの国の建国神話から発したものだ。先に述べた金海金氏も慶州金氏も神話によるものである。済州島に高、梁、夫氏の姓があるが、これらも恥羅建国神話にまつわるもので、済州島の三姓穴伝説に由来する。

83 : 名無しさん@chs    2008/02/04(月) 14:54:11   ID:WSw0lyLc 
日本との関係は深く、『日本書紀』には、660年頃の
耽羅(タンラ=済州島の古名)が何回も記されているし、済州島

側の神話によれば、済州島の始祖3神人の妻となった一人が
「日本のお姫様」と伝えられています。


84 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 09:48:28   ID:nSQf8ajA 
中国でも烏は不吉ともされるが、神の使者でもある。白居易は烏が庭木に来ると富裕になるという伝承を歌う。そのとき烏をよびよせるために、大皿に肉をもって庭木の下におく。「鳥勧請」である。あるいは烏は決まった棲息知に毎日もどることから道先案内者として信仰される。
 日本にも世界共通の烏信仰が多い。大歳神とも縁のある鴨氏の祖先、賀茂建角身命(たけつぬみのみこと)は、神武天皇が熊野の山中に迷ったとき、八咫烏と化して先導した。それで建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して、年を占う烏相撲を執行する。この八咫烏は熊野の夫須美神の使いでもある。熊野の火祭では烏帽をかぶり、八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって、烏と化した神官が空中に扇で呪文を書く。それは烏文字で、護符や熊野誓紙の文字ともなった。


85 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 09:49:04   ID:nSQf8ajA 
崇峻天皇の皇子、蜂子親王は三本足の大烏に導かれて出羽三山を開いた。この霊山はその大烏にちなんで羽黒山という。羽黒の修験者は修行の成果を烏と化して行う「烏跳び」によって示す

86 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 09:50:19   ID:nSQf8ajA 
熱田神宮の大年神を祀る摂社、御田神社の祈年祭はそうした斎部の祭祀の輪郭を残すものかもしない。それは神饌を烏に食べさせる烏喰の儀にはじまる。神官はホーホーと烏をよび、御供を土用殿の屋根に投げる。烏が飛んできて、それを食べなければ田植祭事はおこなわれなかった。

87 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 09:51:26   ID:nSQf8ajA 
鳥の庭の木に止まった家は 富裕になるという伝承があり(白居易 元微之)
大皿に肉を供えて これを祭った(鳥勧請)


88 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 09:57:11   ID:nSQf8ajA 
烏跳び

上賀茂神社
重陽の節句、9月9日。
9の数は陽とされて、それが二つ重なる重陽の節句、別名菊の節句


まず禰宜方の刀自が幄舎を出て、弓矢を持って横っ飛びに中央へ進みます。(上)
次に祝方が同じように烏跳びをします。
二人が交互に跳んで立砂の前に進み、弓矢を砂に立てかけます。
次に刀を持って、同じようにして立砂にもたせ掛けます。

そして今度は円座を持って烏跳びをし、それに座って「かぁ、かぁ」
「こぅ、こぅ」と交互に烏鳴きをします。(下)


89 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 09:58:08   ID:nSQf8ajA 
太陽は陽であり、そこの住む鳥も3の陽数の足をもつ

90 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 09:58:35   ID:nSQf8ajA 
羽黒の修験者は修行の成果を烏と化して行う「烏跳び」によって示す

91 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 10:00:36   ID:nSQf8ajA 
上賀茂神社
重陽神事
烏相撲
9月9日

宮中等で行われた五節句の一つ。本殿に菊花を奉り、無病息災を祈願する平安時代より続く神事。その後、境内細殿前提で烏ずもうが行なわれる。
当神社御祭神の御祖父と関わり深い神事で、刀禰が烏跳びの作法をし、次に児童が10組相撲を取る。斎王代陪覧。(京都市登録無形民俗文化財。)その後、参拝者に菊酒が接待される。   


92 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 10:03:19   ID:nSQf8ajA 
 賀茂別雷神:賀茂神社こと賀茂別雷神社に祀られている神
下鴨神社の祭神 賀茂建角身大命の孫であり、建玉依姫命の子である。
当神社御祭神の御祖父と関わり深い神事で、刀禰が烏跳びの作法をし、次に児童が10組相撲を取る。斎王代陪覧。


93 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 10:05:03   ID:nSQf8ajA 
その昔、雷神が神社の北北西の方向にある神山に降臨され、天武天皇6年(678年)に、本殿に鎮座されたと伝えられている
神社の北北西にある「神山〔こうやま〕」に降臨し、天武天皇の白鳳6年(678)、現在地に社殿が造営されたという


94 : 名無しさん@chs    2008/02/05(火) 10:06:33   ID:nSQf8ajA 
賀茂建角身命は丹波国の神野(兵庫県氷上町御油 神野神社)の神伊可古夜比売を娶り、玉依日子、玉依日売が生まれた。 ある日、娘の玉依日売が石川の瀬見の小川で水遊びをしていると、丹塗矢が川上より流れくだり、取って床の辺に置いておくと玉依日売は男の子を産んだ。成人して、祖父の賀茂建角身命が、汝の父と思う人に酒を飲ませよと言ったところ、その子は天に向かって祭りをなし、昇天した。 そこで賀茂建角身命はこれを賀茂別雷神と命名した。彼の父は乙訓郡の雷神であった。そして賀茂建角身命、神伊可古夜比売、玉依日売の三神は三井社に座した。賀茂社の祭神は雷神・水神である事を示す説話である。

95 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:29:00   ID:/a/O/qWI 
1972年、中国湖南省長沙で、馬王堆漢墓が発見された

馬王とは当初、五代十国時代の楚王の馬殷(907〜930)と考えられていた

天上界中央に描かれた神
人面蛇身の神として著名なのは、伏羲(ふっぎ)と女媧(じょか)。
孫作雲氏は伏羲説を、林奈巳夫氏は女媧説を唱えているそうだ

三日月とひきがえる
月を現すのに満月でなく三日月なのは珍しいとのこと
嫦娥は、後で出てくる后羿(こうげい)という人物の妻。
西王母から不死の薬を盗み、月に逃げたが「ひきがえる」の姿に変えられたという伝説がある。
上部左側の龍の翼に乗って月を見上げているのが変身する前の嫦娥。

赤い太陽の中に、黒い烏が描かれている。
この烏を金烏というらしい。後漢以後は三本足の烏が多出するのだが、これは二本足。

右側の太陽の下、扶桑の木にからまっている龍
龍の体の上に4個、尻尾近くに1個、体の下の方に3個の赤い丸が見える。

 帝俊の妻羲和が太陽を十個生んだ。最初のうちは規則正しく昇っていたが、ある日悪戯心で一斉に天に昇ったため人びとは日照りに苦しんだ。
 そこで弓の名人后羿が、九つの太陽を射落とした、という伝説がある。
 金烏がいる大きな丸が残った太陽で、小さな丸が射落とされた太陽だという説があるらしいが、数が1個足りない。

上部中央
熊か鼠のような顔をした獣首人身の怪神が、これも、鹿か馬かはっきりしない動物に騎(の)って、鐸(たく)の両側から紐を引っ張って鳴らしている。鐸の柄の上には鉢があり、その上に盛られた穀物を、二羽の飛鳥がついばんでいる

二匹の龍の頭が見える。向かって右が赤龍、左が青龍である

下部
怪しげな魚が二匹交差している


96 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:29:56   ID:/a/O/qWI 
中国湖南省長沙  馬王堆漢墓
現在では、副葬品などから、出土したこの婦人は、前漢時代の長沙相である軑侯(たいこう)利倉(出土品の中には「利蒼」となっているものもある)の第一夫人とする説が有力である


