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【1:96】
讃岐 香川氏 坂出 丸亀
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1
名前:
名無しさん@chs
2008/12/06(土) 10:33:11
ID:i1PwYiqI
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西庄城(山内城) 坂出市西庄町川向 香川民部少輔行景(景敏)
戦国時代の香川氏の居城であったが、一時山内氏が守備し山内城の名もある。城跡推定地の東、北側周辺には水田地名が見受けられる。東南120mほどのこんもり木立の茂った五アール区画があり、そこに香川民部少輔の墓碑が祀ている
香川県中世城館詳細分布調査報告2003によれば
『天皇城(山内城)』と表記
山内城(天皇城)=山内城、天皇城は同一の城を時の城主によって呼んだものと思われる
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87
名前:
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:51:51
ID:qFKKXmc2
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1568 永禄11年 讃岐の諸将は毛利の為に備州の小島に出陣し、加陽城を攻めた。
香西宗心が戦死した。本太城は村上水軍の村上武吉の支配化にあり
武吉の家臣島吉利が三好勢と戦い勝った。 香西氏参加
山陽新聞社編者 及び発行「吉備回廊」
信長、義昭を奉じて上洛
1569 永禄12年 1月6日。三好三人衆、阿波衆を率い細川藤考らに攻めかかる。
1570 元亀元年 信長上洛
1571 元亀2年 香川民部 十河存保、西庄城を攻め、為に民部備後に落ちる。
5月、讃岐の諸将は毛利の為に備州の小島に出陣し、加陽城を攻めた。
香西宗心が戦死した。
阿讃勢を率いて攻めてきたのは、三好家の家臣、篠原長房であったと
あり、「南海通記」などで香西宗心の児島侵入としたのは、篠原長房の
誤り。
元亀元年頃から南備中が不安定であり備前の宇喜多、讃岐勢が
(村上武吉も?)狙っていた 全讃史。
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88
名前:
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:52:38
ID:qFKKXmc2
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1577 天正5年 香川民部 香川義景 香川信景
小早川氏、香川民部を西庄城に帰城せしむ。
香川義景、讃州元吉に立て篭もる(安西軍策巻五)
隆景朝臣に属し志を深くける(安西軍策巻五)
全讃史 坂出市略年表 安西軍策巻五 秋山家文書
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89
名前:
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 10:54:03
ID:qFKKXmc2
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1578 天正6年 香川民部少輔行景 香川信景 香川兵部
正月、十河存保は勝瑞に帰って三好家を継いだ。
4月、藤目城主斎藤下総守が土佐に参候し、その孫を人質として差し
出し、臣従を誓った。 これに怒った宇多津城主奈良太郎左衛門は
激を飛ばして兵を募る事、3000人。香川兵部、長尾大隈、羽床伊豆
を先鋒として藤目城を攻めた。
長曽我部元親これを開き、すでに桑名太郎左衛門、浜田善左衛門
にこれを助けさせたがどうにもならず.彼らは阿波の大西に向けて逃
げた。
奈良太郎左衛門はその城を摂取して新目弾正に守らせた。
長曽我部元親は大いに驚き、兵5000をもって来たりこれを討った。
新目弾正は討ち死。元親の讃岐侵攻。藤目城、本篠城等属城落城。
7月、土佐方に寝返った羽床伊豆は兵1000余を率いて西庄城
(北条城)に香川民部少輔行景を攻める。香川民部は毛利元就の3男
小早川隆景に援兵を請う、浦兵部大輔と井上伯耆守に兵5千をもって
来援させこれを助く。
8月、長曽我部元親は兵5000を率いて財田城を囲んだ。財田和泉守
常久は兵300では守り難いので、香川信景に助けを請うたが、信景は
あえて助けなかったので落城した。
1581 天正9年 香川民部 香川信景 7月、三好存保(元三好政兼)は、激を安富、寒河、
植田、三谷、香西に伝え、兵一万を指揮して西庄城を攻めた。
