@chsメニュー ツール ヘルプ ソーシャルブックマークに登録   【重要】09/8/28: ID生成の仕様変更 / サーバ障害情報
掲示板のトップへ
@chsで新規掲示板を作成
管理人へメール この掲示板の板情報
@chsご利用ガイド/FAQ @chs助け合い掲示板 お問い合わせフォーム
はてなブックマークするはてなブックマークする FC2ブックマークに追加FC2ブックマークに追加 Livedoor クリップに追加Livedoor クリップに追加 del.icio.usに追加del.icio.usに追加 ニフティクリップに追加ニフティクリップに追加 Yahoo Mywebに追加Yahoo Mywebに追加
はてなRSSに追加はてなRSSに追加 livedoor ReaderにRSSフィードを登録livedoor ReaderにRSSフィードを登録 Yahoo!にRSSフィードを登録 BloglinesにRSSフィードを登録 NewsGator OnlineにRSSフィードを登録NewsGator OnlineにRSSフィードを登録 GoogleパーソナライズドホームページにRSSを追加
0026438
古代史探訪 by TokyoBlog

11 : 景行天皇の時代 九州(91)   12 : 神櫛王と忌部(280)   13 : 酒の神(21)   14 : 鉄と木と鍛冶と踏鞴(162)   15 : 相撲の起源(35)   16 : 皇妃(母系)でみる欠史時代(79)   17 : 大毘古((58)   18 : 雑賀 穂積 紀州(19)   19 : 橘氏 梅宮大社(47)   20 : 天孫降臨 天・高天原とは 天ツ神 国ツ神(111)  

21 : 九州王朝(39)   22 : 天を祭る(14)   23 : 愛知 静岡 三重 の神社(91)   24 : 讃岐の桃太郎伝説(53)   25 : 竹取物語と忌部 忌部黒麻呂(91)   26 : 八尺瓊勾玉(59)   27 : 鴨の一族(99)   28 : 和邇氏(92)   29 : 讃岐の藤原氏(52)   30 : 諏訪神社 建御名方神 南方刀美(50)   31 : 淡海(102)   32 : 霊剣 布都御魂(171)   33 : 紀氏 武内宿禰(85)   34 : 空海 佐伯氏 阿刀氏(62)   35 : 絹 麻 織物(10)   36 : 2−3世紀 卑弥呼の時代(34)   37 : 天智天皇 天武天皇(49)   38 : 瓊瓊杵尊 邇邇芸尊 天孫降臨(69)   39 : 謎の4世紀(18)   40 : 尾張氏 天火明  高倉下(13)   41 : 小野神社 天下春命 瀬織津姫(24)   42 : 抱朴子 不老不死 神仙道(27)   43 : 出雲の謎(22)   44 : 麻績天長白羽神 天白 天白羽命(38)   45 : 天香語山命(50)   46 : 旧唐書 倭国と日本国(10)   47 : 魏志倭人伝 『三国志』魏書東夷伝倭人条(1)   48 : 出雲國造~賀詞(29)   49 : 龍、竜、蛇の神話(15)   50 : 海幸彦 山幸彦 天火明命(27)   51 : 吉備 毛野(140)   52 : 常陸風土記 多氏(53)   53 : 淡海 伊邪那岐(63)   54 : 山幸彦 天津日高日子穂穂手見命(42)   55 : 神社の始まり(28)   56 : 物部氏(131)   57 : 船神(26)   58 : 和珥氏:海人族(29)   59 : 五十猛神 伊太氏神 伊太祁曽神(55)   60 : 九州 磐井 宗像(117)   61 : 大山祗神 大山積神(44)   62 : 上総国 玉前神社(52)   63 : 羽衣伝説 神社(58)   64 : 考霊天皇(31)   65 : 気多大社(37)   66 : 宗像三神(58)   67 : 薩摩 隼人 とは 海神との関係(53)   68 : ヤオ族 伏羲(フクギ) 女咼(女扁+咼)ジョカ(46)   69 : 小彦名命 事代主(88)   70 : 神社の総数(11)   71 : 食物神(19)   72 : 龍田神社 広瀬神社 風神と水神(57)   73 : 稲の神 田の神 稲荷神(36)   74 : 可美真手命 宇摩志摩治命(123)   75 : 丹生都比売 那賀(17)   76 : 欠史八代の年表(58)   77 : 金山彦 南宮大社 中山神社(24)   78 : 安寧天皇(7)   79 : 愛宕神社(12)   80 : 武蔵国高麗郡 高麗若光 白髭神社など(29)   81 : 安閑天皇(29)   82 : 『古語拾遺』(38)   83 : 巴型銅器(57)   84 : 饂飩(うどん)の起源に2説あり(43)   85 : 猿田彦(15)   86 : 鈴の謎(3)   87 : 八幡神社(8)   88 : 伊勢津彦 伊和大神(47)   89 : 葛城の歴史(32)   90 : 天児屋根命 比売大神 武甕槌命(8)   91 : 熊野神社の謎(54)   92 : 聖徳太子 蘇我氏(43)   93 : 豊葦原中津国(23)   94 : 荒田別 百済 木羅斤資(123)   95 : 火の神 軻偶土神 軻遇突智命(10)   96 : 空海 丹生氏(24)   97 : 土佐神社(4)   98 : 系図(55)   99 : 遷却崇神(17)   100 : 倭国 倭人(30)   101 : 道主 日葉酢媛(16)   102 : 事代主(29)   103 : 巴形銅器(48)   104 : 大化改新 皇極天皇 孝徳天皇(20)   105 : 木の神 久久能智命 久々智命(6)   106 : 天女伝説 羽衣伝説(5)   107 : 七夕の話(7)   108 : ppblogについて(9)   109 : アルバム・写真・画像掲示板(6)   110 : 縦書きエディター(2)   111 : 浦安を調べる(25)   112 : tokyo ニュース の開始です(6)  

【11:91】 景行天皇の時代 九州

1   名前:  名無しさん@chs   2007/06/10(日) 08:16:22   ID:436ddb62e0
垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。

皇后:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ。若建吉備津日子の女) 景行52年薨去
櫛角別王(くしつのわけのみこ)
大碓皇子(おおうすのみこ)
小碓尊(おうすのみこと、日本武尊)
82   名前:  名無しさん@chs   2007/07/31(火) 15:19:36   ID:afe7bd7759
日本書紀
景行紀十二年条 賢木の上枝に八握剣、中枝に八咫鏡
下枝に八尺瓊を掛けて帰順した。 神夏磯媛が景行を
迎える
日本書紀
仲哀八年条 賢木の上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、
下枝に八尺瓊を掛けて参り迎えた。 岡県主の祖熊鰐が
仲哀を迎える。
83   名前:  名無しさん@chs   2007/08/02(木) 15:15:18   ID:fd6b6582e6
仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手がそれぞれ白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出して降伏している
84   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 22:18:53   ID:a4d1321a83
仁徳以降雄略まで、その皇后が葛城氏の出自であるのに対し、その後は春日氏・息長氏に転じている事からも
推察できる。

武烈天皇
即位前、大伴金村と共に、平群真鳥・鮪を討つ。
武烈4年、百済武寧王即位とある。これは501年に相当する
河内方面の勢力と奈良盆地方面の勢力との争いである。
その過程で、この時期に主導権を握ったのが、大伴氏であった
85   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 22:21:17   ID:a4d1321a83
継体は大伴金村に擁立された訳であるが、擁立に際して、河内馬買首荒籠に探索させ、
当初は河内の樟葉宮(大阪府枚方市)に宮居している。
5年に山城筒城宮(京都府綴喜郡田辺町)、更に12年山城弟国宮(京都府乙訓郡)を経て、20年磐余玉穂宮(奈良県高市郡明日香村)に入ったとされる。

継体の宮居の地を考えると、河内、田辺はいずれも古来より百済系の色濃い地である。
更に半島との関係で考えれば、任那4県割譲の件も併せて、継体は明らかに百済系である
86   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 22:22:11   ID:a4d1321a83
磐井が豊前求菩提山に走ったというのは、この方面に新羅系辛島氏がいたからに他ならない。
辛島氏は宇佐の巫女を出す家系であり、遠祖は五十猛命とされ出雲系でもある。
磐井は敗戦に際し宇佐の三氏族に対し調停を求めたものと考えられるのである。無論継体が息長氏の系譜である事とも無関係ではない。
宇佐が歴史の表舞台に出てくるのは欽明期からである
87   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 22:24:48   ID:a4d1321a83
始八幡信仰は豊国の神=辛国神、祭祀を司る氏族は秦氏の系列・辛島氏。辛島氏は新羅系の鋳銅技術を持つ氏族である

奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の神職、大神氏(おおがし)が宇佐神社の神職になるはず
だったが宇佐氏・辛島氏との勢力争いに負けて大野の緒方に逃れる。

