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鴨の一族

1 : 名無しさん@chs    2007/04/16(月) 21:53:23   ID:c893d1b20e 
鴨長明は、もともと京都・下鴨神社(賀茂御祖神社=かもみおやじんじゃ)の有力な神官の出身でした。京都の東で、賀茂川と高野川が合流して鴨川になりますが、その2川が合流するY字状のところに下鴨神社があります。長明は、保元の乱が起こる前年の1155年ころ、この下鴨神社の神官の家の次男に生まれたんですね。鴨の一族は王朝以前から京都盆地の鴨川流域を開発した古い豪族で、代々、京都の水を守る鴨神社の神官を勤めていたんです。御手洗川とは、下鴨神社の森に流れる、京都の水への祈りが捧げられた神聖な川でした。

53 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 14:35:47   ID:cYqZGFJU 
三芳野神社は、川越城の築城前からあったそうですがそれを「太田道灌父子」が城を築くときに敷地に取り込んでしまったそうです。 神社横の細道が歌の舞

54 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 14:42:00   ID:cYqZGFJU 
【現社名】前玉神社
   【住所】埼玉県行田市埼玉5450
   【祭神】前玉彦命 前玉姫命
       『神明帳考証』前立命忍立命
       『新編武藏風土記稿』木花開耶姫命
       『大日本史』大己貴命前玉比売命
       『特選神名牒』前玉命大己貴命


55 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 14:45:42   ID:cYqZGFJU 
振魂尊。
 児が、前玉命。[掃部連等の先祖。]
 次の児が、天忍立命。[纏向の神主等の先祖。]

高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命−剣根命−夜麻都俾命−久多美命( 葛城直祖)


56 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 14:47:53   ID:cYqZGFJU 
尾張氏から別れたのが、籠神社の社家・海部氏と掃部氏
掃守は蟹守(かにもり)の転訛。系図によっては、天香語山命の父、つまり天火明命の位置に、天前玉命(天忍人命)とするものがあって、天香語山命(高倉下命)の兄の天筑摩命(あめのちくまのみこと)を「掃部直祖」としている。天忍人命と同神とされる天前玉命は、豊玉毘売命の弟の振魂命の子、つまり豊玉毘売命の


57 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 14:58:08   ID:cYqZGFJU 
埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣の金象眼の文字に、自分は ワカタケル大王がシキ宮にいた時
第一の部下であった とある。


58 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 15:01:13   ID:cYqZGFJU 
出雲祝神社(村社・所沢総鎮守・入間市宮寺鎮座)
祭神:天穂日命(アメノホヒ命)・天夷鳥命(アマヒナドリ命)・兄多毛比命(エタモヒ命=武蔵国造)
 もと寄木明神といったという。第十二代景行天皇の頃(約2000年前)、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地に立ち寄り、天稲日命・天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬したことに始まる神社


59 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 15:01:58   ID:cYqZGFJU 
『廣瀬神社』
廣瀬神社(県社・狭山上広瀬鎮座)
祭神:若宇迦能売命(ワカウカノメ命)・倉稲魂命
 日本武尊が東征の途中、この地に立ち寄り、この地が大和国広瀬郡川合の広瀬神社の地域によく似ていると称し、幣帛を立てて穀物の神である若宇迦能売命を祀り、武運長久と五穀豊穣を願ったことに始まるという。しかし大和の広瀬神社は日本武尊の時代よりも後の天武天皇4年の創始とされており、武蔵国に分祀された記録もない


60 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 15:03:07   ID:cYqZGFJU 
物部天国渭地祇神社(もののべてんくにいちぎ神社・県社・通称北野天神社・所沢市北野鎮座)
祭神:
物部天神社:櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ命)
国渭地祗神社:八千矛命(ヤチホコ命=大国主命)
天満神社:菅原道真公
 物部天国渭地祇神社とは物部天神社・国渭地祗神社・天満神社の総称である。景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている


61 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 15:11:15   ID:cYqZGFJU 
木更津には金鈴塚古墳(6世紀の終わり頃と推定される全長約90メートルの前方後円墳)があって、関東では珍しいほどのその豊かな出土品から、木更津と大和朝廷との深い関係が想定されている

金鈴塚古墳には、秩父産の緑泥片岩からつくられた箱型石棺が安置されている
鈴塚古墳はもとは二子塚といわれ、昭和25年(1950)の学術調査
金の鈴5個をはじめ豪華な装いの刀剣や馬具など、予想をはるかに超える
きらびやかな副葬品を出土。なかでも金の鈴は、日本で唯一の貴重な出土例
であることから『金鈴塚』と命名されました。


