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0036621
古代史探訪 by TokyoBlog

1 : 神櫛王と忌部(282)   2 : 瓊瓊杵尊 邇邇芸尊 天孫降臨(70)   3 : 讃岐 香川氏 坂出 丸亀(105)   4 : 紀氏 武内宿禰(89)   5 : 竹取物語と忌部 忌部黒麻呂(92)   6 : 龍田神社 広瀬神社 風神と水神(59)   7 : 気多大社(40)   8 : 三足鳥(177)   9 : 讃岐の桃太郎伝説(77)   10 : 抱朴子 不老不死 神仙道(28)  

11 : 方格規矩鏡(132)   12 : 龍、竜、蛇の神話(16)   13 : 鈴の謎(4)   14 : 鴨の一族(102)   15 : 安寧天皇(8)   16 : 景行天皇の時代 九州(118)   17 : 豊葦原中津国(24)   18 : 猿田彦(17)   19 : 八幡神社(9)   20 : 天香語山命(54)   21 : 八尺瓊勾玉(60)   22 : 熊野神社の謎(55)   23 : 安閑天皇(33)   24 : 鳥居 狛犬 注連縄 獅子舞(9)   25 : 尾張氏 天火明  高倉下(15)   26 : 空海 佐伯氏 阿刀氏(97)   27 : 和邇氏(93)   28 : 和珥氏:海人族(30)   29 : 宗像三神(60)   30 : 天孫降臨 天・高天原とは 天ツ神 国ツ神(112)   31 : 『古語拾遺』(39)   32 : 巴型銅器(59)   33 : 稲の神 田の神 稲荷神(40)   34 : 日本武尊と讃岐の神櫛王(208)   35 : ヤオ族 伏羲(フクギ) 女咼(女扁+咼)ジョカ(47)   36 : 宇多源氏佐々木氏 加地氏(205)   37 : 相撲の起源(37)   38 : 橘氏 梅宮大社(71)   39 : 寒川神社(158)   40 : 天太玉命 天富命 手置帆負(195)   41 : 朝廷別王 丹波道主王(25)   42 : 秋津島(28)   43 : 豊受姫(57)   44 : 酒の神(21)   45 : 鉄と木と鍛冶と踏鞴(162)   46 : 皇妃(母系)でみる欠史時代(79)   47 : 大毘古((58)   48 : 雑賀 穂積 紀州(19)   49 : 九州王朝(39)   50 : 天を祭る(14)   51 : 愛知 静岡 三重 の神社(91)   52 : 讃岐の藤原氏(52)   53 : 諏訪神社 建御名方神 南方刀美(50)   54 : 淡海(102)   55 : 霊剣 布都御魂(171)   56 : 絹 麻 織物(10)   57 : 2−3世紀 卑弥呼の時代(34)   58 : 天智天皇 天武天皇(49)   59 : 謎の4世紀(18)   60 : 小野神社 天下春命 瀬織津姫(24)   61 : 出雲の謎(22)   62 : 麻績天長白羽神 天白 天白羽命(38)   63 : 旧唐書 倭国と日本国(10)   64 : 魏志倭人伝 『三国志』魏書東夷伝倭人条(1)   65 : 出雲國造~賀詞(29)   66 : 海幸彦 山幸彦 天火明命(27)   67 : 吉備 毛野(140)   68 : 常陸風土記 多氏(53)   69 : 淡海 伊邪那岐(63)   70 : 山幸彦 天津日高日子穂穂手見命(42)   71 : 神社の始まり(28)   72 : 物部氏(131)   73 : 船神(26)   74 : 五十猛神 伊太氏神 伊太祁曽神(55)   75 : 九州 磐井 宗像(117)   76 : 大山祗神 大山積神(44)   77 : 上総国 玉前神社(52)   78 : 羽衣伝説 神社(58)   79 : 考霊天皇(31)   80 : 薩摩 隼人 とは 海神との関係(53)   81 : 小彦名命 事代主(88)   82 : 神社の総数(11)   83 : 食物神(19)   84 : 可美真手命 宇摩志摩治命(123)   85 : 丹生都比売 那賀(17)   86 : 欠史八代の年表(58)   87 : 金山彦 南宮大社 中山神社(24)   88 : 愛宕神社(12)   89 : 武蔵国高麗郡 高麗若光 白髭神社など(29)   90 : 饂飩(うどん)の起源に2説あり(43)   91 : 伊勢津彦 伊和大神(47)   92 : 葛城の歴史(33)   93 : 天児屋根命 比売大神 武甕槌命(8)   94 : 聖徳太子 蘇我氏(43)   95 : 荒田別 百済 木羅斤資(123)   96 : 火の神 軻偶土神 軻遇突智命(10)   97 : 空海 丹生氏(24)   98 : 土佐神社(4)   99 : 系図(55)   100 : 遷却崇神(17)   101 : 倭国 倭人(30)   102 : 道主 日葉酢媛(16)   103 : 事代主(29)   104 : 巴形銅器(48)   105 : 大化改新 皇極天皇 孝徳天皇(20)   106 : 木の神 久久能智命 久々智命(6)   107 : 天女伝説 羽衣伝説(5)   108 : 七夕の話(7)   109 : ppblogについて(9)   110 : アルバム・写真・画像掲示板(6)   111 : 縦書きエディター(2)   112 : 浦安を調べる(25)   113 : tokyo ニュース の開始です(6)  

【1:282】 神櫛王と忌部

1   名前:  名無しさん@chs   2007/05/06(日) 09:12:08   ID:a8c4790fbb
『日本書紀』
景行天皇を父とする神櫛皇子(かんぐしのみこ)を讃岐国造に
273   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:37:49   ID:GILLJ6rc
大山神社
海陽町塩深にある「大山神社」は宍喰の始祖「鷲住王」を祀る由緒ある神社です。
274   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:44:48   ID:GILLJ6rc
西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。

野根八幡宮
安芸郡東洋町
275   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:48:23   ID:GILLJ6rc
鷲住王(わしずみおう)は讃岐(さぬき)の国造(くにのみやつこ)および阿波(あわ)脚咋別(あしくいわけ)の先祖(せんぞ)でもある。脚咋別(あしくいわけ)は海陽町宍喰(かいようちょうししくい)を中心(ちゅうしん)に南隣(みなみどなり)の高知県東洋町(こうちけんとうようちょう)を含(ふく)む一帯(いったい)である。脚咋(あしくい)が宍喰(ししくい)になった。
276   名前:  名無しさん@chs   2010/02/28(日) 21:33:26   ID:ut+YxLyI
姓氏録右京皇別には 「讃岐公、大足彦忽代別天皇皇子、五十香足彦命之後也」と書かれている。
277   名前:  名無しさん@chs   2010/03/14(日) 18:31:21   ID:OnqrypZc
讃岐國苅田郡 加麻良神社
神社誌料には、山の名を御神室と云う、大己貴神・少彦名神、四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。
古老の伝説口碑に伝うるところ「昔、神田村羽方二の宮大水上神社に少彦名命が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝に命を乗せて川に流すと、神室山の中腹(この下、石宮)に着き泣き止む、土地の人たち、光明を放つこと不思議に思い近寄る人に、のり玉うは「我を大己貴の神の鎮まる此山に祭れ、然れば夜泣きをぞ守給うと」依て祠を厳樫の本に建奉りしなり、此の神の流れつきし所を御神室と言う、又此処の古石祠を石宮と稱す。流岡の地はこの事に由来する、大己貴神と少彦名神は協力してこの四国を拓き、農工商すべての産業開発と、方除治病(夜泣き)造酒、製薬、交通、航海安全、縁結び等世の中の幸福を増進することを叶られました。人間生活の守護神であらせられます。
278   名前:  削除   削除   ID:削除
削除
279   名前:  名無しさん@chs   2010/04/29(木) 18:36:42   ID:8avKRqyA
桑田山道隆寺明王院(七十七番)
 元明天皇時代の和気道隆という人にまで、開基は遡る。道隆は日本武尊の後裔だとい
う。道隆の荘園にある桑園で、大きな桑の木が怪異を起こした。その木を伐って薬師如
来像を作らせた。小さな堂を建てて薬師像を安置し、朝な夕な供養した。
 延暦末年、道隆の子孫・朝祐の代になっていた。空海と出会って道隆について語り、
薬師像を見せた。像が小さいので朝祐は空海に、大きな像を作ってくれと頼んだ。空海
は信仰心の篤さに打たれ、高さ二尺五寸の薬師像を作り、胎内に道隆の小像を納めて、
永く失われないようにした。朝祐は真言密教に深く帰依し、髪を剃り出家した。荘園も
財物も捨てて寺を建て、薬師像を本尊とした。空海を供養して過ごした。
280   名前:  削除   削除   ID:削除
削除
281   名前:  名無しさん@chs   2011/11/01(火) 00:20:03   ID:VA1cZCe+
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめの)命『古事記』= 倭国香媛(やまとのくにかひめ)『日本書紀』は、第七代「孝霊天皇」の妃であり、その皇子の一人が、「日子刺肩別尊」(ひこさしかたわけのみこと)。

高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。

姉が有名な、「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)、弟が四道将軍の一人「大吉備津彦命」である。

倭迹迹日百襲媛命は、お隣り香川県の式内社「水主神社」の御祭神。
讃岐一宮「田村神社」でも、大吉備津彦命とともに御祭神となっている。

祖父に当たる「孝昭天皇」御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)を祀る式内社は、全国で阿波一国「御間都比古神社」のみ。

異母兄に当たる第八代「孝元天皇」大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)の妃、及び、第九代「開化天皇」の皇后となった「伊迦賀色許売命」(いかがしこめのみこと)を祀る式内社も、日本唯一、阿波国の「伊加賀志神社」のみ。
282   名前:  名無しさん@chs   2012/04/14(土) 13:05:39   ID:5K/YW1Us
>>31
阿波忌部氏は、カミムスビ系なのですね。
205 :日本@名無史さん:2011/12/17(土) 15:04:05.66
・・・忌部氏には、もう一つ、カミムスビ系の系譜がいる。
この家系は、タカミムスビ系の一族の女性と、
カミムスビ系の男子が婚姻して婿養子に入ったものの家系で
阿波忌部氏などが、その代表的な一族・・・・・・
神武天皇や神武東征をほのぼの語ろう
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1321063341/205
名前: メール: sage cookie