大神惟基、緒方姓を名のる。緒方氏の豊後計略。
その子    高知保・・・・・由布院
         惟季・・・・・・・阿南
         季定・・・・・・・稙田
         基平・・・・・・・大野
         惟盛・・・・・・・臼杵 をそれぞれ守らせ強固にして行く。(豊後武士団)
88   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 22:26:19   ID:a4d1321a83
宇佐八幡宮の神官としては、宇佐氏(天孫系?一番古い?)辛島氏(新羅系渡来人?)大神氏(出雲系・大三輪氏系?)の3家があり、複雑に絡み合ってきた歴史がある
89   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 22:38:51   ID:a4d1321a83
愛媛県今治市と広島県尾道市の間の島々は、三島(さんとう=来島・能島・因島)村上水軍の本拠地でした
90   名前:  名無しさん@chs   2009/10/06(火) 20:16:17   ID:Z3vJTwgY
阿蘇国造 阿蘇君 阿蘇直
91   名前:  名無しさん@chs   2010/06/03(木) 12:36:19   ID:giZxu3tU
阿蘇国造美穂主命
名前: メール: sage cookie

【12:280】 神櫛王と忌部

1   名前:  名無しさん@chs   2007/05/06(日) 09:12:08   ID:a8c4790fbb
『日本書紀』
景行天皇を父とする神櫛皇子(かんぐしのみこ)を讃岐国造に
271   名前:  名無しさん@chs   2009/02/18(水) 13:56:56   ID:x6HpKD/k
悪魚退治物語の主人公は神櫛王(かんぐしおう)であるともいわれています(I)。神櫛王は、父が第12代景行天皇で、母が稚武彦命(わかたけひこのみこと)の娘である五十河媛(いかわひめ)です。稚武彦命は讃岐国平定で先陣を切り、桃太郎のモデルになった人物ともいわれており、神櫛王の祖父に当たります。また景行天皇には別の女性との間に既に生まれた日本武尊がおりましたので、神櫛王は日本武尊の異母弟に当たります。したがって、神櫛王と武殻王は系譜上叔父、甥の関係に当たります。神櫛王は讃岐の国造(くにのみやつこ)の始祖とされており、その子孫が分かれて三木、神内、植田、十河、三谷、由良、池田、寒川、村尾等の諸氏が生まれ、主として山田、三木、寒川の諸郡で繁栄したといわれています。
272   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:31:02   ID:GILLJ6rc
牟岐城主、浅川城主、宍喰城主、いずれも藤原氏を名のる鷲住王の子孫の一族である。甲浦の惟宗氏、野根氏、安芸氏など、ともに鷲住王の子孫といわれると町史は述べる。
273   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:37:49   ID:GILLJ6rc
大山神社
海陽町塩深にある「大山神社」は宍喰の始祖「鷲住王」を祀る由緒ある神社です。
274   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:44:48   ID:GILLJ6rc
西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。

野根八幡宮
安芸郡東洋町
275   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:48:23   ID:GILLJ6rc
鷲住王(わしずみおう)は讃岐(さぬき)の国造(くにのみやつこ)および阿波(あわ)脚咋別(あしくいわけ)の先祖(せんぞ)でもある。脚咋別(あしくいわけ)は海陽町宍喰(かいようちょうししくい)を中心(ちゅうしん)に南隣(みなみどなり)の高知県東洋町(こうちけんとうようちょう)を含(ふく)む一帯(いったい)である。脚咋(あしくい)が宍喰(ししくい)になった。
276   名前:  名無しさん@chs   2010/02/28(日) 21:33:26   ID:ut+YxLyI
姓氏録右京皇別には 「讃岐公、大足彦忽代別天皇皇子、五十香足彦命之後也」と書かれている。
277   名前:  名無しさん@chs   2010/03/14(日) 18:31:21   ID:OnqrypZc
讃岐國苅田郡 加麻良神社
神社誌料には、山の名を御神室と云う、大己貴神・少彦名神、四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。
古老の伝説口碑に伝うるところ「昔、神田村羽方二の宮大水上神社に少彦名命が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝に命を乗せて川に流すと、神室山の中腹(この下、石宮)に着き泣き止む、土地の人たち、光明を放つこと不思議に思い近寄る人に、のり玉うは「我を大己貴の神の鎮まる此山に祭れ、然れば夜泣きをぞ守給うと」依て祠を厳樫の本に建奉りしなり、此の神の流れつきし所を御神室と言う、又此処の古石祠を石宮と稱す。流岡の地はこの事に由来する、大己貴神と少彦名神は協力してこの四国を拓き、農工商すべての産業開発と、方除治病(夜泣き)造酒、製薬、交通、航海安全、縁結び等世の中の幸福を増進することを叶られました。人間生活の守護神であらせられます。
278   名前:  鈴木師匠   2010/03/17(水) 18:59:40   ID:eXXNpjts
ttp://dop.chibatetsuya.com/k5ga5-n/
あばばばばば!!なんじゃこりゃ!?
3日やっただけでオレの安月給を軽く越えちまった!!!!
てかもう働く意味ねぇし、オレこれで食ってくわ!!うはははははwwww
279   名前:  名無しさん@chs   2010/04/29(木) 18:36:42   ID:8avKRqyA
桑田山道隆寺明王院(七十七番)
 元明天皇時代の和気道隆という人にまで、開基は遡る。道隆は日本武尊の後裔だとい
う。道隆の荘園にある桑園で、大きな桑の木が怪異を起こした。その木を伐って薬師如
来像を作らせた。小さな堂を建てて薬師像を安置し、朝な夕な供養した。
 延暦末年、道隆の子孫・朝祐の代になっていた。空海と出会って道隆について語り、
薬師像を見せた。像が小さいので朝祐は空海に、大きな像を作ってくれと頼んだ。空海
は信仰心の篤さに打たれ、高さ二尺五寸の薬師像を作り、胎内に道隆の小像を納めて、
永く失われないようにした。朝祐は真言密教に深く帰依し、髪を剃り出家した。荘園も
財物も捨てて寺を建て、薬師像を本尊とした。空海を供養して過ごした。
280   名前:  削除   削除   ID:削除
削除
名前: メール: sage cookie

【13:21】 酒の神

1   名前:  名無しさん@chs   2010/01/23(土) 08:31:33   ID:/JXxtCrU
仲哀天皇8年(日本書紀356年)、秦の始皇帝の14世の孫という功満王なる人物が、中国の戦乱(当時は中国が南北朝に分かれ、特に北部は五胡十六国時代で混乱していました)を避け、日本列島へ渡来してこの地に神社を勧請したのが、大酒神社の始まりといいます。大酒神社は昔、大避神社と読んだようですが、これは功満王の「戦乱を避ける」の「避」にちなんだ社号だといわれています。
 さらに応神天皇14年(日本書紀372年)、功満王の息子にあたる弓月王(ゆんづのきみ)という人物が、百済から127県18670人の人々を従えて(!)、大和朝廷に帰化した、と社伝や『記紀』にも記載されています
12   名前:  名無しさん@chs   2010/01/23(土) 08:51:31   ID:/JXxtCrU
『古語拾遺』応神天皇
 軽嶋の豊明の朝に至りて(中略)秦公が祖弓月、百二十県の民を率て帰化けり。
『新撰姓氏録』左京諸蕃上 漢
太秦公宿禰
 出自秦始皇帝三世孫孝武王也。男功満王。帯仲彦天皇(諡仲哀)八年来朝。男融通王(一云弓月王。誉田天皇(諡応神)十四年。 来率廿七縣百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇(諡仁徳)御世。以百廿七縣秦氏。以下略
13   名前:  名無しさん@chs   2010/01/23(土) 08:52:01   ID:/JXxtCrU
香春神社の祭神 辛國息長大姫大目命
 この神は息長帯姫をもじった神名なのか、香春神社を齋祀った氏族が奉戴した神のどちらかでであろう。 香春神社は初期の宇佐神宮の祭祀を務めた辛嶋氏や赤染氏に関連する銅採掘、精錬に関係する神社で、宇佐八幡の元宮とも言える。ここに出てくる氏族は秦氏の一族である
14   名前:  名無しさん@chs   2010/01/23(土) 08:53:44   ID:/JXxtCrU
新撰姓氏録  
  大里史 太秦公宿禰同祖 秦始皇帝五世孫融通王之後也
  秦宿禰 秦始皇帝五世孫融通王之後也  
  秦忌寸、高尾忌寸、秦人 秦宿禰同祖 融通王之後也  
  秦公 秦始皇帝孫孝徳王之後也  
  秦姓 秦始皇帝十三世孫然能解公

摂津国 新撰姓氏録 秦忌寸 太秦公宿禰同祖 功満王之後也  
  秦人 秦忌寸同祖 弓月王之後也  
      勝 上勝同祖 多利須須之
15   名前:  名無しさん@chs   2010/01/23(土) 08:55:59   ID:/JXxtCrU
松尾大社大
宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)というものが、松尾山の神霊を勧請して現在地に社殿を構え、知満留女という斎女に奉仕させたのが、この社の創建とされている。
16   名前:  名無しさん@chs   2010/01/23(土) 08:57:07   ID:/JXxtCrU
松尾大社は、「大山昨神」(おぽやまぐいのかみ)と「中津島姫命」(なかつしまひめのみこと)の二柱を祭神として祀っている。『古事記』によると、大山昨神(またの名は山末大主神)は近淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐す鳴鏑(なるかぶら)を用いるなり」とあり、近江の国の比叡山と松尾山を支配する神であったと伝えられている。

