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龍田神社 広瀬神社 風神と水神(57)
1:名無しさん@chs :2008/02/29 13:25:32 ID:nOsB3FSw 天武紀四年四月一〇日条に小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして風神を龍田の立野に祀らせた記事がみえる。大宝元年(七〇一)神祇令に孟夏、孟秋に広瀬社の大忌祭とともに祀られる例となり、風水の害なきを祈るものである、これは、『延喜式』によって詳細を知られるが、その四時祭上に供料の細目と、勅使の位階、員数等を明記し、「太政官式」・「式部式」にも記載している。更に臨時祭式にも春日、広瀬等とともに社庫の鑰匙については官庫に納め置き、祭に臨んで祭使が使用にあたることを記している。天武四年以降毎年広瀬とともに四月七月の祭を記載しており、嘉祥三年(八五〇)従五位上を叙せられたのを初めとして、神階昇叙し貞観元年(八五九)従三位となる。同年、大和の水分神山口神二六社とともに風雨を祈るため幣を奉られている。天平二年(七三〇)『大和国正税帳』に「龍田神戸稲肆伯参拾束捌把」、『新抄格勅符抄』に「龍田神三戸」とみえ、文禄四年(一五九四)大和郡山城主増田長盛の「日供米拾弐石」を先規の通りとすること、また慶長七年(一六〇二)片桐且元によって同額を安堵されている
2:名無しさん@chs :2008/02/29 13:43:53 ID:nOsB3FSw 龍田大社 式内社 大和國平群郡 龍田坐天御柱國御柱神社二座 並名神大 月次新嘗 旧官幣大社 天御柱命,国御柱命 級長津彦命,級長戸邊命 『神社覈録』 摂社 龍田比古神社 龍田比売神社 末社 上座 天照大御神・住吉大神 中座 枚岡大神・春日大神 下座 高望王(桓武天皇曾孫、平家の祖)の妃
3:名無しさん@chs :2008/02/29 13:44:03 ID:nOsB3FSw 竜田杜 法隆寺より一里余りにある〔本社は立野にある〕。 祭神 二座 天御柱神・国御柱神 天武天皇の四年(六七五)、小紫美濃王・小錦下佐伯連広足が勅を奉じて風神を竜田の立野に祭った。伊弉諾・伊弉冊の二神が吹かれた息気が神となったのが風神で、〔男を〕級長津彦命(しながつひこ)、女を級長戸部(しながとべ)命という。祭る神と異名同神である。伊勢にあっては風宮と称する。 滝祭神 一座〔伊弉諾・伊弉冊の二神が天逆鉾で下界を探り納めた神霊(水気神:すいきのしん)の御裳濯川辺に坐す滝宮と同じである〕。 (『国花記』による)
4:名無しさん@chs :2008/02/29 13:44:56 ID:nOsB3FSw 神南(かんなみ)〔あるいは神名備と書く〕竜田の近所にある。三室山も相続く 〔大和・山城・丹波・備中・摂津、右五所に同名がある〕。 (古今)滝田川紅葉ばながる神なみの三室の山に時雨降るらし(読人不知)
5:名無しさん@chs :2008/02/29 13:45:45 ID:nOsB3FSw 日本書紀天武天皇4年4月10日(675年)に、「小紫美濃王、小錦下佐伯連広足を遣わし風の神を竜田の立野に祭らせ、小錦中間人連大蓋(はしひとのむらじおおふた)、大山中曽根連韓犬(そねのむらじからいぬ)を遣わし大忌神を廣瀬の河曲に祀られた」
6:名無しさん@chs :2008/02/29 13:47:14 ID:nOsB3FSw 「廣瀬大社」<式内名神大社・二十二社の一つ・官幣大社・広瀬大社・広瀬神社> 奈良県北葛城郡河合町川合 主祭神: 若宇加能売命(ワカウカノメ命) =豊宇気比売大神(伊勢外宮神)・宇加之御魂神(稲荷神)廣瀬大忌神 相殿神: 櫛玉命(クシタマ命) 穂雷命(ホノイカヅチ命) 由緒 崇神天皇九年、広瀬の川合の里長に神託があり、一夜で沼地が陸地となり橘が多数生えたことが崇神天皇に伝わり、この地に社殿が建立されたことに始まる。 天武天皇四年(675)に間人連大蓋を遣わし曽根連韓犬を斎主として大忌神を広瀬の川曲にまつったという。 常に龍田風神と対となって祀られ、崇敬されてきた神社。 延喜式では名神大社列格。 平安期にには朝廷奉幣の二十二社にも列格する。 明治社格では官幣大社。現在は神社本庁別表神社。