【2:70】 瓊瓊杵尊 邇邇芸尊 天孫降臨

1   名前:  名無しさん@chs   2008/11/02(日) 13:42:34   ID:JBH/hGzg
『古事記』では神名を「天饌岐志国饌岐志天津日高日子番能邇邇芸尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)」、『日本書紀』では「天津日子火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)」
61   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:26:17   ID:gD1e0zzI
『宋史』日本伝『王年代記』による日本歴代の主(王)

1.天御中主
2.天村雲尊(天牟羅雲命)
3.天八重雲尊(天八百日尊。天御中主5代目の孫か?)
4.天弥聞尊(神聞勝命。天御中主の17代目の孫か?)
5.天忍勝尊(高皇産霊尊の御子か?)
6.贍波尊(天波与命。天牟羅雲命の御子か?)
7.万魂尊(神万魂尊。天御中主11世の孫)
8.利々魂尊(天剛川命。神万魂尊の御子か?)
9.国狭槌尊(天神七代の第二位)
10.角龔魂尊(角竜魂尊・角樴魂尊)
11.汲津丹尊(埿土煮尊・沙土煮尊か?)
12.面垂見尊(面足尊であろう)
13.国常立尊(国底立尊ともいう。天神七代の第一位)
14.天鑑尊(天鏡尊。国常立尊の御子)
15.天万尊(天鏡尊の御子)
16.沫名杵尊(沫蕩尊。天万尊の御子)
17.伊弉諾尊
18.素戔鳴尊
19.天照大神尊(天照大神)
20.正哉吾勝速日天押穂耳(正哉吾勝勝速日天押穂耳尊)
21.天彦尊(天津彦彦火火瓊々杵尊であろう)
22.炎尊(彦火火出見尊であろう)
23.彦瀲尊

日本伝は、984年に東大寺の僧「然(ちようねん)が宋の太宗に献上した「王年代記」によるものです。 ここに用いられている漢字2字の天皇名は、日本書紀成立後の722年に生まれた淡海三船の撰といわれています
62   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:31:26   ID:gD1e0zzI
淡海三船
(おうみのみふね、養老6年(722年) - 延暦4年7月17日(785年8月30日))は、奈良時代後期の文人。天智天皇の皇子大友皇子の曽孫。父は葛野王の子池辺王。はじめ御船王。天平年中に出家して元開と称す。天平勝宝3年、


鴎外は『帝謚考』の前半で、歴代天皇の漢風諡号を考えたのは淡海三船であるという説を支持
井沢氏は、淡海三船が一括に決めたという説を否定

天平宝字六〜八(762〜4)年に神武天皇から持統天皇、元明・元正天皇の諡号が一括撰進された事が漢風諡号を奉られた初見です。
一括撰進をしたのは淡海三船で、三船は大友親王の曾孫で『続日本紀』延暦四年秋七月に死去した際
 
 三船性識聡敏。渉覧群書、尤好筆礼、宝字元年、賜姓淡海真人

とあり博識で知られ宝亀年間(770-780)に三度、大学頭に任じられており且つ文章博士も兼任していました。
63   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:35:22   ID:gD1e0zzI
石上宅嗣とともに「文人之首」と称された淡海三船
鑑真の伝記『唐大和上東征伝』の著者

淡海三船(七二二〜七八五年)は、姓は淡海、名は三船(または「御船」)、俗称は三船王(または「御船王」)、詩文には多く淡三船を名のる。出家して元開と改め、のちに敕を奉じて還俗、真人の姓を賜わった。

父は池辺王といいといい、大友皇子の孫、葛野王の子にあたり、天智天皇一族の血筋を引いている。淡海三船は、皇族の出自としては仕途にめぐまれず、延暦四年(七八五)七月十七日、「刑部卿従四位下兼因幡守」の任にあって世を去り、享年六四歳であった
64   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:37:58   ID:gD1e0zzI
『続日本紀』卷第三十八の「卒伝」

庚戌、刑部卿従四位下兼因幡守淡海真人三船卒しぬ。三船は大友親王の曾孫なり。
  祖葛野王は正四位上式部卿なり。父池辺王は従五位上内匠頭なり。三船は性聡敏に
  して群書を渉覧し、尤も笔札を好む。宝字元年、姓を淡海真人と賜わり、起家して
  式部少丞を拝す。累に遷りて、宝字中に従五位下を授けられ、式部少輔、参河・美作
  の守を歴たり。八年、造池使に充てられ、近江国に往きて陂池を修め造る。時に恵
  美仲麻呂、宇治より道きて、走りて近江に拠り、先ず使者を遣わして兵馬を調え発
  てしむ。三船、勢多に在りて、使判官佐伯宿禰三野と共に、賊使と同悪の徒とを捉
  縛す。尋ぎて将軍日下部宿禰子麿・佐伯宿禰伊達ら、数百騎を率いて至りて勢
  多橋を焼き断つ。故を以て、賊、江を渡ること得ずして、高嶋郡に奔る。功を以
  て、正五位上勲三等を授けられて、近江介に除せらる。中務大輔兼侍従に遷され、
  尋ぎて東山道巡察使に補せられ、出でて採訪して、事畢りて復奏するに、昇降慥な
  らずして頗る朝旨に乖けり。敕有りて譴責せらる。出でて大宰少弐と為り、刑部大
  輔に遷され、大判事、大学頭頭兼文章博士を歴たり。宝亀の末、従四位下を授けら
  れ、刑部卿兼因幡守を拝す。卒しぬる時、年六十四。
65   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:43:03   ID:gD1e0zzI
空海は、淡海三船や鄭玄もさりながら、叔父である亀毛先生こと阿刀大足や槇尾山寺の勤操など儒学派の虚亡隠士;つまりは神仙タオイズムの修験者の多大なる影響を享けた
66   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:44:33   ID:gD1e0zzI
大伴氏

磯城島の大和の国にあきらけき名に負ふ伴の男こころつとめよ(20-4466)
  (この大和の国において、曇りない名を持つ一族の者たちよ、決して心を緩めるな。)

剣(つるぎ)大刀(たち)いよよ研ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ(20-4467)
  (剣太刀を研ぐように、大伴の名をさらに明澄に磨ぎ澄ますべきである。遥かな過去から、きわやかに負ってきたその名であるぞ。)

左注には、「淡海真人三船の讒言に縁り、出雲守大伴古慈斐宿禰解任せらる。是を以ちて家持此の歌を作る」とある。天平勝宝八歳、大伴古慈斐が淡海三船とともに朝廷誹謗の罪を着せられた事件に触発された作
67   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:48:00   ID:gD1e0zzI
『経国集』 平安初期の漢詩文集。
『凌雲集』・『文華秀麗集』につぐ第3の勅撰集。
827年、良岑安世が淳和天皇の勅を奉じて撰じた。

嵯峨天皇・石上宅嗣・淡海三船・空海らの作品を収録している。
68   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:51:39   ID:gD1e0zzI
1.大伴氏と同族関係に有るとされる佐伯連(後に宿禰)。大伴氏と同じく天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖とする。たびたび政争に巻き込まれ(関連を参照)、一族から処罰される者をたびたび出した事なども影響し、徐々に衰える。

2.ヤマト王権(後の朝廷)に捕らえられ、もしくは従い、兵力・労働力として全国に配された蝦夷の事を佐伯部と呼んだ。

3.佐伯部を従えて朝廷より使わされた者、又は地方で佐伯部を従えた有力豪族が佐伯直と呼ばれた。都においては佐伯連に統率された。

以上のいずれもが佐伯氏とされるため、出自、身分等極めて多様
69   名前:  名無しさん@chs   2009/02/04(水) 07:58:35   ID:gD1e0zzI
空海(774−835)
@父;佐伯直田公 母;阿古屋御前(多度津海岸寺「阿刀真足」女)
A幼名;佐伯真魚 大伴連談の子「歌」の9代孫。
B774年讃岐国多度郡に生まれる。15才で上京。791年18才で大学入学。
母の弟?である阿刀大足が当時伊予親王持講即ち家庭教師をしており、これの教えを受けたとも言われている。788年頃長岡京にいたらしい。
C804年留学僧として、入唐。806年帰国。密教を伝える。
D811年山城国乙訓郡「乙訓寺」の別当に任命され約2年ここに在住。
E815年高野山金剛峰寺建立。
F823年52嵯峨天皇より「東寺」を給預され、密教の根本道場とする。
G825年頃参議であり、東寺、西寺の検校であった「伴国道」と親交を結んだ。
H828年陸奥按察使となった国道に書状を送っている。(高野雑筆集)
I835年没す。921年60醍醐天皇より、「弘法大師」の諡号を賜った。
70   名前:  名無しさん@chs   2012/04/14(土) 12:46:40   ID:5K/YW1Us
>>60
>ある事情により、「火明命」を祀るように・・・・・・・
どういう事情だったのですか?
天橋立△籠神社▽元伊勢 A
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1284941114/
名前: メール: sage cookie

【3:105】 讃岐 香川氏 坂出 丸亀

1   名前:  名無しさん@chs   2008/12/06(土) 10:33:11   ID:i1PwYiqI
西庄城(山内城) 坂出市西庄町川向 香川民部少輔行景(景敏)

戦国時代の香川氏の居城であったが、一時山内氏が守備し山内城の名もある。城跡推定地の東、北側周辺には水田地名が見受けられる。東南120mほどのこんもり木立の茂った五アール区画があり、そこに香川民部少輔の墓碑が祀ている

香川県中世城館詳細分布調査報告2003によれば

『天皇城(山内城)』と表記
山内城(天皇城)=山内城、天皇城は同一の城を時の城主によって呼んだものと思われる
96   名前:  名無しさん@chs   2012/01/04(水) 02:38:32   ID:99XG/bK2
95 は、謎の衣通姫随想より
www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/sodousi.htm
97   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:06:05   ID:t2+yZxAk
天皇寺(てんのうじ)は、香川県坂出市西庄町にある寺院。宗派は真言宗御室派で、本尊は十一面観世音菩薩。山号を金華山、院号を高照院と称し、天皇寺高照院とも呼ばれる。四国八十八箇所霊場の第七十九番札所。境内は崇徳上皇を祀る白峰宮に隣接し、元は白峰宮の神宮寺であった。