松尾大社が全国の酒造家や醤油、味噌、酢等の製造及び販売業者の方々から格別な尊崇を受けているのは、この霊泉のためである。境内の神與庫には、全国の酒造家から奉献された酒樽の数々が並べてある
17   名前:  名無しさん@chs   2010/01/23(土) 08:57:54   ID:/JXxtCrU
「秦氏本系帳」によれば,大宝元年秦忌寸都里と川辺腹男が日埼岑から松尾に神体を勧請し,社殿を営み,田口腹女,秦忌寸知麻留女に御阿礼の神事を奉仕させたと伝える(本朝月令,松尾祭事)。
18   名前:  名無しさん@chs   2010/03/20(土) 09:55:57   ID:cEmMytdw
木嶋座天照御魂神社
元糺の三本鳥居を眺めていると、ここから平安京が開始されたのだという思いが強くなります
秦氏が創建した神社はこの蚕のやしろから、嵐山の松尾神社、伏見稲荷、そして多分に一族であろう、カモ氏の下賀茂神社と山背の国を築いた渡来系豪族であった訳です。

 歴史書で秦氏が有名になるのは聖徳太子さんの財政面を支えた時代です、秦河勝の時代でしょうか、日本の国宝第一号の広隆寺(蜂岡寺)の弥勒菩薩を新羅から招聘したのも河勝ではないでしょうか。

聖徳太子一族が滅亡するとともに秦氏は一時的に歴史の表舞台からは去りますが、密かに力を貯え桓武天皇の時代に強引に秦氏の故郷である、山背の国に都を移し建都する訳ですね。秦氏の御殿であった場所に御所を建設し平安時代が始まるのです。
19   名前:  名無しさん@chs   2010/03/20(土) 09:57:28   ID:cEmMytdw
弓月君以前から渡来して来ていた可能性はないのでしょうか。

宇佐神宮の近辺に秦王国を築いた彼らはいつ頃この奈良盆地に入植したのでしょうか。
20   名前:  名無しさん@chs   2010/03/20(土) 09:59:45   ID:cEmMytdw
『日本書紀』では応神天皇16年に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したという。秦の皇帝(始皇帝とされる)五世の孫であり、渡来後、日本に養蚕・機織を伝えたとされる。
加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述もうなずける
21   名前:  名無しさん@chs   2010/03/20(土) 10:00:53   ID:cEmMytdw
隋書にある「秦王国」については、梅原猛氏の「聖徳太子」下巻に、「秦王国という以上、秦氏の国に違いないが、秦氏は、応神帝の時に来朝した弓月(ゆみつき)君の子孫である。姓氏録はこの弓月君なるものは、秦の始皇帝の五世の孫・融通王であるとする。秦王国は、この秦氏の多くいた国に違いないが、周防(山口県東部)、豊前(福岡県の一部と大分県の一部)ともいわれるが、明らかでない。」とあります。

秦氏は「新羅系」とする説が有力なようです。

その根拠としては、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は「新羅系」の瓦が殆どであったり、また秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある国宝第一号として有名な「弥勒菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像(現在、韓国国立中央博物館所蔵)と材質以外はうりふたつであり、しかも広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明していることなどがあげられるようです
名前: メール: sage cookie

【14:162】 鉄と木と鍛冶と踏鞴

1   名前:  名無しさん@chs   2007/05/25(金) 07:01:05   ID:f28a0b40d7
鉄と木と鍛冶 踏鞴
www.ten-f.com/tetu-ki-susanoo.html
153   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 12:23:10   ID:oCK9NMfk
出雲の加茂岩倉遺跡(1996.10.銅鐸39個が出土)の、銅鐸の埋納坑近くの土中と、これから北西約3メートル離れた土坑の中から、
木炭の粉末が見つかっています

これら2個所の木炭片について、米国の分析機関で炭素同位体による
年代測定を行なった結果、
○埋納坑近くの木炭の年代は、B.C. 40±50年、
○土坑の中の木炭の年代は、 B.C.190±50年、
という結果が得られたことが新聞に報道されています。
新聞には、『加茂岩倉銅鐸の製作年代は紀元前2世紀ごろから
紀元後1,2世紀と考えられており、木炭の年代もこれに合致する。』
とも書かれています
154   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 12:24:23   ID:oCK9NMfk
八王子遺跡
1997年 3月13日に、愛知県一宮市八王子の弥生遺跡の環濠の内側の場所から、
外縁付き鈕1式の流水文銅鐸が、縦に逆さまに埋まった形で見つかりました。
方形周溝墓の下から見つかったそうです
新聞報道
『銅鐸は高さ21.6cmと小型であることや、表面の模様から弥生中期前葉
(紀元前2世紀ごろ)に近畿地方南部の技術者が作ったと推定された。』
『同時に出土した土器の特徴から、紀元前1世紀ごろ地中に埋めて処分
されたことも判明。』
155   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 12:29:08   ID:oCK9NMfk
徳島市国府町矢野遺跡の出土銅鐸
矢野遺跡は徳島県の弥生遺跡を代表する集落遺跡です。その推定範囲は南北約
2km、東西1kmにおよぶ、弥生時代中期から後・終末期の集落
銅鐸の分類は突線鈕5式6区袈裟襷紋銅鐸
   木製容器に土とともに埋められた
   埋納坑に埋められた
   埋納坑上に施設があった
   その施設は取り壊されている
156   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 12:30:39   ID:oCK9NMfk
佐原真氏の著書
銅鐸の分類、これに対応した製作年代と弥生時代の時期区分

[銅鐸の分類] [製作年代] [時期区分]
最古段階
I-1式(菱環鈕1式) 前3〜前2世紀 弥生 I期
I-2式(菱環鈕2式) 前2世紀 I期
古 段 階
II-1式(外縁付き鈕1式) 前2世紀 II期
II-2式(外縁付き鈕2式) 前2〜前1世紀 II〜III期
中 段 階
III-1式(偏平鈕1式) 前1〜後1世紀 III〜IV期
III-2式(偏平鈕2式) 1世紀 IV期
新 段 階
IV-1式(突線鈕1式) 1〜2世紀 IV〜 V期
IV-2式(突線鈕2式) 1〜2世紀 IV〜 V期
IV-3式(突線鈕3式) 2世紀 V期
IV-4式(突線鈕4式) 2世紀 V期
IV-5式(突線鈕5式) 2〜3世紀 V期
157   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 12:34:26   ID:oCK9NMfk
黒塚古墳
黒塚古墳の竪穴式石室の側壁は下部40センチほどに河原石を垂直に
積み上げ、この上に板石を持ち送るようにして造られており、この河原石を垂直に積み重ね
る技法が2世紀後半から3世紀前半にかけての吉備地方で作られた石室の技法と同じだとい
うことで、大和と吉備との強い結び付きを窺わせます
158   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 12:36:07   ID:oCK9NMfk
“銅鐸が作られ始めた年代に関しては、大別して弥生時代中期後半以降とする説
(鎌木、杉原、三木)と、前期後半にさかのぼるとする説(佐原)とに分かれるように思
われる。鉛同位体比に、この問題を考える手がかりはないだろうか。
 筆者らの定義によるα類の銅鐸が、中国系の原料が日本に入っていない時期、もし
くは入っていても量が少ない時期とすれば、B.C.108年前漢の武帝による楽浪郡など
四郡設置の前後ということになる。これは、中国の歴史年代を基準にしている点では
従来の推論と同じであるが、土器・武具形祭器との比較とか使用尺度からの年代推定とは全く違う指標に基づいている。
 製作年代の下限についても同様な議論が可能なはずであるが、弥生時代末期から古
墳時代前期にかけての青銅遺物の測定が不十分なので、まだ多くを語れない。ただ判
っきりしていることは、現在までの測定例では前期古墳出土の倣製鏡に“前漢鏡タイ
プ”の鉛はなく、銅鐸との間に一線を画している
159   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 12:39:22   ID:oCK9NMfk
 朝鮮半島南部での銅鏡の副葬は、百済・武寧王陵の4枚が多い程度で、銅鏡には群
馬県の古墳に同型鏡が存在し、木棺が日本特産のコウヤマキで、王冠には日本特産の
ヒスイ製勾玉で飾られ、文献でも『日本書紀』には九州の島で生まれたと記すなど、
倭国との繋がりが大きく、倭国からの影響か?
160   名前:  名無しさん@chs   2010/03/20(土) 09:42:09   ID:cEmMytdw
『続日本紀』には和銅元年2月、催鋳銭司が置かれ、多治比真人三宅麻呂が任命されたとあります。ここに、和同開珎の鋳造が始まりました。和銅2年8月には、すでに河内鋳銭司が置かれていたことも記しています。
 実は、この和同開珎鋳造の中心として活動したのが河内鋳銭司でした。和同開珎は全国の遺跡から5000枚ほどが発見されていますが、とくに大和をはじめ河内・山城・近江などで多数出土しています。