7:名無しさん@chs :2008/02/29 13:47:55 ID:nOsB3FSw 広瀬大社 大和川に沿い、そして高田川・葛城川・曽我川・飛鳥川・寺川・初瀬川・佐保川・富雄川がそれぞれに合流する、まさに大和平野を流れる全ての河川が一点に集まる地に祀られている
8:名無しさん@chs :2008/02/29 13:52:53 ID:nOsB3FSw 広瀬大社 由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲 荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。広瀬大忌神(ひろせおお いみのかみ)ともいう。相殿の櫛玉命とは、神社の説明では饒速日命のこ とである。社家の樋口氏は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、社 家の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社・饒速日命社がある。 江戸前期の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」では相殿の神名は櫛玉姫命と 水穂雷命となっている。櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日 命の妻)となります。 崇神天皇九年、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に 変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地社殿を建て祀られる ようになる。(神社縁起) 日本書紀天武天皇四年四月十日(675年)には、小錦中間人連大蓋を遣 わし、大山中曽根連韓犬を斎主として、大忌神を廣瀬の河曲に祭られたこ とが記されている。
9:名無しさん@chs :2008/02/29 13:53:56 ID:nOsB3FSw 神社のす ぐ、西には、前方後円墳の城山古墳と大塚山古墳があり、ほかにも五基の 古墳があります。東には、島の山古墳があります。大塚山古墳と島の山古 墳は、同じ方向を向いて造られています 南西の方角、2.5kmのあたりに、馬見丘陵古墳群
10:名無しさん@chs :2008/02/29 13:56:56 ID:nOsB3FSw 天武天皇が、竜田と広瀬の神を毎年、4月と7月にお祭りをしていた
11:名無しさん@chs :2008/02/29 13:57:38 ID:nOsB3FSw 二十二社 上七社 伊勢神宮 三重県伊勢市 石清水八幡宮 京都府八幡市 賀茂別雷神社(上賀茂神社) 京都市北区 賀茂御祖神社(下賀茂神社) 京都市左京区 松尾神社 京都市右京区 平野神社 京都市北区 稲荷神社 京都市伏見区 春日神社 奈良県奈良市 中七社 大原野神社 京都市西京区 大神神社 奈良県桜井市 石上神社 奈良県天理市 大和神社 奈良県天理市 広瀬神社 奈良県北葛城郡河合町 龍田神社 奈良県生駒郡三郷町 住吉神社 大阪市住吉区 下八社 日吉神社 滋賀県大津市 梅宮神社 京都市右京区 吉田神社 京都市左京区 廣田神社 兵庫県西宮市 八坂神社 京都市東山区 北野天満宮 京都市上京区 丹生川上神社 奈良県吉野郡下市町 ・奈良県吉野郡東吉野村・奈良県吉野郡川上村 貴船神社 京都市左京区
12:名無しさん@chs :2008/02/29 13:59:08 ID:nOsB3FSw 十六社は九世紀末期頃から固定されていたようで、そのメンバーは、 上七杜と中七杜に丹生と貴布禰を加えたもの