97 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:33:47   ID:/a/O/qWI 
吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安部晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は安部晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。

98 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:37:38   ID:/a/O/qWI 
殷〜西周時代の金沙遺跡から発掘された「太陽神鳥金箔飾」に描かれている鳥は片足です

99 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:40:10   ID:/a/O/qWI 
朝廷では即位の
 大礼や朝賀の儀式などの際、大極殿正門の左右に日像・月像幢
 (にちぞう・がつぞうとう)を立てましたが、日像幢の頂部には
 太陽をかたどる金色の円板に三本足の烏、月像幢の頂部には月を
 あらわす銀色の円板に蛙と兎とが描かれていました。馬王堆漢墓
 の帛画の烏は二本足の黒烏でしたが、漢代の『淮南子(えなんじ)』
 には三本足の金烏だとあります。


100 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:44:39   ID:/a/O/qWI 
熊野神社の神紋
三本足の烏は、シナでは太陽に棲む瑞鳥(めでたい鳥)とされ、わが国最初の日章旗の日像には、三本足の烏が描かれていました。
烏を囲む正五角形は、当社を勧請した陰陽博士安倍晴明の五行説にならい五角形の境内が造られ、今日に伝えられていることを意味します。


101 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:46:21   ID:/a/O/qWI 
妙見菩薩は、また両手に宝珠を持ち、右手の宝珠には「金烏(きんう)」が、左手の宝珠には「玉兎(ぎょくと)」が描かれている

妙見菩薩は、法華経の行者を守護すると考えられています。日蓮自身の現前にも妙見菩薩が顕現したという話もあり、遺文のなかで北斗七星に言及していることなどから、広く日蓮宗の寺院で祀られるようになりました


102 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:47:39   ID:/a/O/qWI 
韓国の高句麗時代の真坡里(しんはり)古墳の壁画に、三本足の鳥が円形の火焔紋を背負っている壁画が見つかったというニュース報道

103 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:48:22   ID:/a/O/qWI 
大分県立日田高等学校校章の由来 校章は「太陽の中に住む三本足の金の烏」をかたどったもの。 これは中国の古い伝説「金烏玉兎」に由来する。 金烏は太陽すなわち日を玉兎は月を象徴し、両者で日月、つまり 永遠の歳月をあらわす

104 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:51:22   ID:/a/O/qWI 
烏と兎が登場し、日月祭とも呼ばれます。千葉県には麻賀田神社があり、日月の神を祀っています。

105 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:51:53   ID:/a/O/qWI 
隠岐の御客祭
 穏地郡武良郷、中村の御客祭(荒神祭)は霊山・大峰山の山祭である。ここに古式の的射神事が残されている。その的となるのは遠来の神、日神たる「烏」の図像である。武良郷全体の大祭「日月陰陽和合祭(略して日月祭)も、また日神(三本足の烏)と月神(白い兎)を、祭りの旗印(御神体)とする


106 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:52:21   ID:/a/O/qWI 
美保神社
 美保神社の青柴垣神事に用いられる神宝である三本足の烏、兎もそれぞれ日神と月神を象徴


107 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:55:02   ID:/a/O/qWI 
サッカー協会

発案者は、複数と推定されます。
 中心人物のひとりが、今の筑波大学にあたる東京高等師範学校校長、嘉納治五郎に日本協会創立を命じられた同校蹴球部長・内野台嶺(うちのたいれい)教授。のちに漢学者となるこの内野さんの先輩にサッカー界草創期の功労者、中村覚之助(1878-1906)が居たんです。和歌山出身の中村さんは、明治39年に28歳で早世しますが、生家はおそらく熊野那智大社の氏子。熊野伝説が身近にあったからこその発案だったようです。


108 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:56:26   ID:/a/O/qWI 
日田地方の伝説

およそ十万年ほど前、この日田の地がまだ湖水であったと言われている頃、金烏が飛んできて、東北の方へ飛び去って行きました。すると、湖を取り囲んでいた山の一部がこわれ、水が流れ出たあとに日田が誕生した――というのです。この話が日田高の『金烏』の由来と考えられていました


109 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 16:57:30   ID:/a/O/qWI 
「禅林類聚」という古い仏教の書物に「金烏東上人皆貴,玉兎西沈佛祖迷(金烏=太陽が東に昇るとき人は皆貴く、玉兎=太陰(月)が西に沈む時、佛も迷う)」という文言があります

110 : 名無しさん@chs    2008/02/09(土) 17:10:36   ID:/a/O/qWI 
ヒキガエルに関する伝説は『初学記』の『嫦娥奔月』に見える。「げい」
の妻で仙女の嫦娥(「じょうが」。原作では別の字で「こうが」)が西王母
から不老不死の薬を盗み、広寒宮(月宮)に逃げてヒキガエルとなったとい
うもの。


111 : 名無しさん@chs    2008/05/09(金) 10:42:54   ID:GExiT31w 
アポロンの烏。本来白かったが、後にアポロンの怒りを買い黒くなった。古い星座絵図の中には3本足で描かれている物もある。また、熊野本宮大社の八咫烏も色は白である。何れも太陽神の使い。オルフェウスの黄泉の国行き同様、ギリシャ神話と日本の神話が似ているという共通項として取り上げられることもある事象。

112 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:23:05   ID:/13Ny7Pc 
西王母画像磚
時代:後漢
法量:高さ41.7cm、幅46.4cm
出土年:1954年 出土地点
出土地点:新繁清白郷一号墓
 西王母は中国古代に伝わった神化した人物である。図中の西王母は雲気に満ちた瓶形の籠内に身を置き、頭上に「玉勝」を広げ、龍虎の上に座している。左には西王母がむさぼり食うための三足鳥と戈を握った大行伯が描かれ、右には瑞祥を表す九尾狐と霊芝を持った白い兎が描かれている。龍と虎の下には醜悪なヒキガエルが直立して踊りを舞っている。左下隅には冠をかぶり幅広の帯を締めた人が、両手で笏を持ちうつ伏せになりながら祈祷している。その右の二人はおそらく仙人であろう。この画像磚は「線」によって雲気を表現し、仙境の境地という画面表現を増加させている。出所:『中国四川省古代文物展』


113 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:32:04   ID:/13Ny7Pc 
山東省嘉祥県洪山村出土 画像石 
絵は三層に分かれている。
上層に西王母

西王母の右側に
 蟾蜍。そして、兎が3匹、仙薬をつくっている。兎の上には3本足の烏。
兎のさらに右側に「お座り」状態の九尾の狐

中層左側
男の前には軸と、そこから放射状に伸びるスポーク。
 およそ半分ほどは車輪ができかけている。
男は膝をまげて、当て金と金槌をもって、真っ直ぐな木(?金属?)にカーブをつける作業をしているようだ。男の後ろにいるのは、奥さんだろう。背中には子ども


114 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:33:08   ID:/13Ny7Pc 
最も早い時期の西王母の画像を留める画像磚は、前漢末から後漢初頭の鄭州を中心とする河南省から出ているが、後漢時期西王母画像が遺る主要な地域は、山東省、陝西省北部、四川省などの周辺地域で、画像石が多く遺る河南省南陽一帯では西王母が描かれる

115 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:36:09   ID:/13Ny7Pc 
扶桑樹

『山海経』に湯谷の水中に巨大な扶桑樹があり、烏をのせた十個の太陽が昇り降りしているとある。四川省の三星堆遺跡から出土した青銅製の扶桑樹は、下の枝に烏が九羽あり、上の枝にあったはずの一羽をなくしている