河内鋳銭司がどこにあったのかは分かりません。政庁の河内国府に近く、16枚の和同開珎が発見された藤井寺・柏原市境に広がる船橋遺跡の地をあげる見方があります。

しかし、松原から美原の丹比野を候補地とすることもできます。松原市岡・立部・丹南から美原町真福寺・大保・太井にかけては、平安時代以降、全国的規模で梵鐘をつくっていた丹南鋳物師の故地でした。もし、河内鋳銭司が当地に置かれていたならば、その鋳造の伝統を引き継いだとも考えられます。

この推定は、先の催鋳銭司に丹比野と関わる多治比氏が任命されていることや、のち多治比真人家主・多治比真人乙安といった官人が鋳銭司に関係していることからもうかがえるかもしれません
161   名前:  名無しさん@chs   2010/03/20(土) 09:46:58   ID:cEmMytdw
日本武尊すなわち小碓命には兄の大碓命がいて、二人は双子だったという説がある。もともと弟の小碓命は剛胆で武勇に優れていたが、兄の大碓命は軟弱であった。あるとき、景行天皇は前述の美濃の豪族・神大根王の子の姉妹を妃に迎えたいと思い、大碓命にその使いを命じたところ、彼は使いにいったがその姉妹が大変美しかったので、天皇に内緒で二人とも自分の妃にし、かわりの姉妹をたてて知らん顔をしていたが、間もなくそのことがバレてしまった。それにあれこれと事情が重なったため、天皇は怒って大碓命を美濃の国に追放した。つまり、天皇一族から勘当されて、美濃の豪族になったというわけである。それで、大碓命と姉・兄遠子の間に生まれたのが、「押黒之兄日子王」といい、美濃の国の「宇泥須和気」の祖になり、妹・弟遠子との間に生まれたのが「押黒之弟日子王」といい、身毛津君や守君の祖になったという。
162   名前:  名無しさん@chs   2010/03/20(土) 09:49:10   ID:cEmMytdw
牟宣都の君とは三野国にいた氏族。備前か美濃か。
播磨国風土記  印南の別嬢南毘都麻島に隠れ、その白犬、島に向かって吠え、居場所が判り景行と結ばれて、大碓命と小碓命を生む。犬が牟宣都の祖?
景行二十七年紀 美濃国に弟彦公(大碓命の子)と云う弓の名人がいて日本武尊のお供をした。牟宣都はモノノフ
雄略七年紀 吉備弓削部虚空が吉備下道に留められたのを身毛君大夫を遣わした。モノノフか密偵か?
天武元年紀 村国連男依、和珥部臣君手、身気君広を召して美濃の多臣品治に告げよ。密偵的行動。
延喜式 牟義都首は井戸をさらい、若水を汲むという宮中年一度の「主水の祭事」を司る。
名前: メール: sage cookie

【15:35】 相撲の起源

1   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 20:00:40   ID:c893d1b20e
「力くらべ」

天照大神は建御雷神を派遣し帰順を勧めたところ、大国主命の御子建御名方神は勇武を好む神で、建御雷神と「力くらべ」によって、事を決めようと申し出る。そこで、建御雷神と建御名方神は「力くらべ」をする。結果、御名方神が敗れ、信濃の国の諏訪に逃走した。


『日本書紀』(巻第6)には、野見宿禰と当麻蹶速がお互い向かい合って立ち、足を挙げて足踏みをしたとあり、その結果、野見宿禰は当麻蹶速の脇骨を踏み折り、腰の骨を踏み砕いて殺してしまったと記されている。
26   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:06:52   ID:c893d1b20e
四世紀中葉の景行天皇の時代。『風土記』逸文では纏向日代宮朝で治世をもった天皇(景行)が阿蘇郡に来て、阿蘇都彦・阿蘇都 という二柱の神が阿蘇国造の祖。

平安中期になって遠く離れた讃岐に阿蘇氏一族が現れる。『政事要略』五九の承平五年(935)六月十三日の太政官符に弾正少疏大初位下阿蘇公広遠の調を免除するとし、広遠が三年前に出した解状では、讃岐国大内郡白鳥郷の戸主阿蘇豊成の戸口とされている。広遠は累進し、右大史を経て天暦五年(951)には左大史正六位上阿蘇宿祢広遠と見える(『朝野群載』『政事要略』)から、カバネも公→宿祢と変わっていたことが分かる。広遠の子孫は京都の官人として残り、正暦年間(とくに991〜994)の右少史として阿蘇有隣が見えるが、世代的に考えると広遠の孫ではなかろうか。
讃岐ではほかにも阿蘇氏が見える。寛弘元年(1004)の同国大内郡入野郷の戸籍(『平安遺文』)には戸主阿蘇氏宗(姓は不明)、同貞町、同中知など十八名の名前が見えるから、大内郡に阿蘇氏の支族が遷住していたことが知られる。阿蘇氏の同族は、北九州から伊予・讃岐さらには播磨に進出しこれらの地域に国造家として有力者であったから、阿蘇氏自体もこのルートに乗って遷住した支族があっても不思議ではない。
27   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:10:55   ID:c893d1b20e
阿蘇神社では奉納相撲が盛んであり、一の宮町の阿蘇神社と国造神社の二か所で秋の九月下旬に行われる田実祭(たのみさい)では、相撲の奉納が現在も行われる。阿蘇の分社である大津山阿蘇神社(熊本県玉名郡南関町)、田浦阿蘇神社(同県葦北郡芦北町)、河俣阿蘇神社(同県八代郡東陽村)や長崎県諫早市多良見町の阿蘇神社などでも奉納相撲が祭事として行われるから、相撲は阿蘇神社の伝統的神事であったことが分かる

、『中右記』寛治二年(1088)八月七日条に見える「相撲人五番阿蘇惟遠」である。この惟遠も系図に見え、大宮司友孝の兄・権宮司惟行の四世孫で阿蘇郡主帳

『長秋記』の天永二年(1111)八月の相撲召合には相撲人として「宇治惟利 阿蘇四郎」が見える。この宇治惟利とは、阿蘇氏系図に見える大宮司惟俊(又名惟永)にあたるとみられる

惟利・惟遠より前にも阿蘇一族から相撲人を出したことが十一世紀前葉の『小右記』『権記』に見える。代表的なのは、長保二年(1000)七月から長和二年(1013)七月にかけて見える宇治部利村であり、清原時武など数人に対して勝っているから相当の強豪であった。
28   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:12:24   ID:c893d1b20e
上賀茂神社:烏相撲
重陽の日に行われる奉納相撲。古代京都の最大の豪族賀茂県主(かもあがたぬし)族を烏族といい、相撲を神の上覧に供したのがはじまり。細殿前の土俵の左右から弓矢を持った刀禰(とね)が盛り砂の前に出て「カアカアカア」と鳴き、あと氏子の子供が相撲をとる。
29   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:13:56   ID:c893d1b20e
烏相撲は上賀茂神社の祭神の祖父である賀茂建角身命が神武天皇東征の折巨大な八咫烏(やたがらす)〔不思議な大烏〕となって先導をつとめるという大きな功績をたてたことと、悪霊退治の信仰行事としての相撲等が結びついて行われるようになった。
30   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:20:09   ID:c893d1b20e
由緒によると御祭神の祖父が神武天皇東進の時八咫烏(ヤタガラス)と化って先峰をつとめ、大功をたて、その後論功行賞として山城国の北部一帯をたまわった。 それゆえに当社が山城一の宮といわれる

烏相撲内取式(からすずもううちとりしき)
上賀茂神社では9日に京都市登録無形民俗文化財「烏相撲」(からすずもう)が斎行されます
31   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:27:59   ID:c893d1b20e
上宮天満宮

御祭神  武日照命
     野身宿禰命
     菅原道真命 
日の神、武日照命の天降って鎮座された、此れの太古の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。此地は「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江匡房始め平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近い頃、正暦四年(九九四)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府へと赴いた。御霊代など奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動かず、これを先祖と共に留まりたい霊意と排察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている。
32   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:39:49   ID:c893d1b20e
(天武十一年)秋七月の壬辰の朔甲午に、隼人、多に来て、方物を貢れり。
是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝庭に相撲る。大隅隼人勝ちぬ。(紀)
33   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:42:03   ID:c893d1b20e
三輪周辺〜長谷にかけてが本来の出雲だった。

當麻のケハヤとノミのスクネに相撲をとらせた時、その日のうちに出雲から呼び寄せたと記紀に記されているのですが、相撲
神社の場所までその日のうちに島根の出雲から来れるはずがない。
34   名前:  名無しさん@chs   2007/04/16(月) 21:46:23   ID:c893d1b20e
鳥の一族

建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して、年を占う烏相撲を執行する。この八咫烏は熊野の夫須美神の使いでもある。熊野の火祭では烏帽をかぶり、八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって、烏と化した神官が空中に扇で呪文を書く。それは烏文字で、護符や熊野誓紙の文字ともなった。

