|
■▲▼
【13:21】
酒の神
-
1
名前:
名無しさん@chs
2010/01/23(土) 08:31:33
ID:/JXxtCrU
-
仲哀天皇8年(日本書紀356年)、秦の始皇帝の14世の孫という功満王なる人物が、中国の戦乱(当時は中国が南北朝に分かれ、特に北部は五胡十六国時代で混乱していました)を避け、日本列島へ渡来してこの地に神社を勧請したのが、大酒神社の始まりといいます。大酒神社は昔、大避神社と読んだようですが、これは功満王の「戦乱を避ける」の「避」にちなんだ社号だといわれています。
さらに応神天皇14年(日本書紀372年)、功満王の息子にあたる弓月王(ゆんづのきみ)という人物が、百済から127県18670人の人々を従えて(!)、大和朝廷に帰化した、と社伝や『記紀』にも記載されています
-
12
名前:
名無しさん@chs
2010/01/23(土) 08:51:31
ID:/JXxtCrU
-
『古語拾遺』応神天皇
軽嶋の豊明の朝に至りて(中略)秦公が祖弓月、百二十県の民を率て帰化けり。
『新撰姓氏録』左京諸蕃上 漢
太秦公宿禰
出自秦始皇帝三世孫孝武王也。男功満王。帯仲彦天皇(諡仲哀)八年来朝。男融通王(一云弓月王。誉田天皇(諡応神)十四年。 来率廿七縣百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇(諡仁徳)御世。以百廿七縣秦氏。以下略
-
13
名前:
名無しさん@chs
2010/01/23(土) 08:52:01
ID:/JXxtCrU
-
香春神社の祭神 辛國息長大姫大目命
この神は息長帯姫をもじった神名なのか、香春神社を齋祀った氏族が奉戴した神のどちらかでであろう。 香春神社は初期の宇佐神宮の祭祀を務めた辛嶋氏や赤染氏に関連する銅採掘、精錬に関係する神社で、宇佐八幡の元宮とも言える。ここに出てくる氏族は秦氏の一族である
-
14
名前:
名無しさん@chs
2010/01/23(土) 08:53:44
ID:/JXxtCrU
-
新撰姓氏録
大里史 太秦公宿禰同祖 秦始皇帝五世孫融通王之後也
秦宿禰 秦始皇帝五世孫融通王之後也
秦忌寸、高尾忌寸、秦人 秦宿禰同祖 融通王之後也
秦公 秦始皇帝孫孝徳王之後也
秦姓 秦始皇帝十三世孫然能解公
摂津国 新撰姓氏録 秦忌寸 太秦公宿禰同祖 功満王之後也
秦人 秦忌寸同祖 弓月王之後也
勝 上勝同祖 多利須須之
-
15
名前:
名無しさん@chs
2010/01/23(土) 08:55:59
ID:/JXxtCrU
-
松尾大社大
宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)というものが、松尾山の神霊を勧請して現在地に社殿を構え、知満留女という斎女に奉仕させたのが、この社の創建とされている。
-
16
名前:
名無しさん@chs
2010/01/23(土) 08:57:07
ID:/JXxtCrU
-
松尾大社は、「大山昨神」(おぽやまぐいのかみ)と「中津島姫命」(なかつしまひめのみこと)の二柱を祭神として祀っている。『古事記』によると、大山昨神(またの名は山末大主神)は近淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐す鳴鏑(なるかぶら)を用いるなり」とあり、近江の国の比叡山と松尾山を支配する神であったと伝えられている。
松尾大社が全国の酒造家や醤油、味噌、酢等の製造及び販売業者の方々から格別な尊崇を受けているのは、この霊泉のためである。境内の神與庫には、全国の酒造家から奉献された酒樽の数々が並べてある
-
17
名前:
名無しさん@chs
2010/01/23(土) 08:57:54
ID:/JXxtCrU
-
「秦氏本系帳」によれば,大宝元年秦忌寸都里と川辺腹男が日埼岑から松尾に神体を勧請し,社殿を営み,田口腹女,秦忌寸知麻留女に御阿礼の神事を奉仕させたと伝える(本朝月令,松尾祭事)。
-
18
名前:
名無しさん@chs
2010/03/20(土) 09:55:57
ID:cEmMytdw
-
木嶋座天照御魂神社
元糺の三本鳥居を眺めていると、ここから平安京が開始されたのだという思いが強くなります
秦氏が創建した神社はこの蚕のやしろから、嵐山の松尾神社、伏見稲荷、そして多分に一族であろう、カモ氏の下賀茂神社と山背の国を築いた渡来系豪族であった訳です。
歴史書で秦氏が有名になるのは聖徳太子さんの財政面を支えた時代です、秦河勝の時代でしょうか、日本の国宝第一号の広隆寺(蜂岡寺)の弥勒菩薩を新羅から招聘したのも河勝ではないでしょうか。
聖徳太子一族が滅亡するとともに秦氏は一時的に歴史の表舞台からは去りますが、密かに力を貯え桓武天皇の時代に強引に秦氏の故郷である、山背の国に都を移し建都する訳ですね。秦氏の御殿であった場所に御所を建設し平安時代が始まるのです。
-
19
名前:
名無しさん@chs
2010/03/20(土) 09:57:28
ID:cEmMytdw
-
弓月君以前から渡来して来ていた可能性はないのでしょうか。
宇佐神宮の近辺に秦王国を築いた彼らはいつ頃この奈良盆地に入植したのでしょうか。
-
20
名前:
名無しさん@chs
2010/03/20(土) 09:59:45
ID:cEmMytdw
-
『日本書紀』では応神天皇16年に朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したという。秦の皇帝(始皇帝とされる)五世の孫であり、渡来後、日本に養蚕・機織を伝えたとされる。
加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述もうなずける
-
21
名前:
名無しさん@chs
2010/03/20(土) 10:00:53
ID:cEmMytdw
-
隋書にある「秦王国」については、梅原猛氏の「聖徳太子」下巻に、「秦王国という以上、秦氏の国に違いないが、秦氏は、応神帝の時に来朝した弓月(ゆみつき)君の子孫である。姓氏録はこの弓月君なるものは、秦の始皇帝の五世の孫・融通王であるとする。秦王国は、この秦氏の多くいた国に違いないが、周防(山口県東部)、豊前(福岡県の一部と大分県の一部)ともいわれるが、明らかでない。」とあります。
秦氏は「新羅系」とする説が有力なようです。
その根拠としては、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は「新羅系」の瓦が殆どであったり、また秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある国宝第一号として有名な「弥勒菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像(現在、韓国国立中央博物館所蔵)と材質以外はうりふたつであり、しかも広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明していることなどがあげられるようです
-
|