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0035213
古代史探訪 by TokyoBlog

11 : 安寧天皇(8)   12 : 景行天皇の時代 九州(118)   13 : 神櫛王と忌部(281)   14 : 豊葦原中津国(24)   15 : 猿田彦(17)   16 : 八幡神社(9)   17 : 天香語山命(54)   18 : 八尺瓊勾玉(60)   19 : 熊野神社の謎(55)   20 : 安閑天皇(33)  

21 : 鳥居 狛犬 注連縄 獅子舞(9)   22 : 尾張氏 天火明  高倉下(15)   23 : 空海 佐伯氏 阿刀氏(97)   24 : 和邇氏(93)   25 : 和珥氏:海人族(30)   26 : 宗像三神(60)   27 : 天孫降臨 天・高天原とは 天ツ神 国ツ神(112)   28 : 『古語拾遺』(39)   29 : 巴型銅器(59)   30 : 稲の神 田の神 稲荷神(40)   31 : 日本武尊と讃岐の神櫛王(208)   32 : 紀氏 武内宿禰(88)   33 : ヤオ族 伏羲(フクギ) 女咼(女扁+咼)ジョカ(47)   34 : 宇多源氏佐々木氏 加地氏(205)   35 : 相撲の起源(37)   36 : 橘氏 梅宮大社(71)   37 : 寒川神社(158)   38 : 天太玉命 天富命 手置帆負(195)   39 : 朝廷別王 丹波道主王(25)   40 : 秋津島(28)   41 : 豊受姫(57)   42 : 酒の神(21)   43 : 鉄と木と鍛冶と踏鞴(162)   44 : 皇妃(母系)でみる欠史時代(79)   45 : 大毘古((58)   46 : 雑賀 穂積 紀州(19)   47 : 九州王朝(39)   48 : 天を祭る(14)   49 : 愛知 静岡 三重 の神社(91)   50 : 竹取物語と忌部 忌部黒麻呂(91)   51 : 讃岐の藤原氏(52)   52 : 諏訪神社 建御名方神 南方刀美(50)   53 : 淡海(102)   54 : 霊剣 布都御魂(171)   55 : 絹 麻 織物(10)   56 : 2−3世紀 卑弥呼の時代(34)   57 : 天智天皇 天武天皇(49)   58 : 瓊瓊杵尊 邇邇芸尊 天孫降臨(69)   59 : 謎の4世紀(18)   60 : 小野神社 天下春命 瀬織津姫(24)   61 : 出雲の謎(22)   62 : 麻績天長白羽神 天白 天白羽命(38)   63 : 旧唐書 倭国と日本国(10)   64 : 魏志倭人伝 『三国志』魏書東夷伝倭人条(1)   65 : 出雲國造~賀詞(29)   66 : 海幸彦 山幸彦 天火明命(27)   67 : 吉備 毛野(140)   68 : 常陸風土記 多氏(53)   69 : 淡海 伊邪那岐(63)   70 : 山幸彦 天津日高日子穂穂手見命(42)   71 : 神社の始まり(28)   72 : 物部氏(131)   73 : 船神(26)   74 : 五十猛神 伊太氏神 伊太祁曽神(55)   75 : 九州 磐井 宗像(117)   76 : 大山祗神 大山積神(44)   77 : 上総国 玉前神社(52)   78 : 羽衣伝説 神社(58)   79 : 考霊天皇(31)   80 : 薩摩 隼人 とは 海神との関係(53)   81 : 小彦名命 事代主(88)   82 : 神社の総数(11)   83 : 食物神(19)   84 : 可美真手命 宇摩志摩治命(123)   85 : 丹生都比売 那賀(17)   86 : 欠史八代の年表(58)   87 : 金山彦 南宮大社 中山神社(24)   88 : 愛宕神社(12)   89 : 武蔵国高麗郡 高麗若光 白髭神社など(29)   90 : 饂飩(うどん)の起源に2説あり(43)   91 : 伊勢津彦 伊和大神(47)   92 : 葛城の歴史(33)   93 : 天児屋根命 比売大神 武甕槌命(8)   94 : 聖徳太子 蘇我氏(43)   95 : 荒田別 百済 木羅斤資(123)   96 : 火の神 軻偶土神 軻遇突智命(10)   97 : 空海 丹生氏(24)   98 : 土佐神社(4)   99 : 系図(55)   100 : 遷却崇神(17)   101 : 倭国 倭人(30)   102 : 道主 日葉酢媛(16)   103 : 事代主(29)   104 : 巴形銅器(48)   105 : 大化改新 皇極天皇 孝徳天皇(20)   106 : 木の神 久久能智命 久々智命(6)   107 : 天女伝説 羽衣伝説(5)   108 : 七夕の話(7)   109 : ppblogについて(9)   110 : アルバム・写真・画像掲示板(6)   111 : 縦書きエディター(2)   112 : 浦安を調べる(25)   113 : tokyo ニュース の開始です(6)  

【11:8】 安寧天皇

1   名前:  名無しさん@chs   2008/02/13(水) 13:10:35   ID:GQo7Ppog
多摩川の中流をはさんで左岸と右岸にそれぞれ小野神社が鎮座しており、互いに、式内社を主張している。その一社は一ノ宮の小野神社、で、今一社は住吉町の小野神社(小野宮)である。両社とも創祀を安寧天皇十八年二月と伝えている。
2   名前:  名無しさん@chs   2008/02/13(水) 13:11:55   ID:GQo7Ppog
安寧天皇は片塩の浮穴宮(葛城郡)にて、政治を行ったことになっていますが,大倭にて、懿徳天皇を生んでいます
3   名前:  名無しさん@chs   2008/02/13(水) 13:13:56   ID:GQo7Ppog
熊野大権現 熊野速玉大社

神紋    鳥紋(三本足の八咫鳥)
 「熊野権現御垂跡縁起」によると、往昔、熊野神が各地遍歴の後に、伊予、淡路を経て新宮の南の神倉山に祀られ、さらに阿須賀社の北、対岸の石淵(三重県鵜殿村矢淵)に遷られたのであって、始めは結(結神)、早玉(速玉神)と家津美御子神を二社殿に奉斎していた。

 「熊野年代記」には、安寧天皇十八年(紀元前566)に新宮の神倉に祀られ、貴祢谷(石淵)へ遷り、孝昭天皇五年(紀元前480)に二社殿を建立して、熊野三所権現(結、速玉、家津美御子)を奉斎したと伝える。

 諸説によって考察すれば、まず熊野三山の中心の早玉(熊野速玉大神)、結(那智大社・熊野夫須美大神)、家津美御子(熊野本宮大社御主神)の三柱が神代の頃に神倉山に降臨せられ、景行天皇五十八年(129)に、社殿を現在の処に築営して結、速玉の二神を御奉遷申し上げたと思われる
4   名前:  名無しさん@chs   2008/02/13(水) 13:16:34   ID:GQo7Ppog
日御碕神社
神門をくぐると、正面に天照大神とその息子達である五神を祀る下ノ本社「日沈宮」。右手階段の上に、素盞嗚尊とその娘達である三女神を祀る上ノ本社「神の宮」が鎮座しています。この時は丁度日沈宮の改修中で、日沈宮の御祭神・天照大神等六柱の神は、神の宮に遷座しておられました。
「神の宮」は、神代以来現社地背後の「隠ヶ丘」に鎮座していました。安寧天皇13年(BC536)に現社地に遷座。素盞鳴尊は出雲の国造営後に「熊成峯」に登り、終生鎮まる地を求めて柏葉を風で占うと社殿背後の「隠ケ丘」に柏葉が止まったために、御子神である天葺根命は素戔嗚尊の御魂をこの地で奉斎したといわれています
5   名前:  名無しさん@chs   2008/02/13(水) 13:18:29   ID:GQo7Ppog
 都味歯八重事代主神(つみは・やえ・ことしろぬしのかみ)、
 八尋(やひろ)の熊鰐(くまわに)に化して、三嶋の溝杭の娘・玉依姫のもと
 に通い、一男一女をなす。
 
 まず男の子、天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)。この
 みことは神武天皇の御代に国の政治をつかさどる大夫の役を命じられ、
 お仕えした。
 
 次に女の子、鞴五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)。このみこと
 は神武天皇の皇后になられ、皇子おふたりをお産みになった。これは
 まず綏靖天皇、そして彦八井耳命。
 