民部は奈良、長尾に援軍を請うたが三好の大軍にすべも無く送らな
かった。香川民部は城を捨てて塩飽に落ちた。
三好存保はその勢いに乗じて、勝瑞城を取り戻し、河内の三好笑
岩と淡路の田村康広がおのおの数百騎を率いて来援、 共に一宮城
を囲んだ。
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90
名前:
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:05:24
ID:qFKKXmc2
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文書には「阿波国富吉庄西方地頭漆原 三郎兼有」と. うるしはらさぶ ろ うかねあり. あり、漆原氏が地頭職を相伝していた ようである
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91
名前:
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:07:22
ID:qFKKXmc2
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漆原氏は上野国漆原村を本貫とする武士で建武3年4月21日の藤原兼有軍忠状(黄薇古簡集/大日料6-3)には「阿波国富吉荘西方地頭浅(漆カ)原三郎五郎兼有」と見え,当荘西方の地頭職を相伝していた。なお,この漆原氏の後裔は戦国末期まで川端城(現板野町)に拠って川端氏を称した(古城諸将記/徴古雑抄7)。また年未詳で異筆で「建武三」と記されている9月18日付の足利尊氏御教書写(久我文書/岐阜県史史料編古代中世4)では「阿波国富吉庄」など7か荘の管領のことについての院宣を一見した旨,准后に申し入れるよう民部権大夫に伝えている。下って文和3年正月13日の2通の尊頴・尊融連署寄進状(臨川寺重書案文/大日料6-18)によれば,「阿波国富吉庄」は尊融追善の料所として臨川寺に,また「阿波国富吉庄東村并北敷地・南敷地」の3か村は同じく三会院に寄進することおよび本家役は保安寺が沙汰することが記されている。同年5月18日の阿波守護細川頼之書状(同前)では,当荘の河窪殿(尊融)寄進状の案文を受けとった旨が記されている。そして同5年2月7日の細川頼之施行状案(同前/大日料6-20)では守護代新開遠江守に,「阿波国富吉庄領家職」を三会院雑掌に沙汰付けするよう命じている。下って貞治4年2月22日の臨川寺三会院宛の官宣旨(同前/大日料6-26)によれば三会院領の「阿波国富吉庄内東村・北敷地村・南敷地村等地頭職」などに対する伊勢大神宮役夫工米などの臨時公役を免除しており,3か村の地頭職も三会院領となっていた。また同日に阿波国宛の官宣旨も発給された(同前)。同年3月26日の臨川寺宛の官宣旨(同前)でも「阿波国富吉庄等地頭職」に対する役夫工米以下の諸役が免除され,同日付の阿波国宛の官宣旨(同前)が発給されている。下って戦国期の文明9年12月28日の室町幕府奉行人連署奉書(天竜寺文書)では「臨川寺領阿波国富吉庄」を寺家雑掌に沙汰し付けるよう守護代に命じ,同年同月29日の室町幕府奉行人連署奉書(同前)では当荘など5か荘が臨川寺に返付されている。しかし,当荘は在地武士に押領されていたようで,同13年11月30日の赤沢信濃守宛飯尾常房奉書(同前)によれば,「臨川寺領阿波国富吉庄事,如元還補寺家訖」とあり,再び寺家に返付されている。また年月日未詳の年貢注文断簡(同前)には「一,〈文明十四年還補〉阿州富吉庄 三会・寺家両所〈江〉納之〈庄主ハ自寺補〉」とある。現在藍住町東中富に敷地傍示という字名が残っており,荘域は同町東中富の北部や同町富吉・板野町川端の地域に比定される(県史2)。
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92
名前:
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:28:32
ID:qFKKXmc2
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建武三年(1336)四月廿日、漆原三郎五郎兼有は、小笠原弥太郎・有田二郎らとともに武家方として、淡路国司高倉少将の軍勢と播磨国大倉谷宿南浜で交戦した(黄薇古簡集)。
後醍醐天皇により、建武の中興(1333)が始められた時、足利尊氏は細川和氏を阿波守に推挙し、細川定禅を讃岐に居住させた。
足利尊氏は、建武政権に離反して九州に西走する時、阿波守細川和氏と足利尊氏陣営の軍事を司る兵部少輔細川顕氏に、国において勲功の軽重に応じて恩賞を行うように仰せ付けられた文書。
あて先の漆原三郎五郎は、板野郡富吉荘西方の地頭で、勲功の賞に勝浦荘公文職を宛がっている。