伝承によれば、古代に南海の大魚を退治しに向かった讃留霊王ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れたとき、横潮明神が泉の水を持ってあらわれ、その水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。それからこの泉は「八十場(やそば)の霊水」と呼ばれるようになったという。

保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国阿野郡西庄村に配流となり、長寛2年(1164年)そこで死去した。上皇の亡骸の処遇をめぐって、京から返事の使者を待つあいだ、遺骸をこの八十場の霊泉に浸したところ、21日間すぎたのちも、上皇の顔はまるで生きているごとくだったという。やがて上皇は荼毘に付され、妙成就寺と並んで建てられた白峰宮に祀られた。このことから妙成就寺は「天皇寺」と呼ばれるようになり、白峰宮は「天皇さん」と愛称で親しまれるようになった。
98   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:09:34   ID:t2+yZxAk
 崇徳上皇は京都から淀川を下って海に出て、須磨・明石を過ぎ、播磨・備前の海岸沿いに瀬戸内海を西へ進みました。途中、直島に滞在した後、8月3日に讃岐国阿野(あの)郡・松山ノ津に到着しました。御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやたかとう)の邸宅を仮の御所とされ、やがてその近くの長命寺(ちょうめいじ)に移られたと伝えられています。
99   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:15:34   ID:t2+yZxAk
雲居御所で約3年過ごされた上皇は、府中鼓ヶ丘木ノ丸殿に遷都され(注:遷都とは言えないかと思われます)、長寛2年(1164)8月 46歳の若さで崩御なされた。
府中国庁内鼓ヶ岡の木丸殿に移った時、綾氏滞留中、高遠の娘綾局を寵愛し、その一子を高遠に菊御紋とともに授けたとも伝えられる。

崩御の後、京都より御返勅があるまでの間、西庄の野沢井の水にお浸しし、同年9月に白峯で荼毘に付され御陵が築かれた。

時代を経て、雲居御所の所在が不明となっていたのを、江戸時代に松平頼恕公が上皇の旧蹟地として雲井御所の石碑を建立し、綾高遠の後裔とされる綾繁次郎高近をこの地の見守り人とした。
100   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:19:11   ID:t2+yZxAk
崇徳院が崩御されてから、数 年後西行法師が、崇徳院を偲ばれて、この地にやってきた

橘遠保は三豊郡紀伊村大野原大字青岡「真鍋家系図」と香川県大川郡「真部姓氏録」の遠祖として載っております。また楠木正茂の母親の出でもあります。こうして考えてみますと真鍋(真部)氏は予州新居一族との関わりが深いことがわかります。

綾姓

讃岐国阿野郡新居郷より起こり、羽床氏の族となっています。綾氏系図には「羽床正司資高→資光(新居藤太夫)とあります。
101   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:21:53   ID:t2+yZxAk
千足神社の主祭神は伊邪那岐大神・伊邪那美大神で、配神として出雲大社(大国主大神)や天神社(菅原道実公)等々をお祀りしています。また同並列として天満社(菅原道実公)があり、主祭神は勿論菅原道実公でありますが、配神として出雲大社・石清水八幡神社(石清水八幡大神)があります。この神社は今から1250年前聖武天皇の頃、宇摩郡・新居郡の鎮守神として信仰されるようになりました。いずれとも宮司は代々真鍋姓を名乗って今日に至っています。

越智玉守五代の孫實遠は嵯峨天皇(809年)より正五位下に叙せられ、越智姓を改めて橘姓となっています。※越智玉守(新居氏の祖)→益興→益連→實連→實遠→實幸→實保

實保には二子がいて兄は貞保と言い、後に遠保と改名しました。かの有名な橘遠保なのです。弟は基保と言って高市の祖となりました。橘遠保は天慶四年(941)伊予国の警古使になっており、南海海賊の首領藤原純友を討ち取ったことで有名な歴史人物
102   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:28:17   ID:t2+yZxAk
西行は崇徳上皇が京に居た頃から和歌を通じた交流を持っており、上皇が讃岐に流 された後も歌のやりとりをしていたといわれています

王越山の背後の峠・眞尾坂は雨月物語に登場する西行法師が庵居した坂である。 齢50 歳に達した西行法師の讃岐行は悲願の旅路であったに違いない。

謡曲「松山天狗」の舞台は、いうまでもなく讃岐は綾の松山(現坂出市)、白峯である。
 仁安年間、西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねる。
松山は草深い里である。
西行は、山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行くが、道はけわしく、生い繁げる荊は旅人の足を拒む。

そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」とたづねる。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者、新院がこの讃岐に流され、程なく亡くなられたと承り、おん跡を弔い申さんと思い、これまで参上した次第。 何とぞ、松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞う。
 やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い、苔の下道」に足をとられながら、ようやくご陵前にたどりつく。
院崩御後わずか数年にもかかわらず、ご陵墓の余りの荒廃ぶり。
ご陵前には詣で仕うる人もなければ、散華焼香の跡だに見えない。
西行涙ながらに

 よしや君むかしの玉の床とても
   かからん後は何にかはせん

西行が院に捧げた、畢生の鎮魂歌である。
103   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:31:07   ID:t2+yZxAk
高松藩の儒学者である中山城山はその著「全讃史」のなかで「松山ニ神有リ 其ノ坊ヲ相模坊ト曰フ 甚ダ威霊有リ 其ノ余ノ仙霊甚ダ多シ 窟ヲ宅ニシテ此ニ住スト云フ 長寛以来崇徳帝陵有リ 世人殊ニ之ヲ崇ム」とあり、相模坊の威霊についてふれている。
 この白峯山の相模坊が、いつごろ山移りしてきたのかは不明である。
しかし、謡曲松山天狗(永享十二年=1440年)、と同じ室町時代の初期頃の作といわれる天狗ものに「花月」があり、その中に白峯山の相模坊についてふれられている。
それによると、九州の英彦山(福岡県)の麓で天狗にさらわれた少年花月を、その父が出家僧となって諸国を探し求め、ついに京都で再会することができた。
その時少年が、天狗に連れて行ってもらった山々について語る場面がある。
その中に「讃岐には松山降り積む雪の白峯(相模坊)・・・・」とある。
つまりこのことから、室町時代の初期頃には、既に白峯山には相模坊が天狗の首領として君臨していたことがわかる。

 この白峯山の相模坊は、かつて相模国(神奈川県)の大山に君臨した大行者で、その名を相模坊と称した。
のちいつのじだいにか讃岐の白峯山に移って白峯山の行者集団を統括するとともに、聖地白峯山の守護者となったものと思われる。
104   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:34:32   ID:t2+yZxAk
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ) は、神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である

天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。

中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。

江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。これが全国八大天狗に数えられた大山伯耆坊である。元々は伯耆大山の天狗だったが、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったために、その後任として移って来たといわれる。
105   名前:  名無しさん@chs   2012/03/27(火) 13:39:29   ID:t2+yZxAk
天平勝宝4年(752)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、 本尊として 不動明王が祀られた。 中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり 、 源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。
伝説によれば、奈良東大寺の開山として名高く、伊勢原の雨降山大山寺をも開いた良弁 (ろうべん)僧正が天平神護元年(765年)、この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・ 華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています
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【4:89】 紀氏 武内宿禰

1   名前:  名無しさん@chs   2007/06/07(木) 16:09:24   ID:a4a9b67546
紀氏
  ツングース系の人々が半島を経由し、紀伊と半島の両方に根拠を持ったことで、紀伊に特異な文化圏を築いた。王は木氏であり、紀氏であると言われている。木氏は蘇我氏にも分かれたとされている。 宮司の紀氏は現在で80代目とされ天皇家、出雲の千家とならび、日本では最も古い家系である。武内宿禰やその後裔に紀貫之を輩出している。
80   名前:  名無しさん@chs   2008/10/18(土) 21:21:08   ID:a1cZVSco
襲津彦−−−−−磐之媛(仁徳の妃、履中天皇を生む)


襲津彦−−−−−玉田宿禰−−−円−−−−−韓媛(雄略の妃、清寧天皇を生む)
81   名前:  名無しさん@chs   2008/10/18(土) 21:24:03   ID:a1cZVSco
716年に奏上された『出雲国造神賀詞』
アジスキタカヒコネの命を葛木の鴨の神奈備に坐せ、とあります。
葛木の鴨の神奈備とは鴨社のことをさします

797年に記されたと云う『続日本紀』
天平宝字八年(764)十一月七日 再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について法臣の円興、賀茂朝臣田守らが次のように言上した。 昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。

『土左国風土記逸文』
「土佐の高賀茂の大社 その神の名を一言主尊とする。一説では大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であると云う。」
82   名前:  名無しさん@chs   2008/10/18(土) 21:25:44   ID:a1cZVSco
高鴨神は土佐、大和、伊与に神封を持っています
83   名前:  名無しさん@chs   2008/10/18(土) 21:26:50   ID:a1cZVSco
平群都久宿禰 木角宿禰 葛城長江曽都毘古 若子宿禰. そして、これら7人の子供から、 波多臣、許勢、蘇我、平群、木臣、坂本臣などの豪族が生まれています
84   名前:  名無しさん@chs   2008/12/30(火) 15:18:13   ID:PJ7mCm7E
毛野族は紀伊国から出た

豊城入日子の先祖と見なせる名草戸畔の子孫の智名曽の娘の乎束媛に、道臣命を祖とする大伴氏の角日命が娶いて豊日命が生まれた。その子の武日命はヤマトタケルに従って東の国征伐についた一人である。東征には他に吉備武彦がいたが、紀伊の女を母とする孝霊の子あるいは子孫にあたる。日本武尊自身も播磨国出身ではあるが、その末にあたる。
85   名前:  名無しさん@chs   2009/09/04(金) 06:40:56   ID:t5RaVFpA
和歌山県橋本市の隅田八幡宮に残る人物画像鏡(国宝)。この鏡に銘文があり、「癸未(きび)年の日十大王の世、乎弟王が意柴沙加(おしさかの)宮にいます時、斯麻(しま)が(乎弟王に)長く奉ることを念じてこの鏡をつくらせた」と読める。

 60年周期のえとで表記された「癸未年」はどの年か。解釈は様々だが、有力なのは443年と503年だ。

443年説での銘文解釈では、「日十大王」は允恭大王、「乎弟王」は継体の曽祖父のオオホド王で、「斯麻」をオオホド王の本拠地でのちに継体陵も造られる三島県(あがた)の豪族とする。