玄海灘の宗像三女神が瀬戸内海に進出したとき、二羽の烏に導かれて厳島神社に鎮まった。その神の巡幸は宮島の七浦神社祭として再現されつづけ、海上に鳥神楽を奏で神烏(こうがらす)を招き、粢(しとぎ)団子を供する。塩飽諸島の泊港の木烏神社には、水軍と関係の深い讃岐国造の武殻王(たけがいおう)が悪魚を退治したとき、水先案内した烏を祀る。あるいは崇峻天皇の皇子、蜂子親王は三本足の大烏に導かれて出羽三山を開いた。
35   名前:  名無しさん@chs   2010/03/12(金) 09:34:04   ID:hgVLW0LE
和歌山県井辺八幡山古墳から出土した埴輪に、褌を締め、裸足の裸体の男子像がある。この立像は、鉢巻を締め、両足をガニ股のように開き、腕を前方に伸ばしているので、相撲をとっている形が想像できる。この大古墳は6世紀初頭と推定され、古墳時代にも盛んに相撲を取っていたことを立証する発見といえる。おそらく稲を作り始めた弥生時代から一般農民の間では、農作物の収穫や降雨を占う祭りごとが農耕儀式(神事相撲)として行われていた。記録の中で、神事相撲がみられるのは『年中行事秘抄公記』である。神亀2年( 725)早害で作物が凶作となり庶民は困窮した。そこで聖武天皇は各地の21社に勅使を派遣して神明の加護を祈願した。すると翌年は豊作に恵まれたことから、諸社にお礼として神前で相撲を捧げたのである。しかし弥生時代から神事相撲が行われていたと考えられる。というのは、弥生時代から奈良時代には中国の亀甲占いが伝わって、農作物の収穫を太占という占いに頼っていた事実がある。同じように占いの手段として相撲もこのころからとられていたと考えられる。
名前: メール: sage cookie

【16:79】 皇妃(母系)でみる欠史時代

1   名前:  名無しさん@chs   2007/06/05(火) 13:50:24   ID:17a9e72b28
書紀によれば

神武
カムヤマトイワレビコ 事代主&玉櫛媛
 姫タタラ五十鈴媛

綏靖
カムヌナカハミミ 事代主神女
五十鈴依媛

安寧
シキツヒコタマデミ 事代主神孫鴨王女
渟名底仲媛

懿徳
オホヤマトヒコスキトモ 息石耳命女
天豊津媛

孝昭
ミマツヒコカヱシネ 尾張連祖
瀛津世襲妹
世襲足媛

孝安
ヤマトタラシヒコクニオシヒト 姪押媛

孝霊
オホヤマトネコヒコフトニ 磯城県主大目女
細媛
70   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:32:51   ID:gzlHR6y6
大和国山辺郡(天理市新泉町)大和神社「大和大国魂神、他二柱」大和大国魂神とは。
淡路国三原郡(南淡路市三原町)大和大国魂神社 伊香里という地名が近くにある
阿波国美馬郡(徳島県美馬町と脇町)倭大國魂神社
71   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:34:41   ID:gzlHR6y6
『海部氏勘注系図』では武位起(タケイタツ)の子が宇豆彦すなわち椎根津彦

山幸彦−−−武位起(タケイタツ)−椎根津彦
山幸彦−−−武位起(タケイタツーー彦渚建鵜葺草不合尊−−神武天皇

越前国丹生郡(福井県朝日町)佐々牟志神社「鵜茅草葺不合神、神倭磐余彦尊、椎根津彦、武位起命」
72   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:35:15   ID:gzlHR6y6
崇神天皇の時代に椎根津彦が初代だった倭国造の末裔に市磯長尾市と言う者がでます。彼は倭大国魂神を祀ります。倭大国魂神とは椎根津彦のことでしょう。長尾市はまた長尾神社を祀ったかも知れません。さらに長尾市は但馬の出石神社の神宝を取り上げに行きました。その出石神社の神官も長尾氏でした
73   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:39:36   ID:gzlHR6y6
『古事記』に、椎根津彦の登場のシーンがあります。
故(カレ)、その国より上り幸(イ)でましし時、亀の甲(セ)に乗りて、釣りしつつ打ち羽(ハ)ふり来る人、速吸門(ハヤスヒノト)に遇(ア)ひき。(略)名を賜ひて槁根津日子(サヲネツヒコ)と号(ナヅ)けたまひき。
74   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:42:43   ID:gzlHR6y6
多神社の祭神は珍子と天祖だそうです。珍子はチンコではありません。珍彦のことです。従って神知津彦の名がついて多坐弥志理津比古神社と言うのです。それが神八井耳命とされたのは、やはり八井は水のことで、甕につながっていると言うことのようです
75   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:43:21   ID:gzlHR6y6
安寧天皇の皇子である和知都美とは倭知都美であり、神知津彦と同じ意味と考えられるとは『初期天皇后妃の謎』(大山元著)にも指摘されていることです。神知津彦とは瀬戸内海の水先案内の椎根津彦即ち珍彦であり、倭国造の祖とされている神です。
76   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:44:45   ID:gzlHR6y6
宇須井原神社  和歌山市宇須
宇須神社 宇須彦神
創立年間は不詳。記紀の神武東征紀に、速吸之水門に至った時に一魚人が乗船して来た。 天皇之を招き名を聞くに、臣は是国神なり、名を珍彦と云い曲浦に釣魚す。 今天神の子来り給うを聞き奉迎すと。そこで名を権根津彦と賜う、これ即ち始祖である。
77   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:46:30   ID:gzlHR6y6
阿波国美馬郡に式内社の倭大國玉神大國敷神社二座が鎮座、これが倭国造の奉斎する大和神社との関連があるのかも。板野郡にやはり式内社の宇志比古神社が鎮座、珍彦に通じるのかも
78   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:48:39   ID:gzlHR6y6
祭神を宇豆彦命(珍彦)とする楫取神社(現在名:相浜神社)の由緒には〔天富命にしたがってこの地に渡り漁業を主として指導された〕とある。
79   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 20:50:56   ID:gzlHR6y6
武内宿禰の父母は(カッコ内は古事記の表記)

父は第九代開化天皇と妃伊香色謎命の皇子で彦太忍信命(比古布都押之信命)。母は珍彦(宇豆比古)の妹・影媛(山下影比売)。父の彦
太忍信命は伝承では武雄の人だという。珍彦、莵道彦(宇豆比古)は神武東征の九州の場面に登場した椎根津彦で倭直の始祖(古事記
では木国造の祖)でどちらにしても父母が九州なら子の武内宿禰(建内宿禰)も九州
名前: メール: sage cookie

【17:58】 大毘古(

1   名前:  名無しさん@chs   2007/05/02(水) 08:24:53   ID:5e5e643eb4
埼玉県行田市の埼玉古墳群の最北端にある稲荷山古墳から、銘文のはいった鉄剣が発見された。

「辛亥しんがい、かのといの年の7月、乎獲居臣(おわけのおみは)、遠い先祖である意富比危(おおひこ)に始まり、代々子孫たちが8代に渡って杖刀人とよぶ大王の親衛隊長として仕えてきた。私、乎獲居臣は、獲加多支鹵わかたける大王の宮廷に仕えて、大王を補佐している。」
意富比危#は大毘古、獲加多支鹵は大泊瀬幼武(第21代・雄略天皇)とみられる。このときの辛亥年は、471年にあたる。
「宋書」、倭王武は、中国、順帝2(478)年には、遣使を行った。

大毘古(大彦)は、第8代・孝元天皇の第一子で、母は、内色許売、第9代開化天皇の実兄である。
大毘古(大彦)の息子の建沼河別(武渟川別たけぬなかわわけ)は東海道12道を遠征した。
東海道12道とは、伊勢(伊賀いが、志摩しま)、尾張、三河みかわ、遠江とおとうみ、駿河、甲斐、伊豆、相模さがみ、武蔵むさし、総(上総かずさ、下総しもうさ)、常陸ひたち、陸奥をいう。
「日本書紀」孝元7年、兄大彦命は、是、阿倍臣、膳臣(高橋)、阿閉臣、狹々城君、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡そ七族の始祖なり。
49   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 11:27:48   ID:vz1+w1mI
諏訪大社下社の大祝であった金刺氏が当初、下社秋宮脇に霞ヶ城を築き、後年その要害として桜城が築かれたとされる。 南北朝期には金刺氏は諏訪氏とともに南朝勢力に与し、北条高時の遺児・時行を奉じて北朝方の小笠原貞宗らと闘うが失敗に終わった。
50   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 11:30:54   ID:vz1+w1mI
国史大辞典

「上社は神氏、下社は金刺氏であるとされるが、上社系も金刺氏であった可能性が強い。(中略)鎌倉時代、諏訪社の祭祀や造営は公の義務として信濃国に所領を持つ武士に賦課され、そのため祭祀に奉仕する武士たちにおのずから諏訪神の氏人としての同族意識が生じ神を名乗る武士が多くなり諏訪氏はその盟主となった。」(諏訪氏の項)
「中世以降は源満快流の源氏が諏訪氏を襲い全郡を統治した。」