13:名無しさん@chs :2008/02/29 14:01:34 ID:nOsB3FSw 宇迦之御魂神は、スサノオの子供です。オオクニヌシ神がスサノオ の娘の須世理毘売と結婚しようとしますが、スサノオも八十神が大反対 をしてオオクニヌシ神を殺そうとします。それで、二人はスサノオから逃 げ仰せます。仕方ナシニ、スサノオは二人の結婚を許します。その時の 条件として、スサノオは大国村の主となるように命じます。そして、「其の 汝がもてる生太刀・生弓を以って、汝の庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏 せ、河の瀬に追い撥ね、宇迦の山の山本に底津石根に宮柱ふとしり、 高天原に氷木たかしりておれ」と命じます。そのときに、宇迦の山の山本 に住んでいた人は、オオクニヌシ神に追われて、伏見に逃げて、その 後、宇迦之御魂神は稲荷神社で祭らます。
14:名無しさん@chs :2008/02/29 14:02:28 ID:nOsB3FSw 江戸前期の「和州広瀬郡広瀬大明神 之図」では相殿の神名は櫛玉姫命と水穂雷命
15:名無しさん@chs :2008/02/29 14:04:42 ID:nOsB3FSw 天武天皇 4年4月10日に、「風神を竜田の立野に祭られ、大忌神を広瀬の河原に祭れた」 12年04月21日 広瀬・竜田の神を祭った。この月から始まって八月まで旱(ひでり)が続いた。百済の僧道蔵が雨乞いをして、雨が降った
16:名無しさん@chs :2008/03/18 15:10:05 ID:e91Cyoz2 『古事記』が「大歳神(大年神)」を、穀霊神であるウカノミタマ(宇加之御魂)神の兄弟神としている 讃岐神社(奈良県北葛城郡)では出雲系の神々を祀っているが、「大物忌神と同神の広瀬坐和加宇加之売(ワカウカノメ)神社の分霊を勧請して当社に祀った」と記している。和加宇加之売とは、荒雄川神社(岩出山)の祭神の倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)とことである。大物忌神と同神であれば、なぜ荒雄川神社は一緒に祀っているのだろう。 その和加宇加之売命を分霊した広瀬神社は、『日本書紀』天武天皇四年(675年)条に「大山中曾根連韓犬を斉主として、大忌神を広瀬の河曲に祭られた」と記されているが、斉主の大山中曾根連とは、滅亡した物部氏系の曽根氏であることから、大物忌神を勧請することで度会氏と接近する意図があったのかもしれない。
17:名無しさん@chs :2008/03/18 15:19:22 ID:e91Cyoz2 讃岐神社にあてられている。三吉は『和名抄』での、広瀬郡 散吉郷に比定される。 ご祭神は社伝によると元来大國魂命・大物主命・倉稲魂命であったが、後に広瀬神社の若宇加乃売命を勧請したので、当社を南川合明神と称するようになったという。「広瀬神社社記」には、広瀬神社の旧摂社散吉社(現在は廃絶となっている)は、散吉郷の南川合明神から勧請した御井神・井精神・大己貴神をご祭神としているし、一説に讃岐国から御井命を勧請して、讃岐神社として祀ったという。
18:名無しさん@chs :2008/03/18 15:20:59 ID:e91Cyoz2 或記ニ曰、 白雉三年壬子一ノ戸ニ山ノ神霊出現一ノ王子ハ味耜高彦根命二ノ王子ハ下照姫命三ノ王子ハ都味歯八重事代主命四ノ王子ハ高照光姫命五ノ王子ハ御井命五社権現ト祭ル。
19:名無しさん@chs :2008/03/18 15:22:13 ID:e91Cyoz2 御結婚なされた、稲羽イナバの八上比売ヤカミヒメは、大国主命が無事に 出雲に御帰りなされたと聞いて、喜んで御殿に御出になると、豈図らんや須世理姫と云 ふ方が御本妻になって、他の女の来るのを見ると、目を丸く輝かして白眼ニラまれるので、 そこで二人の仲に出来た可愛い御子を、木の股に挟むでおいて、御帰りになった。此御 子が木股神キノマタガミとも御井命オイガミとも申し上げる方であった。
20:名無しさん@chs :2008/03/18 15:23:36 ID:e91Cyoz2 御井命、高照比売命、下照比売命、味耜高彦根命、事代主命 それぞれに本地仏を習合させて祀った。いずれも大国主命の御子である。風、水、雷、日など農事神で、五穀豊穣の神々である