503年説では、「日十大王」は継体の先々代の仁賢大王、「乎弟王」は継体の即位前の名であるヲホド王とし、「斯麻」を皇子のときに倭国にいた百済・斯麻王(武寧王)にあてる。つまり継体は、即位する以前から、大和の忍坂(おしさか)(奈良県桜井市)の宮にいて、仁賢のもとで若き武寧王とも親しんだ王権中枢の人物だったことになる。

両説とも、継体ないしその一族が早くから王権と深いつながりを持っていたことを示し、そして、継体と阿蘇ピンク石棺の“出会い”をうまく説明してくれる。

隅田八幡宮は紀ノ川中流域にあり、東の峠を越えれば忍坂がある大和だ。鏡は八幡宮周辺の古墳の出土品だろうが、紀ノ川河口には5世紀末の大谷古墳(和歌山市)があり、九州から渡ってきた阿蘇灰色石棺が入っている。オオホドか継体がこの鏡を贈るほどの関係だった紀ノ川豪族の阿蘇石石棺。
86   名前:  名無しさん@chs   2011/02/04(金) 08:29:49   ID:tsG+ICGY
濱宮(はまのみや)
和歌山市毛見由緒
 日前国懸神社の遷宮前の場所とされている。
 神武東征時、天道根命は神鏡と日矛の神宝を奉じて、加太(加太春日神社)、木本(木本八幡宮)、琴の浦の岩上へと遷ったと伝わる。 漂着神の寄りつく海辺の伝承であり、海人の斎祀った神の姿を思わせる。
一方、崇神天皇五十一年、豊鍬入姫命が天照皇大神の御霊代を奉じて名草浜宮に遷した際、同時に琴の浦から天懸大神、国懸大神も遷し、宮殿を並べたと伝えられている。 崇神五十四年、天照皇大神が吉備名方浜宮に遷座、その後、天懸大神、国懸大神は垂仁天皇十六年、名草萬代宮(現在の日前宮)に遷ったと伝わる。 この時、名草萬代宮に鎮座していた伊太祁曽神社は山東へ遷座したとされる。
浜宮は「元伊勢の大神」とたたえられた。
87   名前:  名無しさん@chs   2011/02/04(金) 08:30:26   ID:tsG+ICGY
倭姫世記云う 崇神天皇五十一年甲戊遷木之国奈久佐濱宮積三年間奉斎于時紀伊国造進舎人紀麻呂艮地口御田五十四年丁丑遷吉備國名方濱宮四年奉斎于時吉備國造進采女吉備津比賣又地口御田國造家舊記曰
 神武天皇東征之時以神鏡及日矛託天道根命而斎祭焉天道根命奉二神神寶到于紀伊國名草郡加太浦自加太移于木本従木本到于名草郡毛見郷則奉安處于琴浦之岩上也至
崇神天皇五十一年豊鋤入姫命奉 天照大神御霊遷坐于當國名草濱宮之時日前国懸兩大神自琴浦移于名草濱宮並宮鎮坐蓋三年也同五十四年十一月 天照大神雖遷吉備名方濱宮日前国懸兩大神留坐于名草濱宮至 垂仁天皇十六年自濱宮遷于同郡名草之萬代宮而鎮座也今宮地是也
とあり 按するに 伊勢大神宮及日前国懸兩大神の此地に御鎮座ありし始末日前宮の條に詳なり 伊勢大神は吉備名方に遷り給ひ日前国懸は萬代宮に遷り給ひて猶其御神を此処に祭りて其舊跡を存せり 古は神田も多く 寛永記に濱ノ宮免田三段中言ノ社五段里神ノ社二段 天正十三(1585)年没収すとあり 宮居も厳粛なるに天正の兵燹に罹り社殿神領まて亡失せしに元和(1615年−)中 國命ありて再興せられ享保(1716年−)以後は伊勢ノ宮殿を模せられしかは往古の遺風宛然としていと崇き神境とはなれり 神事は八月朔日九月九日なり 昔は日前宮より神馬三匹渡れり 今は絶たり 神職は國造家兼帯なり
88   名前:  名無しさん@chs   2011/02/04(金) 08:33:44   ID:tsG+ICGY
『紀伊国名所図会』この書の当国造家旧記に、崇神天皇五十四年に天照大神が“吉備名方濱宮に遷座し給う”とあり、吉備とは山陽道の三備の地ではなくこの地の大名(おおな)で、大名から遷座した地は藺引と言い、其処を古くは浜宮とも称したという。倭姫命世記は吉備を山陽道の方にしているが、“もとよりかの「倭姫世紀」は、後人の偽作せる書なれば、拠りどころとするに足らず”などとこき下ろしている。更に、国造家旧記には吉備とのみで國の字が無く、“「倭姫世紀」に國の字あるは、この地の大名なりし吉備を、三備の吉備國にまぎらわして記せるならん。”さらに、大和へ遷るにも備中よりはこの地の方が便利だ、といった都合の良い解釈を加えている。江戸後期の国学者で実証的研究者の伴信友も、名方浜宮の紀伊説を考証している。

名高の藺引ノ森と称された処より遷祀した社は、現在の海南市日方にある@伊勢部柿本神社となった。天照大神を主祭神に、素盞嗚尊、熊野久須毘命、市杵嶋姫命を配祀する。神社には、江戸時代の千石船の模型や絵馬のほか船名を記した石燈籠などが奉納されており、県の重要文化財に指定されている。数年前には獅子舞の奉納なども復活させている。

おなじく和歌山で名方浜宮の比定地とされるもう一つの場所は、有田郡吉備町長田のA国主神社の跡地である。国主神社は有田川を挟んで対岸にある田殿(たどの)丹生(にゅう)神社(じんじゃ)に合祀された。往時を偲び、その跡地に地元の崇敬者が鳥居と小祠を建立した。境内地の一角には「吉備名方濱宮跡」の碑があった。
89   名前:  名無しさん@chs   2012/03/25(日) 13:29:27   ID:KVqBTc7U
>>38
764年仲麻呂方の中衛将監・矢田部老を射殺した紀船守や
765年淳仁天皇の甥和気王に謀叛を使嗾し、称徳女帝の命令で
絞殺された呪術師紀益女も紀氏の一族なのかな?
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【5:92】 竹取物語と忌部 忌部黒麻呂

1   名前:  名無しさん@chs   2007/09/10(月) 18:55:10   ID:c745edb006
竹取物語のモデルである五人の求婚者
この五人の求婚者は、日本書紀持統十年(六九五)冬十月の条にこそ、実は余ることなくぴったり重なり登場していた。
「冬十月の己巳の朔乙酉に、右大臣丹比眞人に輿・杖賜ふ。以て致事ることを哀しびたまふとなり。庚寅に、假に正廣参位 右大臣丹比眞人に資人百二十人賜ふ。正廣肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴御行には、並びに八十人、直廣壹石上朝臣麻呂・直廣弐藤原朝臣不比等には、並びに五十人。」(『日本書紀』)
83   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 11:37:47   ID:Opm72ySg
伊勢國風土記逸文(参考)
難波の長柄の宮に御宇しめしし天皇の丙午(646)のとし、
竹連・磯部直の二氏、此の郡を建てき。

竹連・・・多気郡多気郷
磯部直・・・度会郡伊蘇郷
延暦23年の「皇太神宮儀式帳」によれば,孝徳朝の立評時に,10郷を割いて竹村に屯倉を立て,竹評【たけのこおり】を置き,麻続連広背を督領,磯部真夜手を助督に任じたとある。また天智朝の甲子年には,同評の4郷を割いて,飯野評を置き,公郡としたとある。また「神宮雑例集」には,これとは相違する伝承を記し,己酉年に度相(会)郡をたてたとある。「倭姫命世記」には,立評時を丙午年とする。大宝令以前の評表記が見られることは重要である。なお立評以前は,有爾鳥墓【うにのとつか】村に神庤を置いて,神行政を行っていたという(皇太神宮儀式帳)。また磯部河(祓川か)以東は神国と定めて,大幡主命を神国造・大神主に任じたという(神宮雑例集)。
84   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 11:39:50   ID:Opm72ySg
「続日本紀」文武天皇2年12月乙卯条に,「遷多気大神宮于度会郡」とあることから,皇太神宮がこの時まで当郡に鎮座していたという説もあるが,神郡行政をつかさどる神庤とする説が有力。
8世紀の初頭まで、伊勢神宮は多気にあったのではないか、ということです。
この仮説の基になっているのは『続日本紀』の文武天皇2年(698)11月29日条にある「多気大神宮を度会郡に遷す」という記事なのです。この多気大神宮とは何なのか。これこそ内宮だとする説があるのです。
85   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 11:41:29   ID:Opm72ySg
南伊勢地域に郡制が敷かれていく時、その事務的な中心はまず多気郡の有爾鳥墓に置かれた、というのは共通しています。さらに、全国にある神郡の中で、伊勢神宮だけが二郡を持っていることから、多気郡が内宮、度会郡が外宮の郡だった、という考え方もまた可能なのです。こうした所から、多気大神宮とは、多気の太神宮司を付属させ、多気郡を領地としていた、もともとの皇太神宮ではないか、という説があるのです。
、『万葉集』に見られる柿本人麻呂作の高市皇子への挽歌です。この歌に、「渡會の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を」という表現があるのです。ここにいう「斎の宮」は、壬申の乱の時に神風を吹かせたとしているので、斎宮ではなく伊勢神宮そのものを指していたと考えられます。そして高市皇子が亡くなったのは696年ですから、この時に「斎の宮」は渡會にあった、ということになるのです
86   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 11:43:01   ID:Opm72ySg
「お伊勢さん」などとも呼ばれる伊勢神宮は外宮(ゲクウ)と内宮(ナイクウ)を合わせて、
古くは伊勢太神宮(イセノオオミカミノミヤ)と言われていたそうですが、正しくは「神宮」。
外宮(ゲクウ)は豊受大神宮(トヨウケダイジングウ)が正式名称。
87   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 11:49:06   ID:Opm72ySg
1説
現在の瀧原宮(三重県度会郡大宮町)に祭られていた伊勢神宮をこの時
 に現在の内宮に遷座した。瀧原宮は現在も皇太神宮の別宮として神宮に準ず
 る扱いを受けているがそもそもの御鎮座の由来は必ずしも明らかでない。
2説
異本に「多気大神宮寺」(寺は原文ではまだれがつく:「床」の「木」
 の部分を「寺」に)とあることから、神仏習合による神宮寺を移建した。
3説
伊勢神宮を管理する役所を斎宮司の置かれた多気郡から神宮の鎮座され
 る度会郡に遷した。斎宮そのものも一時多気郡から度会郡に遷されていたこ
 とが記録に残っている。そもそも斎宮は伊勢神宮に奉仕する天皇の名代とし
 ての皇女であり、斎宮司(遺跡は三重県多気郡明和町、斎宮歴史資料館とし
 て整備されている)はそれに仕える組織であるが、その立地は必ずしも神宮
 に近いわけではなく、ここに設置された事情は明らかではない。
88   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 11:53:36   ID:Opm72ySg
『日本書紀』や『古事記』に出てくる伊勢大鹿氏
大鹿氏は伊勢国では天皇系譜につながる唯一の古代氏族
『日本書紀』の敏達天皇四年(五七四)の条に「伊勢大鹿首小熊」という人物が見えます。その娘の菟名子は、采女として出て同天皇の夫人となり、太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)の二人の皇女を生んだというのです。『古事記』にもほぼ同様の記述があります。なお、この糠手姫皇女は、のちの舒明天皇の母です。