 またそのほかに事代主神には女の子がおり、五十鈴依姫命と申しあげる。
 このみことは綏靖天皇の皇后になられ、皇子をおひとりお産みになった。
 これは安寧天皇である。
6   名前:  名無しさん@chs   2008/02/13(水) 13:24:23   ID:GQo7Ppog
安寧天皇の孫、和智津彦命の子で、孝霊の妃になった蝿伊呂泥と蝿伊呂杼という人物も存在した。
7   名前:  名無しさん@chs   2008/02/13(水) 13:25:04   ID:GQo7Ppog
先代旧事本紀 巻第四

三世の孫の天日方奇日方命[亦の名は阿田津久志尼命]この命は日向の賀牟度美良姫を娶り一男一女を生む


  健飯勝命
  妹の渟中底姫命。この命は片塩浮穴宮で天下を治められた天皇(安寧天皇)が立てて皇后とし四児を生む

  大日本根子彦耜友天皇
  次に常津彦命
  次に磯城津彦命
  次に手研彦奇友背命

 四世の孫の健飯勝命。この命は出雲臣の娘の沙麻奈姫を娶り一男を生む
8   名前:  名無しさん@chs   2011/11/20(日) 15:25:23   ID:wALUD24Q
>>2
安寧天皇こと磯城津彦玉手看は、その名の通り、磯城地域の王だったのでしょうね。
なので宮居とされる片塩浮穴宮も通説の葛城でなく磯城のどこかでしょう。
名前: メール: sage cookie
キーワード【中流 一ノ宮 住吉町 二月 伊予

【12:118】 景行天皇の時代 九州

1   名前:  名無しさん@chs   2007/06/10(日) 08:16:22   ID:436ddb62e0
垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。

皇后:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ。若建吉備津日子の女) 景行52年薨去
櫛角別王(くしつのわけのみこ)
大碓皇子(おおうすのみこ)
小碓尊(おうすのみこと、日本武尊)
109   名前:  削除   削除   ID:削除
削除
110   名前:  名無しさん@chs   2011/01/17(月) 12:17:11   ID:xD2lb60c
>>3
8月に天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から・・・・
この女酋長ですね。
>>10
魏志の記す卑弥呼は、紀景行天皇段の記す豊前の地京都郡の女酋長「神夏磯媛」か?
ttp://www.geocities.jp/ojyaru_24/keikoi.html
宇佐八幡宮
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1293265517/10-24
111   名前:  名無しさん@chs   2011/04/09(土) 22:24:56   ID:5xkZJsRc
>>3
この景行天皇九州親征は、神武天皇以来の天皇家の宿願だったの?
”九州を制覇していた漢人は、神武天皇に攻撃をうけました。完全に制覇でき
なかったために、続く天皇が何度も九州を攻めています・・・・・・・”
大毘古命をば高志道へ遣わし
ttp://homepage1.nifty.com/o-mino/page818.html
112   名前:  名無しさん@chs   2011/04/10(日) 13:43:42   ID:DV9nr5OE
>>32
>「クマソタケルには二人の娘がいます。この娘にたくさん贈り物をして・・・・・
熊襲酋長の市乾鹿文・市鹿文姉妹のことですね。父を裏切り、父の武具
弓弦を予め断ち天皇に協力した姉の市乾鹿文は、その後どうしたのだろ。
天皇の后妃群にはその名は見られないが。裏切り恥じて自経?
記ならば叙述されるのだろうが、叙事重視の紀だから無関心なのかな?
113   名前:  名無しさん@chs   2011/04/10(日) 15:18:30   ID:DV9nr5OE
>>2
>九州に関連する妃....
紀の記すこの3名の他の后妃、播磨稲日大郎・八坂入比売・水歯郎媛・五十河媛
・高田媛に記のみ記す訶家具漏比売を加えた9名で、もうけた子女80名って......
尤も在位AD71〜AD131年の60年は未だしも、享年106歳となるとの紀の著者は
大法螺吹きと言えるだろうが。
114   名前:  名無しさん@chs   2011/05/30(月) 23:29:54   ID:HEvQwhJ2
>>18
この播磨稲日大郎姫ですね。
91 : 名無しさん@chs 2009/09/01(火) 13:56:35 ID:lVyessL2
景行天皇
母は皇后・日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)といいます。丹波道主王(たんばのみちのうしのきみ)の娘です
播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を立てて、皇后とされました。皇后は、三人の皇子を生まれ
ました。第一が大碓命(おおうすのみこと)、次が小碓命(おうすのみこと)、次が稚根子命(わかねこのみこと)
またの妃、五十河媛(いかわひめ)は、神櫛皇子(かむくしのみこ)と稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)を生みました
またの妃、襲武媛(そのたけひめ)は、国乳別皇子(くにちわけのみこ)、次に国凝別皇子(くにこりわけのみこ)、次に
国背別皇子(くにせわけのみこ)、またの名は宮道別皇子(みやじわけのみこ)、次に豊戸別皇子(とよとわけのみこ)を生み・・・・
和邇氏 www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/98/91-91
115   名前:  名無しさん@chs   2011/09/02(金) 13:37:08   ID:b6It5zZI
>>31
>鼻垂・・・耳垂・・・麻剥・・・土折猪折・・・青・・・白・・・打猿・・・
紀の記す熊襲討伐途上で、景行天皇が戦った土蜘蛛と侮蔑表現
されている筑紫・豊地方の原住民部族らですね。
その軍勢に、筑紫国糟屋郡志珂郷を本貫とする安曇連氏も随行
していたようですね。
安曇氏の経歴と分布 ttp://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf
116   名前:  名無しさん@chs   2011/09/30(金) 10:54:34   ID:A/XtkzKg
>>112
日向隈谷に蕃居していた熊襲梟帥の娘市乾鹿文・市鹿文姉妹のうち、
父討伐の手引きをした姉市乾鹿文は、不孝者と糾弾され景行により
処刑されたことになっています。
『飫肥伝説録』に拠れば、隈谷南方の毛吉田に市乾鹿文を祀った祠が
あったようです。
このあたりイワレヒコ東遷、ヤマトタケル武勇伝も同様ですが、謀略計略で
敵を打ち負かすのは、何らうしろめたいことではなかったようです。
古墳時代はむろん、記紀が上梓された8世紀においてもです。
正々堂々名乗り組み合い戦う12世紀源平争乱の世までの間に、どういう
思惟変遷があったのでしょうか?
因みに、妹市鹿文は咎めもなく火国造に任命されたと。
117   名前:  名無しさん@chs   2011/10/01(土) 15:40:12   ID:G4a3Bsj2
>>110
景行の九州親征には、豊前神夏磯媛、豊後速津媛、肥前海松橿媛、
筑後八女津媛等女酋が頻出し、また敵方は土蜘蛛と蔑称表現されて
いるのが多数なのに、神夏磯媛だけは「神」という文字で書かれて
いるのだろ?
服属した中でも同系の天孫部族と看做されていたのか?
118   名前:  名無しさん@chs   2011/11/20(日) 15:11:03   ID:wALUD24Q
>>31
>豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・肥後に亘っているように・・・・・・・
景行遠征当時4世紀前葉の北部九州の筑紫・肥前地域には、邪馬台国或いは倭国連合が
支配しており侵攻を回避したか侵攻するも敗戦で記述されなかったのだろう。
名前: メール: sage cookie
キーワード【三皇 削除 京都郡

【13:281】 神櫛王と忌部

1   名前:  名無しさん@chs   2007/05/06(日) 09:12:08   ID:a8c4790fbb
『日本書紀』
景行天皇を父とする神櫛皇子(かんぐしのみこ)を讃岐国造に
272   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:31:02   ID:GILLJ6rc
牟岐城主、浅川城主、宍喰城主、いずれも藤原氏を名のる鷲住王の子孫の一族である。甲浦の惟宗氏、野根氏、安芸氏など、ともに鷲住王の子孫といわれると町史は述べる。
273   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:37:49   ID:GILLJ6rc
大山神社
海陽町塩深にある「大山神社」は宍喰の始祖「鷲住王」を祀る由緒ある神社です。
274   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:44:48   ID:GILLJ6rc
西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。