62 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 15:11:49   ID:cYqZGFJU 
金鈴塚古墳はかって小櫃川(おびつ)河口付近に24基の古墳があった長須賀古墳群の一つで600年頃の前方後円墳

63 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 15:25:26   ID:cYqZGFJU 
銚子市猿田町
猿田神社は、社伝によれば垂仁天皇25年(紀元前5年)の創祀<そうし>と伝えられ、猿田彦大神<さるたひこのおおかみ>・天鈿目命<あめのうずめのみこと>・菊理媛命<くくりひめのみこと>が祀<まつ>られています。
 本殿は807年(大同2)に、勅命<ちょくめい>(天皇の命令)によって改築され、その後もたびたび修築が行われました。


64 : 名無しさん@chs    2008/10/19(日) 15:31:10   ID:cYqZGFJU 
常陸国北西部に点在する(出雲系様式といわれる)前方後方墳がほぼ5世紀初頭のものと推定されている

65 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 13:20:20   ID:/h4roMTE 
崇神天皇期に知々夫彦命が知々夫国造になっており、時代が下って成務天皇期に兄多毛比命が夭邪志国造、伊狭知直が胸刺国造に定められた

『旧事本紀』の「国造本紀」では、知々夫国造条に「瑞籬朝御世、八意思金命十世孫知知夫彦命定賜国造、拝祠大神」と記されており、瑞籬朝とは崇神朝のことであり、東国では最も早い時期に知々夫国造が置かれたと伝えます。


66 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 13:30:10   ID:/h4roMTE 
秩父神社
第10代崇神天皇時代(約2080年前)知々夫国造・知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が先祖の八意思金命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったのが創祀といわれ、秩父の総社として古くから崇敬を集め、武蔵国府の総社(東京都府中市:大国魂神社)には四ノ宮として勧請されたという。
鎌倉時代に秩父平氏が崇敬したといわれる妙見菩薩を合祀し、大宮妙見と称したという。


67 : 名無しさん@chs    2008/10/22(水) 13:34:11   ID:/h4roMTE 
・知知夫国造。瑞籬の帝[崇神天皇]の御世に八意思金命の十世の孫の知知夫彦命を国造に定められた。大神を斎奉る。
・須恵国造志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に茨城国造の先祖の建許呂命の子の大布日意彌尊を国造に定められた。
・馬来田国造志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に茨城国造の先祖の建許呂命の子の深河意彌尊を国造に定められた。
・上海上国造。志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に天穂日命の八世の孫の忍立化多比命を国造に定められた。
・伊甚国造。志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に安房国造の先祖の伊許保止命の孫の伊己侶止直を国造に定められた。
・武社国造。志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に和邇臣の先祖の彦意祁都命の孫の彦忍人命を国造に定められた。
・菊麻国造。志賀高穴穂の帝[成務天皇]の御世に无邪志国造の先祖の兄多毛比命の子の大鹿国直を国造に定められた。


68 : 名無しさん@chs    2008/11/18(火) 15:33:51   ID:vyt9aM0w 
大神神社の大物主神を奉祭する祭主、大田田根子は出雲の名族、神門臣の娘、美気姫を妻とし、大御気持命を生んでいる。また、この大御気持命は出雲鞍山祗姫を娶り大鴨積命・大友主命・田田彦命を生んでいる。大鴨積命は大賀茂都美命とも書くが、大神朝臣、賀茂朝臣の祖、賀茂神社の奉斎に当ったと『姓氏録』は記している。こうした伝承は崇神朝、大田田根子、御気持命、大賀茂都美命は大和にありながら出雲神門臣、出雲鞍山祗(出雲積)の女性を妻に迎えていることの反映であり、出雲神門臣は出雲国神門郡、出雲積は出雲国出雲郡出雲郷にその居住地をもつ氏であることを知ると、大和と出雲の間の交流が極めて活発に行われていた

69 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:19:44   ID:o6nkuFl2 
八咫鏡は河合神社、八重垣剣は別雷宮に預けおく。

 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の三十「天君都鳥の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P261-262 )


70 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:21:41   ID:o6nkuFl2 
下鴨神社の境内にある河合神社の鎮座の年代は、不詳であるが神武天皇の代から余り遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とは、古代からこの神社の鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は「日本書紀」に「社戸」と訓まれ、それは本宮の祭神と同系流の神々との意である。延喜元年(901)12月28日の官符には「河合社、是御祖、別雷両神の苗神也。」ともある。