21:名無しさん@chs :2008/03/18 15:25:30 ID:e91Cyoz2 滋賀県大津氏の三井寺「園城寺」は、大友村主与多王(大友皇子の子)が天武天皇(673〜686)に奏上した氏寺である。この寺内には「御井」という泉があり、天智、天武、持統の三天皇の産湯に使用したとのことである。そのため「御井」、「三井」と呼ばれている。 高麗家継の「御井」については、青木村田沢の子檀嶺神社の祭神が木股神であることから「御井」は青木村田沢でないかというい説もある。これは木股神が「御井神」でもあるからである。 木股神は、大国主命と最初の妻である稲羽(鳥取県)の八上比売命との子で嫡妻を畏れ御子を三叉の枝に挾んでおいたことからそう呼ばれる。木股神はそのいわれからも分かるように「木の神」であるが、また「御井神」ともいわれ「井泉の神」でもある。泉は多く山の端の森林の中にあったので一神に木と井の名が語られたのであろうということである。
22:名無しさん@chs :2008/03/18 15:27:50 ID:e91Cyoz2 木股神は阿遅鋤高日子根神の兄、事代主の兄
23:名無しさん@chs :2008/03/18 15:30:22 ID:e91Cyoz2 大国主命 稲羽八上姫(いなばのやかみひめ)を娶り一児を生む。 御井神(みいのかみ)[亦の名は木股神(きまたのかみ)と言う。]
24:名無しさん@chs :2008/03/18 15:31:48 ID:e91Cyoz2 売沼神社(めぬまじんじゃ)社伝の記録には、「八上姫神社」拝殿扁額には「稲羽八上姫命神社(いなばやかみひめのみこと)」とありますが、今日では、一般に「売沼(めぬま)神社」と呼ばれています
25:名無しさん@chs :2008/03/18 15:33:37 ID:e91Cyoz2 鳥取市から河原町にかけて、大国主命がたどった道筋 「延喜式神名帳」(927年)に、八上郡「売沼(ひめの)神社」と記されているのが、現在の「売沼(めぬま)神社」です。祭神は「稲羽八上比売命(いなばやかみひめのみこと)」で、明治元年には、イザナミノミコト、ウケモチノカミ、タケミナカタノカミ、タカオカミ、クラオカミの5神が合祀されました。 元禄年間(1688年から1704年)に「西の天王」から「式内社売沼(ひめの)神社」と復称し、寛政6年(1794年)9月に社殿を再建。社伝の記録には、「八上姫神社」拝殿扁額には「稲羽八上姫命神社」とありますが、今日では、一般に「売沼(めぬま)神社」と呼ばれています
26:名無しさん@chs :2008/03/18 15:35:48 ID:e91Cyoz2 河原町では、八上姫を祀る売沼神社と嶽古墳(八上姫の墓と伝えられています)のある曳田川周辺1ヘクタールを、八上姫のロマンを伝える公園として、整備しています。園内には、大国主命が八上姫のもとへ向かう途中、海岸で白兎を助ける挿話にちなみ、蒲(がま)が植えられています。
27:名無しさん@chs :2008/03/19 11:17:58 ID:UKXZguoE 『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたとい言います
28:名無しさん@chs :2008/04/09 13:35:28 ID:okWxVHn6 広瀬神社由緒書 祭神 主神 宇加能売命。相殿 櫛玉命 。穂雷命。 主神若宇加能売命は、別名を、豊宇気比売大神(伊勢外宮)宇加之御魂神(稲荷神社 広瀬大忌神とも呼ばれ、総て同神である。龍田風神(龍田大社)と深いご縁がある 神徳 広瀬神社の鎮座地は日本書紀に「広瀬乃河曲」、延喜式祝詞には「広瀬乃川合」ときされており佐保川は初瀬川飛鳥川曽我川葛城川高田川等大和盆地を流れる総ての河川が一点に合流する地に祀られていることから、御主神は水の守り神で山谷の悪水を良水に変え河川の氾濫を防ぐ神であり風雨を調和し苗稼を浸潤して、五穀の豊穰を守ることから朝廷を始め万民の食物を守る御膳神である。又広瀬は、屋船豊受姫神ともよび家屋を鎮め奉る宅神で養蚕をも守る神として古来より崇敬が厚い。五穀豊穣、水難鎮護、産業興隆、河川交通安全、安産、除災招福等、多方面に渡る御神徳がある。 創建 崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられれる様になる(当社延喜)。日本書紀天武天皇四年四月十日(六七五年)には、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曾根連韓犬を斉主として、大忌神を広瀬の河曲に祭られた事が記されていて、これが毎年四月四日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。 -『平成祭データ』-