116 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:38:57   ID:/13Ny7Pc 
1986年に三星堆遺跡から出土した遺物は、山海経の記述内容と極めて類似している。山海経の内容は広範囲のもので、ひとつひとつを対比して行くことは困難であるが、山海経に記述されたシャーマンと思われる西王母のことを取り上げれば、『山海経大荒西経』に「西海の南、流沙のほとり、赤水の後、黒水の前に大きな山あり、名は崑崙の丘。神あり、人面で虎身、文あり、尾あり、みな白し、ここに住む。丘のふもとに弱水の淵があり、これを環る。丘のかなたには炎火の山あり、物を投げればもえ上がる。人あり、勝を頭にのせ、虎の歯豹の尾をもち、穴に住む、名は西王母」とある。

三星堆遺跡から出土した巨大な青銅製の鳥や黄金杖の魚や鳧の紋様、及び陶器の魚の紋様、鳥頭像などはみな伝説中の王である魚鳧と関係があるのであろう。


117 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:40:46   ID:/13Ny7Pc 
、『山海経海内東経』に、「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」とある。比較的知られている記述だが、鉅燕とは大きい燕という意味で、蓋国は現在の山東省のほぼ中央にあった小さい国。燕と蓋国の位置関係からこの「海内東経」の部分は信頼が置けない。それはともかくここで注目したいのは、「倭の北に在り倭は燕に属す」の倭のことである

後漢の王充の著した「論衡」に、「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢(鬯)を貢す。」、「周時、天下太平にして、越裳、白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ぐ。」とある。この記述は倭人に関する現在知られている最も古い伝承である。この記述のなかの「越常と倭人」は、鳥越憲三郎氏によれば、「四川省の倭人である蜀の国(劉備の時代の蜀ではない)は薬草の暢を献上し、南方の越裳、つまり(南)越の国も白い雉を贈ってきたことを述べたものである。」(「古代中国と倭族」中公新書)として、列島の倭人でないことを明らかにしている。


118 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:47:53   ID:/13Ny7Pc 
三本足のカラスの伝説は、ハンガリーの建国神話やアラスカのクリンギット族の
世界創造神話にも登場してくる。ワタリガラスは、世界に太陽や魂をもたらし、
いのちを吹き込み、新しい国を作る道案内をする。
ユーラシア大陸から北米大陸にかけて、ワタリガラス神話が分布


119 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:49:56   ID:/13Ny7Pc 
鴨県主(かもあがたぬし)。
賀茂県主と同じき祖。神日本磐余彦天皇(諡は神武)中洲に向さんとする時に、山の中、
嶮絶しくして、ふみゆかむに路を失ふ。ここに、神魂命の孫、鴨建津之身命、大きなる烏
となりて、翔び飛り導き奉りて、遂に中洲に達る。天皇その功あるを嘉したまひて、特に
厚く褒めたまふ。天八咫烏の号は、これより始りき。


120 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:50:27   ID:/13Ny7Pc 
明日香村のキトラ古墳の天井星宿図に、三本足のカラスが描かれていたという。
天文図の日輪(太陽)の中である。


121 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 14:58:34   ID:/13Ny7Pc 
呉の太伯

魏志倭人伝に「男子は大小となく、皆黥面文身す。古より以来、その使中国にいたるや、皆自ら大夫と称す。夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。 今倭の水人、よく沈没して魚蛤を捕え、文身し、またもって大魚・水禽を厭わせしも、後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異り、あるいは左にあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし。」

魏略に「帯方より女(王)國に至るには万二千余里。その俗、男子は皆、黥而(面)文(身)す。その旧語を聞くに、自ら太伯のすえという。昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。」とある。


122 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:03:38   ID:/13Ny7Pc 
「夏后少康」は「殷王朝」に先だつ中国の伝説的な王朝である「夏王朝」の第六代の皇帝です。

123 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:04:26   ID:/13Ny7Pc 
周の古公亶父(ここうたんぼ)は周の建国の父であるが、彼には太伯・仲雍・季歴という三人の子があった。このうちの末子の季歴が跡継ぎとなり、季歴が卒するとその季歴の子の昌が立った。後の西伯文王である

太伯・仲雍は、父が末弟の季歴を跡継ぎにすることを知って、身の危険を感じ、南方の荊蛮の地(周や越の統治の及ばない太湖北岸の現在の無ヨウ県と考えられている。)へ逃れ「呉の始祖」となったという。荊蛮の地(「荊」は楚の国をいい、「蛮」は僻地としての蔑称。)へはしった太伯は、自ら国号を「句呉(こうご)」と称した。荊蛮の民で彼に帰服したものが千余家あり、彼を立てて呉の太伯とした(「史記」呉太伯世家第一)。


124 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:09:38   ID:/13Ny7Pc 
壁画を調べましたら、世界を貫き宇宙を回転させる軸である世界樹が盛んに描かれるようになったのが「春秋時代」です。ここに世界樹に座る西王母、又は反対側に東王父がいる西王母が描かれております。つまり春秋時代では牽牛織女ではなく、まだ東王父と西王母の段階であったとも考えられます

125 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:10:17   ID:/13Ny7Pc 
淮南子に「西老は勝を折り、黄神は嘯吟す」とありまして、その注に西老を西王母・黄神を黄帝の神であるとしています。また同じく注に黄神は大地の中心にいる土神であるとしています。「山海経」では西王母のいる崑崙山には黄帝がいるともあります。別の文献では黄翁が西王母はかつて自分の妻であったとするものがありまして、「黄」の文字は西王母とも対を表した可能性があります

126 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:17:42   ID:/13Ny7Pc 
トヅカ古墳出土「神人車馬画像鏡」
鏡の内区は、鈕を中心に円座乳で4つに区分され、上下に脇侍を伴へる西王母と東王父の~像を置き、左右の二区の一つに馬車二つを現し、その上部は二頭の馬がこれを引き、下部の馬車は三頭の馬がこれを引いて互いに相反する方向へ走り、相対する一区には人物を乗せる馬四頭とこれに付属する一頭をあらわしている。そして、外区は銘帯、櫛歯文帯、唐草文帯に分かれ縁に続いている。
鏡の銘文には、

 「□氏作鏡四夷 多賀國家人民息 胡慮殄滅天下復、風雨時節五穀孰 長保二親得天力、傳告後世樂無亟、乗雲驅馳參駕四馬、導從群~宜孫子公」

とあり、作者名が「□氏作鏡・・」と一字判明せず、又「夷」の後「服」の字が抜け、文章全体は吉語を書き、中国鏡と前半部分は同じである。


127 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:22:16   ID:/13Ny7Pc 
伝群馬県出土
中国・三国時代(呉)
径 12.2cm 中国・後漢時代

神社の神宝として伝世されてきたという。文様は内区に神像と獣像が、さらに詳しく見れば神像の両端に龍鳳像が配され、それらの神像は東王父と西王母であろう。これらの神獣像を囲むように半円、方形の帯状文が巡っている。外区の周縁部には銘帯がみられるが、文字は鋳上がりが悪く、さらに逆文字である。文字は、「宝鼎二年十月□□□造作明鏡百錬□銅服□□」とある。
宝鼎は、中国呉時代の年号で西暦266年から268年まで続いたもので、宝鼎二年は西暦267年に該当する。


128 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:23:46   ID:/13Ny7Pc 
三角縁神獣鏡が魏の領域(中国)から一面も発見されないことから、森浩一・古田武彦らにより国産説が説かれた。

中国の王仲殊は、神獣鏡や画像鏡が魏と敵対関係にあった呉に多い形式であること、中国から出土していないことなどから、呉の工人が海を渡って日本列島で製作したと論じた


129 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:29:28   ID:/13Ny7Pc 
国分茶臼山古墳
三角縁神獣鏡