71 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:24:09   ID:o6nkuFl2 
下鴨神社

賀茂御祖(かもみおや)神社

祭神
(東本殿)玉依媛命(たまよりひめ)、(西本殿)建角身命(たけつぬみ)
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷大神(かもわけいかづち)の母神と祖父神。

『山城国風土記』逸文によると、下鴨神社の前身は三身社(三井社)で、建角身命、丹波の伊可古夜日女(いかこやひめ・賀茂別雷命の外祖母)、玉依日女がまつられていた。「新抄格勅符抄」によれば、765(天平神護元)年に神戸(かんべ)が上賀茂神社に二十四戸、下鴨神社に二十戸が与えられたとあるので、その頃にはすでに下鴨神社は存在していた。
その後は上賀茂神社と一体の社として、784(延暦3)年、長岡京遷都の際には神位(従二位)が授けられ、この頃から朝廷と直接的な関係が生じた。平安京遷都前年の793(延暦13)年には桓武天皇が遷都のことを奉告させ、翌年には自ら行幸した。807(大同2)年には伊勢神宮に次ぐ神位(正一位)が授けられた。


72 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:26:19   ID:o6nkuFl2 
鴨川近辺の玉依姫命を祭神とした玉前神社や安房神社

河合神社の正式名は鴨河合坐小社宅神社(かものかわあいにいますおこそやけ)というそうです。


73 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:28:49   ID:o6nkuFl2 
神武2年、「葛野主殿県主部」が賀茂建角身命を奉斎していたと『日本書紀』に記されており、これは天神玉命を祖神とする鴨氏と同じ氏族にあたる。また『賀茂神宮賀茂氏系図』によれば、賀茂建角身命の子孫である大二目命が「鴨建角身命社」を奉斎しており、賀茂御祖神社の始源の社とされている。崇神天皇7年、社の瑞垣が造営され、垂仁天皇27年、神宝が奉まつられている。また、緩靖天皇の御世より御生神事が行われ、欽明天皇5年から葵祭が行われている。糺の森周辺の発掘調査により弥生時代の住居跡や土器が発掘され、古代より続く祭祀の跡と証明された。
 『姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神皇産霊尊の孫とされ、神武東征の先導役として天照大神の命を受け、八咫烏と化って天皇を導いたとされる。『山城国風土記』によれば、初め大和の葛木山に宿り、山城國岡田の賀茂から木津川を下り、桂川を遡行して久我の国に着いた。娘の賀茂玉依日売は石河の瀬見の小川において丹塗矢を拾い男子を出産したが、父神が誰か分からない。祖父の賀茂建角身命が宴を開き、男子に「盃を父と思う神に飲ませよ」と問うと、男子は屋根を突き破り天上へ昇ったとされる。『秦氏本系帳』によれば、松尾大社の祭神である大山咋命をその父神と見なしている。賀茂御祖神社では賀茂建角身命と賀茂玉依日売を祀り、賀茂別雷神社ではその男子である賀茂別雷神を祀っている。


74 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:30:38   ID:o6nkuFl2 
御生神事
 『社記』によれば、緩靖期を起源とする。明治初年までは御生神事と称され、御蔭の地で行われるところから御蔭神事、あるいは御蔭祭と呼ばれるようになった。御生神事は鴨神社創祀の祭で、祭神の荒魂が御生され、馬で神霊を本宮へ奉迎し、本宮の和魂が新しい生命と合体されるという古代祭祀である。『源氏物語』では「みあれ詣で」と取り上げられ、新しい生命の息吹をうけて身も心もよみがえると言う御生の思想が信仰されていた。一方、神々しい神迎えの行粧が有名になり、『勘仲記』をはじめ数々の史書に登場する。御蔭の地で御生された神霊は、途次の鴨社総社で路次祭を行い、糺の森の神域に着御、馬に遷御し、切芝に入御する。入御した切芝では、神霊に鴨社の創祀と伝承を詠楽によって奏し、風俗舞に表わし物語ると言う古代祭祀である。


75 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:41:48   ID:o6nkuFl2 
秦氏の首長だった秦河勝が広隆寺(当初は蜂岡寺)を建立した頃(603)にあたる。その広隆寺の東隣に、大酒神社がある。秦氏の氏神を祀っている。

大酒神社から東へ歩いて15分ぐらいの場所に、蚕の社(正式には木島坐天照御魂神社)がある。この社もまた7C頃の創建とされている。
本殿の西に元糺(もとただす)の池がある。現在は枯れてしまっているが、泉が湧いていたらしい。この池の中央に三柱の石鳥居がある。いつごろの創建か不明だが、現在のものは享保年間(1716-36)に修復されたものである。
ただこの三柱の石鳥居が一体何を表したものなのか長らく謎とされてきた。