諏訪神社のことが文献に見える初見は『日本書紀』で、持統天皇の五年(691)八月、降雨の多い災難のとき、使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとある。龍田は大和の龍田神社、須波は諏訪神社、水内は善光寺付近の水内神社のことである。これによれば、須波神は風神としても信仰されていたことがわかる
51   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 11:33:14   ID:vz1+w1mI
『延喜式』の神名帳には「信濃国諏方郡 南方刀美神社二座」とあって、ともに名神大社とされている。次に神階を見ると、承和九年(842)五月、南方刀美神に従五位下、同年十月、建御名方富命前八坂刀売神の従五位下が授けられてより、以後次第に累進して、天慶三年(940)建御名方富命が、永保元年(1081)八坂刀売神が、ともに正一位に達した。また、平安時代以来、諏訪神社は信濃国の一宮とされ、のちに仏教の影響から特に上社は南宮大明神・法性大明神とも呼ばれた。


下社の神主家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から分かれたものと伝えられる。のち武力を蓄え、名字を諏訪と称し、また手塚ともいい、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。
上社の神主家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。出自については、建御名方命の後裔という説によれば、出雲神族の分かれと考えられ、大和の大神神社の社家大三輪家と同系だろうか。
52   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 11:37:24   ID:vz1+w1mI
諏訪上社・下社の大祝家はともに、多臣(おおのおみ)族の金刺舎人直から分かれました。当時、国造科野直は国造一族を舎人として大和に派遣し奉仕させていました。その派遣された金刺金弓の子・目古が他田舎人氏となり上田盆地を本拠とし、金刺金弓の子・麻背が金刺舎人直氏となり飯田盆地を本拠とする、2つに分流しました。金弓は6世紀代の欽明天皇に仕え、金刺宮で舎人として臣従します。そもそも、金刺という名は欽明天皇の大和国磯城島の金刺宮に由来しています。

伊那地方を勢力圏にする金刺金弓は、舎人として欽明天皇の金刺宮に仕え信任をえて、金刺舎人直となり金刺を姓とします。金弓の子・麻背は同じく欽明朝に供奉し、やがて科野国造に任じられました。こうして科野国造の本拠地が善光寺平から飯田盆地に移ります。麻背は諏訪評に進出し、自分の子の兄の方・倉足を諏訪評督(ひょうとく)に、弟・乙頴(おとえい)を8歳で、現人神・諏訪大神大祝に就かせます。つまり諏訪郡の政務を司る評督職と神祇(しんぎ)を司る大祝職に分け、乙頴の社壇を湖南の山麓、今の上社に、倉足の評督所在地を今の下社周辺としたのです。神渡の下座(くだりまし)と上座(のぼりまし)の地点に定め、倉足の家系は湖北にあって政務にあったりますが、時代を経るに従い先祖を祀る氏神信仰が流行しますと、金刺氏も先祖を氏神として祀る社殿が必要になります。そして創建された氏神社が下社春宮・秋宮と社格を上げていった
53   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 11:46:44   ID:vz1+w1mI
式内社 遠江國蓁原郡 敬滿神社
祭 神 敬満神 少彦名命
天照皇大神・速須佐之男尊
合 祀 建御名方命・事代主命・阿遇突知命・御食都神・高皇産霊神
例祭日 十月十五日
境内社 大楠神社・水神社
御由緒
 当社は、遠く垂仁の朝二十六年の創祀と伝えられ(社伝)文徳の朝、仁寿三年に名神に預る神社に列せられ(文徳実録)清和の朝、貞観二年には「正四位下」を授けられ(三代実録)醍醐の朝には、国幣大社の 列にあった(延喜式)ほどで、まさに古社であり名社であった。近世に至り徳川幕府からは、先規に倣って社領を寄進せられるなど、皇室を始め武門の崇敬が篤く、 古代榛原郡の中心榛原郷、その主邑たる初倉の 鎮護として、この地方の尊崇極めて温厚なるものがあった。降って明治維新の際、明治四年五月太政官より「官社以下定額」が布告された。それに因って郷土初倉の 産土神として、明治六年郷社に列せられ、次で神選幣帛料供進神社に指定された。
54   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 11:50:22   ID:vz1+w1mI
遠江国(とおとうみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、東海道に位置する。現在の静岡県の大井川の西部に当たる
延喜式神名帳に記載される神社(式内社)は、大社2社2座、小社58社60座の、計60社62座である。大社2社はどちらも名神大社である。一つは蓁原郡の敬満神社で、島田市の敬満神社に比定されている。もう一つは浜名郡の角避比古神社であるが、1498年(明応7年)の大津波で流され、その後に各地で再建・遷座されたため、論社が3社あり、結論が出ていない。1871年(明治4年)に「角避比古神社」として国幣中社に指定されたが、その後、「鎮座地不明」として社格が除かれた
55   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 11:51:15   ID:vz1+w1mI
大化前代物部系国造の遠淡海・素賀・久努の3国の存在が伝承されるが,大化改新以後, 律令制の整備に従い東海道に属する一国 ... か)・周智(すち)・山名・佐野(さや) ・城飼(きかふ)・蓁原(はいばら)の13郡となった。
56   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 12:00:19   ID:vz1+w1mI
遠江国には、式内・角避比古神社(浜名郡)、式内・敬満神社(榛原郡)という名神大社があるにもかかわらず、一宮は、式内・小國神社(周智郡)、あるいは、式内・己等乃麻知神社(佐野郡)

 『和漢年代記』(室町時代末期)に「欽明天皇16年乙亥(555年)2月、大己貴命、遠州周智郡に現れたまふ。事任神社と祟む」とあります。周智郡にある「事任神社」は現在の「小國神社」だけです。これは、「人皇第29代欽明天皇の御代16年(555)2月18日に本宮峯(本宮山)に御神霊が鎮斎せられた。後、山麓約6kmの現在地に都より勅使が差遺せられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた」とする同社の社記の記述とも一致します。
57   名前:  名無しさん@chs   2009/01/27(火) 12:03:03   ID:vz1+w1mI
式内・小國神社

御由来
 創祀は神代と伝へられ上代のことは詳でないが社記によれば人皇第29代欽明天皇の御代18年2月18日本宮山に御神霊が出現せられ奇瑞あり天聴に達し勅使を差遣せられ社殿を造営し正一位の神階を授けらる第60代醍醐天皇の延喜7年に勅して社殿を改造せられ延喜式内社に列す承和7年及貞観2年16年従四位の神階を奉る第96代後醍醐天皇の元弘建武変乱以来勅使が廃れ神主代りて其の式を行い戦乱相次ぐ室町時代に至も神事祭礼欠くる事無く朝野の崇敬極めて篤く遠江国一宮と称へ
58   名前:  名無しさん@chs   2010/03/11(木) 18:39:40   ID:pp93nGlM
阿蘇大宮司家
名前: メール: sage cookie

【18:19】 雑賀 穂積 紀州

1   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 19:49:08   ID:IK1Gpz56
鈴木を名字とする家は多くの流れが知られているが、そのほとんどは穂積を本姓としており、熊野三山信仰と関係が深い。穂積姓鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系である

鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の土豪たちが結集してつくっていた雑賀衆の有力な家系のひとつで、十ヶ郷の指導者的な立場にあった
10   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:20:04   ID:IK1Gpz56
雑賀氏家伝の『雑賀織江範正(家)系譜』あり。それによれば範正は萩藩士、格式は大組に属し、禄高は三百石。初代教行から十一代。宗祖は大織冠藤原鎌足の後胤雑賀少輔太郎範勝で、初代教行は、範勝十一代の孫刑部三郎範房の二男にあたる。一族紀州にあり。
 正平十七年(貞治元年)、教行、足利二代将軍義詮に仕え、のち相州、武州に転ずる。時、南北朝争乱期に入って十有余年、諸国に乱あり世さだまらぬころである。
 のち、四代常澄のとき、義詮に属して功があり、周防、長門、石見三国の守護となった大内氏に属し、居を備中国に移す。またその子範治のとき、周防吉敷郡に居住した。
11   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:23:20   ID:IK1Gpz56
九鬼水軍
九鬼宮内少輔定驍フ子として志摩に生まれる・・・天文11年(1542)
本願寺を支援する毛利水軍を討つため、鉄張り軍艦の建造を信長より命じられ、伊勢大湊において大艦「鬼宿丸(きしゅくまる)」を含む甲鉄船6艘、そのほか各種兵船200艘を建造。
 6月26日、50余艘の船団を編成して鳥羽浦を出航。紀州の一向一揆の拠点であった雑賀(さいが)浦にさしかかり、雑賀門徒衆500艘の攻撃を受ける。嘉隆は敵船に火矢を放ち、自ら鋒をとって突撃。敵船30余艘を獲、敵将を誅殺して大勝利を得る。
12   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:29:23   ID:IK1Gpz56
源平争乱のとき、鈴木氏族は熊野の別当湛増(たんぞう)から、榎本、丸子とともに「頼切りたる侍」とされ、熊野水軍の中枢たるべき武将となっている。また、重家は鈴木党の総領として頼朝から所領( 紀伊 )を与えられ御家人の列にその名をつらねている
13   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:29:53   ID:IK1Gpz56
子之神社