平成四年発行の『多気町史』でも、「伊勢大鹿首は、異説もあるが、相可付近に住んでいた当地方の豪族であったと考えられる」としています

多気郡の相可(現多気町)を大鹿氏の本貫地とする説は多く、江戸時代から続いています。外宮神官度会延経の『神名帳』考証を受けた安岡親毅の『勢陽五鈴遺響』では、相可の相鹿上神社の祭神が天児屋根命で、「相鹿大鹿相同シキニ拠テ大鹿首ノ始祖ハ天児屋根命ナリ……大鹿ハ今ノ相可ト称スルニ相同ク大鹿首ノ本貫ノ地ナルヲ其祖神ヲ祀ル処ナリ」と記しています。
一方、北伊勢の河曲郡(現鈴鹿市)に大鹿氏の本貫地があったという説も多く、古くからありました。本居宣長は『古事記伝』の中で「伊勢大鹿首は、神名帳に伊勢ノ国河曲ノ郡大鹿ノ三宅ノ神社あり、此ノ地より出たる姓なり」とし、神宮神官の御巫清直も「伊勢式内神社検録」(大神宮叢書『神宮神事考証』所収)の「河曲郡大鹿三宅神社」の項で「其(大鹿首)子孫久シク連綿シテ……其大鹿氏ノ居処ヲ大鹿村ト称ス。本郡ニ隷セル国分村是ナリ」としています。
89   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 11:54:16   ID:Opm72ySg
「北伊勢地方の主要交通路(東海道)に本貫をおく伊勢大鹿氏は、景行朝頃に中央と絆を深め、雄略朝には采女(三重の采女)を出し、さらに安閑朝に屯倉が設置され、その管理者になった」と、書紀記載以前の大鹿氏
90   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 12:03:16   ID:Opm72ySg
息長真手王(おきながまておう)の娘、麻積娘子(おうみのいらつめ)が生んだ皇女は荳角(ささげ)皇女と呼ばれた
荳角皇女は伊勢斎宮(いつきのみや)となったと日本書紀は記している。荳角皇女の次の次、すなわち八代目の伊勢斎宮である菟道(うじ)皇女もまた息長真手王の孫に当たる。真手王の娘の一人である広姫が敏達天皇の皇后となり、その間に生まれた皇女である

記紀の主張は、息長真手王の生んだ太子日子人が、采女の伊勢大鹿首の娘が生んだ田村王を娶って岡本宮の舒明天皇をうんだ

皇極・斉明女帝(宝皇女)は舒明天皇(田村王)との結婚以前に既婚歴があり、高向王とのあいだに漢皇子をもうけてます
91   名前:  名無しさん@chs   2010/01/16(土) 12:06:07   ID:Opm72ySg
『日本書紀』は敏達4年(575)息長真手王の娘・広姫を立てて皇后とす、と記している。継体天皇の誕生は死亡年から逆算して西暦450年ごろとされ、一方、敏達天皇の誕生は538年とされている。90年近い年齢差がある二人の天皇に娘を嫁がせることなど現実的ではない。『
92   名前:  名無しさん@chs   2012/03/25(日) 12:46:48   ID:KVqBTc7U
>>54
忌部氏には、二流があるらしい。
205 :日本@名無史さん:2011/12/17(土) 15:04:05.66
・・・・しかも、忌部氏の中でも嫡流にあたるタカミムスビ系の忌部氏の系譜だったはず。
忌部氏には、もう一つ、カミムスビ系の系譜がいる。
この家系は、タカミムスビ系の一族の女性と、
カミムスビ系の男子が婚姻して婿養子に入ったものの家系で
阿波忌部氏などが、その代表的な一族・・・・・・・・
神武天皇や神武東征をほのぼの語ろう
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1321063341/200-205
名前: メール: sage cookie

【6:59】 龍田神社 広瀬神社 風神と水神

1   名前:  名無しさん@chs   2008/02/29(金) 13:25:32   ID:nOsB3FSw
天武紀四年四月一〇日条に小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして風神を龍田の立野に祀らせた記事がみえる。大宝元年(七〇一)神祇令に孟夏、孟秋に広瀬社の大忌祭とともに祀られる例となり、風水の害なきを祈るものである、これは、『延喜式』によって詳細を知られるが、その四時祭上に供料の細目と、勅使の位階、員数等を明記し、「太政官式」・「式部式」にも記載している。更に臨時祭式にも春日、広瀬等とともに社庫の鑰匙については官庫に納め置き、祭に臨んで祭使が使用にあたることを記している。天武四年以降毎年広瀬とともに四月七月の祭を記載しており、嘉祥三年(八五〇)従五位上を叙せられたのを初めとして、神階昇叙し貞観元年(八五九)従三位となる。同年、大和の水分神山口神二六社とともに風雨を祈るため幣を奉られている。天平二年(七三〇)『大和国正税帳』に「龍田神戸稲肆伯参拾束捌把」、『新抄格勅符抄』に「龍田神三戸」とみえ、文禄四年(一五九四)大和郡山城主増田長盛の「日供米拾弐石」を先規の通りとすること、また慶長七年(一六〇二)片桐且元によって同額を安堵されている
50   名前:  名無しさん@chs   2008/04/09(水) 16:42:02   ID:okWxVHn6
天武天皇が、唐風の律令制に合うようアレンジしたのが、代表的な「大嘗祭」

「大嘗祭」の準備については、ことあるごとに、まず「亀卜」がおこなわれ、「神意」をうかがいながらすすめられる
平安時代には、「大嘗祭」準備執行の開始から、全国の国司・郡司を通じて、数カ月前から各国民にも、精進潔斎するよう勅令がだされていた。

本番11月
天皇、宮中関係者、「大嘗祭」の神官などが、「物忌み」を行う。
51   名前:  名無しさん@chs   2008/04/09(水) 16:44:24   ID:okWxVHn6
天武朝(672〜686)には吉凶をうらなう専門職が中務(なかつかさ)省の陰陽寮として創設された。職務は卜筮(ぼくぜい)・天文・暦・時刻のことをつかさどり、陰陽寮には長官の頭(かみ)の下に陰陽師や陰陽博士、暦博士・天文博士、陰陽生・暦生・天文生などがおかれた。882年(元慶6)には陸奥(むつ)鎮守府に陰陽師がおかれるなど、平安時代以降、地方にも配置されている。
52   名前:  名無しさん@chs   2008/04/09(水) 16:49:06   ID:okWxVHn6
物忌の季節:源氏物語

男たちは宮中に宿直して女 の許へ帰ることもできず、女の品さだめに話の花が咲きます。
53   名前:  名無しさん@chs   2008/04/11(金) 14:52:11   ID:UHYnPHJY
鳥海山大物忌神社 (ちょうかいざんおおものいみじんじゃ)
山形県飽海

祭神は大物忌神で、社伝には欽明天皇25年(約1400年前)鳥海山上に鎮座した神で倉稲魂命(伊勢外宮の豊受大神と同神)とあり、また倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神の合神ともいわれている。
54   名前:  名無しさん@chs   2008/04/11(金) 14:54:15   ID:UHYnPHJY
広瀬
広瀬大明神と称するのは、大物忌神と同神の広瀬坐和加宇加之売神社の分霊を、勧請して祀ったことに因る

讃岐神社
(案内)
当社の祭神は「三代実録」元慶7年の条に、正六位上、散吉大建命神、散吉伊能城神と見えるが、当社伝では大国魂神、倉稲魂神、大物主神を奉祀するという。
55   名前:  名無しさん@chs   2008/04/11(金) 14:54:53   ID:UHYnPHJY
広瀬神社の主神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと)です。若宇迦能売神とも書くし、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とも、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)とも同じだそうです
56   名前:  名無しさん@chs   2008/04/11(金) 15:01:34   ID:UHYnPHJY
天日鷲神阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の義理の兄弟で、天富命と由布津主命の娘は夫婦である
57   名前:  名無しさん@chs   2008/04/11(金) 15:04:24   ID:UHYnPHJY
天日鷲命を伊勢国造とした。伊賀伊勢国造の先祖で有る。天道根命を紀伊国造とした。紀河瀬直の先祖である。

古語拾遺にある伝承によると、神武天皇の命によって、天太玉命の子孫である天富命は天日鷲命の子孫の忌部氏を率いて、阿波国に至り、殻木や麻を植え、それを大嘗祭の時に献上することになったという。またこの天富命と阿波の忌部が東土に渡って、現在の千葉県、つまり安房(あわ)郡(安房国)に至り、そこにやはり麻を植え、そのためにこの地を上総(かみつふさ)・下総(しもつふさ)というようになったという。
58   名前:  名無しさん@chs   2011/12/28(水) 11:03:49   ID:tkr4xECs
長彦神社由緒
御祭神
志那津彦神、志那津媛神
 別に息長津彦命、息長津媛命とも申しあげ、風の神としての御功徳は全国に遍く 五穀豊穣、風禍防災、安全守護の神として崇敬されています。
御由来
 当社は、今を去る千三百年のむかし、天武天皇白鳳四年(六七五年)四月に当郡の人佐伯連廣足によって、大和国平群郡立野に祀られた龍田の風神を、神託によって当地「たつの」の宮山に斎き祀られたと伝えられています。
59   名前:  名無しさん@chs   2011/12/28(水) 11:05:06   ID:tkr4xECs
龍 田 神 社 吉田東伍著 『大日本地名辞書』 より

