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【5:92】
竹取物語と忌部 忌部黒麻呂
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名前:
名無しさん@chs
2007/09/10(月) 18:55:10
ID:c745edb006
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竹取物語のモデルである五人の求婚者
この五人の求婚者は、日本書紀持統十年(六九五)冬十月の条にこそ、実は余ることなくぴったり重なり登場していた。
「冬十月の己巳の朔乙酉に、右大臣丹比眞人に輿・杖賜ふ。以て致事ることを哀しびたまふとなり。庚寅に、假に正廣参位 右大臣丹比眞人に資人百二十人賜ふ。正廣肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴御行には、並びに八十人、直廣壹石上朝臣麻呂・直廣弐藤原朝臣不比等には、並びに五十人。」(『日本書紀』)
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83
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 11:37:47
ID:Opm72ySg
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伊勢國風土記逸文(参考)
難波の長柄の宮に御宇しめしし天皇の丙午(646)のとし、
竹連・磯部直の二氏、此の郡を建てき。
竹連・・・多気郡多気郷
磯部直・・・度会郡伊蘇郷
延暦23年の「皇太神宮儀式帳」によれば,孝徳朝の立評時に,10郷を割いて竹村に屯倉を立て,竹評【たけのこおり】を置き,麻続連広背を督領,磯部真夜手を助督に任じたとある。また天智朝の甲子年には,同評の4郷を割いて,飯野評を置き,公郡としたとある。また「神宮雑例集」には,これとは相違する伝承を記し,己酉年に度相(会)郡をたてたとある。「倭姫命世記」には,立評時を丙午年とする。大宝令以前の評表記が見られることは重要である。なお立評以前は,有爾鳥墓【うにのとつか】村に神庤を置いて,神行政を行っていたという(皇太神宮儀式帳)。また磯部河(祓川か)以東は神国と定めて,大幡主命を神国造・大神主に任じたという(神宮雑例集)。
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84
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 11:39:50
ID:Opm72ySg
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「続日本紀」文武天皇2年12月乙卯条に,「遷多気大神宮于度会郡」とあることから,皇太神宮がこの時まで当郡に鎮座していたという説もあるが,神郡行政をつかさどる神庤とする説が有力。
8世紀の初頭まで、伊勢神宮は多気にあったのではないか、ということです。
この仮説の基になっているのは『続日本紀』の文武天皇2年(698)11月29日条にある「多気大神宮を度会郡に遷す」という記事なのです。この多気大神宮とは何なのか。これこそ内宮だとする説があるのです。
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85
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 11:41:29
ID:Opm72ySg
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南伊勢地域に郡制が敷かれていく時、その事務的な中心はまず多気郡の有爾鳥墓に置かれた、というのは共通しています。さらに、全国にある神郡の中で、伊勢神宮だけが二郡を持っていることから、多気郡が内宮、度会郡が外宮の郡だった、という考え方もまた可能なのです。こうした所から、多気大神宮とは、多気の太神宮司を付属させ、多気郡を領地としていた、もともとの皇太神宮ではないか、という説があるのです。
、『万葉集』に見られる柿本人麻呂作の高市皇子への挽歌です。この歌に、「渡會の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を」という表現があるのです。ここにいう「斎の宮」は、壬申の乱の時に神風を吹かせたとしているので、斎宮ではなく伊勢神宮そのものを指していたと考えられます。そして高市皇子が亡くなったのは696年ですから、この時に「斎の宮」は渡會にあった、ということになるのです
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86
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 11:43:01
ID:Opm72ySg
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「お伊勢さん」などとも呼ばれる伊勢神宮は外宮(ゲクウ)と内宮(ナイクウ)を合わせて、
古くは伊勢太神宮(イセノオオミカミノミヤ)と言われていたそうですが、正しくは「神宮」。
外宮(ゲクウ)は豊受大神宮(トヨウケダイジングウ)が正式名称。
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87
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 11:49:06
ID:Opm72ySg
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1説
現在の瀧原宮(三重県度会郡大宮町)に祭られていた伊勢神宮をこの時
に現在の内宮に遷座した。瀧原宮は現在も皇太神宮の別宮として神宮に準ず
る扱いを受けているがそもそもの御鎮座の由来は必ずしも明らかでない。
2説