(銘文は「柏原市史」による)    ■作明竟 幽煉三剛 銅出徐州 師出洛陽    彫文刻鏤 皆作文章 配徳君子 清而旦明    左竜右虎 転生有名 師子辟邪 集会並    王父王母 游■聞■ ■■子孫 「(私は)明鏡を作る。三種の堅い金属を精妙に練りあげた。銅は徐州に出で、(鏡)師は洛陽に出ずる。模様を彫り、刻んで散りばめ、皆、文章を作る。徳を君子に配り、清くして明るい。左に竜、右に虎。転生して獅子、辟邪の名がある。集まって会し並ぶ。王父王母は■に遊び、■を聞く。子孫に■■。」


野洲町の古冨波山古墳出土の三角縁神獣鏡
   陳氏作竟  甚大好  ちんしさくけい   しんたいかう(Kau)    上有神守(及龍)虎   しゃういうしんしう  きふりょうこ(Ko)    身有文章  口銜巨  しんいうぶんしゃう こうかんきょ(Kyo)    古有聖人  王父母  こいうせいじん    わうふぼ  (Bo)    渇飲玉泉  饑食棗  かついんぎょくせん きしょくさう(Sau


130 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:30:29   ID:/13Ny7Pc 
「(鏡の)上には神守及び龍虎がある。その体には模様があり、口には巨(差し金)を銜える。いにしえには東王父、西王母という聖人がいて、喉が渇くと玉泉を飲み、腹が減るとナツメを食べた。」

131 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:32:36   ID:/13Ny7Pc 
三国志呉書に、「初め曹公(*)は、長江近くの郡県が呉の孫権に奪われることを恐れ、内(北)へ移すよう命令した。住民は驚きが広がって、廬江、九江、蘄春、広陵から十余万戸が、長江を東へ渡って呉に逃れ、江西には住民がいなくなってしまった。合肥以南では皖城だけが残っていた。」という記述があります。これは後漢の建安十四年から十八年(209〜213)にかけての出来事のようです
陳氏の「杜地命出(地を閉ざされ、出ずるを命ぜられた)」という経験は、この曹操の強制移住の命令を語ったものと考えられ、正始元年(240)から三十年ばかり前のことで、三角縁神獣鏡の制作時、陳氏はやはり老齢になっていたようです。


132 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:33:58   ID:/13Ny7Pc 
銘文に、王父、王母という文字が見られることから、三角縁は西王母の住む昆侖山の表現とすることができます。また、内部の神守や神獣はその神仙世界を、ぎざぎざや細かい三角模様の連続は、鏡の放つ破邪の光芒を表すと解せられます。そして、これを卑弥呼が好んだのなら、卑弥呼の鬼道は、道教の先駆的なものと言えそうです。

133 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:38:15   ID:/13Ny7Pc 
魏志韓伝
これは後漢時代の出来事なので、陳寿もまた後漢の資料を活用していた

「桓帝と霊帝の末(147〜188)には、韓、濊が勢力を強め、郡(楽浪郡)や県(郡の下部組織)は制することが出来ず、その人民の多くが韓国に流入した。後漢の建安中(196〜220)、公孫康は屯有県以南の荒地を楽浪郡から分かち、帯方郡を作った。公孫模、張敞等を帯方郡に派遣し、残っていた人々を集め、軍を組織して、韓、濊を攻撃したので、もと郡や県にいて、韓に流出した中国人がようやく出てくるようになった。この後、倭や韓は遂に帯方郡に属した。」


134 : 名無しさん@chs    2008/05/12(月) 15:40:47   ID:/13Ny7Pc 
文化的には

北部九州は、漢
出雲は越


135 : 名無しさん@chs    2008/06/18(水) 16:26:04   ID:J0mSXGCI 
高句麗 (高句麗, B.C. 37年頃 - 668年)は百済, 新羅とともに三国時代の古代国家中の一つだ. 地域的には現在の満洲と韓半島北部を約 700余年の間支配した国家だ.
建国
《三国史記》 〈高句麗本紀〉によればB.C. 37年東明聖王が卒本に都を作り、国名を高句麗にしたことが起源であり、原書によると吃升骨城に建国したと言う。 しかし東明王について言及した建国神話やあるいはその後のさまざまな情況を考えると、高句麗は滅亡した古朝鮮及び扶余出身の流移民とその地域の土着勢力が結合して成り立った国家だと推定される。B.C. 37年以前に建国された可能性が示されている。西暦 3年には尉那巌城に遷都して国内城を築いた。初期の高句麗は扶余及び漢の 4郡県との闘いの中で勢力を拡大し、肥沃な領土を占めるために積極的な征服活動をした。 またこのような過程の中で高句麗は王族である部を含んだソノ部, チョルノ部, スンノ部, クァンノ部など五つ部族で成立つ連盟王国として成長した。
成長
53年に即位した太祖王の時に高句麗の 5部族は中央行政単位である 5部に統合された。 これにより高句麗は内部自治権を除いた軍事権と外交権が王に帰属される古代国家として発展した。 以後も各部族は、除々に中央貴族に吸収され、 197年に即位した山上王の時に王位継承の兄弟間相続が排除され、富裕者相続制が確立され王権がより強まった。


136 : 名無しさん@chs    2008/06/18(水) 16:30:49   ID:J0mSXGCI 
扶余(ふよ、プヨ、부여〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fúyú〕)は満洲に存在した民族の一つ。遅くともB.C. 238年 ~ 494年には同地に同名の国家を形成していた。その版図は、中国三国時代には、万里の長城より北、南は高句麗に、東は挹婁に、西は鮮卑に接し、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に及んでいたという。夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。

なお、沃沮・濊・高句麗も扶余と同族であったとされており、これらを広義の扶余族(濊族)と見なせば、扶余族は満洲のみならず朝鮮半島北西部(両江道・慈江道・江原道)にかけて広く分布していたということになる。
参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


137 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:28:06   ID:CkY4JSPU 
「扶桑」とは『山海経』や『淮南子』などの古代中国神話に現れる、東方の日出ずる処に生えているという神木(「扶木」ともいう)、もしくはその神木が生えている場所のことです。

中国南朝・梁の普通年間(520〜527)、その「扶桑」を国号とする国からやってきたと称する僧侶の報告が朝廷にとりあげられました。
その僧の名を慧深といいます。ただし、慧深は南朝・斉(南斉)の永元元年(499)には、荊州(湖北省襄樊市一帯)にいて、扶桑国のことを語っていたと正史『梁書』東夷伝にあり、また正史『南斉書』の東南夷伝にも「扶桑」に言及する箇所がありますので、扶桑国の話は梁建国以前から、中国の一部人士の間で話題になっていたとみてよいでしょう。

慧深の証言によると、扶桑国には南朝・宋の大明2年(458)に罽賓国(カシミール)の僧5人が渡来してきて仏教を伝えたということです。また、扶桑国の所在は中国の東、大漢国の東方2万余里のところにあるということです。


『梁書』東夷伝によると、倭国の東北7千余里に文身国という人みな入れ墨をした国があり、さらにその文身国の東5千余里に大漢国があるとされ、それらの説明の後に慧深の証言が続きます。そこで、慧深の証言の「大漢国」と、文身国の東にあるという「大漢国」を同じとみなせば、扶桑国は倭国から3万里以上もの彼方にあるということになる。
また一里をどのくらいの長さとみなすか、そしてそもそも2箇所に出てくる「大漢国」を同一とみなすかどうかで、扶桑国の位置は変わってくるのです。
5世紀当時の倭国の中心は日本の畿内という説が有力ですが、九州北部とみなす説や、その両者とはまったく別の場所に求める説もあります。

また、中国の1里は時代によって違いますが、ほぼ400から500メートルの間。ただし中国正史で辺境に関する記述には70~80メートルで換算しないとつじつまの合わない例があることが知られています(有名な魏志倭人伝の行路記事など)。