29:名無しさん@chs :2008/04/09 13:42:39 ID:okWxVHn6 物部姓曾禰氏 『日本書紀』には天武天皇四年(675)四月十日に、「遣小錦中間人連大蓋。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲」と、記録されているのが最初で、これ以降、毎年四月・七月に使いが派遣され、大忌祭が南北朝時代まで行われたと記録にある
30:名無しさん@chs :2008/04/09 13:47:30 ID:okWxVHn6 廣瀬神社の大忌神を祀る大忌祭というのは、生駒郡の竜田神社と共に毎年の四月四日 、七月四日両度に行われる。奈良盆地の中心で多くの川が合流する地点である「廣瀬」 には「廣瀬坐宇加之売」(ひろせにいますうかのめ)という神があって、そこは悪しき 水(廣瀬の神)、悪しき風(竜田神社)の両神が風水害の災害をもたらすので、その神 を祀ることによってそれをなくして豊作を祈願するのである。それが大和朝廷として重 要な治世の行事であり、廣瀬神社は若宇加売命(わかうかのめのみこと)を主神とし、 櫛玉命(くしたまのみこと)、穂雷命(ほのいかぢつのみこと)を併せ祀る。若宇加売 命の別の名を「廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)」というので、廣瀬神社と言われ た。 江戸前期の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」では相殿の神名は櫛玉姫命と水穂雷命となっている。櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日命の妻)となります
31:名無しさん@chs :2008/04/09 14:00:39 ID:okWxVHn6 広瀬に坐す和加宇加賣命(みこと)の神社(延喜式)。 又の御名は大忌神(日本紀)、又御膳持若宇加賣命(みこと)(令義解)。 又倉稲魂穀(うかのみたまめの)神(纂疏とも申し奉つりて水徳の神なり。此の神は伊弉諾・伊弉冊尊(みこと)の御子、豊宇加の賣神にして神祇官にいます御食神、是れなり(神祇秘書)。
32:名無しさん@chs :2008/04/09 14:04:54 ID:okWxVHn6 庄内と秋田県の県境にそびえる優美な鳥海山は、度重なる噴火を繰り替えしていましたが、ここには大物忌神が宿るとされ、奈良時代、朝廷は不吉な事件はこの神々の祟りとして、国司に命じて御幣を奉った事が記録として残ります
33:名無しさん@chs :2008/04/09 14:10:49 ID:okWxVHn6 齋・齋忌・齋戒とも書き,単に忌みともいう。祭事にあたって神を迎えるために,あるいは凶事を避けるために,一定の期間,不浄を断って,清浄な状態を保つことを意味する。また,伊勢・賀茂・春日・鹿島・香取などの神社で,神饌(しんせん)を扱う童女(まれには童男)のことを物忌と称した。『日本書紀』には,神武天皇が物忌して神を祀ったと記されている。
34:名無しさん@chs :2008/04/09 14:13:10 ID:okWxVHn6 大物忌神社。 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉。 出羽國一宮。 祭神:大物忌大神、 月山神。 祭神は大物忌神で、社伝には欽明天皇25年(約1400年前)鳥海山上に鎮座した神で倉稲魂命(ウカノミカマ 伊勢外宮の豊受大神と同神)とあり、また倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神の合神ともいわれている。 ホツマに記されている世嗣社は大物忌神社?