異本に「多気大神宮寺」(寺は原文ではまだれがつく:「床」の「木」
の部分を「寺」に)とあることから、神仏習合による神宮寺を移建した。
3説
伊勢神宮を管理する役所を斎宮司の置かれた多気郡から神宮の鎮座され
る度会郡に遷した。斎宮そのものも一時多気郡から度会郡に遷されていたこ
とが記録に残っている。そもそも斎宮は伊勢神宮に奉仕する天皇の名代とし
ての皇女であり、斎宮司(遺跡は三重県多気郡明和町、斎宮歴史資料館とし
て整備されている)はそれに仕える組織であるが、その立地は必ずしも神宮
に近いわけではなく、ここに設置された事情は明らかではない。
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88
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 11:53:36
ID:Opm72ySg
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『日本書紀』や『古事記』に出てくる伊勢大鹿氏
大鹿氏は伊勢国では天皇系譜につながる唯一の古代氏族
『日本書紀』の敏達天皇四年(五七四)の条に「伊勢大鹿首小熊」という人物が見えます。その娘の菟名子は、采女として出て同天皇の夫人となり、太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)の二人の皇女を生んだというのです。『古事記』にもほぼ同様の記述があります。なお、この糠手姫皇女は、のちの舒明天皇の母です。
平成四年発行の『多気町史』でも、「伊勢大鹿首は、異説もあるが、相可付近に住んでいた当地方の豪族であったと考えられる」としています
多気郡の相可(現多気町)を大鹿氏の本貫地とする説は多く、江戸時代から続いています。外宮神官度会延経の『神名帳』考証を受けた安岡親毅の『勢陽五鈴遺響』では、相可の相鹿上神社の祭神が天児屋根命で、「相鹿大鹿相同シキニ拠テ大鹿首ノ始祖ハ天児屋根命ナリ……大鹿ハ今ノ相可ト称スルニ相同ク大鹿首ノ本貫ノ地ナルヲ其祖神ヲ祀ル処ナリ」と記しています。
一方、北伊勢の河曲郡(現鈴鹿市)に大鹿氏の本貫地があったという説も多く、古くからありました。本居宣長は『古事記伝』の中で「伊勢大鹿首は、神名帳に伊勢ノ国河曲ノ郡大鹿ノ三宅ノ神社あり、此ノ地より出たる姓なり」とし、神宮神官の御巫清直も「伊勢式内神社検録」(大神宮叢書『神宮神事考証』所収)の「河曲郡大鹿三宅神社」の項で「其(大鹿首)子孫久シク連綿シテ……其大鹿氏ノ居処ヲ大鹿村ト称ス。本郡ニ隷セル国分村是ナリ」としています。
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89
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 11:54:16
ID:Opm72ySg
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「北伊勢地方の主要交通路(東海道)に本貫をおく伊勢大鹿氏は、景行朝頃に中央と絆を深め、雄略朝には采女(三重の采女)を出し、さらに安閑朝に屯倉が設置され、その管理者になった」と、書紀記載以前の大鹿氏
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90
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 12:03:16
ID:Opm72ySg
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息長真手王(おきながまておう)の娘、麻積娘子(おうみのいらつめ)が生んだ皇女は荳角(ささげ)皇女と呼ばれた
荳角皇女は伊勢斎宮(いつきのみや)となったと日本書紀は記している。荳角皇女の次の次、すなわち八代目の伊勢斎宮である菟道(うじ)皇女もまた息長真手王の孫に当たる。真手王の娘の一人である広姫が敏達天皇の皇后となり、その間に生まれた皇女である
記紀の主張は、息長真手王の生んだ太子日子人が、采女の伊勢大鹿首の娘が生んだ田村王を娶って岡本宮の舒明天皇をうんだ
皇極・斉明女帝(宝皇女)は舒明天皇(田村王)との結婚以前に既婚歴があり、高向王とのあいだに漢皇子をもうけてます
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91
名前:
名無しさん@chs
2010/01/16(土) 12:06:07
ID:Opm72ySg
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『日本書紀』は敏達4年(575)息長真手王の娘・広姫を立てて皇后とす、と記している。継体天皇の誕生は死亡年から逆算して西暦450年ごろとされ、一方、敏達天皇の誕生は538年とされている。90年近い年齢差がある二人の天皇に娘を嫁がせることなど現実的ではない。『
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92
名前:
名無しさん@chs
2012/03/25(日) 12:46:48
ID:KVqBTc7U
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>>54
忌部氏には、二流があるらしい。
205 :日本@名無史さん:2011/12/17(土) 15:04:05.66
・・・・しかも、忌部氏の中でも嫡流にあたるタカミムスビ系の忌部氏の系譜だったはず。
忌部氏には、もう一つ、カミムスビ系の系譜がいる。
この家系は、タカミムスビ系の一族の女性と、
カミムスビ系の男子が婚姻して婿養子に入ったものの家系で
阿波忌部氏などが、その代表的な一族・・・・・・・・
神武天皇や神武東征をほのぼの語ろう
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1321063341/200-205
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