 1里400〜500メートルとすれば、2万里は8000〜10000キロもの距離になります。これでは大漢国をどこにとるとしても、扶桑国への道のりは東アジアにおさまりきれません。一里を70〜80メートルで換算するか、行路記事の里数そのものを無視すれば、扶桑国を日本列島内に求めることも可能です。

「扶桑」は後世、日本国の美称としても用いられています。11世紀末、比叡山の僧・皇円が編んだ史書『扶桑略記』の書名などはその代表的なものです。したがって、扶桑国を日本の別名、もしくは日本列島内の小国とみなす説もあります。


138 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:31:26   ID:CkY4JSPU 
中野氏
「『山海経』の時代のシナ人が黒竜江の河口あたりから海を距てた対岸の島を望んだかどうか。現朝鮮の北東部のあたりのことなら熟知していたけれども。古代シナ人が想定した扶桑とは、やはり日本の南部の島のいずれかではあるまいか。しかし、それでもなおかつ、シュレーゲルの扶桑=樺太説に魅力をおぼえるのは、テラ・インコグニタであった樺太の謎のヴェールが剥がされた時、そこにたちまち古代神話のヴェールをかけ、ありとあらゆる知識を総動員して付会の説を展開してみせる、その精神の故である。シュレーゲルの説を少しく紹介したのも、現代のわれわれに欠けたその精神を称揚せんがためにほかならない」(「扶桑国」下)


139 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:34:12   ID:CkY4JSPU 
倭国は南朝に朝貢していたが、扶桑国は北魏と通交していたという

本邦の西国に「扶桑木(ふそうぼく)」と称する大木があり、外国の船がはるかにこの扶桑を認めて、日本の目当てとしたことから日本を「扶桑国」と言った、という俗説があります。また、中国のある字説に、太陽が木の下にあるのを「杳(ヨウ、くらい)」、木中に昇るのを「東」、木の上にあるのを「杲(コウ、あかるい)」とし、そこで言われる木は中国の東方の島(日本)にある「扶桑」であるとしています。
中井竹山は、これらを俗説とはしながらも、上古の日本に巨木があったことは事実であるとして、巨木伝説を紹介して考証した『扶桑木説(ふそうぼくせつ)』を書いた


140 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:35:04   ID:CkY4JSPU 
祕書晁監の日本國に還るを 送る  


積水  極はむ 可(べ)からず,
安(いづく)んぞ  滄海の東を 知らん。
九州  何處か 遠き,
萬里  空に 乘ずるが 若(ごと)し。
國に 向ふは  惟(た)だ 日を 看,
歸帆  但だ 風に 信(まか)す。
鰲身  天に 映じて Kく,
魚眼  波に 射て 紅なり。
ク樹  扶桑の外,
主人  孤島の中。
別離  方(まさ)に 異域なれば,
音信  若爲(いかん)ぞ 通ぜん。


141 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:37:05   ID:CkY4JSPU 
阿倍仲麻呂が、帰国する際に、送別の詩として王維が作ったもの

ク樹扶桑外:ク樹:(祕書晁監よ、貴方の郷里の樹木のあるところ日本は、)東海の日の出る処にある神木・扶桑が生えているところのそのまた向こうにあって。日本国は、扶桑のそのまた向こうにある。ここでは、扶桑と日本は別個のものとしている。この見方をより一層はっきりとさせたのが、かの有名な『燕山夜話』である。以下に要点を紹介しながら、所感を述べる。『山海經・海内北經』では、「倭國在帶方東大海内。」とだけ記している。これの表記は、史書の方でも、『魏書』『舊唐書』では、同様である。『梁書』『南史』等では、日本国を「倭國」とし、「扶桑國」とは、区別をしている。それらの「東夷列伝」では、この両者を分けて別個の項目に記録している。地理的に両者を比べれば倭国の位置は「在帶方東大海内」であって、扶桑国の位置は、「在大漢國東二萬余里」である。『南史』では、大漢国は「在文身國東五千余里」であって、文身国は「在倭國東北七千余里」となる。つまり、中国→倭国→文身国→大漢国→扶桑国というわけである。一種の「邪馬壹(臺)國論爭」ともいえる。 ・扶桑『山海經』に出る東海の中にある神木。その神木があるところ。ここは、朝衡の『銜命還國作』中の「蓬莱ク路遠,若木故園林。」に対応している。後世、扶桑国は日本国をさして謂うのが普通。


142 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:39:01   ID:CkY4JSPU 
中国の伝説で、東海の日の出づる所にある同根から雄木と雌木が生えた神木を「扶桑」または「扶木」と言う事に由来されており、これに基づいて、東海の日出づる国である日本を扶桑国と美称するようになったのです

143 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:39:51   ID:CkY4JSPU 
ハイビスカス伝説

中国の伝説で扶桑国は中国の東方にあり、陽出ずる国だとされています。

そこに、生えている神木が扶桑としている。

中国の暖地に渡来し生育したと記され、人の生命と健康を助ける神木とし

て大事にされている。

また、扶桑国は日本の別称となっているが、扶桑は本来、日本本土には

生育せず、琉球の特産であると、江戸時代の植物学者小野蘭山の著書

「本草綱目啓蒙」に「扶桑、通名仏桑華は和産なし、琉球の産なり」とあり、

扶桑が仏桑華で琉球特産の植物である事が記されています。

つまり、ハイビスカスを市花に指定している沖縄市こそが扶桑伝説の

地なのです。


144 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:42:36   ID:CkY4JSPU 
扶桑という名を冠した軍艦は現在までに二隻存在しております。
明治八年、日本は帝国海軍の創立に際して、最初に保有する正式な軍艦をイギリスに三隻発注したのですが、この中で最も大きな艦に「扶桑」(正確には「扶桑艦」)の名称が与えられ、これが初代となります。
新興国として、また新興海軍としての意気と期待をかけて、自国の名を与えたのでしょう。
この初代扶桑は、排水量三七十七トン、速力十三ノット、二四センチ砲を四門搭載した、甲鉄フリゲート艦と言う艦種にあたりました。
彼女は就役後、幾度かの改装、大改装を受け、明治三一年に制定された「海軍艦艇類別等級」により、二等戦艦という種別を与えられ、日本における公式な戦艦第一号となります。
しかし日露戦争終了後の明治三八年に二等海防艦に転籍し、明治四一年四月一日に除籍


145 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:45:13   ID:CkY4JSPU 
大正四年、海軍はれっきとした純国産の超ド級戦艦を建造する事を目標に掲げ、ここに日本初の自国設計・自国建造による超ド級戦艦・扶桑級として「扶桑」「山城」の二艦の建艦――実際には伊勢級二隻も含んだ四隻――をスタートさせます。
扶桑級は、金剛級に世界で初めて採用された当時最強の三六センチ砲を連装六基十二門も搭載し、完成時には基準排水量で二万九三三〇トンという史上最大、最強の戦艦となる予定でありました。
しかし、この扶桑級は産まれながらにして、重大な欠点……いや、欠陥があったのです。
その最たるものが、戦艦の要である主砲の配置でした。


146 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:46:52   ID:CkY4JSPU 
扶桑国探検
扶桑国とは何か
扶桑国日本国内説
www8.ocn.ne.jp/~douji/tanken.htm


147 : 名無しさん@chs    2008/06/19(木) 14:52:20   ID:CkY4JSPU 
扶桑の蚕は長さ7尺、太さは周囲7寸、金色で四季が巡っても死なず、5月8日には黄色い糸を于條の木に吐いて布にする。繭は作らない。糸は脆いが、扶桑木を焼いた灰の灰汁で煮ると、堅く強くなる。その蚕の卵は燕や雀の卵ほどの大きさがあり、扶桑木の下に生みつけられる。その卵を高句麗に持っていって育てても、その蚕は中国のものと同じくらいの大きさに変わってしまう。扶桑の蚕の糸を扶桑木の灰汁で似た黄糸300斤を扶桑国の使者がもたらしたが、梁の武帝がその糸で重さ50斤の金爐をつるしてみたところ、6本で支えられたばかりか、なお余裕があるようだった。(唐の張説『梁四公記』より)