悠久二千数百年の歴史を有する穂積宮司家には、天皇家と同様に、剣・鏡・玉の三種の神宝が伝えられています。八握神剣・八稜神鏡・八尺瓊勾玉と呼ばれるものがそれで、当神社本殿(奥の院)に奉安されています。このうち、八握神剣・八尺瓊勾玉は、当家始祖 饒速日尊以来伝えられたもので、十種の神宝の根本ともいわれる霊宝です。そして八稜神鏡は、朝廷に古来より伝わった、日月二面の八咫の鏡のうちの一面といわれ、『月輪 八稜の鏡』と称され、これは南北朝時代末期、代々南朝に仕えてきた当家祖先が、南北朝の合一後、後亀山天皇より南朝の正統を受け継がれた南帝 小倉宮良泰親王(第100代 招慶院天皇)より託された神宝と言われ、この時、この神鏡とともに、歴代の天皇が行われた『はふりのみわざ』という、天皇のみが行い、伝えてきた神法(南朝 大覚寺統にのみその正法が伝えられ、南北朝統一後、南朝の正統を受け継ぐ小倉宮家にひそかに伝えられた。)をも託され、現在まで守り伝えられています。
14   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:39:54   ID:IK1Gpz56
古事記 孝元天皇の項
 孝元天皇と伊迦賀色許売命の子が比古布都押信命、この皇子と木の国の造の祖先の宇豆比古の妹の山下影日売の子が建内の宿禰とある。生誕の地に武内神社が鎮座している。
日本書紀 孝元天皇の項
 孝元天皇と伊香色謎命の子が彦太忍信命、武内宿禰の祖父である。
15   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:40:26   ID:IK1Gpz56
 紀の国の紀氏 紀直 神魂命の五世孫の天道根命もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族 日前国縣神宮を祭祀している。
 中央の紀氏 紀朝臣 紀角宿禰(武内宿禰の子)もしくは屋主忍雄武雄心命(武内宿禰の父)を祖とする皇別氏族
  紀の国の紀氏は古墳時代初頭の昔から紀の国の豪族であったが、大和王権に媚びでその由緒を捨て去り、神別・皇別氏族へ鞍替えをした。
16   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:48:39   ID:IK1Gpz56
穂積氏
 太古以来の大族で、物部氏と同族の饒速日命後裔で大和国山辺郡穂積邑発祥と伝えられる。
 伊香賀色雄命の子大水口宿禰の子孫が穂積臣、穂積朝臣を賜姓されるに始まる。
 後裔の紀州熊野系の穂積氏からは、熊野神社が全国に勧請されて大いに穂積姓鈴木氏が栄える。

饒速日命──宇麻志麻治命──彦湯支命──意富禰命──出石心大臣命──鬱色雄命──大水口宿禰─┐
                                              │
┌─────────────────────────────────────────────┘

└建忍山宿禰命──大木別垂根命──【穂積】真津─┬阿米──十能寸──鎌子──押山─┬巴提──福良
17   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:51:34   ID:IK1Gpz56
緒川の伝説をもとに「穂積氏」は大和国山辺郡穂積邑に起きた氏族と言われ、現在の奈良県天理市あたりだそうです
穂積氏忍山宿弥命は伊勢国物部氏
18   名前:  名無しさん@chs   2009/02/24(火) 20:52:17   ID:IK1Gpz56
石切劔箭神社 東大阪市東石切町神社発行の参詣のしおりによれば、饒速日命は瓊々杵命(天孫降臨の孫)の兄 としている。先発隊として大和へおもむいたとの説明になっている。旧事本紀によるか。 物部氏の有力支族である穂積氏が祖神を祀ったとされる。
19   名前:  名無しさん@chs   2010/03/06(土) 12:27:06   ID:mtl7e3qg
わが国の『六国史』は帝家の旧記にして、華胄(かちゅう)の旧記、諸記録は主としてその家々のことに係る。広く一国民の生い立ちを明らめんには、必ず民俗学の講究を要す。 紀州日高郡産湯(うぶゆ)浦という大字の八幡宮に産湯の井あり。土伝(いいつたえ)に、応神帝降誕のみぎり、この井水を沸(わ)かして洗浴し参らせたりという。その時用いたる火を後世まで伝えて消さず。村中近年までこの火を分かち、式事に用いたり。これは『日本紀』と参照して、かの天皇の御史跡たるを知るのみならず、古えわが邦に特に火を重んずる風ありしを知るに足れり。実に有記録前の歴史を視るに大要あり。しかるに例の一村一社制でこの社を潰さんとせしより、村の小学校長津村孫三郎と檀那寺の和尚浮津真海と、こは国体を害する大事とて大いに怒り、百七、八十人徒党して郡役所に嗷訴し、巨魁八人収監せらるること数月なりしが、無罪放免でその社は合祀を免れたり。その隣村に衣奈(えな)八幡あり。応神帝の胞衣(えな)を埋めたる跡と言い伝え、なかなかの大社にて直立の石段百二段、近村の寺塔よりはるかに高し。社のある山の径三町ばかり全山樹をもって蔽われ、まことに神威灼然たりしに、例の基本財産作るとて大部分の冬青(もちのき)林を伐り尽させ、神池にその木を浸して鳥黐(とりもち)を作らしむ。基本金はどうか知らず、神威すなわち無形の基本財産が損ぜられたることおびただし。これらも研究の仕様によりては、皇家に上古胞衣(えな)をいかに処理せられしかが分かる材料ともなるべきなり。その辺に三尾川(みおかわ)という所は、旧家十三、四家あり、毎家自家の祖神社あり、いずれも数百年の大樟樹数本をもって社を囲めり。祖先崇拝の古風の残れるなり。しかるに、かかる社十三、四を一所に合集せしめ、その基本財産を作れとて件の老樟をことごとく伐らしむ。さて再びその十数社をことごとく他の大字へ合併せしめたり。 
南方熊楠
名前: メール: sage cookie

【19:47】 橘氏 梅宮大社

1   名前:  名無しさん@chs   2008/11/19(水) 16:47:59   ID:V4TsIDFw
梅宮大社
祭神は酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の四座、式内神で二十二社に列し、もと官幣中社であった。橘諸兄の母縣犬養三千代の創建といわれ、古くは橘氏の氏神であった。


初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神である酒解神(さかとけのかみ。大山祇神)、およびその御子神である酒解子神(さかとけごのかみ。木花咲耶姫命)、その夫の大若子神(おおわくごのかみ。瓊々杵尊)、孫の小若子神(こわくごのかみ。彦火火出見尊)を主祭神として本殿に祀る
はじめ左大臣諸兄の母・橘三千代が相楽郡に遷し、さらに檀林皇后橘嘉智子(嵯峨皇后)が現在地に奉斎したと伝えています
38   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:29:05   ID:HqtDuf8s
雨山城と土丸城:泉佐野市 城ノ山

和二年(1353)、正行の弟・正儀らの南朝方が土丸城を陥落させて、楠木一族と伝わる橋本正高(正督)が入城する。
 しかし、正儀が北朝に帰順した応安二年(1369)一月以降、情勢が変わり、永和元年(1375)、土丸城の橋本正高も北朝に帰順した。
 永和四年(1378)十一月、再び、南朝方として紀伊国で挙兵した橋本正高が土丸城を奪回するが、翌、永和五年(1379)、山名氏清、義理らに攻められ再び北朝方に戻る。永徳二年・弘和二年(1382)、楠木正勝が拠るが山名義理に攻められ落城するなど、南北両朝の争奪戦が続く重要な拠点だった。
39   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:32:53   ID:HqtDuf8s
抗する積善寺城の根来衆ら九千五百人や、沢城の雑賀衆六千余人に対し、本陣を地蔵堂(丸山古墳)に移し攻撃する。徹底抗戦する籠城方に、秀吉の意を受けた貝塚御坊の卜半斎了珍(ぼくさいはんりょうちん)が仲介に入り和談開城。三月二十二、二十三日のこと。
40   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:33:54   ID:HqtDuf8s
若き日の信長に鉄砲を指南し、最強鉄砲衆を創り上げた男の存在抜きには語れない。橋本一巴。初めは民を守るために鉄砲の改良と応用に打ち込んだ。塩硝のルートを求めて種子島に飛び、好敵手・雑賀孫市と出会う。
41   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:38:42   ID:HqtDuf8s
元弘三年正月の吉野山籠城の決戰で、村上彦四郎義光(よしてる)公は大塔宮護良親王樣の鎧直垂を身に付け、その身代わりとなつて、金峯山寺藏王堂の二天門の櫓の上で腹掻ツ捌き、はらわたを摑み出して櫓に叩き付けると云ふ壯烈極まり無き最期を遂げた。
 村上義光公は、信濃源氏の裔である信濃村上氏の棟梁であり、村上信泰の子であつた。

 そして義光公の子息である村上兵衛藏人義隆(ひやうゑくらうど・よしたか)公もまた、父・義光公共々、吉野城の戰ひで大塔宮護良親王樣に殉じた。
42   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:40:11   ID:HqtDuf8s
吉野山城が將に陷落せむとするに、村上義光公は護良親王樣ばかりは無事に落ち延びさせ給ふべく、護良親王様の鎧直垂・具足を半ば奪ふが如くして我が身に帯び、金峰山寺の二天門(吉野城の二の木戸だとも云はれる)の高櫓に登つて仁王立ちとなり、「 天照大御子孫、 武天皇より九十五代の帝、 後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁(そんにん)、逆臣の爲に亡ぼされ、恨みを泉下に報ぜん爲に、只今自害する有樣見置きて、汝等が武運忽に尽て、腹を切らんずる時の手本にせよ」と大音聲に叫び、「我こそ親王なり」と僞り名乘るや、 護良親王様の身代りとなつて壯烈な自刃を遂げた。
 此れを目にした大手・搦手の寄せ手は、「すは、大塔宮御自害あつたぞ。我れ先に御頸を給はらん。」と、四方の圍みを解くとどつと押し寄せた。