35:名無しさん@chs :2008/04/09 14:20:01 ID:okWxVHn6 系統を天智天皇の血筋に戻すために天武天皇の血を引く井上内親王と他戸親王を闇に葬ろうと企んだ藤原式家の「藤原百川(ふじわらのももかわ)」&「山部親王(やまべのしんのう)」 の陰謀ではないかとの説 天武天皇の血を引く他戸親王に代わって天智天皇の血を引く「山部親王(やまべのしんのう)」が皇太子として選ばれ(773年)、これにより天皇の系統が天武天皇系から再び天智天皇系に戻ることとなり、この後は天智天皇系の血筋が主流になります
36:名無しさん@chs :2008/04/09 14:21:52 ID:okWxVHn6 聖武の後を継いだ長女(孝謙天皇)はその後生まれた男子(他戸王)にあとを継がせる為に、他の天武天皇の血を引く男系男子の皇族を全て謀反の罪に陥れて抹殺し、天武天皇の子孫である男子は、その他戸王一人の状態にしてしまった。 女系とはいえ天武天皇の血を引く最後の皇族である他戸王を皇位につかせるための中継ぎとして父親の白壁王に一時皇位を継承させるという大義名分を持ち出したのである。かくして宝亀元年(770年)に白壁王は即位して光仁天皇となったのである
37:名無しさん@chs :2008/04/09 14:23:13 ID:okWxVHn6 女帝など即位させずとも天智天皇と天武天皇の血を引く天皇後継者が他にも居たのです。 天武天皇には舎人(とねり)、長(なが)、穂積(ほづみ)、弓削(ゆげ)、新田部(にいたべ)、刑部(おさかべ)という6人の皇子が居ました。 天智天皇にも施基(しき)皇子が居たのです。 この皇子たちは上の系図の女帝たちよりも天皇になる資格が充分にあったのです。 しかし、持統天皇と藤原不比等はこの皇子たちを天皇にはさせなかった
38:名無しさん@chs :2008/04/09 14:25:00 ID:okWxVHn6 武天皇の血を残そうとした持統天皇 神亀元年(724)持統天皇が望んだとおり、草壁皇子から文武天皇そして聖武天皇へと、天武天皇の血をひく嫡子継承が実現した。26歳の若き聖武天皇のもと、皇親では、壬申の乱で功勲をたてた高市皇子の後嗣の長屋王が、亡き不比等の後釜として政権を動かしていた。
39:名無しさん@chs :2008/04/09 14:27:27 ID:okWxVHn6 暴虐不仁の藤原仲麻呂の行動に対して、天武天皇の血が流れている聖武天皇は黙って見ていたわけではありません。天平十二年(740年)、九州の藤原広嗣の乱のさなか平城京から姿を消し、伊勢神宮に行く
40:名無しさん@chs :2008/04/09 16:10:24 ID:okWxVHn6 折口信夫:大嘗祭の本義 此新嘗には、生物(ナマモノ)のみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神(ミオヤガミ)が訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟(ワセ)の初嘗(ニヒナメ)で、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止(ヤドメ)を乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇(ツヽシミツカヘ)承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。