148 : 名無しさん@chs    2008/06/20(金) 16:49:04   ID:Xzzhrf9+ 
皇位継承「儀式」宝典』(人物往来社)によると、天皇即位礼に使用された「袞竜衣(こんりょうい)」は、その左胸に「三足鳥」、右胸に「ひきがえる」が刺繍されており、その背面には北斗七星と四神が描かれる。

149 : 名無しさん@chs    2008/06/20(金) 17:02:24   ID:Xzzhrf9+ 
古代中国の四神(しじん)と世界最古の星宿(星座)図が石室内に描かれた奈良県明日香村の国特別史跡・キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初頭)で、天井にある星宿図の日輪(太陽)にカラスとみられる模様、石室北壁面にネズミの頭と人の服装を組み合わせたとみられる獣頭人身像がそれぞれ描かれていることが25日までに、研究者の指摘で分かった。以前に見つかった「寅(とら)」とみられる像と合わせ、壁面には十二支が描かれている可能性が極めて高くなった。日輪内のカラスは古代中国、朝鮮の古墳などにも描かれているが、国内の古墳で確認されたのは初めて。
 文化庁などでつくる「キトラ古墳保存・活用調査研究委員会」(座長、藤本強・新潟大教授)が昨年12月、内部をデジタルカメラで撮影した。
 天井東寄りにある「日輪」内では、黒い鳥の尾羽、翼、脚2本らしい模様が確認された。古代中国の神話で太陽の象徴とされた3本足のカラスとみられる。
 また、壁面には不鮮明な朱色の模様が北壁に等間隔で3カ所、東西の壁に1カ所ずつ、四神像の下に描かれ、そのうち東壁北寄りの1カ所は十二支の寅とみられているが、今回、北壁中央にある朱色のV字模様のほぼ真上で新たに、ネズミに似た動物の目、鼻、耳らしきものが描かれているのを確認した。


150 : 名無しさん@chs    2008/06/20(金) 17:05:38   ID:Xzzhrf9+ 
「キトラ古墳」の石室天井に描かれていた「星宿(星座)」は、現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壤(ピョンヤン)を含む北緯38〜39度地域から見た星空をもとに描かれていたことが30日、東海大学情報技術センターのコンピューター処理画像で分かった。
 3月の調査は超小型カメラで撮影したため、画像のゆがみが激しく、星の配置などは正確に分かっていなかったが、同センターでは、画像のゆがみを補正。同志社大学宮島一彦助教授(東アジア天文学史)が星宿の位置関係を復原。約600の星と34種の星座を確認した。
 それをもとに、緯度により異なる赤道と内規の半径比を計算し、観測地点を「北緯38〜39度の地域内」と算出。さらに、同地域に位置する地域を検討した結果、高度な天文技術を持っていた高句麗の都、平壤付近と推定した。観測年代は星の位置から紀元前3〜紀元後3世紀という。

高句麗と日本の関係は古く、「日本書紀」には、再三にわたって「高麗(こうらい)」の使者が来日したことが記されている。人とともに、舞楽、「紙墨」の製法など、高句麗が誇るさまざまな技術も日本に伝えられた。天文学もその一つ。
 高句麗滅亡の際、大同江に沈んだ石刻天文図を基にしたとされる「天象列次分野之図」は、星座や赤道が精密に描かれており、キトラ古墳の星宿にそっくりだ。しかし、高句麗は4世紀をピークに次第に衰え、668年、唐・新羅(しらぎ)連合軍に滅ぼされた。貴族や知識人など、大量の亡命者が日本に流れ込んだことで、7世紀末、高句麗文化の影響が一挙に日本で高まった。


151 : 名無しさん@chs    2009/03/06(金) 10:37:48   ID:2i4W2vrE 
ハンガリー
先祖はスキタイ族で東方から現在の地に移住したものといわれる。今でも一部の赤ちゃんのお尻に蒙古斑が出るというからアジア系

民族伝説にトゥルールという霊鳥が現れるけれど、これが日本の神武天皇東征の時の「やたがらす」の話しとほとんど同じ。

ハンガリ−の建国神話では、アルバ−ト王に率いられたマジャ−ル人が、南ロシアからガルパチア山脈を越えてハンガリ−に進入した際、王軍は酷く疲れはてて一歩も進めなかったが、鳶か鷹のような鳥が現れ、王軍は元気を回復して鳥に案内されハンガリ−に入り建国したという。ジンギス=カンという称号も、カンは君主を意味し、ジンギスは、ジンギス=カンが君主の位に着いた時、鳥が飛び降りてきて「チンギス・チンギス」と鳴いたので、これを瑞兆として自らの名前としたという。


152 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:06:22   ID:eaVIhkbQ 
。『魏書』蠕蠕伝に東胡の子孫と記される蠕蠕(柔然)に関して、その西移した一枝が六世紀中葉にヨーロッパに侵入しドナウ河流域を中心に勢力圏を築いたアヴァール族だったとみる説(内田吟風氏)がある。アヴァールはそののち九世紀末頃に、東方のウラル山脈中・南部方面からやって来たマジャール族に併わされてハンガリーとなるが、この建国神話にも鳥が活躍する。マジャール族が族長アールパートに率いられて南ロシアからハンガリーへ進入したとき、この軍が疲れ果てていたところ、鳥(鵄または鷹の一種)が現れて勇気づけられ、その先導でハンガリーの地に到り建国を果たしたので、この鳥は国家的民族的象徴となったという。これは、神武の八咫烏・金鵄の伝承にもつながるが、紀伊の熊野大社には八咫烏神事(宝印神事)があり、熊野神の使いとされた熊野烏の姿を印刷する熊野牛王神符を調製する。

153 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:11:38   ID:eaVIhkbQ 
フン族が、モンゴロイドを主流にしたアルタイ語族だったのは確かなようで、当時のローマの文献では「背が低くてコブみたいな頭に針の穴のような目、ぞっとする姿」と、さんざんな書き方してくれる

フィンランドとハンガリーの語源はフン族フィンランド人、ハンガリー人の母国語ではフィンランド、ハンガリーと言わない
スオミ、マジャール

匈奴の議論については林俊雄がフク(フォントが出ない)という青銅器の分布をもとに調査していますね。それによると新疆省と東欧で同じ形態のものが発掘されており、年代的に4世紀後半に突然中央アジアから南ロシア、東欧に拡大したことになるそうです。このことから、単一民族が移動したのか、その民族が勢力を一気に拡大したのか、更にそれらが政治的に統合されていたかはわからないが、文化的同質性と短期間の拡大からみて、 一つの民族的まとまりであったことは間違いなさそう、という
ハンガリーは周囲のスラブ人からウンガリアと呼ばれていて、オノグル族の名称が語源であった説の方がフンを語源とする説より有力だそうです。ただし、ハンガリーはアルパッドの時代、ハンガリー平原へ移住してきた時、ローマ都市アクィンクムの円形闘技場廃墟をアッチラの宮殿跡だと思いこんだらしく、その時既に彼らはフンの末裔だと自分達は考えていたとのことです。だからハンガリーの語源がフンという説がハンガリーで根強く語られるのも当然かと


154 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:13:12   ID:eaVIhkbQ 
ハンガリーで発掘されたサルマタイ人の墓からマジャール(ルーン)語で記された遺物が出てきたことから、 ... つまり、アーサー王伝説の主要要素はサルマタイの神話に由来するものであり、かつ、サルマタイは蒙古系の民族だということが明らかになった