この三柱の石鳥居について謎を明らかにしたのは、大和岩雄氏だった。以下大岩氏の説による。
元糺の池は、平安時代に下鴨神社に「糺」の名を勧請して以後、そう呼ばれるようになったらしい。
「糺」とは朝日が「直射(たださ)す」の意で、元糺の池は太陽を遥拝する場所だった。
この地から夏至の太陽を見ると、比叡山(その最高峰の四明岳)から昇り、愛宕山に沈む。冬至の太陽は、稲荷山から昇り、松尾山(日埼峯)に沈む。
さらに興味深いことに、元糺の池を中心に、北東から南西にかけて、比叡山の日吉大社、下鴨神社、松尾大社が直線上に位置し、いずれも大山咋神(山の神)、鳴鏑矢で象徴される天神(雷神)が祀られている。(下鴨神社には、大山咋神は祀られていないが、大岩氏によると、もともとは祀られていたと、説得的に説いている。)


76 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:48:32   ID:o6nkuFl2 
下鴨本社に祀った玉依姫命は丹塗(にぬり)の矢 に変じた火雷神(ほのいかづちのかみ)の愛をうけて別雷神(わけいかづちのかみ)を産んだ女人

「糺の森(糺すの森)」なぜ「糺す」なのであろうか?

 また「糺の神(糺すの神)」とは、京都下鴨神社の御祭神、東殿「玉依媛命」と西殿「賀茂建角身命」のことであろうか?、「賀茂別雷神」のことなのであろうか?。

 八坂神社の御祭神は、「糺の神(糺すの神)」(八坂神社の祭神・スサノオ命・須佐之男命・素盞鳴尊)とも云う。

何か関係あるのであろうか?

糺(ただす)の森の「ただす」は只州とも書く。賀茂川と高野川の二つが合流して鴨川となる。

その合流点にできた三角州を「糺の森」と呼ばれていた


77 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:53:39   ID:o6nkuFl2 
秦(はだ)の氏女(うぢにょ)が御手洗川の川辺で水を汲み神に手向けていると、川上より白羽の矢が流れきたり水桶にとまる。これを取って帰り庵の軒にさすと、懐胎して男子を産んだ。この男子が別雷神(わけいかづちのかみ)であり、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神となる。
別雷神を産んだ秦の氏女すなわち玉依媛命(たまよりひめのみこと)は別雷神の御祖(みおや)であるから、媛を祀る下鴨神社は賀茂御祖(みおや)神社と呼ばれるのである。
この曲に語られる神婚伝説は古くからこの地に大勢力をもっていた賀茂(鴨)氏一族と、今一つの豪族である帰化人系の秦氏との協力連繋を示すものとする見方もある。

上賀茂神社(賀茂別雷神社)の由緒抜粋
「 御祭神 賀茂別雷大神
神代の昔、本社の北北西にある秀峰神山(こうやま)に御降臨になり、天武天皇の御代(678)、現在の本殿に御鎮座になった。御鎮座以来広く庶民の信仰を集め、皇室の御崇敬は歴代にわたり、行幸啓は枚挙にいとまあらず、国家の重大事には必ず奉幣、御祈願があった。
嵯峨天皇は皇女有智子内親王を斎院と定め、天皇の御杖代として御奉仕なさしめ給い、以来35代、約400年続いた。「延喜式」では名神大社に列し、のち一ノ宮として尊崇せられた。また摂関賀茂詣、武家社参相次ぎ、特に徳川家は家紋の三ツ葉葵が、当神社の神紋二葉葵に関係があるところから、特別の信心を寄せた。明治以後終戦まで、官幣大社として伊勢の神宮に次ぐ、全国神社の筆頭に位した。 」