今三郷村立野に在り、中世二十二社の第十四に列し、風神を祭る。延喜式龍田坐天御柱国

御柱神社所祭級長戸邊命級長津彦命ニ座と者是也。

古事記傅に、風は天と地の間を支へ持てば御柱と称へたりと。書紀纂疏は風神即龍田姫龍

田彦なりと日へり、按ふに級長は古事記志奈に作り、龍田の別名歟、名義詳ならず。今官幣

大社に列す。

神祇志料云、級長津彦日本書紀に見ゆ、旧事紀には級長戸邊ありて二神と為せり。此二神

即風神にして、上古伊弉諾尊大八州國を生給て、我生りし國唯朝霧のみ薫る哉と詔て、乃吹

撥はせる御気息に生坐る神也。
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【7:40】 気多大社

1   名前:  名無しさん@chs   2007/08/26(日) 09:46:17   ID:883ba4b5cf
社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。崇神天皇のときに社殿が造営された。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っている。『延喜式』では名神大社に列し、能登国一宮とされた
31   名前:  名無しさん@chs   2008/05/30(金) 10:21:04   ID:eF2v5zBo
コウレイ天皇

大倭根子日子賦斗爾命は、大和の黒田の廬戸の宮から天下を治めました。
この天皇が、十市の県主の祖先の大目の女の細比売(くわしひめ)と結婚して産まれたのが、大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)です。また、春日の千千速真若比売(ちぢはやまわかひめ)と結婚して産まれたのが、千千速比売命(ちぢはやひめのみこと)です。意富夜麻登玖爾阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)と結婚して産まれたのが、夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)、日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)、日子伊佐勢理毘子命(ひこいさせりびこのみこと)またの名を大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)、倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)の四人です。また、その妹の蝿伊呂杼(はえいろど)と結婚して産まれたのが、日子寤間命(ひこさめまのみこと)と若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこ)の二人です。この天皇の子は合わせて男5人、女3人です。
この大倭根子日子国玖琉命が天下を治める事となります。
大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は二人で、播磨の氷の河の埼に忌瓮を据えて神を祭り、播磨からはいって吉備の国を治めました。この大吉備津日子命は吉備の上の道の臣の祖先です。若日子建吉備津日子命は吉備の下の道の臣、笠の臣の祖先です。
日子寤間命は、播磨の牛鹿の臣の祖先です。日子刺肩別命は、高志の利波の臣、豊国の国前の臣、五百原の君、角鹿の済の直の祖先です。
天皇は享年106歳、稜は片岡の馬坂の上にあります。
32   名前:  名無しさん@chs   2008/05/30(金) 10:23:39   ID:eF2v5zBo
宇自可臣(牛鹿臣)は播磨国飾磨郡の牛鹿の屯倉に居り、孝霊天皇の皇子日子寤間命(ひこさめまのみこと)(あるいは彦狭島命)の後と称する氏族であるが、古事記では日子寤間命を大吉備津日子命・若日子建吉備日子命の弟としている
33   名前:  名無しさん@chs   2008/05/30(金) 10:26:41   ID:eF2v5zBo
「活玉依毘賣」の子供である「飯肩巣見」は「日子刺肩別」???
とすれば「美呂浪」は「日子刺肩別」の兄弟???。
それは「伊佐勢理毘古」か?
34   名前:  名無しさん@chs   2008/05/30(金) 10:28:41   ID:eF2v5zBo
三輪山の大物主神の子の天日方奇日方命の子の飯肩巣見命の子が建甕槌命であり、建甕槌命の子が大田多根子である

カモ系図

奇日方天日方命−飯肩巣見命−建甕尻命−豊御気主命−大御気主命→
35   名前:  名無しさん@chs   2008/05/30(金) 10:29:53   ID:eF2v5zBo
古事記では、大物主が陶津耳の娘、活玉依毘賣を娶って産ませた子を「櫛御方」とする。母の名前が一緒だし「奇日方」(クシヒカタ)と「櫛御方」(クシミカタ)は酷似
36   名前:  名無しさん@chs   2008/05/30(金) 10:31:52   ID:eF2v5zBo
太田田根子に問うて・・・。対して曰く、「父を大物主大神と曰す。母を活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり。」亦云う、「奇日方天日方武茅渟祇の女なり。」

意富多多泥古という人を求めると、河内の美努村にその人を見て得て貢ぎ進む。・・・「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶って生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、意富多多泥古ぞ。」と曰す。
37   名前:  名無しさん@chs   2008/06/04(水) 10:04:47   ID:zGgnqRK2
気比大神
別称の伊奢沙和気神という神名の由来については、神功皇后の息子の応神天皇が敦賀を訪れたときに、そこに祀られていた気比大神と名前を交換し、応神天皇はもとの伊奢沙和気という名前から誉田別(ホンダワケ)に、気比大神は誉田別から伊奢沙和気大神になったという。
38   名前:  名無しさん@chs   2011/01/22(土) 10:27:25   ID:88z2n3go
>>11
但馬國の気多社といえば、旧氣多郡のこちらでは?
気多神社 御祭神:大己貴命 但馬國日高町上郷字大門227  
ttp://www.genbu.net/data/tajima/keta_title.htm
39   名前:  名無しさん@chs   2011/04/09(土) 10:28:55   ID:ccOGdqjs
但馬國旧城崎郡には氣比神社、旧氣多郡には氣多神社が鎮座するわけですね。
播磨風土記では、「天日槍」と「葦原志許男命」の支配地争いで、前者が城崎郡出石に、
後者が養父郡養父神社と氣多郡氣多神社に祀られたという神社ですね。
【新説但馬史】弥生3. 塗り替えられた気多の歴史 
ttp://koujiyama.at.webry.info/201005/article_1601.html
40   名前:  名無しさん@chs   2011/12/18(日) 10:16:54   ID:DDIX1FfI
>>39
西隣鳥取県の気多崎のある気高郡も、明治以前は因幡國気多郡だったらしい。
128 : 天之御名無主 : 2008/12/31(水) 10:24:05
>>84
ここですね。
”白兎海岸は、確かに沖合いの島といい、ワニの背中に見立てられる恋が島といい、
気多の前(けたのさき)といい、古事記神話の舞台にぴったりの場所だと思えます。
しかし、ここは高草郡であり・・・・・・・・・・
因幡の白兎はシュモクザメに
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/998135412/84-128
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【8:177】 三足鳥

1   名前:  名無しさん@chs   2008/01/29(火) 16:22:51   ID:yT4vQYoI
中国の書『淮南子』に「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、十匹の三足烏が住んでいた」とある


淮南子(えなんじ)は前漢の淮南王劉安が学者を集めて編纂させた哲学書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である
168   名前:  削除   削除   ID:削除
削除
169   名前:  名無しさん@chs   2010/12/26(日) 09:42:34   ID:p4PzjvFE
「八咫烏/ヤタガラス」の「咫」はヘンな字ですね。「尺」に
「只」という字をつけます。1尺は「寸」の約10倍でセンチに
直すと約30センチです。
 「1咫」は、手のひらの下端から先端までの長さで4寸――約
18センチ、「8咫」ですからこれを8倍すると144センチ、
ほぼ1.5メートルですから、ヤタガラスはかなり大きなカラス
ということになります。
 カラスは全身が黒、イメージは闇です。何となくうさんくさい
イメージです。しかし、神話の世界では光、太陽のイメージなの
です。ギリシャ神話でのカラスは太陽神アポロンの使いであり、
英国のワタリガラスは王家の紋章です。
170   名前:  名無しさん@chs   2010/12/26(日) 09:45:37   ID:p4PzjvFE
大神神社
なぜ「三ツ鳥居」なのかというと、大神神社は三神を祀ってい
るからです。三神とは次の通りです。
       和魂 ・・・・・ 大物主神
       幸魂 ・・・・・ 大己貴神
       奇魂 ・・・・・ 少彦名神
賀茂建角身命は神武天皇の母である玉依姫(たまよりひめ)の父親
171   名前:  名無しさん@chs   2010/12/26(日) 09:49:08   ID:p4PzjvFE
徳川家の紋は「三葉葵」
葵を家紋としていたのは、徳川四天王のひとりである本多正信です。本多氏は賀茂神社の神官の一族であり、そのル
ーツは賀茂氏、その家紋は「立ち葵」
172   名前:  名無しさん@chs   2010/12/26(日) 09:54:47   ID:p4PzjvFE
3次魔方陣
6 7 2
1 5 9
8 3 4
中央の縦列が753。
縦横斜めの合計はいずれも15になる。七五三のお祝いが11月15日に行われる理由は
ここにあります。
173   名前:  名無しさん@chs   2010/12/26(日) 09:58:28   ID:p4PzjvFE
「古事記」によれば、「賀茂」の名を持つ神としては「迦毛大御神」があります。
この迦毛大御神は「大国主命」の子であり、現在、奈良県御所市
の高鴨神社に主祭神として祀られています。大国主命の子といえ
ば、もう一人「事代主命」がいます。
 賀茂氏は主としてこの事代主命を祀っている。