野根八幡宮
安芸郡東洋町
275   名前:  名無しさん@chs   2010/02/18(木) 15:48:23   ID:GILLJ6rc
鷲住王(わしずみおう)は讃岐(さぬき)の国造(くにのみやつこ)および阿波(あわ)脚咋別(あしくいわけ)の先祖(せんぞ)でもある。脚咋別(あしくいわけ)は海陽町宍喰(かいようちょうししくい)を中心(ちゅうしん)に南隣(みなみどなり)の高知県東洋町(こうちけんとうようちょう)を含(ふく)む一帯(いったい)である。脚咋(あしくい)が宍喰(ししくい)になった。
276   名前:  名無しさん@chs   2010/02/28(日) 21:33:26   ID:ut+YxLyI
姓氏録右京皇別には 「讃岐公、大足彦忽代別天皇皇子、五十香足彦命之後也」と書かれている。
277   名前:  名無しさん@chs   2010/03/14(日) 18:31:21   ID:OnqrypZc
讃岐國苅田郡 加麻良神社
神社誌料には、山の名を御神室と云う、大己貴神・少彦名神、四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。
古老の伝説口碑に伝うるところ「昔、神田村羽方二の宮大水上神社に少彦名命が来たりて夜毎に泣き叫ぶ、大水上神は木桝に命を乗せて川に流すと、神室山の中腹(この下、石宮)に着き泣き止む、土地の人たち、光明を放つこと不思議に思い近寄る人に、のり玉うは「我を大己貴の神の鎮まる此山に祭れ、然れば夜泣きをぞ守給うと」依て祠を厳樫の本に建奉りしなり、此の神の流れつきし所を御神室と言う、又此処の古石祠を石宮と稱す。流岡の地はこの事に由来する、大己貴神と少彦名神は協力してこの四国を拓き、農工商すべての産業開発と、方除治病(夜泣き)造酒、製薬、交通、航海安全、縁結び等世の中の幸福を増進することを叶られました。人間生活の守護神であらせられます。
278   名前:  削除   削除   ID:削除
削除
279   名前:  名無しさん@chs   2010/04/29(木) 18:36:42   ID:8avKRqyA
桑田山道隆寺明王院(七十七番)
 元明天皇時代の和気道隆という人にまで、開基は遡る。道隆は日本武尊の後裔だとい
う。道隆の荘園にある桑園で、大きな桑の木が怪異を起こした。その木を伐って薬師如
来像を作らせた。小さな堂を建てて薬師像を安置し、朝な夕な供養した。
 延暦末年、道隆の子孫・朝祐の代になっていた。空海と出会って道隆について語り、
薬師像を見せた。像が小さいので朝祐は空海に、大きな像を作ってくれと頼んだ。空海
は信仰心の篤さに打たれ、高さ二尺五寸の薬師像を作り、胎内に道隆の小像を納めて、
永く失われないようにした。朝祐は真言密教に深く帰依し、髪を剃り出家した。荘園も
財物も捨てて寺を建て、薬師像を本尊とした。空海を供養して過ごした。
280   名前:  削除   削除   ID:削除
削除
281   名前:  名無しさん@chs   2011/11/01(火) 00:20:03   ID:VA1cZCe+
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめの)命『古事記』= 倭国香媛(やまとのくにかひめ)『日本書紀』は、第七代「孝霊天皇」の妃であり、その皇子の一人が、「日子刺肩別尊」(ひこさしかたわけのみこと)。

高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。

姉が有名な、「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)、弟が四道将軍の一人「大吉備津彦命」である。

倭迹迹日百襲媛命は、お隣り香川県の式内社「水主神社」の御祭神。
讃岐一宮「田村神社」でも、大吉備津彦命とともに御祭神となっている。

祖父に当たる「孝昭天皇」御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)を祀る式内社は、全国で阿波一国「御間都比古神社」のみ。

異母兄に当たる第八代「孝元天皇」大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)の妃、及び、第九代「開化天皇」の皇后となった「伊迦賀色許売命」(いかがしこめのみこと)を祀る式内社も、日本唯一、阿波国の「伊加賀志神社」のみ。
名前: メール: sage cookie
キーワード【元山 八幡宮 かいよう 中心 五十

【14:24】 豊葦原中津国

1   名前:  名無しさん@chs   2007/07/08(日) 22:32:59   ID:25e57cc0b2
倉敷・福山説

芦原、中津原付近を通り、吉備の国と備後の国の境に至るのである。
 さらに、福山という場所は、穴の海と呼ばれる深い湾がおくまで入り込んでいた。その湾沿いと思われる場所に葦原とか中津原という地名が今でも残っているのは、単なる偶然なのであろうか。また、スサノウがこの福山にやってきたときスサノウを受け入れたものは、茅(葦の仲間)の輪を掲げ、受け入れなかったものはスサノウの軍勢に倒されたという伝承がある。
15   名前:  名無しさん@chs   2007/07/08(日) 23:14:57   ID:25e57cc0b2
日本書紀

天照大神が『我が子(天忍穂耳尊)を降しまつらん』と支度をしておられた時、瓊々杵尊が
生まれられたので、この皇孫を代えて降された。八坂瓊曲玉、八咫鏡、草薙剣の三種の宝物をたまわり、
天児屋根命、太玉命、天鈿女、石凝姥命、玉屋命を五部神(いつのとものおのかみたち)として添えてはべら
しめられた。そして天照大神は 『豊葦原の千五百秋の瑞穂国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。
宜しく爾(いまし)皇孫行きて治めよ。さきくませ、あまつひつぎの栄えまさんこと天壌(あめつち)と
きわまりなかるべし』とおっしゃって降された、と出ています。一書では、瓊々杵尊が生まれたての赤子で
あったので、高皇産霊尊が真床覆衾(まとこおいふすま)にくるんで降臨させられた、とあります。
16   名前:  名無しさん@chs   2007/07/08(日) 23:18:12   ID:25e57cc0b2
『日本書紀』巻第一・第四段 一書第一

一書曰。天神謂伊弉諾尊。伊弉冊尊曰。
有豐葦原千五百秋瑞穗之地。宜汝往脩之。廼賜天瓊戈。
於是。二神立於天上浮橋。投戈求地。因畫滄海。
而引擧之。即戈鋒垂落之潮。結而爲嶋。名曰磤馭慮嶋。
二神降居彼嶋。化作八尋之殿。又化竪天柱。
陽神問陰神曰。汝身有何成耶。
對曰。吾身具成而。有稱陰元者一處。
陽神曰。吾身亦具成而。有稱陽元者一處。
思欲以吾身陽元。合汝身之陰元。云爾。
17   名前:  名無しさん@chs   2007/07/09(月) 17:18:02   ID:9d3fc0103f
吉備が中津国との説
www.webtelevi.com/kibitaro.htm
18   名前:  名無しさん@chs   2007/07/09(月) 17:24:17   ID:9d3fc0103f
上記WEBより

那岐山から備前に入ると赤磐郡の吉井町にスサノオがヤマタノオロチを斬った剣を洗った「血洗の滝」、
その近くにスサノオとアマテラスの対決で誕生した宗像三女神を祀る宗形神社、金刀比羅山もありました。
大和の石上神宮との関連性を日本書紀でも紹介している石上にはスサノオの剣を祭った布都魂(ふつたま)神社、
赤坂町にイザナギ・イザナミを祭る多賀神社がありました。佐伯町にスサノオ神社、加三方磐座遺跡、英田町に天石門別神社もあります
19   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 21:15:46   ID:a4d1321a83
古事記では、淡路島は、「淡道之穂之狹別嶋」が正式の記載であるが、
(上記)では、「阿波路之穂之早別之嶋」(アワジノホノサワケノシマ)と記されている。
淡路とは「阿波の路」つまり徳島に行く道を示している。
20   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 21:17:18   ID:a4d1321a83
古事記で、伊邪那伎命が月讀命に対して、
「『汝命は、夜の食國を知らせ』と事依さしき。」という記述がある。
古事記の解説では、抽象的に「夜の世界」だなどと、語っているが、不謹慎である。

「夜の食国」とは四国のことである。
夜の国=依るの国=飯依比古の国
食国=大食国=大宜都比賣の国
であり、二名とは「夜の国」と「食国」の事を指しているのである
21   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 21:18:23   ID:a4d1321a83
「粟国」「大食媛」の名が示すように、穀物としての粟の産地であり、

それ故、四国のことを伊豫嶋と呼び、中心地が粟・讃岐であった??
22   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 21:19:54   ID:a4d1321a83
古事記については、不思議な記述がある。
即ち、大八島國を生んだ後の記述である。
『然後、還坐之時』「然ありて後、還ります時」の一節である。
大八島國を生んだ後、帰る途中で「吉備兒島・小豆嶋・大嶋・女嶋・知訶嶋・兩兒嶋」と順に6つの島を生んでいるのである。
ここで、還るとは何処に還るというのであろう
23   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 21:22:06   ID:a4d1321a83
知訶嶋は「天之忍男嶋」(アメノオシオノシマ)とも呼ぶ。
知訶嶋というのは、現在の長崎県の小値賀島であろうか。
この島はかつて神島と呼ばれており、神島神社がある。
24   名前:  時の旅人   2011/10/26(水) 11:48:45   ID:yn+d3H9+
私見を申し上げると、
吉備兒島は、その名の通り、吉備の小島半島のことで、元々は島で、後に干拓して本州と陸続きとなった。
亦の名が建日方別で、この「別」は「和気」のこと。つまり、倭(和=大和)に征服されたことを意味する。
ちなみに、ここで言う、倭とは、魏志倭人伝に出てくる、邪馬台国を滅ぼした狗那國を指す。
狗那國は、天皇家の先祖の発祥の地で、元々の領土は四国北部の阿波國、讃岐國、伊予國である。
古事記の国生み神話で、「別」の付かない大きな島や国は、この三国しかない。