41:名無しさん@chs :2008/04/09 16:24:21 ID:okWxVHn6 斎宮と物忌 参考 www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa39.htm 一代に一人が伊勢で神につかえるというこの制度のはじまりは、天武天皇の代の大伯皇女(おおくのひめみこ)で、中世の後醍醐天皇の祥子内親王を最後に廃絶しました。 斎宮は決定後の一年間は宮城内の初斎院で、ついで宮城外の野宮でさらに一年間の潔斎の生活をおくります。そののち大勢の官人にまもられ、盛大な行列をくんで伊勢にむかいます。これを斎王群行といいました。それ以降は多気の斎宮で精進潔斎の生活をつづけました。 斎宮の実際の神事関与は、神宮のもっとも大切な祭りで三節祭とよばれる、六月・十二月の月次祭と九月の神嘗祭に神宮に参入して玉ぐしをささげるだけで、それ以外のときは、斎宮で篭りきりの生活をおくっていたのです。 その間、実際に日常的な神事をにない、また三節祭でも重要な奉仕をおこなっていたのは、物忌とよばれた数人の童女(一部は童男)とその補佐役の物忌父を中心とした男女専従神職者たちでした(義江明子氏『日本古代の祭祀と女性』吉川弘文館・1996年)。
42:名無しさん@chs :2008/04/09 16:27:29 ID:okWxVHn6 忌には大物忌、物忌父、小良があり、宮守、地祭り などの御用を勤めるもので、童男女を用いた
43:名無しさん@chs :2008/04/09 16:28:07 ID:okWxVHn6 斎王は神宮に奉仕する最高の職でありますので、これも神職の名称の一つと言えます。また、祭主サイシュ、大宮司ダイグウジ、禰宜ネギ、内人ウチンド、物忌モノイミ等の職掌も置かれていました
44:名無しさん@chs :2008/04/09 16:30:31 ID:okWxVHn6 京都新聞 京都府向日市鶏冠井町清水の長岡京跡で、最古・最大級の「物忌(ものいみ)」木簡が完全な形で見つかり、同市埋蔵文化財センターが九日発表した。物忌木簡が完形品として出土したのは全国で初めて。木簡は三条条間北小路の北側溝から出土した。長さは一・一メートル、最大幅四・三センチ、厚さ七ミリの大きさで、上端部は山状、下端部は剣先状に削られ、木簡には「今日物忌 此處不有預人而他人輒不得出入」と墨で記されていた。物忌は、不審や不安がある時に陰陽師の占いに従って門を閉じて謹慎する行為を指す。「枕草子」など、平安時代の書きものに物忌にかんしてよく記載されているが、初めて出たのは八六六年(平安時代初期)の「左大史刑部眞鯨書状」だった。(古代・京都府) [99-07-16]
45:名無しさん@chs :2008/04/09 16:32:42 ID:okWxVHn6 木簡の出土 飛鳥池遺跡出土木簡 「天皇聚露忽謹」 天皇(天武天皇)は、公然と多勢の人々を集めると、忽然として斎戒(物忌み)を始めた。 「天皇」と記された最初の木簡:天武天皇を指す可能性が強い
46:名無しさん@chs :2008/04/09 16:34:57 ID:okWxVHn6 陰陽師が夢を凶と判断したら身を清め外出を控える物忌みに入るのです
47:名無しさん@chs :2008/04/09 16:35:18 ID:okWxVHn6 『日本書紀』 天武天皇四年(675年)条 「大山中曾根連韓犬を斉主として、大忌神を広瀬の河曲に祭られた」と記されているが、斉主の大山中曾根連とは、滅亡した物部氏系の曽根氏
48:名無しさん@chs :2008/04/09 16:36:06 ID:okWxVHn6 伊勢神宮の最も重要な神事は正殿床下にあると云う心の御柱への大物忌と云う斎女が真夜中に奉仕する一種の聖婚の儀式だと云う。『日本の神々6』
49:名無しさん@chs :2008/04/09 16:36:43 ID:okWxVHn6 上賀茂神社神社の北北西約2kmの場所にある神山(こうやま)に賀茂別雷大神が降臨し、天武天皇6年(678年)に現在の本殿のある場所に鎮座したという