78 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 01:56:08   ID:o6nkuFl2 
可茂の社というのは日向ひむかの曾そうの峰(南九州の高千穂)に天降った、賀茂建角身命かもたけつぬのみことという神をまつる。 この神は神武天皇の大和国平定の折に先導をつとめ、しばらくは葛城山かつらぎさんの麓に居られたがやがて山城の国の岡田(加茂町)に居住された。 さらに木津川を下って鴨川と桂川の合流点から鴨川の上流を見渡し「狭い川であるが清らかな流れの川だ」と言われ、鴨川を「瀬見の小川」と呼ぶようになった。 そして命はこの川をさかのぼり久我国の北の山麓に移られた。 この時より、この地方を「賀茂」と言う。
 また、この風土記の逸文に関連する節話が社家伝わっている。 その一説は、神武天皇の大和国平定に功績のあった賀茂建角身命は葛城山麓に住んでおられたが、やがて葛城山系を北へたどりて走谷はしりだに(現在の枚方市加茂建豆美命かもたけつみのみこと神社)に達し、そこにしばらく居住の後、再びたどって乙訓(現在の長岡京市角宮すみのみや、建角身命の「角」の字から名づけられた)に定住され、丹波国の伊可古夜比売いかこやひめと結婚されたという節話である、と言う2説があり、風土記逸文の葛城―岡田―久我の移動を「東のルート説」と称し、社家の節話の葛城―走谷―乙訓の移動を「西のルート」と称している。


79 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 02:00:32   ID:o6nkuFl2 
賀茂家家系

                      ┌ 玉依媛命―賀茂別雷命
神皇産霊尊―天神玉命―天櫛玉命―鴨建角身命 ┴ 鴨建玉依彦命―五十手美命―┐
┌───────────────────────────────────┘
└麻都躬之命―看香名男命―津久足尼命―猿弟人命―佐佐乃彦命―菅牽命―稚可土乃命


80 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 02:00:45   ID:o6nkuFl2 
賀茂家家系

                      ┌ 玉依媛命―賀茂別雷命
神皇産霊尊―天神玉命―天櫛玉命―鴨建角身命 ┴ 鴨建玉依彦命―五十手美命―┐
┌───────────────────────────────────┘
└麻都躬之命―看香名男命―津久足尼命―猿弟人命―佐佐乃彦命―菅牽命―稚可土乃命


81 : 名無しさん@chs    2009/08/02(日) 02:00:56   ID:o6nkuFl2 
賀茂家家系

                      ┌ 玉依媛命―賀茂別雷命
神皇産霊尊―天神玉命―天櫛玉命―鴨建角身命 ┴ 鴨建玉依彦命―五十手美命―┐
┌───────────────────────────────────┘
└麻都躬之命―看香名男命―津久足尼命―猿弟人命―佐佐乃彦命―菅牽命―稚可土乃命


82 : 名無しさん@chs    2009/08/09(日) 09:22:11   ID:cHz9TPFQ 
角宮神社 長岡京市井ノ内南内畑35 infoseek
阪急西向日 西1500m

祭神 火雷神
配祀 玉依姫命、建角身命、活目入彦五十狹茅尊

由緒
式内大社乙訓坐火雷神社(ホノイカツチ)の論社。もう一つは向日神社に併祭されている火雷神。
『山城国風土記』では、賀茂建角身命の子神で、水辺の女神玉依姫と丹塗矢との神婚によって、上鴨神社の祭神賀茂別雷神が生誕した伝承を戴せ、その丹塗矢が乙訓坐火雷神であるとしている。
火雷神が初めて国史に登場するのは、大宝二年(702)のことで、乙訓郡火雷神に旱魃の度に祈雨をしているとある。
江戸時代にはこの角宮神社が乙訓坐火雷神社と考えられていた。社伝にも「継体天皇六年勅して乙訓社を建営し給ひ、火雷神を鎮め給ふ。延暦四年、桓武天皇勅して玉依姫命、建角身命、活目入彦五十狹茅尊の三神を火雷神と共に鎮め給ひ、天皇行幸し給ひ、角宮乙訓大明神と仰ぎ給ふ。」とある。


83 : 名無しさん@chs    2009/08/09(日) 09:26:44   ID:cHz9TPFQ 
笛吹神社
火雷神社は延喜式の宮内省大膳職坐三坐の一つを始め山城国乙訓郡、大和国宇智郡、上野国那波郡に鎮座する。水神、火神を祀る神社であったと推定される。
当社を笛吹神社とも言うのは元は火雷神社と天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられる。
笛吹の集落の神山に南面して鎮座、神山には多くの古墳があった。平成10年の7号台風が直撃しており、木々が多く倒れている。神社付近の田も稲が倒れて穂が濡れたままになっている。
神社の前の道は一言寺道という古道で葛城一言主神社に通じている。火雷神社は葛城一言主神社と調田坐一言尼古神社(疋田神社)の中間点に位置し、火雷神社と疋田神社の中間に大屋という字がある。