小豆嶋は、たぶん、瀬戸内海の小豆島との説が一般的であり、亦の名が大野手比賣からも、その通りと思われる。

大嶋は、山口県の大島との説が多いが、亦の名大多麻留別から、台湾島としたい。
台湾の古名は、瑠求で、瑠の字は、おお(王)+留(溜の原字)で別は、前述の倭の支配地を表す。
では、誰が瑠求を支配下に置いたのかと言うと、山幸彦が海神の宮を訪問している。
普通ならば、ここで三年もの間、留まる必要はない。
つまり、支配下にするための行動を行ったと考えるのが常識である。
第八代の孝元天皇(大倭根子日子国玖琉命)が、山幸彦に相当すると考えられる。
それは、台湾の位置が、大倭(日本)の根っこであり、玖琉が瑠求の表現に近いからである。

女嶋は、大分県の姫島などが当てられている。
この様に小さな島より、大きな島が沢山ある。
亦の名が天一根と女から、沖縄本島を当てるのが、正しいと思われる。
天一根から、台湾同様に日本の根っこ部であり、島の形が女あるいはメの形に似ているから名づけられたと考える。

知訶嶋(亦の名は、天之忍男・アメノオシオではなくアマノオシオが正しい)は、長崎県の五島列島に当てる説が一般的であるが、
亦の名の天之忍男のイメージとは合わないので、ここでは、北方領土(国後、択捉島)を当てることにする。

兩兒嶋(亦の名は、天兩屋・アマノフタヤ)は、長崎県の男女群島を当てる説が多いが、これも古事記に記載するに値しない島である。
国生み神話の最初に出てきた、淤能碁呂嶋(おのごろじま)を忘れてはいませんか。
淤能碁呂嶋とは、旗が垂れた形をして、碁盤とが連なった形をした島のことで、樺太と北海道がつながった形の島を言う。
つまり、兩兒嶋とは、日本列島の上部にあって、樺太と北海道となった島を言う。

ちなみに、最初に不完全であった三つの島は、淤能碁呂嶋、水蛭子(ひるこ)、淡島(あわしま)。
水蛭子は、東日本で、淡島は西日本を言う。
古事記の八俣の大蛇退治は、水蛭子と淡島が合体した後の火山活動の模様を表している。
また、稲羽の素兎は、伊豆半島が南方から本州に合体した時の様子を表している。
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キーワード【倉敷 中津 備後 偶然

【15:17】 猿田彦

1   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 13:25:18   ID:1331985abc
日本神話によれば、猿田彦神はニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。倭姫命世記によれば、その子孫の太田命は天照大神を祀る地として倭姫命に五十鈴川川上の地を献上した。太田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、神宮に玉串大内人として代々奉職したが、その宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦を祀っていた。明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。

猿田彦神社が猿田彦神を祀る神社の総本社と考える者も多いが、猿田彦神の総本社は鈴鹿市の椿大神社ということになっている。猿田彦神社の宮司は宇治土公(うじとこ)という姓であり、椿大神社の宮司は山本という姓でありどちらも猿田彦神・太田命の直系の子孫であると主張している。 しかし『倭姫命世記』によると宇治土公家こそ猿田彦大神の直系の子孫とされており、 猿田彦大神を祀る神社で実際椿大神社とつながりのある神社はほとんど存在しない。
8   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 13:38:19   ID:1331985abc
生まれたのは出雲の加賀の潜戸(くけど)という海の大洞窟の中で、お母さんは、妹の宇武加比売命と一緒に大国主命を生き返らせた、神魂命の娘の蚶貝比売(きさがいひめ)という貝の女神です。
蚶貝比売は潜戸に入って「なんと闇い岩屋であることよ」と仰って、金の弓箭(ゆみや)をもって射いると、光がカカと明るくなったので、「加賀」というのだそうです。で、佐田大神が生まれ出ようとした当にその時、弓箭が無くなってしまった。そこで蚶貝比売は、「私の産む御子が麻須良神(益荒男神か?)の御子であるならば、無くなった弓箭よ出て来なさい。」と祈願すると、角の弓箭が水のまにまに流れて来たという。しかし、生まれた御子(佐太大神)は、「これは私の弓箭ではない。」と言って棄ててしまった。するとまた金の弓箭が流れて来たので、佐太大神はこれを持って、「なんと暗い窟であろう」と言って、岩壁を突き破って矢を射通してしまったということです。
9   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 13:39:29   ID:1331985abc
佐太の国主たるべき御子であり、それが神魂命の御子から生まれるのは、佐太大神を奉斎する氏族が神魂信仰の祭祀集団に属していることを示しており、佐太君ないし佐太忌寸だと見られる。この氏族が「出雲国風土記」には見られず、かえって山城国の「神亀三年出雲国計帳」に見えるのは、おそらく早期に出雲を出て、山城で古い大和朝廷(伊勢神宮成立以前)の祭祀長となったものらしく、賀茂県主もこの一族であろう。』と仰っています。つまり、賀茂氏と無関係ではないのです。賀茂の丹塗矢の正体は、松尾大社(山城国葛野・社家鴨氏)の大山咋神です。つまり、上賀茂の賀茂別雷神の父君にあたりますが、大山咋神の神使いは「猿」だというのも、猿田毘古神との関係を暗示させます。また、猿田毘古神を祀る白鬚神社の総本社は、琵琶湖の北岸、滋賀県高島郡高島町鵜川にありますが、高島町には「鴨」とう地名があり、鴨川も流れていて、鴨氏と親類関係にあったことが窺えます
10   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 13:40:51   ID:1331985abc
斎部氏説
麻績王というからには、麻績連が壬生(乳部)、又は母親の出身氏族ということだろうか。
松坂市の櫛田川の河口付近に、伊勢の大神宮の神御衣を織るところとして神麻續機殿(かんおみはたどの)神社があるが、ここは日本書紀にいう、斉明六年十二月、天皇が百済の為に新羅を討とうと思い、駿河国に勅して船を造らせたが、麻続郊(伊勢国多気郡麻績郷)まで曳いて来た時、夜中に故もなく艫(とも)と舳(へ)とが入れ替わっていたので、人々は新羅と戦ったら敗れることを悟ったという場所に他ならない。
松坂は、5世紀後半に大陸から渡来した漢織・呉織・衣縫(きぬぬい)達が定住した地域で、これらが後に、麻績連、服部連となって一大紡織の中心地を形成したといわれている。私は予てから、麻植の神を奉ずる斎部氏は、東漢氏系だと思っているのだが、安房斎部氏の本拠千葉市に生実(おゆみ)町という所があり、この「おゆみ」は「麻績」の転訛だそうだ。
それにどうしても、麻績→近江→淡海(あわみ)で、斎部氏の「阿波」や「安房」を思い出してしまう。流刑地に共通するのは「い」で始まる地名だってことだが、これも「斎部」を連想させる。常陸国風土記が伝えるように、流刑地が潮来(霞ヶ浦)とすれば、当に安房斎部氏の勢力圏内だ。
斎部氏は天太玉命を祖とし、筑紫・出雲・阿波・讃岐・紀伊・伊勢・安房等に分布している。
11   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 13:42:19   ID:1331985abc
猿田毘古神は、伊勢の阿邪訶(あざか・三重県松坂市)で漁をしていて、比良夫貝(シャコ貝)に手を咬まれて溺れ死んでしまいましたが、沖縄では、神聖な場所である御嶽(うたき)に、上から見ると十字に見えるアザカや蒲葵(あじまさ・ビロウ)などの聖木と、アザケーと呼ばれるシャコ貝を祀ります
12   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 13:44:39   ID:1331985abc
鹿児島神宮(鹿児島県姶良郡隼人町)
社伝には、震旦国の王女「大比留女」が7歳で朝日が胸に差し込んで妊娠し、怪しんだ父王に空舟で海に流され、流れ着いた先が九州鹿児島東部の八幡崎で、生まれた子は八幡(応神天皇)だとある。社伝の通りだとすれば、大比留女、つまり大日霊女貴(天照大神)は神功皇后ということになる。
13   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 13:54:37   ID:1331985abc
『出雲国風土記』では猿田彦は佐太・佐田大神として登場し、大国主命の全国平定に金の弓箭(ゆみや)を用いて助力した神様とされている。金の弓矢は天の壁を打ち破るとされている。雷に比定した表現で大雷(おおいかづち)神に通じるものがある。佐田大神の佐田氏は大中臣氏の先祖とされている。日本書紀の国譲りの項には、大国主命が経津主(ふつぬし)神と武甕槌(たけみかづち)神に佐田大神を武神として活用すべきであると推薦している。佐田大神が金の弓矢(雷)を使うので、『(天空から雨雲に紛れて来る)洩れ矢(もれや)の神』と呼ぶ場合もあるらしい。当然、大国主命の子息である建御名方神の手助けをしていると思われる
14   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 13:58:08   ID:1331985abc
武蔵久良岐 杉山神社「大己貴神」摂社社宮祠社「猿田彦大神」横浜市西区中央1ー13ー1 相模 高座 社宮神「大比瑠女神」藤沢市辻堂元町4-5737
15   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 14:02:29   ID:1331985abc
日子番邇邇芸命が、将に天降るの時、天ヤチマタに居て、上は高天原を光らし、下は葦原中国を光らす、この神、是於いて有り。