50:名無しさん@chs :2008/04/09 16:42:02 ID:okWxVHn6 天武天皇が、唐風の律令制に合うようアレンジしたのが、代表的な「大嘗祭」 「大嘗祭」の準備については、ことあるごとに、まず「亀卜」がおこなわれ、「神意」をうかがいながらすすめられる 平安時代には、「大嘗祭」準備執行の開始から、全国の国司・郡司を通じて、数カ月前から各国民にも、精進潔斎するよう勅令がだされていた。 本番11月 天皇、宮中関係者、「大嘗祭」の神官などが、「物忌み」を行う。
51:名無しさん@chs :2008/04/09 16:44:24 ID:okWxVHn6 天武朝(672〜686)には吉凶をうらなう専門職が中務(なかつかさ)省の陰陽寮として創設された。職務は卜筮(ぼくぜい)・天文・暦・時刻のことをつかさどり、陰陽寮には長官の頭(かみ)の下に陰陽師や陰陽博士、暦博士・天文博士、陰陽生・暦生・天文生などがおかれた。882年(元慶6)には陸奥(むつ)鎮守府に陰陽師がおかれるなど、平安時代以降、地方にも配置されている。
52:名無しさん@chs :2008/04/09 16:49:06 ID:okWxVHn6 物忌の季節:源氏物語 男たちは宮中に宿直して女 の許へ帰ることもできず、女の品さだめに話の花が咲きます。
53:名無しさん@chs :2008/04/11 14:52:11 ID:UHYnPHJY 鳥海山大物忌神社 (ちょうかいざんおおものいみじんじゃ) 山形県飽海 祭神は大物忌神で、社伝には欽明天皇25年(約1400年前)鳥海山上に鎮座した神で倉稲魂命(伊勢外宮の豊受大神と同神)とあり、また倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神の合神ともいわれている。
54:名無しさん@chs :2008/04/11 14:54:15 ID:UHYnPHJY 広瀬 広瀬大明神と称するのは、大物忌神と同神の広瀬坐和加宇加之売神社の分霊を、勧請して祀ったことに因る 讃岐神社 (案内) 当社の祭神は「三代実録」元慶7年の条に、正六位上、散吉大建命神、散吉伊能城神と見えるが、当社伝では大国魂神、倉稲魂神、大物主神を奉祀するという。
55:名無しさん@chs :2008/04/11 14:54:53 ID:UHYnPHJY 広瀬神社の主神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと)です。若宇迦能売神とも書くし、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とも、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)とも同じだそうです
56:名無しさん@chs :2008/04/11 15:01:34 ID:UHYnPHJY 天日鷲神阿波忌部氏の系図によると、天日鷲命は太玉命の義理の兄弟で、天富命と由布津主命の娘は夫婦である
57:名無しさん@chs :2008/04/11 15:04:24 ID:UHYnPHJY 天日鷲命を伊勢国造とした。伊賀伊勢国造の先祖で有る。天道根命を紀伊国造とした。紀河瀬直の先祖である。 古語拾遺にある伝承によると、神武天皇の命によって、天太玉命の子孫である天富命は天日鷲命の子孫の忌部氏を率いて、阿波国に至り、殻木や麻を植え、それを大嘗祭の時に献上することになったという。またこの天富命と阿波の忌部が東土に渡って、現在の千葉県、つまり安房(あわ)郡(安房国)に至り、そこにやはり麻を植え、そのためにこの地を上総(かみつふさ)・下総(しもつふさ)というようになったという。
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