 其の間に、大塔宮護良親王樣は、天河へ落ち延びて行かれたのであつた
43   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:44:41   ID:HqtDuf8s
橋本若狭、下市の彦根本陣に放火
 それを知った藤堂新七郎は大日川で、自から先頭に立ち、大激戦を展開したが、槍傷を受けて退却した。中山忠光はかって大塔宮が快勝した歴史の残る白銀神社に本陣を移して、下市の敵に備える。
 九月八日になると、下市に本陣を置いた彦根勢三千が、栃原砦と樺木砦に迫り、郡山二千は広橋峠に進撃してきた。そこで、丹生川上下社の神官・橋本若狭、水郡善之祐の河内勢を配置して、必死に防戦し、決戦二昼夜に及んだ。
 然し多勢に無勢で次々に陥落する。丹生川上神社も占領された上に、全焼させられたから、怒髪天をつく思いの橋本若狭は独断で、同夜、下市の彦根本陣に潜入して放火した。後世“天誅の大火”と呼ばれる大惨事となる。三百余軒が全焼して居り、橋本若狭らは膨大な量の兵器弾薬を奪うと、荷車に満載して意気揚々と引揚げた。
はしもとわかさ(1822〜1865)。郷士・益田藤左衛門の第四子。万延元年(一八六○)三月三十八歳の時、吉野郡丹生村長谷の丹生川上神社下社祠官橋本信政の後継となる。幼少より武芸を修め、当時「滝の今弁慶」とさえ言われた。剣、柔、槍、砲術の技を修業するために常に各地を巡歴する中、諸藩の形勢や国情を探り歩いた。一方、特に柔術に長じ、自ら「二葉天明流」を興し、神職のかたわら練武場を設け、近隣の者たちへ武芸を教えながら、熱く勤王の志を説いた。
44   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:45:52   ID:HqtDuf8s
九月の東吉野村鷲家口での最後の戦をかろうじて脱出。その後も勤王の志は何ら衰えず、三河の村上忠順宅に潜伏。元治元年(一八六四)大阪にて大阪屋豊次郎と称して材木仲買商を営みながら同志たちとの画策を続ける中、十一月ついに幕吏に捕縛され、翌慶応元年(一八六五)六月京都六角獄で処刑された。享年四十四才。
45   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:47:56   ID:HqtDuf8s
腰抜田は、南北朝の頃、北朝方から逃れた大塔宮護良親王が十津川郷に難を避け、五百瀬を通過しようとした際、荘司に行く手を遮られ、通行を認めるかわりに「家来か錦の御旗を置いていけ」と要求されやむなく錦の御旗を置いていった。その後親王一行に遅れた家来の村上彦四郎荘司の館に錦の御旗を見つけ。怒って荘司の家来を水田の中に投げ飛ばし、錦の御旗を奪い返した。そのとき投げ飛ばされた家来が、腰を抜かしたのでその田を腰抜けだというようになった。
46   名前:  名無しさん@chs   2010/03/04(木) 12:59:25   ID:HqtDuf8s
村上家
家伝によれば、もと出雲安来の豪族であったが、後醍醐天皇を奉じた名和氏に伴って京都に出た。しかし京都敗戦によって安来に帰り、その後弓浜に移り住んだ。村上家には麗碩の書いた家系図と建武の南北朝の争に活躍した先祖大井長重らの事蹟が書きのこされている
47   名前:  井上なおゆき   2010/03/06(土) 05:15:18   ID:fHhzhsCA
初めて逆/援/助やったけど、すんごいスケベ女でした!!
「どっちに入れる?」ってムスコにお尻をすりすりされて・・・もう(*´Д`)=3ハァハァ
ガマンできなくて両穴ともズポズポ犯しまくっちゃいましたよー!!(笑)
ttp://yarutumori.net/tep/fcgpg3j/
名前: メール: sage cookie

【20:111】 天孫降臨 天・高天原とは 天ツ神 国ツ神

1   名前:  名無しさん@chs   2007/06/04(月) 13:28:28   ID:9b16639aea
「古記」:大宝律令の注釈書(738年頃書かれた)

古記の記述

「天神は、伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神らのたぐい是なり」

国ツ神は「大神」そして「大倭、葛木の鴨、出雲の大汝神らのたぐい是なり」

と書かれている。

鴨にも、国神と天神があり、出雲にも国神と天神がある。

天神は「京都の加茂の神」であり出雲国造の火つぎ継承の神事に係る「熊野大社の神」である。

国神は、奈良の葛城の神と出雲大社の神ということになりそうです
102   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 09:41:32   ID:WMtOiSCw
八十島祭は文徳天皇の即位に伴う嘉祥三年(八五〇)が文献上で初見で、鎌倉時代の後白河天皇の元仁元年(一二二四)を最後に廃しされています
103   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 09:48:22   ID:WMtOiSCw
『日本書記』「欽明元年(540)九月条には、欽明即位後に難波 祝津 ( ほうりつ ) 宮において、 大伴 ( おおとも ) 大連 ( おおむらじ ....

往昔の熊野詣は四国より摂津の難波(尼崎大阪)を南に和泉国紀伊路、又は海路尼崎大阪より紀伊熊野川、音無川を上り山中の難路を遠く熊野奥山に達するのであった。その路々には高貴の人々にては凡そ一ケ月にも及ぶ程行程であった。その御道には要所要所に多くの熊野神社を祭ったこれが皆臨幸の際の御休所なりしと伝へられる。又吉野川、紀の川を下り難波の海に出で紀伊と四国の海峡より即ち三国川(神崎川)を河船にて淀川本流に出で遂に京都に入るを捷路とされたようである。この尼崎市難波の熊野神社は旅中の一休所の第一の社であったと伝へられる
104   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 09:49:27   ID:WMtOiSCw
八十嶋祭の行なわれた難波祝津(はふりつ)宮の伝承地としては、尼崎市扶桑町(波洲橋)のあたりだという説があります。 そのときに祀られた神様は生島神(いくしまのかみ)と足島神(たるしまのかみ)
105   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 09:53:51   ID:WMtOiSCw
男淺津間若子宿禰(允恭)
男淺津間若子宿禰命、遠飛鳥(とおつあすかの)宮に坐しまして、天の下治らしめしき。(中略)是に天皇天下の氏氏名名の人等(ども)の氏姓(うぢかばね)の忤(たが)ひ過(あやま)でるを愁ひたまいて、味白檮(あまかし)の言八十禍津日(ことやそまがつひ)の前(さき)に、玖訶瓫(くかべ)を居(す)ゑて、天の下の八十友緒(やそとものを)の氏姓を定め賜ひき
境(さかい)を定め邦(くに)を開きて、近つ淡海に制(をさ)め、姓(かばね)を正(ただ)し氏(うじ)を撰(えら)びて、遠つ飛鳥に勒(をさ)めたまいき。
106   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 09:54:53   ID:WMtOiSCw
『古事記』本文
次に大山咋(おおやまくいの)神、亦の名は山末之大主(やますゑのおほぬしの)神。この神は、近つ淡海国の日枝(ひえ)の山に坐し、また葛野(かつの)の松尾に坐して鳴鏑(なりかぶら)を用(も)つ神なり。
107   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 10:02:47   ID:WMtOiSCw
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります
108   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 10:03:03   ID:WMtOiSCw
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります
109   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 10:06:16   ID:WMtOiSCw
阿久刀社鎮座地附近の北に位置する服部村に、允恭天皇の御代に全国の織部を統括した麻羅宿禰を祀る神服神社があり、この辺りは織物の里であった。同じ養蚕機織りの技術を持つ調連の長・阿久太が、この地に住して養蚕織物の業に従事し、顕宗天皇に絹織物を献じ調首の姓を賜った。当社は、その子孫が祖神・阿久太を祀ったものとみられる」
とある。
110   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 10:06:35   ID:WMtOiSCw
阿久刀社鎮座地附近の北に位置する服部村に、允恭天皇の御代に全国の織部を統括した麻羅宿禰を祀る神服神社があり、この辺りは織物の里であった。同じ養蚕機織りの技術を持つ調連の長・阿久太が、この地に住して養蚕織物の業に従事し、顕宗天皇に絹織物を献じ調首の姓を賜った。当社は、その子孫が祖神・阿久太を祀ったものとみられる」
とある。
111   名前:  名無しさん@chs   2010/02/20(土) 10:07:27   ID:WMtOiSCw
衣通姫は第十九代允恭天皇の后で絶世の美女であり、衣を通して光り輝く美人であったというのです
名前: メール: sage cookie
タイトル:
名前: メール: cookie
内容:
最初 前へ 1 2 3 4 5  次へ 最後