 故に天照大御神、高木の神、之の命を以て、天宇受売(女)神に詔し、「汝は、手弱女(たおやめ)に有るといえども、伊牟迦布(いむかふ)神に、面勝神。故に専ら、汝が往きて将に問え、『吾が御子天降るの道。誰が此の如くて居る』」

 故に問い賜うの時、答え白し「僕は国神、名は、猿田毘古神也。出で居る所以は、天神の御子の天降り坐すと聞く故に、御前に仕え奉るに、参り,向え、之に侍る。

 天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命、併せて、五伴緒牟(下矢)。支加て、天降る也。是に於いて、そのオキシ八尺勾玉、鏡、及び、草那芸剣(三種神器)を副えて賜る。
16   名前:  名無しさん@chs   2011/09/16(金) 13:53:29   ID:taBL/2iA
>>9
大和朝廷に臣属の為、佐太大神を奉祭する部族が
出雲国から山城国へ移住したの?
17   名前:  名無しさん@chs   2011/10/01(土) 15:18:09   ID:G4a3Bsj2
>>1>>4
国津神猿田彦の本貫は、出雲国なの?筑紫国なの?
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キーワード【伊勢 五十鈴川 倭姫命

【16:9】 八幡神社

1   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 11:04:10   ID:1331985abc
秦系の辛嶋氏が宇佐に達し、宇佐川左岸(西岸)に住んで「辛国」とした。「宇佐郡辛国宇豆高島」の島とは陸の島すなわち山であって、辛国では稲積山にあたる。ここに御大神が降臨したとあり、これが原始的なヤハタの神であった。八本の幡を立てる宗教儀礼があったものと想像される。この神官は、豊国奇巫とか豊国法師と呼ばれ、医術(毉術:文字つぶれするので)により、雄略や用明天皇の病気を治療したとされている。

 宇佐氏と辛嶋氏が宇佐平野にいたが、6世紀後半には宇佐氏はそこから姿を消したようである。筑紫国造磐井の乱に連動して、勢力を失ったと見られる。替わって、大神氏(おおみわ)が宇佐川右岸(東岸)へ入ってきた。この大神氏とは三輪山奥地の宇陀市伊那佐山麓の大神氏の一族であった。宇佐氏に代わり辛島氏に圧力をかけてヤハタ神に応神霊を付与させるに至った。ここに今につながる八幡神がなった。敏達朝(572〜85)に八幡神が顕現したとされ、和銅五年(712)宇佐川左岸辛島側の鷹居の地に社殿が建てられたのである(飯沼氏は鷹神と習合したと言う:『八幡神とはなにか』 )。
2   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 11:07:44   ID:1331985abc
上記は「八幡神と神仏習合」より
www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books247.htm
3   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 11:08:55   ID:1331985abc
【八幡宮は現在日本中で祀られ広く知られているが、もともとは宇佐周辺で信仰されていた「地方神」だった。宇佐に初めて八幡神が顕(あらわ)れたのは欽明天皇三十二年(571)で、宇佐の御許山(おもとさん)に顕れたと言う。その後宇佐地方の神として大神(おおが)氏と辛島(からしま)氏によって祀られた。しかし、その神が一体どんな神だったかについ¥てはわかっていない。】
4   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 11:10:20   ID:1331985abc
古来より豊前地域は秦氏やその一族である漢氏の居住していた地域とされ、新羅系加羅人と思われる秦氏の故地である「加羅」から、辛島(からしま)という名前も来ているという。辛島氏も秦氏一族なのだ。「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が古名で、「八」は多さを表し「八咫の鏡」の「八」と同義だという。「幡」は「秦」とも「旗」とも言われる。八幡とは文字通り、多数の「秦氏」が住むところ、あるいは多数の「秦=旗」が立つ所なのだ。そして欽明の出自も豊前辺りだという。この説によれば、八幡神は新羅からの外来神で、宇佐においては新羅系加羅人の氏神だったという事になる
5   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 11:13:34   ID:1331985abc
辛嶋氏
 「辛嶋勝姓系図」によれば辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入ったと云う。
 辛嶋氏は伽耶国亀茲峯に酷似の宇佐郡稲積山を「宇佐郡辛国宇豆高島」と称したらしく、ここに辛国神が降臨したとして、のちこの神は乙(おとめ)社、泉社、瀬社、 崇峻(すしゅん)天皇(588〜592)の御代蘇我馬子(そがのうまこ)の時代に 鷹居社 、 改新後の 天智(てんじ)天皇(662〜671)の御代に 小山田社を祀ったという伝承がある。 更に、天智天皇以後に小倉山に入り宇佐氏と共同して北辰社を設けたらしい。

辛島氏の斎祀った神は銅鏡を好んだようであり、卑弥呼など古代の女王的な巫女を思わせる。赤留比賣神(比賣許曾神)当たりではなかろうか。
6   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 11:14:44   ID:1331985abc
大神氏
 大神氏は大和三輪の大神氏の出と渡来系とする二説がある。 弘仁12年の官符(「弘仁官符」とする)、「承和縁起」には 欽明(きんめい)天皇の御代(540〜571) 馬城峯 に太上天皇( 応神(おうじん))の御霊が現れ、同29年(568) 大神比義(おおがのひぎ) が鷹居社(鷹居瀬社とも)*5を建てたという。
 また別の説では欽明32年のころ宇佐郡厩峯と菱形池(ひしがたのいけ)の間に鍛冶翁(かじおう)あり大神比義が祈ると三才童児となり、 「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大 菩薩(ぼさつ)」と託宣があった。
 この縁起は『扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄』等にみえる。
7   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 11:15:36   ID:1331985abc
宇佐氏の齋祀る比賣神のいます国に、辛嶋氏がもちこんだ外来信仰は道仏習合の信仰で、原始八幡信仰と言える。 その上にのっかって応神信仰を同化させ官社にしたのが大神比義であったということになる。このように八幡神と大神比義(おおがのひぎ) は切っても切れない関係があったが、 小倉山(おぐらやま) に八幡宮が移ると直ちに天平5年(733) 比売神の二殿ができる。 比売神の神殿の建立は宇佐氏の力によるものであり、二殿ができ宇佐氏の勢力が表に現れると、宇佐氏と辛嶋氏 は共同して、大神氏と対峙する運動を起こし、道鏡の事件(769年)を境にして、宇佐氏は官社八幡宮に登場し一時宮司に任じられた。 数百年ぶりの宇佐氏の表舞台への再登場である。
8   名前:  名無しさん@chs   2008/01/09(水) 11:16:44   ID:1331985abc
八幡宇佐宮御託宣集に「古イニシヘ吾れは震旦シンタン国の霊神なりしが、今は日域鎮守の大神なるぞ」 とある。震旦国とはチャイナを西方から呼ぶ名である。震旦国の霊神とは道教の最高神太一神、大元神を指す。日域とは日本である。大神とは道教の太上老君の意である。 聖武天皇の御代の託宣で、大仏建立が出来るのは宇佐八幡の神のみであるとの意である。 道士であった大神氏の発想の託宣であろう。
9   名前:  名無しさん@chs   2011/09/30(金) 10:20:02   ID:A/XtkzKg
>>3
>もともとは宇佐周辺で信仰されていた「地方神」だった・・・・・
八幡神が、全国神へと隆盛していった理由は、何だったの?
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キーワード【佐川 儀礼 世紀 三輪山