これと関連のあるのは三島神社です。「三島」という名前が付く神社は全
国に1万社以上あるといわれますが、その総本山は、静岡にある「三島大社」なのです。『延喜式』によると、三島大社はもとも
とは、伊豆国賀茂郡にあったというのです。
 伊豆は、かなり早い時期から賀茂氏が支配していた場所であり伊豆諸島の神社はことごとく事代主命を祀っているのです
174   名前:  名無しさん@chs   2011/01/31(月) 22:22:52   ID:RMfOVctA
ここで
ttp://china.syoyu.net
175   名前:  名無しさん@chs   2011/12/16(金) 17:54:46   ID:mEW7/ZP+
高鴨神社 奈良県御所市鴨神。旧県社。祭神は味鋤高彦根命(大国主命の御子神)である。本神社をもって『延喜式』に記載の「高鴨阿治須岐託彦根命神社四座」にあてている。『出雲国造神賀詞』の中に「大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静り坐さむ大倭国と申して……己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ……皇御孫命の近き守神と貢り置きて……」とあって、国つ神である。大田田根子の孫賀茂積命がこの神を奉じて、代々賀茂(鴨)氏が祭祀に当ったが、『続日本紀』天平宝宇八年(七六四)一一月の条に「昔、大泊瀬天皇(雄略天皇)葛城山に狩し給ふ。時に老夫ありて、毎に天皇と獲を争ふ。天皇これを怒りて其の人を土佐の国に流す。先祖の主る神、化して老夫となる。ここに放逐せられる」という経緯があったが、子孫の賀茂朝臣田守と兄法臣円興の奏言によって、淳仁天皇の同年月の七日に、再び土佐から戻して再興されたと伝承されている。
176   名前:  名無しさん@chs   2011/12/16(金) 17:55:34   ID:mEW7/ZP+
神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。
この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。
177   名前:  名無しさん@chs   2011/12/16(金) 18:03:52   ID:mEW7/ZP+
積羽八重事代主命(事代主)と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。葛城氏・
鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)に対して「
下鴨社」とも呼ばれる。事代主神は元々は鴨族が信仰していた神
名前: メール: sage cookie

【9:77】 讃岐の桃太郎伝説

1   名前:  名無しさん@chs   2007/04/21(土) 06:18:57   ID:38f297e948
倭迹迹日百襲姫命  :讃岐一ノ宮の田村神社の主祭神
第7代孝霊天皇の子であり、五十狭芹彦命(大吉備津日子命)と稚武彦命(若日子武吉備津日子命)の姉、いわゆる桃太郎の姉であった。

大吉備津日子命(イサセリ彦)と若日子建吉備津日子命(ワカタケ彦)は、四道将軍として力を併せ針間(播磨)を足場に吉備の国へと攻め入り、この地を平定した。

雌雄島(女木島・男木島)を根城とした海賊が笠居郷(香西・鬼無)あたりまで進出してきた為、吉備の国から讃岐の姉 倭迹迹日百襲姫命を訪ねてきたきびつ彦兄弟に海賊(鬼)征伐を依頼し、退治した。=桃太郎伝説
68   名前:  名無しさん@chs   2011/03/11(金) 11:04:40   ID:A3uJChiY
楽楽福神社由緒:(日南町)
「大日本根子彦太填尊は人皇第七代孝霊天皇の御名なり。東西両宮共天皇を主神とし、皇后、皇妃、皇子及び其の御一族を禮る。
孝霊天皇は少年の御時楽楽清有彦(ささきよありひこ)命と申し、又笹福(さきふく)と萌し奉る。御即位二年細媛命(くはしひめ)を立てゝ皇后と為し給ひ、大日本根子彦國牽皇子御誕生あらせらる。細姫命は孝霊天皇の御后にて國牽皇子即ち孝元天皇の御母にあたり、磯城県主大目(おほめ)命の女なり。福媛命は孝霊天皇の妃にて彦狭島(ひこさしま)命御誕生あらせらる。彦狭島命は歯黒(はぐろ)皇子とも申し孝霊天皇第五の皇子なり。孝霊天皇巡幸して西の國々を治め給ふ時、隠岐國の黄魃鬼(こうばつき)を退治し給ひ、それより伯耆國に渡らせ給ひし時日野川上に至り給ひて、今の溝口町鬼住(きずみ)山並に日野上村の鬼林(きつん)山に邪鬼ありて人民を悩すよしを聞召して、歯黒皇子並に侍従大水口宿爾の御子新之森王子、大矢口宿禰の御子那澤仁奥等を卒ゐて彼の邪気を討伐し、其の首魁を其の地に埋葬し給ふ。現今東宮の境内近く鬼塚といふあり、これ即ち鬼林山の強虜を埋没せし地なりと博ふ又御太刀を洗はせ給ひし池を太刀洗池と称しし東宮境内にあり。
その頃、備中の國に石蟹魁師荒仁(いしがにたけるかうじん)といふものあり、天皇の近郷に居給ふ由を聞き國中の凶徒を集め兵を起して天皇を襲ひ奉らんとす。天皇夙くも此の事を聞召給ひて、歯黒皇子を軍将とし、新の森王子を副将として、数多の軍兵を勤(したが)へ之を征伐し給ふ。歯黒皇子は武勇萬夫に勝れ猛きこと雷電の如く、天皇巡幸の時は必ず此御子を伴ひ給へりとぞ。かくて出雲振根等各地の強虜をば悉く言向けやはして地方を平定し、王化を遠荒に布き給へり。
これより先皇后細媛命は天皇の御跡をしたひあすを知るベに尋ね給ふに、御産のなやみありて石の上に憩はせ給ふ、頃は五月雨のなかばにして雨多く降りければ里人菅のみの笠を奉る川の水音高く聞こゆる故「水責喧」と詔り給へは水音乃ちやむ。依って日野川のこの部分を音無川と称し今の黒坂村上菅にあり。皇后其の地を立たせ給ひし時の御歌
  むら雨の露のなさけの名残をばこゝにぬきおく菅のみのかさ。
それより川上に上り給ひて帝に會ひ給ひ、日野川上宮内の里はよき富所なりとて皇居を究め給ひて多くの年月を慈におくり給へり。是を西の内裏といふ。皇后は御年百拾歳にて孝霊天皇御即位七拾壱年辛巳四月二十一日を以て、この西の御殿におひてかくれ給ふ。現今西宮の東北方崩御山と申すは皇后の御陵なりと傳ふ。古来をの斧鐵を加へず満山老樹大幹参差として書猶ほ暗く、頂上墳域の石累高さ四丈に達し、古色頗る蒼然。西宮鳥居の近くに天狗石と称し天狗の爪の痕跡を残せる石あり、傳へ云ふ崩御山の御陵の石は備中國石蟹より天翔る天狗により運ぼれしものにて此石は天空より取落とせしものなりと。蓋し天狗取りなるものならん。後天皇は東の宮殿に移り給ふ。これを東の内裏といふ。元内裏原神社の所在地にして現に内裏原と称す。
即ち當社は地方開拓に御治績ありし祖神の偉大なる御霊徳を追慕景仰して鎮祭し奉れる所にして、且つ皇后御陵のある聖地なり」
69   名前:  名無しさん@chs   2011/03/11(金) 11:07:13   ID:A3uJChiY
伝承をまとめると、石蟹族は岡山県新見市から、鳥取県日野郡日南町にかけての土地を領有していた出雲族に属する豪族で、土地の広さからして新見市周辺を拠点にしていたと思われる
日野郡史
  「孝霊天皇が宮内に宮を作ってしばらくした頃、備中の石蟹魁師荒仁が兵を集め天皇を襲おうとした。天皇はそれを察知し日南町霞に關を作り、吉備津彦(歯黒皇子)に備中へ向かわせた。荒仁は吉備津彦に恐れをなし、大倉山の麓で戦わずして降参した。」
別伝
「孝霊天皇が石蟹魁師荒仁を退治したときに宮内に宮を構えた」
備中の伝承(新見市石蟹)
「強賊の石蟹魁師が石窟に居城を構えて横暴を極めていた。
     そこで、吉備津彦命がこれを征服して殺した。」
となっている。これは、いろいろと矛盾する伝承
70   名前:  名無しさん@chs   2011/03/11(金) 11:10:32   ID:A3uJChiY
近江國甲賀郡 水口神社
御祭神
大水口宿禰
配祀 大己貴命 素盞嗚尊 稻田姫命
滋賀県甲賀市にある
社伝によると、主祭神・大水口宿禰は
饒速日命六世の孫である出石心大臣命の御子。
出石心大臣命の母・淡海川枯姫は、
川枯首阿目加伎袁四世の孫である阿自夷沙比止命の後で、川枯神社の祭神。
大水口宿禰は、その縁により当地に居住し、
土地開拓の祖神として人々に崇敬されたという
71   名前:  名無しさん@chs   2011/03/11(金) 11:12:29   ID:A3uJChiY
大和國城上郡 水口神社 旧村社
御祭神 譽田別命
水口大神 『大和・紀伊 寺院神社大事典』
大水口宿禰 『特撰神名蝶』他
奈良県天理市にある。
169号線のそば、景行天皇陵の近く。
畑の向うに、道路から境内が見える
72   名前:  名無しさん@chs   2011/03/11(金) 11:16:45   ID:A3uJChiY
亀山市の新羅神社と考えられている神社は忍山神社である。
式内社「忍山神社」白鬚大明神
 一、神紋   花菱
 一、鎮座地  亀山市野村四―四―六五(大字一一〇九番地字忍山)
 一、主祭神  猿田彦命(本宮)、天照皇大神(別宮)
   祭神   天児屋根命、 天布刀玉命、
        素盞鳴尊(天王社)、大穴牟遅神(和賀社)
 一、皇大神宮遷幸地跡
 一、弟橘媛命生誕地
「社記」には崇神天皇(四世紀初)の七年秋九月、饒速日尊五世の孫伊香我色雄命が勅を奉じて猿田彦大神を祀り、伊香我色雄命の子・大水口宿禰の子孫相次ぎ神職となる。猿田彦の一族と伊香色雄命一族(後の忍山氏)とが何らかの因縁で結ばれていたのかも知れない。さらに、垂仁天皇(四世紀)の二十五年、皇女である倭姫命が、天照大神を祭るのに最も適した場所を求めて大和(現奈良県)から近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)を経て伊勢国に入り、忍山の地に至った時に大彦命が「ここは味酒の鈴鹿国奈具波志忍山」と姫に答えたことにより、六ケ月間、皇大神宮の鎮座地となった。その跡が忍山宮または、小山宮といわれた。その間に神戸及び神田が寄進され、之が本となって後世に鈴鹿神戸郷といわれるようになった、その中心人物が忍山宿禰であった(皇大神宮はその後、磯宮、宇治家田田上宮などを経て五十鈴川上に鎮座となった)といわれる。忍山神宮の祠官である忍山宿禰(「紀」の景行天皇の条に穂積氏忍山宿禰とある)については社記に「地主祖神と申事。饒速日尊五世の孫、伊香我色雄命の子大水口の宿禰と相次いで神主となり同社に奉仕した」とある。「新撰姓氏録」によると、穂積の忍山氏は左京神別上・天神の部に属し「穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命速日命六世の孫・伊香色雄の後」とある。また、大水口宿禰も同録に、左京神別・上に穂積朝臣は「伊香賀色男、大水口宿禰之後也」とある。饒速日命は物部氏の祖であるので、この神社の祭神は忍山宿禰の祖・饒速日命ということになる。
因みに、忍山宿禰の長女である弟橘媛は日本武尊の妃である。この忍山神宮は延喜式記載の鈴鹿郡忍山神社であろう
73   名前:  名無しさん@chs   2011/07/31(日) 18:13:20   ID:spNMGI9+
愛媛県西条市にある伊曽乃神社社家の御村別(みむらわけ)氏の支族に、伊予賀茂氏とか賀茂伊予氏という氏族もある。「いその」神社というからには、海人系であろう。因みに遠祖は、息長氏系の12代景行天皇と阿倍氏の高田媛の子、武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこと)で、吉備氏系の倭建命や、讃岐氏の祖の神櫛別命、空海を出した佐伯氏の祖、稲背入彦命の異母兄弟にあたる。また、倭建命と大吉備建比売(おおきびたけひめ)の子、十城別王(とおきわけのみこ)が、伊予別(いよわけ)君の祖となり、伊予を本拠地としていたことから、吉備氏との関係も窺える。御村別・伊予別の両氏は、後に「和気氏」を名乗った。
74   名前:  名無しさん@chs   2011/07/31(日) 18:19:01   ID:spNMGI9+
武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)は、記紀などに伝える古墳時代の皇族。武国凝 別皇子。景行天皇の第12皇子。母は阿倍氏木事の女・高田媛。伊予国平定のために派遣 され、神野郡(後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市他)に拠点を置いた