155 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:17:08   ID:eaVIhkbQ 
マジャールとフンという2人の王子が狩りに出て魔法の白い鹿に出会うという建国神話

ハンガリーは、そのアッチラ大王率いるフンと少し遅れてウラルから来たと言われるマジャールの2つの民族によって形成されたと言われます。その以前も以後も、ドゥナ流域は幾多の民族が移動を繰り返して、民族的、人種的な混交を繰り返しています。その征服、被征服の歴史もあってか、欧州の孤児としてアジアに寄せる親近感も大きいとも言われます。

姓名の順序やマジャール語の語順が日本と同じだということは、かなり知られた事実

「フン」が突如、黒海沿岸(現ウクライナ付近)に現われたのは375年。ところがこの地には、ゲルマン民族のゴート族がバルト海沿岸から先に移動してきていました。そこでアジアのフンたちは、まず東ゴート族を蹴散らし、さらに西のカルパチア山麓(現ルーマニア付近)に踏み込んでみると今度は西ゴート族にも出くわしたので、これも追い出します。そしてドナウの川岸にゲル(テント)を結び、ここから人馬1体、怒涛のごとくローマ帝国に攻め入りました。ところが453年に大王アティラが死ぬと、またもや風のごとく故郷へ引き揚げてしまいます
出現から撤退までわずか70年あまり。それでも、キリスト教化しつつあった古代のヨーロッパ人にとって、騎馬の異教徒はよほど驚異だったのでしょう。それから400年以上も経て現われた全く別の騎馬民族のことも、彼らはフンと呼びました。呼ばれたマジャール人にすればいい迷惑だったでしょうが、結局は受け入れて11世紀にフンの国という「フンガリア(ハンガリー)」を建国します。


156 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:19:27   ID:eaVIhkbQ 
ハンガリー人は自分たちを「フン族の末裔」と信じてますが、 実際にフン族の末裔なのはドイツ人であり、ハンガリー人はマジャール人の末裔??

157 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:22:15   ID:eaVIhkbQ 
ブダペスト 英雄広場
中央にあるのが、高さが35メートルもある「建国千年記念碑」で、てっぺんには、十字架を持つ大天使ガブリエルの像が立っている。台座には、マジャール人の族長たち7人の像が、建国の英雄アールパート・ゲーザを中心にして、騎馬姿でぐるりと並んでいる。さらに記念碑を取り囲むようにして、歴代の王・将軍・芸術家など、ハンガリーが誇る英雄の像が並んでいる

第2次世界大戦後に人民共和国が成立したとき、英雄たちの群れに並んでいたハプスブルク家の王たちの像が取り払われて、代わりに、独立戦争の指導者の像になったという。像は全部で14人。


158 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:25:25   ID:eaVIhkbQ 
大ブルガリア
630年から635年までの間、クブラト・ハーンは2つの主要なブルガール人の氏族であったクトリグル(Kutrigurs)とウティグル(Utigurs)の統一を図り、強大な連合国家を打ちたて、中世の著者たちから「大ブルガリア」[4]、あるいは「オノグンドゥル・ブルガリア帝国」(Onogundur、あるいはオノグリア) [5]として記される。クブラトの影響下にあったアヴァール人もそれに含まれ、よってパンノニア平原まで広がっていたとする考え方もある。大ブルガリアの中心地はクラスノダール地方のタマン半島(en)にあるファナゴリア(Phanagoria)であった。


159 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:26:25   ID:eaVIhkbQ 
ハンガリー(Hungary)は「フン族の土地」の意味。5世紀にアッティラ率いるフン族に支配されたことがあり、その後スラブ、ゲルマン、アヴァールなどの民族なども侵入し9世紀末に(フン族に連なると言われる)マジャール人がドナウ盆地に定住

160 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:27:41   ID:eaVIhkbQ 
ハンガリー語では国名をMagyarorszag、自分達をMagyar(マジャール人)と言っている。 フン族はもともとは中央アジアにいたトルコ系の遊牧騎馬民族で、その後西進するにつれてフィン人、イラン人、スラブ人と混血したらしい。アヴァール人ももとは中央アジアに住んでいたモンゴル系遊牧民族で、後にマジャール人と混血したらしい。

161 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:29:51   ID:eaVIhkbQ 
ハンガリー人はマジャール人とも言いって、9世紀の末に今のハンガリーに移住した民族でした。
マジャール人は、移住前はロシア中部で遊牧生活をしていた騎馬遊牧民で、人種的にはモンゴル族、女真(じょしん)族、トルコ族などを含む東洋系のウラル=アルタイ語族に属しています。そしてその中でも西方に移動したグループであるウラル語族に属していて、フィンランド人やエストニア人とも同じ語族

マジャール族は、はじめカスピ海に注ぐ大河・ヴォルガ川の上・中流流域の「マグナ・フンガリア(大ハンガリー)」と呼ばれる所に住んでいて、5世紀ころからアゾフ海北岸にいたテュルク系のブルガール族と深い係りを持ちはじめました。7世紀になるとオノグル・ブルガール族が黒海とカスピ海の北岸周辺に建てた帝国の支配下に入ります。ちなみに、ここでいう「テュルク」とは広い意味でのトルコを指します。トルコ系の民族は騎馬民族として中央ユーラシアに広く活動していました。その中に属するブルガール族は、今バルカン半島にいるブルガリア人の祖先です。西方に移動した一部のブルガール族が、今のブルガリアに移住して先住民であるスラヴ族に同化して現在に至っています。あと「オノグル」は部族名で、意味は10本の矢。このオノグルという名称がなまって「マジャール」となり、のちにはマジャール族を指す名称になったらしいです。
しかし、そのオノグル・ブルガール帝国も西から来たテュルク系のハザール族によって追いだされてしまいます。そうして新たにハザール汗国(ハザールはんこく)という、強力かつユニークな国が建国されました。マジャール族はちょうど8世紀頃から、多くの部族がヴォルガ川を南下してドン川中・下流域と思われるレヴェディアという地域に住んだので、南接するハザール汗国に組み込まれることとなったのです。


162 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:32:32   ID:eaVIhkbQ 
8世紀末頃から9世紀初頭にハザール汗国は衰退しはじめたので、その帝国内でのマジャール族の相対的な勢力が強くなるということが起きました。危機感をもったハザール汗国は当時支配領域の東にいたテュルク系のペチェネーグ族を利用してマジャール族を攻撃させ、マジャール族はこのためさらに西方に追いやられることになりました。中央ユーラシアにおいての民族移動は、大体東から西への玉突きみたいに起こるようで、数百年前のフン族の大移動の時も同様でした。マジャール族の大部分は、889年までにヴォルガ川流域からは駆逐され黒海北岸に移りました。

895年にマジャール族はビザンツ帝国と結び、マジャール族とビザンツ帝国の間にあったブルガリア帝国の皇帝シメオンと戦う事となりましたが、この時のマジャール族指導者は最高首長位「ケンデ」に即いていたクルサーンと序列第二位の大首長「ジュラ」のアールパードで、ブルガリア遠征軍の2部隊の内ひとつはアールパードの息子レヴェンテが率いました。
この遠征は、ビザンツ帝国の裏切りによって孤立して敗北しました。しかも、遠征中にブルガリアと手を組んだペチェネーグ族が黒海北岸の新本拠地・エテルケズを襲ったため、マジャール族はさらに西へと追いやられたのです。そうしてマジャール族は、896年頃にハンガリー平原にやって来たのでした。