【17:54】 天香語山命

1   名前:  名無しさん@chs   2007/10/16(火) 10:05:10   ID:db96fafd88
和邇氏系の高橋神社の祭神は、舞鶴の倉梯山に神庫を建てた天香語山命の祖母・栲幡千千媛であり、高橋氏は後に越後彌彦大宮司家となるのだが、その弥彦神社(新潟県西蒲浦郡弥彦村弥彦)の祭神は尾張(海部)氏系の天香語山命である
45   名前:  名無しさん@chs   2008/12/06(土) 13:55:07   ID:i1PwYiqI
最初に尾張氏が『記紀』伝承の中に登場するのは、五代孝昭の皇后になった世襲足媛(よそたらしひめ)である。
世襲足媛は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と日本足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)を生む。天足彦国押人命は和邇氏(わにし)の祖とされる人物である。また日本足彦国押人命は六代孝安天皇とされる人物である。

尾張氏系譜では、瀛津世襲や世襲足媛を彦火明命三世孫天忍男(あめのおしお)の子とする
46   名前:  名無しさん@chs   2008/12/06(土) 13:58:36   ID:i1PwYiqI
神武世代に剣根という人物が葛城(葛木) 国造となる。この人の娘、加奈良知姫が海部氏(尾張氏)の天忍男命の妻となり、瀛津 世襲、建額赤、世襲足媛を生む。瀛津世襲は、またの名を葛木彦という。

天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと、生没年不詳)は、『古事記』『日本書紀』に記される皇族(王族)。 天押帯日子命とも。記紀によれば、孝昭天皇の皇子で、母は瀛津世襲の妹・世襲足媛命(よそたらしひめ『日本書紀』本文、『古事記』では余曽多本毘売命、日置姫)。同母弟に日本足彦国押人尊(孝安天皇)がおり、『日本書紀』本文での皇后・押媛命は天足彦國押人の娘と記述される。事績は伝わらないが、『古事記』には、阿那臣・壱比韋臣・大坂臣・大宅臣(おおやけのおみ)・小野臣・柿本臣・春日臣・粟田臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣(むさのおみ)・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造(ちかつあふみ)の祖、『日本書紀』に和珥臣の祖とし、『新撰姓氏録』にも同様の系譜記載がある
47   名前:  名無しさん@chs   2008/12/06(土) 14:02:39   ID:i1PwYiqI
天押帯日子命を祖とする和邇氏諸氏とは都怒山臣(角山つのやま君)・小野臣・近淡海 国造の三氏であり、いずれも継体擁立に深く関わる
和邇氏諸氏
武社国造(上総国武射郡)、額田国造(美濃国池田郡額田郷)、吉備ノ穴国造(備後国の安那郡などを領域)があり、伊勢の飯高県造・壹志県造も有力者であった。近江の南部から西部にかけての近淡海国造も和邇氏族の出で、日觸使主命の後であったとみられる。
48   名前:  名無しさん@chs   2008/12/06(土) 14:07:55   ID:i1PwYiqI
「壬申の乱」で活躍した和珥部臣君手は近江国の丸部臣氏の始祖となり、その丸部臣氏は讃岐国三豊郡の大領として活躍している

丸部臣、刈田首の両氏は三野郡、豊田郡の大領をつとめ、刈田首は紀井朝臣を賜り土佐の国造ともなった家系であり、丸部臣は橘氏の子孫であるといわれ、後にまなべ姓を名乗り西讃岐地方で活躍
49   名前:  名無しさん@chs   2008/12/06(土) 14:09:47   ID:i1PwYiqI
和珥部臣君手は近江国の丸部臣氏の始祖となり、その丸部臣氏は讃岐国三豊郡の大領として活躍している。 敏達天皇と春日臣(丸部臣氏)との間に生まれた難波皇子→栗隈王→美努王→葛城王(橘諸兄)の末裔橘五郎(真部五郎)
50   名前:  名無しさん@chs   2008/12/06(土) 14:15:01   ID:i1PwYiqI
源平合戦で高名を得た真部五郎祐光(旧姓橘)
五郎祐光は敗戦後讃岐の橘姓を頼って大川郡内の多和大窪寺に落ち延びた

1184 (元暦 元) 源平一ノ谷の戦いにて「まなべ四郎・五郎」の活躍 『平家物語』『源平盛衰記』
1186 (文治 二) 藤原頼久一族郎党来島 《真鍋島伝承》
            ・真鍋城、城山城、沢津城の築城《真鍋島伝承》
            ・真鍋城を本拠とし笠岡諸島塩飽諸島など広大な海域を領有 『小田郡誌』
51   名前:  名無しさん@chs   2011/01/17(月) 11:58:50   ID:xD2lb60c
>>23
>ニギハヤヒ(オオトシ)は・・・合計4人の妃を娶って・・・・
出典は何ですか?
52   名前:  名無しさん@chs   2011/09/02(金) 12:41:44   ID:b6It5zZI
>>45
>世襲足媛は・・・・・・・・
紀の記す尾張氏瀛津世襲の妹とされる世襲足媛のことですね。
(1−2) 尾張氏と海部からでた女王と王妃
ttp://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/7-1ouhi.htm
53   名前:  名無しさん@chs   2011/09/27(火) 14:04:21   ID:KfqBTwVQ
桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)の縁起・古事記による大物主大神の系譜をみると、大物主大神(饒速日尊)が陶津耳の娘・活玉依毘売(いくたまよりひめ)を娶って生んだ子・櫛御方命で、その五世孫が大神神社の初代神主・意富多々泥古(おおたたねこ)(書紀は大直禰子)としており、饒速日尊が摂津国陶邑の活玉依毘売(いくたまよりひめ)を娶って櫛御方命が生まれていたようである。

大三輪(おおみわ)氏を名乗った大神(おおみわ)氏の後裔は、朝臣として朝廷に仕え代々、桜井市三輪の大神神社の神主を継いでいる
54   名前:  名無しさん@chs   2011/09/27(火) 14:07:02   ID:KfqBTwVQ
高魂命−伊久魂命−天押立命−陶津耳命−玉依彦命−剣根命−夜麻都俾命−久多
美命(葛城直祖) また陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の
祖である太田田根子をもうけるとある。
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キーワード【伝承 五代 世襲 人物

【18:60】 八尺瓊勾玉

1   名前:  名無しさん@chs   2007/07/26(木) 11:29:02   ID:73754cf824
八咫鏡と八尺瓊勾玉は伊勢神宮、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉られている

大きな勾玉とも、長い緒に繋いだ勾玉ともされる。「さか」は尺の字が宛てられているが本来は上代の長さの単位の咫(あた)のことである
51   名前:  名無しさん@chs   2007/12/27(木) 13:31:49   ID:78b610f5cb
現在の皇室典範では皇位継承に際して、これら3種の神器を継承することが記されています。
52   名前:  名無しさん@chs   2007/12/27(木) 13:33:14   ID:78b610f5cb
宮中にも奉安されているが、古語拾遺以降複製とされている。宮中に奉安されているものは歴史上数度の紛失、焼失などを被っている。
53   名前:  名無しさん@chs   2007/12/27(木) 17:17:05   ID:78b610f5cb
記紀によれば第10代崇神天皇の時に神器と共に寝起きすることを畏れ多いと考えた天皇が鏡と剣を笠縫邑に移し神器を模した形代を作らしめました。そして11代垂仁天皇の時に伊勢神宮に移されさらに12代景行天皇の時に剣が日本武尊の手によって熱田神宮にうつされることになったとされています。
三種の神器は神と交流する神具であり、祭政一致のシンボル
54   名前:  名無しさん@chs   2007/12/27(木) 17:22:05   ID:78b610f5cb
現在、天皇即位の際に使われる剣と鏡
須賀利御太刀と内侍所の御鏡

「三種の神器」という言葉が文献に初めて登場するのは「類聚神祇本源」という
南北朝時代に書かれた神道書。1320(元応2)『類聚神祇本源』で、伊勢外宮の渡会家行は、神道五部書を基礎に教義を集大成するとともに、旧事本紀を重視して、神主仏従の立場で聖徳太子を聖人視する思想を体系化します。
55   名前:  名無しさん@chs   2007/12/27(木) 17:23:07   ID:78b610f5cb
伊勢神道においては、豊受大神を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とを同一神であるとする(「御鎮座伝記」)。天御中主神は「古事記」冒頭に出てくる神である。記紀神話においては、天御中主神は最初にひとこと出てきて後は姿を消してしまう神である。中世神話ではこの神が重要視される。その考えの先駆けとみられる記述が、渡会家行「類聚神祇本源」に引用されている「大和葛城宝山記」の「神祇」の項にある。そこでは、インド系の神である梵天(ブラフマー神)と天御中主神とが同一視されている。「類聚神祇本源」は多くの文献からの厖大な引用集であり、「大和葛城宝山記」は葛城修験系の人が書いたと考えられる書である。

もともと丹波国の食事の神だったはず豊受大神と天御中主神とを同一視???