満濃町(まんのうちょう)と丸亀市(まるがめし)の両方に「神野神社(かんのじんじゃ)」がある。
伊予国神野郡の人久留島(和気氏の一族)が当地に移住し、その祖神である伊曽乃社を創祀し、神野神社と称した
創始の時期は継体天皇2年とのことで、この和気氏(わけし)の一族は初めは満濃町の地に移住していたが、後に丸亀に移動したということである。
75   名前:  名無しさん@chs   2011/07/31(日) 18:28:32   ID:spNMGI9+
新居浜市別子山
別子という名前の由来は、景行天皇第12皇子「武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)」が伊予の御村(新居・宇摩・周桑)を治める郡司として君臨して以来、その子孫が営々として三村を治めました。その別(わけ)の子孫がいた所であることから、別子という名がうまれてきたといわれています。
76   名前:  名無しさん@chs   2011/07/31(日) 18:33:56   ID:spNMGI9+
曹子神社  そうし


祭神
・襲武媛命(そのたりひめのみこと)
・国凝別皇子
・国乳別皇子
・小確命

・創立:永正3年(1506年)3月4日
・由諸沿革
景行天皇の御代に熊襲が反いたため、
天皇が親征され
日向に6年おられたことが
「日本書紀」に記されているが
社伝によると、皇妃襲武媛
命はお伴をされて内助の功を
たてられた、皇妃並びに2皇子を祭神とする雑司権現は●札によると、後柏原天皇の永正3年3月建立され、西支弁分後河内、山下にあった。
同じく西弁分後谷堂山にあった荻原権現
と2社とも安政6年(1859年)現在地に遷座●したという。
安産、子育ての神として、また開発の神として地在の住民尊崇が曹子とは部屋住みの弟子の意味だが「日本書紀」によると襲武媛の子は、国乳別皇子、国背別皇子l、豊戸別皇子、3人で国凝別皇子は高田媛との間の武国凝別皇子かと見られる。
小●命は稲日太郎媛との間の第2子で日本武尊の別名である。
77   名前:  名無しさん@chs   2011/12/04(日) 13:11:36   ID:AfOl5Alo
>>53
>温羅、遂にずい(方ヘンに垂)旗を垂れ鋒刀を棄てて降ったと・・・・・・・
吉備国には、吉備津彦の温羅征討伝承があり桃、桃太郎、黍団子と言えば岡山県が
高名ですが、前田晴人氏説では、桃太郎の鬼退治話は御伽草子でも吉備地方の民話でも
何でもなく、細川幽斎が創作した征西譚らしいですね。家来の犬・猿・雉は、鬼の住む
西方の戌・申・酉の方角の寓意だと。
名前: メール: sage cookie

【10:28】 抱朴子 不老不死 神仙道

1   名前:  名無しさん@chs   2008/05/02(金) 17:27:11   ID:8gyQMT8E
『抱朴子』では、薬をその効能から上薬・中薬・下薬に分け、その上薬のトップに丹砂、それに次ぐものとして黄金をあげています。

 上薬とは、単なる長生きや病気治癒のためではなく、不死を得るために服するものです。

『抱朴子』によると、植物や動物から作る薬はいかに体に良いものであっても、所詮は腐るものであって不滅ではない。不死の体を作るための薬は不滅の鉱物から作らなければならないというわけです。

 金は決して錆びることがなく、上薬の代表となっておかしくはないものです。金の薬効への期待は、現在でも、金粉入りのお酒や、金箔入りの高級料理にその名残をとどめています。

 その金以上の上薬とされた丹砂とは、硫化水銀のことです。粉末の硫化水銀は鮮やかな朱色で染料にも用いられますが、簡単な操作で銀白色に輝く金属水銀にも、赤い酸化水銀にも、黒色の硫化水銀にも白い結晶の硫化第二水銀にもなるということで、変幻自在の仙人になる薬にふさわしいと思われたようです。
19   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:22:41   ID:/nw8HXxo
「決明飲」は、「草決明」「石決明」、菊花などの数種類の成分が入った液体漢方薬で、 めまいや睡眠障害などに効果がある。
20   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:23:27   ID:/nw8HXxo
セツケツメイ 石決明

アワビの貝殻です。「目を明るくする石につく貝」ということから石決明と名付けられました。炭酸力ルシウムやアミノ酸を含んでいます。
21   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:24:50   ID:/nw8HXxo
あわびの貝殻は、漢方名では「石決明」・千里光」といいます。名前の由来は「目を明るくする」ところからきており、植物のエビスグサ(草決明)に対して、海中の石に付く貝なので、石決明と石の字を冠したのです。
22   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:28:48   ID:/nw8HXxo
『魂志倭人伝』(3世紀後半)
「人好んで魚鰻を捕え、水に深浅となく皆沈没して之を捕る」

『古事記』 『日本書紀』にも、アマに関する記事が見られます。

『常陸国風土記』 の密筑 (日立市)の項に
「石決明、辣甲羅、魚貝等の類、甚多し」
とあり、近県地域でも潜り漁が行われていたと推測できます
23   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:35:26   ID:/nw8HXxo
ふかひれは広東省の沿海部などで食べられていただけの大して価値のある物でもなかったのが、清朝の時代に宮廷料理に供されるようになってから一気に需要が高まったそうです。

アワビの薬膳的な効用は「滋補肝腎」となっており、滋養強壮作用があるほか乳汁の分泌を促す作用もあります。また、アワビの殻を乾燥させた物は、石決明とよばれ漢方薬として利用されます。


 石決明の薬効としては「平肝潜陽」となっており、のぼせやほてりを鎮める作用があるほか、肝火(ストレスやお酒などによる肝の炎症)による目の充血などにも効果があります。
24   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:42:00   ID:/nw8HXxo
海鼠腸=このわた、海参=いりこ、羊栖菜=ひじき
 拳螺=さざえ、蛤仔=あさり、石決明=あわび、海扇=ほたてがい
 牛尾魚=こち、蝦虎魚=はぜ、海鯒魚=えい
 山女魚=やまめ、柳葉魚=ししゃも、秋刀魚=さんま
 翻車魚=まんぼう、石斑魚=うぐい、梭子魚=かます、此目魚=ひらめ
25   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:52:12   ID:/nw8HXxo
「鮑肆は方に臭を遺れ、琴声は未だ絃を改めず」。前句は孔子家語の「善人と居るは
芝蘭の室に居るが如し。久しくしてその香を聞かざるは即ち之と化するなり。不善人と
居るは鮑魚の肆に入るが如し。久しくしてその臭を聞かざるは、また之と化したるなり
」に拠ると考えられる。不善人と交わって久しいため、道徳意識が低下し、その悪徳た
るをも覚らず、これを改めることが出来ないのを言う。この句を「鮑肆は方ミチに臭を遺ス
つ」と訓ヨめば、魚屋が道路に生臭い汚水を撒き散らすことになるが、そのように解する
のは、前後如何であろう
26   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:53:19   ID:/nw8HXxo
鮑魚の肆(いちぐら )[孔子家語六本「与不善人居、如入鮑魚之肆」] 不善の人、小人などの集まりを塩漬の臭い魚を売る店にたとえていう。
27   名前:  名無しさん@chs   2009/01/21(水) 15:55:44   ID:/nw8HXxo
孔子曰く、吾が死せし後は、則ち商や日に益し、賜や日に損せん。曾子曰く、何の謂ぞやと。子曰く、商や好みて己れに賢(まさ)る者と与(とも)に処(お)り、賜や好みて己れに若(しか)ざる者を説(よろこ)ぶ。其の子を知らずんば、其の父を視、其の人を知らずんば、其の友を視、其の君を知らずんば、其の使う所を視、其の地を知らずんば、其の草木を視る。故に曰く、善人と居るは、芝蘭の室に入るが如し。久しうしては其の香を聞かず、即ち之と化す。不善人と居るは、鮑魚の肆に入るが如し。久しうしては其の臭を聞かず、亦た之と化す。丹の蔵す所の者は赤く、漆の蔵す所の者は黒し、是を以って君子は必ず其の与に処る所の者を慎むと。)
28   名前:  名無しさん@chs   2011/12/03(土) 22:07:53   ID:ECN5StXU
>>8
>桃太郎は桃の霊力と逆鬼門の力で鬼を払い・・・・・・
桃の霊力で鬼を退治したとは聞かぬ言い様だが、黍団子の他に
桃果を携行していたのかね?
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