84 : 名無しさん@chs    2009/08/12(水) 09:04:19   ID:0Q9eZiS6 
少彦名神後裔の鴨県主一族

鴨族の近畿地方での故地は、大和国葛木郡の鴨・倭文であり、摂津国三島郡の鴨であった

讃岐の二つの鴨部郷
鴨部郷は阿野(綾)郡にもあり、坂出市東南部の加茂(本鴨、鴨庄)のある地域である。加茂川が流れている
旧長尾町域は『和名抄』の寒川郡長尾郷・多和郷などであったが、長尾郷の北方には鴨部郷があり(旧志度町東部)、小田という地名もある

真鍋氏との関連
1.大川郡長尾町域(現さぬき市)には、まなべ一族が居り、その南端部の多和(現さぬき市の大字)には五郎祐光の墓があるともいい、橘神社として祀られる
2.橘太夫盛資は三野郡詫間郷に居たといわれ、その子孫を称するものには「まなべ」姓を名乗るものが多い
『香西史』には、「讃岐橘氏ハ伊予橘氏、即チ従三位大納言鎮守府将軍橘好古ヨリ出デ、寿永年中詫間城主橘大夫盛資出テ、後海崎長尾真部等ノ諸氏ヲ出シ。鎌倉室町時代ニ亘リテ大イニ繁栄シタリ」と見える。
3.大野原町青岡のすぐ隣に向本庄(観音寺市域)という地名が見え、その北東約二キロにある母神山(はがみやま)古墳群の中に「真鍋塚」がある。近在の粟井居住の真鍋氏所有に因る命名とのことであるが、粟井にある苅田郡の式内名神大社が粟井神社であり、祭神を忌部の祖・天太玉命とするが、その原型は阿波忌部の祖・天日鷲命(天太玉命とは兄弟関係)だとみられる
shushen.hp.infoseek.co.jp/hitori/manabe/manabe1.htm


85 : 名無しさん@chs    2009/08/12(水) 09:07:43   ID:0Q9eZiS6 
三野は、河内の三野県主(『姓氏録』所載の河内神別・美努連で、鳥取の同族)であり、三野前国造(同族に美濃の鴨県主がいる)であり、栗隈・岡田は山城の鴨県主の移動経路にある山城南部の拠点地であり(式内社の岡田鴨神社がある)、長尾・平尾などは吉備及び讃岐にもあって、鳥の「尾」に由来する地名・苗字である。そして、真鍋島には少彦名神たる松尾神に因む松尾の地名も残る。
 真鍋氏が拠った讃岐の向城についても、岡山市土田に向山(むこうやま)と呼ばれる山があり、この地にかつて天鴨(あまがも)神社があったことから、地元では鴨山と呼ばれる事情もあり、いまは天津神社がある。「向」は讃岐にも出てきたが、山城北部の鴨県主の本拠近隣にも向日丘陵があって、丘陵先端部の元稲荷古墳(全長94Mの前方後方墳で、向日市向日町北山にある)はこの地域の最古級の古墳とされるから、初期鴨県主一族が築造したものか?


86 : 名無しさん@chs    2009/08/12(水) 09:09:24   ID:0Q9eZiS6 
吉備地方の鴨
赤磐市長尾に鴨長尾神社があり、玉野市長尾に式内社の鴨神社がある。
吉備には、このほか式内社の鴨神社が二社(赤磐郡吉井町〔現赤磐市〕仁塀西、御津郡加茂川町〔現加賀郡吉備中央町〕上加茂)あるが、赤坂郡(現赤磐市)には鴨上松原・鴨新田・鴨高岡・鴨常普などの各社、津高郡(現岡山市)の多自枯鴨神社があり、浅口郡(現浅口市)鴨方町の鴨神社、備前国津高郡・児島郡に賀茂郷(『和名抄』)、笠岡市の鴨野など、鴨族関係の神社や地名が多く見られる


87 : 名無しさん@chs    2009/08/12(水) 09:11:30   ID:0Q9eZiS6 
吉備津彦兄弟に従って吉備及び出雲の平定に功績のあった留玉臣命(遣霊彦・留霊臣ともいい、桃太郎伝説の「雉」にあたる)

留玉臣は山城の鴨県主、美濃の三野前国造の一族から出て、山陰道の伯耆国造の祖

三野臣氏(備前一宮の吉備津神社を奉斎。御友別の子の弟彦命を祖とする)や鴨別命(御友別の弟とされる)を祖とする笠臣・小田臣氏などの諸氏は、実際には留玉臣命を男系ないし女系の祖にしていたことは想像に難くない。吉備神官に多く見える堀毛・堀家氏は留玉臣命の後裔と伝えており、吉備津彦に命ぜられて留玉臣が臭気の強い地を掘り返すと、埋もれていた鹿が生き返って向山に逃げて行ったという所伝がある