食事の神の役割を豊受大神から切り離して、名前の似たトヨウカノメとトヨウケビメに負わせることにしている。トヨウカノメは「丹後国風土記」に出てくる天女である。伊勢神道書では、トヨウカノメは外宮の酒殿の神になっている。トヨウケビメは記紀にあらわれる穀物神で、ワクムスヒの子である。「御鎮座伝記」によれば、天照大神が丹波に滞在していたときに豊受大神が天から降りてきて、一緒に酒を飲んだことになっている。そこで、その神酒を献上するのがトヨウケビメである。
56   名前:  名無しさん@chs   2007/12/27(木) 17:33:03   ID:78b610f5cb
鏡・玉・剣のセットが民俗祭祀に用いられたという証拠などはどこにもない。むしろ、鄭重に埋葬された

「権力者」や「豪族」と思われる弥生墳墓や古墳からこれらは出土する

「記紀」の時代においては宝物という意味では剣と鏡が中心であったようである。「神器」と言う言葉が広く定着するのは「南北朝」の頃だとも言われている。
「鏡・剣・玉」のセットもまた、王権のシンボルとして認識されてはいたのである。
57   名前:  名無しさん@chs   2007/12/27(木) 17:33:57   ID:78b610f5cb
伝承によれば、第10代崇神天皇の時代までは天照大神として宮中に祀られていた。しかし神の勢いが強く、これを恐れた天皇は代替品を造ってこれを宮中に残し、現物は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して宮中外へ運び出させやがて伊勢の地に落ち着いた。これが伊勢神宮(内宮)の起こりであり、八咫の鏡が御神体となった。(古語拾遺)
58   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 12:57:20   ID:oCK9NMfk
『三国志』で、台与からの貢献品の中の「青大句珠」は、ヒスイ勾玉を指すと考える説も有ります。倭国の勢力が及んだ
朝鮮半島南部の、新羅・百済・任那の旧領でも、ヒスイ勾玉が大量に出土します。
 ところが、次第にヒスイの利用は減っていき、天平20(748)年頃に作られた東大寺
三月堂の不空羂索観音立像が、確認されている最後の使用例です。

日本でのヒスイを指していると思われる文献と言えば、『釈日本紀』引用の、
“越後国風土記曰、八坂丹玉名、謂玉色青、故云青八坂丹玉也。”位のもので、その
後完全に忘れ去られ、昭和16(1941)年に東北大の河野義礼さんが再発見するまで、ヒスイが産出していたことは忘れ去られています。
59   名前:  名無しさん@chs   2010/01/12(火) 13:00:11   ID:oCK9NMfk
鴨都波八重事代主命神社二座<並名神大月次相嘗新嘗>
(御所村大字御所鎮座。下鴨神社と称する)
葛木坐一言主命神社<名神大月次相嘗新嘗>
(吐田郷村森脇鎮座。祭神一言主神は大穴持尊の子味耜高彦根尊)
多太神社<鍬靫>(吐田郷村多田鎮座。祭神太田田根子古命)
長柄神社<鍬靫>(吐田郷村長柄鎮座。祭神天乃八重事代主命)
鴨山口神社<大月次新嘗>(櫛羅村櫛羅鎮座)
大穴持神社(葛村朝町鎮座。祭神大己貴尊)
大倉比売神社(葛村古瀬鎮座。祭神大倉比売は下照姫の別名。大己貴尊の子)
高鴨阿治須岐詫彦根命神社四座<並名神大月次相嘗新嘗>
(葛城村神通寺鎮座。祭神は大己貴尊の子)
60   名前:  名無しさん@chs   2011/09/22(木) 16:14:32   ID:Gxbf3V5I
>>58
翡翠の大珠と言えば、越後の隣国富山県氷見市朝日貝塚から発見された
10余cm級の鰹節型のが有名ですね。
忘れ去られたのは、縄文人と違って弥生人は硬玉に関心が薄かったからなのか?
名前: メール: sage cookie

【19:55】 熊野神社の謎

1   名前:  名無しさん@chs   2007/06/11(月) 14:08:19   ID:d135567d40
こんな話をみかけた。

熊野は一般的には「くまの」と読んでいますが、しかし、和歌山県の御坊市の熊野神社の熊野は「くまの」ではなく「いや」と読ませています(神奈備さんの資料)。「いや」といえば揖夜神社という、出雲の最古社が浮かんできます。ここの現在の祭神はイザナミを主神とし、ほかに、オオナムチ、スクナヒコナ、コトシロヌシらしいのですが、もともとここにイザナミがまつられていたとはちょっと考えにくいです。といいますのも、ここに奉納される「わらの蛇」が、なんと「アラハバキ」と呼ばれているらしいのです
46   名前:  名無しさん@chs   2007/10/30(火) 14:46:15   ID:ff047a4158
『延喜式』をみると、神名帳の意宇郡四十八座のなかに、この熊野大社と同じ祭神の社が少なくとももう一座はあったことに気付く。『延喜式』に収める「出雲國造神賀詞」には「伊射奈伎乃日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野神命」とあって、クシミケノすなわち「霊妙なる御食つ神」という意味の神名が明記されている。さらに冒頭の熊野坐神社から数えて三十一番目に「山狭神社」とあり、その次に「同社坐久志美気濃神社」とある。これらは風土記の在神祇官社「夜麻佐神」二社に相当するものであるが、風土記ではこれがまだ合祀の形にはなっておらず、一つは冒頭の熊野大社の次に掲げられ、一つは冒頭から十二番目に掲げられている。そのいずれが『延喜式』における「山狭神社」につながり、いずれが「同社坐」のほうにつながるかは明かではないが、いずれにしてもその鎮座地がともに現在の能義郡広瀬町山佐地区であったことは社名からして疑いない。
47   名前:  名無しさん@chs   2007/10/30(火) 14:47:09   ID:ff047a4158
『令義解』に天神・地祇の説明として「天神とは伊勢・山城鴨・住吉・出雲國造が斎く神等の類是れぞ、地祇とは大神・大倭・葛城鴨・出雲大汝神等の類是れぞ」とある。つまり、出雲國造が斎く熊野大神は伊弉諾の真名子であり天つ神であるが、出雲大汝神のほうは国土開発の祖神ではあっても、宮廷とは系譜を異にする地方神だというわけである
48   名前:  名無しさん@chs   2007/11/12(月) 14:34:04   ID:fa79f09ace
奥ノ院は開祖弘法大師空海をまつってあります。参道は杉や
ヒノキがうっそうと茂る石畳で、大小さまざまな石塔や鳥居がならんでいます。
古いのは平安時代997年の多田満仲の墓をはじめ、上杉謙信、武田信玄・勝
頼父子、とくに興味を引くのは当地を攻略した織田信長や明智光秀などの墓石
もならんでいる。
49   名前:  名無しさん@chs   2007/11/21(水) 14:08:52   ID:f75aee3c57
熊野三神の中心である本宮大社の祭神
「スサノオ」か?