建武3年(1336)2月15日に出されているが、尊氏が実際に将軍になったのは建武5年である。
この文書は「南北朝遺文 中国・四国編」に下総・染谷文書としての原本と考えられる。
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93
名前:
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:47:57
ID:qFKKXmc2
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大分限の国衆の筆頭に掲げられた香西氏は、永正の錯乱によって在京していた上香西(かみこうざい)家が滅ぼされますが、在国していた下香西家は、15世紀前半には小地域の領主たちを家臣団として編成していくようになります。
この頃の下香西家の当主であった元定を中心に、小領主で元定を支える滝宮氏・福家氏・新名氏・羽床氏・植松氏(以上香西氏の同族)、香川氏(西方守護代家とは異なります)・大林氏・山田氏・久利氏・遠藤氏・飯間氏・筑城氏・国広氏・岩部氏・漆原氏・由佐氏・香東氏・一宮大宮司氏・大野氏・犬養氏・宮脇氏・佐藤氏・真部氏・大熊氏・楠川氏・雑賀氏・藤井氏、 などが戦闘時には元定の指揮下にありました。
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94
名前:
名無しさん@chs
2011/08/02(火) 11:48:04
ID:qFKKXmc2
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鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政を経て南北朝の動乱期にあった。建武三年(1336)、官軍に敗れて九州に落ちた尊氏は、中四国に諸将を配した。このとき、阿波には細川和氏・頼春兄弟が派遣された。
細川兄弟は鎌倉時代以来の足利氏の所領であった秋月荘を拠点として、阿波の在地武士を掌握し、尊氏が再上洛したとき尊氏の軍に合流して奮戦した。そのなかには、漆原・小笠原らの阿波武士が加わっていた。かくして、阿波の南北朝の動乱が始まったのである。とはいえ、初期のころは南朝方の目立った動きはみられない。これは武家方細川氏の活動に比して、南朝方が阿波武士を結集出来なかったことが要因であった
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95
名前:
名無しさん@chs
2012/01/04(水) 02:36:50
ID:99XG/bK2
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愛媛県宇摩(うま)郡、現在の川之江市の近辺には、木梨軽皇子、軽大娘皇女に関わる伝承が数多く残されている。
@伊予国宇摩(うま)郡妻鳥(めんどり)村字東宮(現在の川之江市妻鳥町字東宮)に東宮山(あるいは春宮山)と呼ばれる標高八十米ばかりの小さな丘があり、その山頂に東宮山古墳と云われる横穴式石室を持った円墳がある。地元ではこれを木梨軽皇子の墓であると伝承する。かつてこの古墳を地元の人たちが掘り出すと、長宜孫子銘の内行花文鏡など十五点の遺物が出土したが、その中には、魚形や皿形の歩揺を着けた見事な金銅透彫帯冠もあったと云う。更には、この東宮山の真北の、昔海岸だった所には東宮石と呼ばれる石があり、ここが軽皇子が上陸した地点だと伝えている。
A伊予国越智郡の大島に皇太子神社と云う神社があった。現在はその島の吉海町津島の田中神社の境内社となり、王太子神社と云う。この神社の祭神は王崎明神と姫崎明神の二柱とされ、王崎明神と云うのは木梨軽皇子、姫崎明神と云うのは軽大娘皇女のこととされている。そして、伝承は、軽皇子はここに泊し、ここから伊予の中心である温泉郡(ゆのぐん)(松山市や道後温泉のある所)に向かおうとしたが、折からの北西風によって来島海峡の難所を越える事が出来ず、吹き流されて宇摩郡妻鳥に漂着し、また、兄を追って来た軽大娘皇女もここまで来たが、ここで亡くなったと伝えている。
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96
名前:
名無しさん@chs
2012/01/04(水) 02:38:32
ID:99XG/bK2
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95 は、謎の衣通姫随想より
www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/sodousi.htm
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