88 : 名無しさん@chs    2009/08/12(水) 09:13:31   ID:0Q9eZiS6 
吉備では、三野臣の嫡流が大守(大森)を名乗って、備前一宮の神主家を世襲した名門である

美濃国には、少彦名神後裔の神骨命の流れを汲む三野前国造・牟義都国造や鴨県主の一族がおおいに栄えたが、この地域にも吉備と同様、真鍋氏や森氏(一族に森蘭丸を出した幕藩大名家)・守屋氏が見られる。後二者は、別の系譜も伝えるが、本来は牟義都国造族の守君の族裔とみられ、牟義都国造は景行天皇の子の大碓皇子の後というが、三野前国造の一族とみられる。


89 : 名無しさん@chs    2009/08/12(水) 09:16:12   ID:0Q9eZiS6 
真鍋島の陶山地区の有田:式内社の在田神社
在田神社の末社で経津主神(武神で、物部・出雲氏族の遠祖) などを祀る陶山神社には陶山義高が併祀されており、そこにはヤタガラスの置物があると報告される。その由来が不明だが、興味深い。
ヤタガラスとは、熊野神社の三足烏に通じるとともに、神武創業の道案内で名高いが、その実体は鴨族の祖・鴨建角身命であり、少彦名神ないしその子孫の生玉兄日子命(これが神武朝の人)にあたる。


90 : 名無しさん@chs    2009/08/12(水) 09:17:43   ID:0Q9eZiS6 
笠臣の祖とされる鴨別命が吉備の波区芸県に封ぜられたと応神紀に伝え、これが後の小田郡とみられている。ハクキは伯岐すなわち伯耆であり、法吉鳥(鴬のこと。『出雲国風土記』島根郡法吉郷条) や西伯地方平定の鴬王伝承に通じるから、名前といい地域名といい、実際には上道臣・下道臣を代表とする吉備氏族の系譜ではなく、伯耆国造と同族で、留玉臣命の後孫というのが鴨別命の実系ではなかった?
shushen.hp.infoseek.co.jp/hitori/manabe/manabe2.htm


91 : 名無しさん@chs    2009/08/25(火) 22:09:10   ID:LlGIHFyA 
上賀茂の湿地を切り開いた鴨氏は上賀茂神社の摂社である
大田神社に猿田彦と天宇受売を祀り、信仰している


92 : 名無しさん@chs    2009/08/29(土) 22:24:59   ID:L9+KTqOI 
尾張国・美濃国を手に入れた織田信長が近江国に進攻してきたとき、押さえておかなければならなかった勢力の一つに「堅田衆」がありました。堅田は、現在も琵琶湖大橋が掛かる湖の最狭部に位置し、対岸の守山までの間が手に取るように見渡せる立地条件を持っています。ここに住む人々は、平安時代以来、京都の鴨社に神饌を献納する供祭人を務め、職務遂行の必要もあって、琵琶湖全域を通行し漁業を行う特権を主張してきました。中世に入るとこれに、堅田に設けられた関所で関銭をとる権利や、海賊をかけない保障料を徴収する「上乗権」等を加え、湖上交通において確固たる地位を築き上げます。

戦国時代、この堅田衆の指導者層として現れるのが「堅田諸侍」でした。居初氏を始めとした古代以来の供祭人の系譜を引く一族だけでなく、猪飼氏や南氏等の新興勢力も、その構成員をなしていたようです。


93 : 名無しさん@chs    2010/01/12(火) 12:41:44   ID:oCK9NMfk 
賀茂注進雑記
或神書に云天地未分まろかれたる中に大もとの御神まします
清るは天となり濁れるはくだりて地と成しより
陰陽の両神わかれましまして陽徳の御神は天の事をつかさどり
陰徳の御神は國土をしろしめすといへり
又云当社の託し給へる神詠に
ちはやぶる わけつち山に 宮居して 天くだること 神代よりさき
と託し給つるとみえたり
同私記に賀茂御神は陰徳にして男神 伊勢は陽徳にして女神に坐す