「ケツミノミコト」とされていますが、これは出雲熊野大社の祭神「クマノノオオカミクシミケノミコト」と同一

「紀伊続風土記」には、
沢山の木を植えた「クマノクシミタマミケヌノミコト」
という
50   名前:  名無しさん@chs   2007/11/23(金) 21:34:00   ID:a4d1321a83
10月10日から17日まで一週間、「出雲大社上宮」で、大国主尊を中心に、
集まった神様の会議が行われ、
その後、松江北方の「佐太神社」で、佐太大神(猿田彦大神)主催の宴会が行われ、
26日には斐伊川河畔の、「万九千社」から各地に戻られます。
唯一、諏訪大神だけは、出雲に来られません。

出雲地方の人たちは、この間、御忌みに入ります
51   名前:  名無しさん@chs   2007/11/26(月) 15:37:37   ID:7488b1b981
善通寺から車で10分ほど行った所にある弥谷寺(いやだにじ、香川県三豊市[旧三野町])。


貴弥谷(きねがたに)社
三重県南牟婁郡鵜殿村貴祢谷(矢渕中学校裏)
 御由緒
 神代の頃に新宮の神倉山にお降りになった熊野神が約2500年前にここにお移りになり始めは速玉大神、夫須美大神、家津御子大神の三柱の神を二つの社殿に祀り約2000年前に石渕の祭神の内 家津御子大神が本宮へ移られ約1900年前に石渕の熊野神が新宮へお移りになった。この時に鵜殿諸手船(もろたぶね)神船を先導し奉ったことが伝えられている(熊野権現御垂迹縁起、帝王編年記、扶桑略記)
52   名前:  名無しさん@chs   2007/11/26(月) 15:39:38   ID:7488b1b981
御坊市には熊野(いや)神社が鎮座、由緒には、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、当社に熊野神が一時留まりませる」とある。 「いや」と読ませて、伊射那美神であるので、揖屋神社も同じ系統かも知れないし、また阿波の祖谷(いや)の入り口にも延喜式の伊射奈美神社[イサナミ](現在の高越神社か)が鎮座している。
53   名前:  名無しさん@chs   2007/11/28(水) 13:37:32   ID:8d3cb06aa7
弥彦神社 やひこじんじゃ. 古くから「おやひこさま」と呼ばれ、信仰される神社。「神の山」弥彦山の東麓に鎮座する。開創は711年。現在の社殿は1916年に再建された。越の国に農業や漁業をもたらした天香具山命を祀る。(弥彦村).
54   名前:  名無しさん@chs   2007/11/28(水) 13:41:48   ID:8d3cb06aa7
石見国一ノ宮 物部神社
境外摂社. 漢女神社, 栲幡千々姫命・市杵島姫神・抓津姫命. 伊夜彦神社, 天香具山命
55   名前:  名無しさん@chs   2011/09/16(金) 15:58:47   ID:taBL/2iA
>>1
御坊市の熊野神社の熊野というのは、今月初旬の台風12号豪雨で
被災し、堰きとめ湖ができた紀伊半島の熊野地区のことですね?
【速報】和歌山熊野の土砂ダム10ミリの雨で満水→11ミリ降水
//hatsukari.2ch.net/test/read.cgi/news/1316153492/
名前: メール: sage cookie

【20:33】 安閑天皇

1   名前:  名無しさん@chs   2008/02/06(水) 09:43:00   ID:1smVYSns
金橋神社
 安閑天皇(西暦四六六−五三五)は継体天皇の第一皇子で勾大兄廣國押武金日天皇(まかりのおほえひろくにおしたけかなひのすめらみこと)の名で親しまれ西暦五三四年春正月に第二十七代天皇として勾金橋宮で即位された。都を大和國盤余(いはれ)の玉穂宮から勾金橋宮の地(橿原市曲川町)に遷されたのは今から千四百五十余年前のことで寛大にして仁恵の深い天皇は此の地で善政を敷かれた。この由緒ある勾金橋宮跡に安閑天皇の遺徳を偲び、その神霊を祀って創建されたのが権現社である。
24   名前:  名無しさん@chs   2008/02/06(水) 10:16:09   ID:1smVYSns
0663/03/.. 上毛野雅子ら、兵2万7千人を率いて新羅に遣わされる

智二年(663)の白村江の戦いに前将軍の上毛野君雅子、天武元年(672)の壬申の乱には東国勢として佐味君宿那麻呂と大野君果安、天武十年(681)『日本書紀』編纂の史局設置の際、上毛野朝臣三千は諸臣の首座に名があがっている。
25   名前:  名無しさん@chs   2008/02/06(水) 10:18:56   ID:1smVYSns
武蔵府中から十数キロ多摩川を下った田園調布にある一連の大型古墳群は、武蔵国造多毛比命一族のものであろうと推定されている。4〜5世紀の間栄えて5世紀末に衰退した。すると入れ替わるように、今度は北武蔵の埼玉古墳群が栄えだした。埼玉古墳群とは金象眼銘文の刻まれた鉄剣が出て有名な稲荷山古墳を含み、大宮に近い北方にある。すなわち武蔵国の中心が移動したことを示しており、かつて武蔵国は无邪志国と胸刺国の二つに書き分けられた理由にもなる。それでは何故そのような移動があったのか。

『日本書紀』の安閉紀に、武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵が長年にわたって争い、小杵は上毛君の応援をうけたが、京の政権の後ろ盾を得た笠原直に敗れたとある。その結果、武蔵南部の四処の屯倉を京の政権に奉ったという。武蔵国造笠原直の笠原とは埼玉古墳群と大宮の間にある地名である。敗れた同族の小杵は何処にいたか分からないが、戦利品か服属の証しと奉られた四処の屯倉が武蔵南部の地であることから、武蔵府中の多毛比命の子孫であろうといわれる。
26   名前:  名無しさん@chs   2008/02/06(水) 10:24:40   ID:1smVYSns
兄多毛比命の7代後裔が、武蔵国造の乱で有名な笠原直使主である。小杵とは 従兄弟にあたる

安閑天皇の頃に武蔵国造の地位を巡って笠原直使主(かさはらのあたえのオミ)と同族の小杵(オキ)が争ったという記録がある。このことから笠原直一族が古来の武蔵国造であり、かつ夭邪志国造=埼玉古墳群の主と考えられる
27   名前:  名無しさん@chs   2008/02/06(水) 10:25:17   ID:1smVYSns
笠原直使主は埼玉県鴻巣市笠原付近にいた豪族と思われる。そのすぐ北に 埼玉 さきたま 古墳群がある。 上毛野 かみつけぬ 君 小熊 おくま は 豊城入彦命 とよきいりひこのみこと の後裔?
28   名前:  名無しさん@chs   2008/02/06(水) 10:27:02   ID:1smVYSns
武蔵の豪族、笠原直使主と小杵の争い。使主が勝ち、橘花 他3ケ所を朝廷に差し出す。(屯倉)

この頃、丸子、宮内、北見方、梶ヶ谷などに豪族の古墳が作られる

上丸子古墳:今の東横線鉄橋下の多摩川河川敷に、6世紀頃に築造された 丸い塚の小さな古墳。大正10年、多摩川改修工事の際に、伊勢神社跡の小高い丘から、人物の埴輪が数多く出土された。
 梶ヶ谷古墳群:梶ヶ谷付近に見られる直径20m程の小さな円墳群。高杯やさかずき、当時の日用品が出土された。
29   名前:  名無しさん@chs   2008/02/06(水) 10:29:04   ID:1smVYSns
笠原から元荒川の上流10キロほど離れた埼玉郡埼玉(現在の行田市埼玉)にあるさきたま古墳群は同時代の古墳であり、何の基盤の無い当地に突如として、関西に匹敵する中型前方後円墳が現れた事を考えれば、笠原を本拠としたといわれる武蔵国国造の笠原氏の古墳ではないかと指摘されています
30   名前:  名無しさん@chs   2011/04/10(日) 15:38:22   ID:DV9nr5OE
>>5
廣國押武建日こと安閑天皇を祀る式内社が、尾張国でなく三河国に
鎮座しておるのだが、事跡もない三河国に何故?
射穂神社 祭神:安閑天皇・春日山田之皇女・神前皇女 
西加茂郡猿投町大字上伊保字北山弐拾六番地
ttp://www.geocities.jp/engisiki/mikawa/bun/mk110104-01.html
31   名前:  名無しさん@chs   2011/04/12(火) 03:26:50   ID:sLCef1zc
>>1
>継体天皇の第一皇子で勾大兄廣國押武金日・・・・・
というのは、任那4県割譲に対する父王との意見の相違からみて、捏造かも。
伝えられる年齢からみても、親子でなく並立した一方の王朝の長だったのかも?
32   名前:  名無しさん@chs   2011/05/28(土) 16:46:10   ID:hbSLTb6E
>>4
安閑皇后春日山田皇女は、一名赤見皇女?赤見とは?
20 : 名無しさん@chs 2007/11/28(水) 18:01:31 ID:8d3cb06aa7
【紀】春日山田【カスガノヤマダ】皇女。山田大娘【ヤマダノオホイラツメ】皇女(一伝)。
別名として赤見【アカミ】皇女(一伝)。書紀は後に第27代安閑【あんかん】天皇の
大后【おほきさき】となったと記す。
和珥氏:海人族 www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/76/20-20
33   名前:  名無しさん@chs   2011/09/02(金) 14:40:21   ID:b6It5zZI
>>32
滋賀県伊香郡高月町磯野に坐す赤見神社も、安閑皇后春日山田皇女を
祀っておるようですね。
和珥氏:海人族 ttp://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/76/15-17
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キーワード【五三 二十 五十 創建
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