163 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:35:09   ID:eaVIhkbQ 
896年 アールパードを首領とするマジャール人がカルパチア盆地を征服
997年 首長ゲーザ死亡、イシュトヴァーンが世襲する
1000年 首長ゲーザの子、イシュトヴァーン1世が教皇シルヴェステル2世
より授かった王冠を戴き、ハンガリー初代の国王となる
1222年 アンドラーシュ2世王、貴族に特権を認める<金印勅書>を発布
1241年 バトゥー汗を首領とするモンゴル人の襲来(〜1242年)
1301年 アンドラーシュ3世の死により建国以来のアールパード朝断絶
1370年 ラヨシュ1世(大王)、ポーランド王を兼ね、中欧随一の強国に
(ハンガリー領土最大の時代)
1456年 フニャディ・ヤーノシュ、現在のベオグラードでトルコ軍を撃破
し、侵攻を食い止める
1458年 フニャディ・マーチャーシュ、王に選出(〜1490)
(名君マーチャーシュ王、ハンガリーをルネサンスの一中心地に)
1458年 マーチャーシュ王、ウィーンを占領
1514年 ハンガリー史上空前の農民反乱(ドージャ・ジェルジの乱)
1526年 モハーチの戦いでトルコ軍に敗退(ラヨシュ2世敗死)
(ハプスブルク家によるハンガリー王位継承)
1541年 トルコ軍のブダ占領(トルコのハンガリー支配の始まり)


164 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:36:11   ID:eaVIhkbQ 
聖イシュトヴァーンの王冠
イシュトヴァーンは、マジャール人の大首長で、各地に軍事遠征を行ってハンガリーの統一を進め、1000年12月25日にキリスト教に帰依しローマ教皇のシルウェステル2世から授かった冠を用いて、エステルゴムで戴冠式を行い正式にハンガリー王国が成立しました。この時の戴冠式に使われたのが、この「聖イシュトヴァーンの王冠」です。12世紀以降ハンガリー王国の戴冠の証として数えられ、代々引き継がれてきました。ハンガリー王はこの冠を受けない限り、正式な戴冠を受けたと認めらず、ハンガリー史上の50人以上の王がこの冠を受けてきました。


165 : 名無しさん@chs    2010/06/21(月) 09:37:21   ID:eaVIhkbQ 
マジャール人は9世紀にはドニエストル川とドン川の間へ移り、895‐896年に族長アールパード(?-907ころ)に率いられて、カルパチ盆地(ハンガリー盆地)に入り、独自の国家を建てた。このときのマジャール人は、7部族で40万一50万人とされている。

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167 : 名無しさん@chs    2010/07/28(水) 11:12:12   ID:b/f+1V6s 
古代人たちは三本足のカラスが太陽の中に住んでいると信じたし、ハンニムや海神を象徴する動物で檀君の杖の頭にカラスを彫刻することで檀君が神さまの獅子であることを現わしました。
東夷族は中華族を圧倒して東アジアの盟主の役目をしたが後に漢族との競争に押された
「漢族を逼迫した東夷の象徴」のカラス

高句麗の古墳の壁画から現われた三足烏。
カラスの姿をした立木と十五夜のカラス祭などで神鳥としてのカラスの跡を捜すことができます。

三足鳥は高句麗の雙楹塚、角抵塚、徳興里 1号、2号古墳、鎧馬塚、江西中墓、天王地神塚、長川 1号墳、舞踊塚、薬水里壁画古墳、そして五つのお墓(五回墳) 4号墓、5号墓などに描かれています


168 : 削除    削除   ID:削除 
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169 : 名無しさん@chs    2010/12/26(日) 09:42:34   ID:p4PzjvFE 
「八咫烏/ヤタガラス」の「咫」はヘンな字ですね。「尺」に
「只」という字をつけます。1尺は「寸」の約10倍でセンチに
直すと約30センチです。
 「1咫」は、手のひらの下端から先端までの長さで4寸――約
18センチ、「8咫」ですからこれを8倍すると144センチ、
ほぼ1.5メートルですから、ヤタガラスはかなり大きなカラス
ということになります。
 カラスは全身が黒、イメージは闇です。何となくうさんくさい
イメージです。しかし、神話の世界では光、太陽のイメージなの
です。ギリシャ神話でのカラスは太陽神アポロンの使いであり、
英国のワタリガラスは王家の紋章です。


170 : 名無しさん@chs    2010/12/26(日) 09:45:37   ID:p4PzjvFE 
大神神社
なぜ「三ツ鳥居」なのかというと、大神神社は三神を祀ってい
るからです。三神とは次の通りです。
       和魂 ・・・・・ 大物主神
       幸魂 ・・・・・ 大己貴神
       奇魂 ・・・・・ 少彦名神
賀茂建角身命は神武天皇の母である玉依姫(たまよりひめ)の父親


171 : 名無しさん@chs    2010/12/26(日) 09:49:08   ID:p4PzjvFE 
徳川家の紋は「三葉葵」
葵を家紋としていたのは、徳川四天王のひとりである本多正信です。本多氏は賀茂神社の神官の一族であり、そのル
ーツは賀茂氏、その家紋は「立ち葵」


172 : 名無しさん@chs    2010/12/26(日) 09:54:47   ID:p4PzjvFE 
3次魔方陣
6 7 2
1 5 9
8 3 4
中央の縦列が753。
縦横斜めの合計はいずれも15になる。七五三のお祝いが11月15日に行われる理由は
ここにあります。


173 : 名無しさん@chs    2010/12/26(日) 09:58:28   ID:p4PzjvFE 
「古事記」によれば、「賀茂」の名を持つ神としては「迦毛大御神」があります。
この迦毛大御神は「大国主命」の子であり、現在、奈良県御所市
の高鴨神社に主祭神として祀られています。大国主命の子といえ
ば、もう一人「事代主命」がいます。
 賀茂氏は主としてこの事代主命を祀っている。

これと関連のあるのは三島神社です。「三島」という名前が付く神社は全
国に1万社以上あるといわれますが、その総本山は、静岡にある「三島大社」なのです。『延喜式』によると、三島大社はもとも
とは、伊豆国賀茂郡にあったというのです。
 伊豆は、かなり早い時期から賀茂氏が支配していた場所であり伊豆諸島の神社はことごとく事代主命を祀っているのです


174 : 名無しさん@chs    2011/01/31(月) 22:22:52   ID:RMfOVctA 
ここで
ttp://china.syoyu.net


175 : 名無しさん@chs    2011/12/16(金) 17:54:46   ID:mEW7/ZP+ 
高鴨神社 奈良県御所市鴨神。旧県社。祭神は味鋤高彦根命(大国主命の御子神)である。本神社をもって『延喜式』に記載の「高鴨阿治須岐託彦根命神社四座」にあてている。『出雲国造神賀詞』の中に「大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静り坐さむ大倭国と申して……己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ……皇御孫命の近き守神と貢り置きて……」とあって、国つ神である。大田田根子の孫賀茂積命がこの神を奉じて、代々賀茂(鴨)氏が祭祀に当ったが、『続日本紀』天平宝宇八年(七六四)一一月の条に「昔、大泊瀬天皇(雄略天皇)葛城山に狩し給ふ。時に老夫ありて、毎に天皇と獲を争ふ。天皇これを怒りて其の人を土佐の国に流す。先祖の主る神、化して老夫となる。ここに放逐せられる」という経緯があったが、子孫の賀茂朝臣田守と兄法臣円興の奏言によって、淳仁天皇の同年月の七日に、再び土佐から戻して再興されたと伝承されている。

176 : 名無しさん@chs    2011/12/16(金) 17:55:34   ID:mEW7/ZP+ 
神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。
この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。


177 : 名無しさん@chs    2011/12/16(金) 18:03:52   ID:mEW7/ZP+ 
積羽八重事代主命(事代主)と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。葛城氏・
鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)に対して「
下鴨社」とも呼ばれる。事代主神は元々は鴨族が信仰していた神




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