<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
<rss version="2.0">
	<channel>
		<title>讃岐　香川氏　坂出　丸亀</title>
		<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
		<description>@chs</description>
		<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:39:29 +0900</pubDate>
		<language>ja</language>
		<generator>http://www1.atchs.jp/tokyoblog/</generator>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:39:29</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:39:29 +0900</pubDate>
			<description>天平勝宝4年（752）、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、 本尊として 不動明王が祀られた。 中世以降は大山寺を拠点とする修験道（大山修験）が盛んになり 、 源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。
伝説によれば、奈良東大寺の開山として名高く、伊勢原の雨降山大山寺をも開いた良弁 （ろうべん）僧正が天平神護元年（765年）、この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・ 華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:34:32</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:34:32 +0900</pubDate>
			<description>大山阿夫利神社（おおやまあふりじんじゃ） は、神奈川県伊勢原市の大山（別名：雨降山〈あふりやま〉）にある神社である

天平勝宝4年（西暦752年）、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。
 
中世以降は大山寺を拠点とする修験道（大山修験）が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。

江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現（山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた）が祀られていた。また、摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。これが全国八大天狗に数えられた大山伯耆坊である。元々は伯耆大山の天狗だったが、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったために、その後任として移って来たといわれる。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:31:07</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:31:07 +0900</pubDate>
			<description>高松藩の儒学者である中山城山はその著「全讃史」のなかで「松山ニ神有リ　其ノ坊ヲ相模坊ト曰フ　甚ダ威霊有リ　其ノ余ノ仙霊甚ダ多シ　窟ヲ宅ニシテ此ニ住スト云フ　長寛以来崇徳帝陵有リ　世人殊ニ之ヲ崇ム」とあり、相模坊の威霊についてふれている。 
　この白峯山の相模坊が、いつごろ山移りしてきたのかは不明である。
しかし、謡曲松山天狗（永享十二年＝１４４０年）、と同じ室町時代の初期頃の作といわれる天狗ものに「花月」があり、その中に白峯山の相模坊についてふれられている。
それによると、九州の英彦山（福岡県）の麓で天狗にさらわれた少年花月を、その父が出家僧となって諸国を探し求め、ついに京都で再会することができた。
その時少年が、天狗に連れて行ってもらった山々について語る場面がある。
その中に「讃岐には松山降り積む雪の白峯（相模坊）・・・・」とある。
つまりこのことから、室町時代の初期頃には、既に白峯山には相模坊が天狗の首領として君臨していたことがわかる。

　この白峯山の相模坊は、かつて相模国（神奈川県）の大山に君臨した大行者で、その名を相模坊と称した。
のちいつのじだいにか讃岐の白峯山に移って白峯山の行者集団を統括するとともに、聖地白峯山の守護者となったものと思われる。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:28:17</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:28:17 +0900</pubDate>
			<description>西行は崇徳上皇が京に居た頃から和歌を通じた交流を持っており、上皇が讃岐に流 された後も歌のやりとりをしていたといわれています

王越山の背後の峠・眞尾坂は雨月物語に登場する西行法師が庵居した坂である。 齢50 歳に達した西行法師の讃岐行は悲願の旅路であったに違いない。

謡曲「松山天狗」の舞台は、いうまでもなく讃岐は綾の松山（現坂出市）、白峯である。 
　仁安年間、西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねる。
松山は草深い里である。
西行は、山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行くが、道はけわしく、生い繁げる荊は旅人の足を拒む。

 そこへ一人の老翁（実は崇徳上皇の霊）が現れ「貴僧は何方より来られたか」とたづねる。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者、新院がこの讃岐に流され、程なく亡くなられたと承り、おん跡を弔い申さんと思い、これまで参上した次第。 何とぞ、松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞う。
　やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い、苔の下道」に足をとられながら、ようやくご陵前にたどりつく。
院崩御後わずか数年にもかかわらず、ご陵墓の余りの荒廃ぶり。
ご陵前には詣で仕うる人もなければ、散華焼香の跡だに見えない。
西行涙ながらに

　よしや君むかしの玉の床とても
　　　かからん後は何にかはせん

西行が院に捧げた、畢生の鎮魂歌である。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:21:53</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:21:53 +0900</pubDate>
			<description>千足神社の主祭神は伊邪那岐大神・伊邪那美大神で、配神として出雲大社（大国主大神）や天神社（菅原道実公）等々をお祀りしています。また同並列として天満社（菅原道実公）があり、主祭神は勿論菅原道実公でありますが、配神として出雲大社・石清水八幡神社（石清水八幡大神）があります。この神社は今から１２５０年前聖武天皇の頃、宇摩郡・新居郡の鎮守神として信仰されるようになりました。いずれとも宮司は代々真鍋姓を名乗って今日に至っています。