94 : 名無しさん@chs    2010/01/12(火) 12:45:48   ID:oCK9NMfk 
大場磐雄説
古墳時代以降の遺品中に銅鐸の末裔と推定
される遺品は全く存在しない。
以上のべた通り銅鐸の使用は我が上古時代のある時期に栄えたが、
古墳時代に入っては殆ど跡を絶つという変則的な現象を示しており、
従ってこの使用者に何等かの変動が与えられた結果と解せざるを得ない
のである。
あたかもよしこの事実はカモ・ミワ氏族−−即ち出雲神族−−が、大和朝廷
の設立に際し、旧来の国土を奉献した国譲り神話を裏書していると言うべき
ではあるまいか。
銅鐸が前記二氏(カモ・ミワ 二氏)の使用品で、一種の宝器(宗教的な)であったとすれば、
一族の権威の象徴たる理由から、征服者側からは没収または奪取したであろう
し、所有者側からは隠蔽した場合があったと推察される。


95 : 名無しさん@chs    2010/01/12(火) 12:47:46   ID:oCK9NMfk 
田中巽説
銅鐸は、尾張連と関係が深いところから多数出土しているとする。
尾張連は記・紀には断片的にしか出てこない。
新撰姓氏録には火明命を祖神とする尾張氏五、六氏があげられているが、
尾張氏の性質は明らかでない。
先代旧事本紀「天孫本紀」に尾張氏系譜があるが、これをどこまで信用
できるかが、また問題である。
尾張氏の一派である伊和部(後に石作部と呼ぶ)のように、
出雲系の神を奉祭したものがあることなどから、尾張氏は出雲系に繋がった
氏族であると見ている。


96 : 名無しさん@chs    2010/01/12(火) 12:48:23   ID:oCK9NMfk 
谷川健一説
谷川氏は、伊福部と関係のある場所から、銅鐸が出土していることに
注目している。
また伊福部は、銅を吹く、即ち銅の鋳造に携わったものとみている。
伊福部は大己貴命(オオナムチノミコト)を始祖としている、出雲系の氏族である。
また、常陸国風土記逸文に、伊福部神が雷神として出てくることに注目
している。


97 : 名無しさん@chs    2010/01/12(火) 12:49:18   ID:oCK9NMfk 
出雲国風土記に、意宇 オウ 郡:賀茂の神戸というのが見えますが、
これは和名抄の能義 ノギ郡の賀茂・神戸であるとされ、現在の安来市
に当たることとなりますから、現在の加茂町とは全く違う場所です。


98 : 名無しさん@chs    2010/01/12(火) 12:52:31   ID:oCK9NMfk 
唐古・鍵遺跡では1977年の調査で銅鐸鋳型の外枠が出土しています。
九州から銅鐸の鋳型が発見

出雲の神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣が出土
神庭荒神谷遺跡からさほど離れていない加茂岩倉遺跡から、大量の銅鐸が出土


99 : 名無しさん@chs    2010/01/12(火) 12:54:50   ID:oCK9NMfk 
加茂岩倉銅鐸:III-2式
二世紀、三世紀まで埋めたり出したりしながら使いつづけたかもしれない

大阪の跡部銅鐸
III-1式で1989年に発掘したときは、まだ金ピカだった。
作ってすぐ埋めたから現在まで金色のままだったんでしょう。
埋めたり出したりだったら光沢を失って錆びているはずですよ。


100 : 名無しさん@chs    2011/04/16(土) 13:20:55   ID:sHo5/d9Y 
>>95
>尾張氏は出雲系・・・・・・
天火明を始祖とする尾張氏は、国津神系でなく紛うことなき天津神系でしょう。


101 : 名無しさん@chs    2011/05/28(土) 12:35:19   ID:hbSLTb6E 
>>14
鴨氏は、饒速日の後裔なの?
50 : 名無しさん@chs 2007/11/24(土) 14:20:21 ID:d9c9ddc1b6
大三輪(大神)氏・賀茂(鴨)氏
大物主櫛甕玉尊(饒速日:ニギハヤヒ)━天日方奇日方命 ━ 飯肩巣見命 ━ 建甕槌命 ━ 意富多多泥古命 ━ 大御気持命 ━ 大鴨積命(賀茂(鴨)氏祖)
溝咋神社・・・・・
宗像三神
www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/77/50-50


102 : 名無しさん@chs    2011/11/20(日) 15:55:30   ID:wALUD24Q 
>>101
その系図は、鹿島神建甕槌や三輪氏祖意富多多泥古が挿入されていて
怪しいですね。
『釈日本紀』に引用された『山城風土記』に、鴨県主の始祖建角身が
日向の曾の峯に天降り坐しし神と記されている。
賀茂氏も天孫部族だったわけだ。ニギハヤヒやニニギより以前に九州に上陸し、
各地に移住したのですね。出雲加茂・安芸賀茂・美濃加茂などへですね。




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