越智玉守五代の孫實遠は嵯峨天皇（８０９年）より正五位下に叙せられ、越智姓を改めて橘姓となっています。※越智玉守（新居氏の祖）→益興→益連→實連→實遠→實幸→實保

實保には二子がいて兄は貞保と言い、後に遠保と改名しました。かの有名な橘遠保なのです。弟は基保と言って高市の祖となりました。橘遠保は天慶四年（９４１）伊予国の警古使になっており、南海海賊の首領藤原純友を討ち取ったことで有名な歴史人物</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:19:11</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:19:11 +0900</pubDate>
			<description>崇徳院が崩御されてから、数 年後西行法師が、崇徳院を偲ばれて、この地にやってきた

橘遠保は三豊郡紀伊村大野原大字青岡「真鍋家系図」と香川県大川郡「真部姓氏録」の遠祖として載っております。また楠木正茂の母親の出でもあります。こうして考えてみますと真鍋（真部）氏は予州新居一族との関わりが深いことがわかります。

綾姓

讃岐国阿野郡新居郷より起こり、羽床氏の族となっています。綾氏系図には「羽床正司資高→資光（新居藤太夫）とあります。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:15:34</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:15:34 +0900</pubDate>
			<description>雲居御所で約３年過ごされた上皇は、府中鼓ヶ丘木ノ丸殿に遷都され（注：遷都とは言えないかと思われます）、長寛２年（１１６４）８月　４６歳の若さで崩御なされた。
府中国庁内鼓ヶ岡の木丸殿に移った時、綾氏滞留中、高遠の娘綾局を寵愛し、その一子を高遠に菊御紋とともに授けたとも伝えられる。

崩御の後、京都より御返勅があるまでの間、西庄の野沢井の水にお浸しし、同年９月に白峯で荼毘に付され御陵が築かれた。

時代を経て、雲居御所の所在が不明となっていたのを、江戸時代に松平頼恕公が上皇の旧蹟地として雲井御所の石碑を建立し、綾高遠の後裔とされる綾繁次郎高近をこの地の見守り人とした。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:09:34</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:09:34 +0900</pubDate>
			<description>　崇徳上皇は京都から淀川を下って海に出て、須磨・明石を過ぎ、播磨・備前の海岸沿いに瀬戸内海を西へ進みました。途中、直島に滞在した後、8月3日に讃岐国阿野（あの）郡・松山ノ津に到着しました。御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠（あやたかとう）の邸宅を仮の御所とされ、やがてその近くの長命寺（ちょうめいじ）に移られたと伝えられています。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/03/27(火)13:06:05</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 27 Mar 2012 04:06:05 +0900</pubDate>
			<description>天皇寺（てんのうじ）は、香川県坂出市西庄町にある寺院。宗派は真言宗御室派で、本尊は十一面観世音菩薩。山号を金華山、院号を高照院と称し、天皇寺高照院とも呼ばれる。四国八十八箇所霊場の第七十九番札所。境内は崇徳上皇を祀る白峰宮に隣接し、元は白峰宮の神宮寺であった。

伝承によれば、古代に南海の大魚を退治しに向かった讃留霊王ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れたとき、横潮明神が泉の水を持ってあらわれ、その水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。それからこの泉は「八十場（やそば）の霊水」と呼ばれるようになったという。

保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国阿野郡西庄村に配流となり、長寛2年（1164年）そこで死去した。上皇の亡骸の処遇をめぐって、京から返事の使者を待つあいだ、遺骸をこの八十場の霊泉に浸したところ、21日間すぎたのちも、上皇の顔はまるで生きているごとくだったという。やがて上皇は荼毘に付され、妙成就寺と並んで建てられた白峰宮に祀られた。このことから妙成就寺は「天皇寺」と呼ばれるようになり、白峰宮は「天皇さん」と愛称で親しまれるようになった。</description>
		</item>
		<item>
			<title>名前:名無しさん＠chs 2012/01/04(水)02:38:32</title>
			<link>http://www1.atchs.jp/test/read.cgi/tokyoblog/115/l10</link>
			<pubDate>Tue, 03 Jan 2012 17:38:32 +0900</pubDate>
			<description>95 は、謎の衣通姫随想より
www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/sodousi.htm</description>
		</item>
	</channel>
</rss>
